メッセージ(文責:尾﨑豪)
 
2018年4月22日
【過ちの反復】創世記二〇章
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこに
おいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
箴言3章56節

 今日開かれているみ言葉は、アブラハムが過ちを繰り返したところです。ゲ
ラルに滞在し、妻サラを妹と言うのです。それは何を意味しているのでしょう
か。どうすればいいのでしょうか。あなたも失敗を繰り返してしまうことはな
いでしょうか。
 この記事は、一二章後半でエジプトへ下った出来事ととても似ています。同
じように感じてしまうかもしれません。しかしここでは、繰り返されているこ
とこそが問題であり、焦点をあてるべきところです。
 様々な失敗を通して、神様の導き、約束や計画、神様に信頼することを学ん
できたアブラハムです。そしてその約束の成就の時も示されたアブラハムでし
た。しかしここでは、過去と同じ過ちを繰り返しています。妻を妹といい、王
に召し入れられ、彼の妻になるところでした。
 どうしようもなくなった時、神様が夢でアビメレク王に現れ、叱責して、彼
は恐れてサラを返すのです。なぜ過ちが繰り返されるのでしょうか。でも私た
ちはこれを見て、ホッとします。なぜなら私たちも過ちを繰り返す存在だから
です。神様を信じる信仰や悔い改めで解決しないのでしょうか。この問題を解
決しないと、本人が繰り返すだけでなく、子供も同じ過ちを繰り返すのです。
 神様はどんな問題の解決ももっておられます。それでも簡単とはかぎりませ
ん。私たちは罪に目を向けますが、聖書は、心の傷にも目を向けています。そ
れは表面に現れた事柄ではなく、目に見えない根っこの部分の傷が問題なので
す。ギャンブルや買い物の依存症も心の傷の現れです。表面の問題を扱っただ
けでは解決しません。聖書は「彼(キリスト)の打ち傷によって、私たちはい
やされた。」(イザヤ五三5)とあります。主キリストが十字架で私たちの心
の傷や孤独も負って下さったと信じるとき、神の愛が私たちの傷を癒すので
す。放っておかないで、主に傷をいやしていただきましょう。
 
2018年4月15日
【ロトの脱出】創世記十九章
「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておら
れた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊
の中からのがれさせた。」創世記18章20節

 今日開かれている聖書箇所は、ソドムとゴモラの滅亡とロトの脱出です。脱
出と言うよりも、かろうじて救い出されたのです。
 しばしば聞かれることですが「もし明日がこの世の終わりだとしたら、どう
しますか。」できれば考えたくないかも知れませんが、地震や事故がないとも
限らないです。考える必要があることです。ルターもこの質問に答えていま
す。
 今日のソドムとゴモラは、神様によって滅ぼされました。神様はなぜ滅ぼし
たのでしょうか。なぜ裁くのでしょうか。一概に答えられない部分もあります
が、ここにはこの町の悪に対する人々の叫びが天に達したからだと、聖書は言
っています(一八20)。
しかし人間は、人間の基準でお互いを正義と言うことができたとしても、創造
者で少しの悪も赦すことのできない神様の正義の前に立つことができるのでし
ょうか。そして神様は愛であるので、救いの道も用意されました。悪を御子に
代わりに負わせ、私たちに赦しの道を開かれたのです。もし裁きがなければ、
救いはありません。救いと裁きは、コインの裏表なのです。
 このソドムとゴモラで助かったのは、ロトと二人の娘だけでした。なぜ彼ら
は助かったのでしょうか。良い人だったからでしょうか。確かに悪に憂えてい
ましたが、人々の悪の前には無力でした。神様の裁きの厳粛さに鈍かったので
す。だから真剣に逃げようともしなかったのです。助かったのはアブラハムの
とりなしと神様の憐れみです。ロトには何の功績もありません。全能の神を信
じるアブラハムは、神の裁きの恐ろしさを知り甥ロトのために必死でとりなし
たのです。救いを知っている私たちにも、真剣にとりなすべき人々がいるので
はないでしょうか。主が祈りに答えて下さることを信じ、祈りましょう
 
2018年4月8日
【集まって主の名で】マタイ一八~20
「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈
るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりで
も三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからで
す。」マタイ18章19・20節

 今日開かれている聖書箇所は、今年度の標語聖句です。復活された主イエス
様は、いつも私たちと共にいて下さると約束して下さっています。そして私た
ちの祈りも父が全てかなえて下さると言っています。み言葉に聞いていきまし
ょう。
 このみ言葉は、私たちもよく知っているみ言葉です。しかし、なぜ一人とは
書いていないのでしょうか。一人の時はイエス様は共にいて下さらないのでし
ょうか。祈りは聞かれないのでしょうか。別の箇所を見れば、隠れた祈りを聞
いて下さること、譬え一人でも共におられることは、すぐにわかります。で
は、なぜ一人と言われなかったのでしょうか。何か違うのでしょうか。
 もう一つ、私たちの祈りは、どんな祈りでもかなえられるとは本当でしょう
か。ここでも「私の名によって集まる所」に主は共におられるのです。それは
ただの集まり、違う目的を持った集まりではありません。では、主の名によっ
て集まるとは、どんな集まりでしょうか。
 今日の前の部分を見ると、教会の中でも、人に傷つけられること、人を躓か
せること、人に罪を犯す時と書かれています。もし誰かがあなたに罪を犯すな
ら、二人で話しなさいと。それは悔い改めて兄弟を得るためです。実際には互
いに罪人ですので単純ではありません。しかし主の御名によって互いに悔い改
め許し合うことがここで言われている集まりなのです。これは簡単なことでは
ありません。私たちの罪の赦しのために十字架につけられた主を見上げて初め
てかなえられる祈りです。
 私たちの集まりはどうでしょうか。主を見上げ、主の御名によって、ゆるし
あい、またとりなしあう集まり、主が共にいる集まりとなりましょう
 
2018年4月1日
【復活の主】マタイ二八1~20
「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたから
です。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」マタイ28章6節

 今日は、主が死からよみがえられたことをお祝いする日です。地域によって
は、クリスマスよりもイースターを盛大にお祝いします。初代教会もそうでし
た。この一週間私たちは、主の十字架の苦しみが私のためだったことを特に覚
えながら過ごしました。そして主の復活を祝うのです。さて、主がよみがえら
れたときは、どんなことが起こったのでしょうか。
 イエス様は、十字架で死なれた後、アリマタヤのヨセフによって新しい墓に
葬られました。日没と共に安息日が始まるので、その日は墓に葬るのが精一杯
でした。そして安息日が明けた日曜日の朝早く、マグダラのマリヤや女性たち
が、亡きがらに香油を塗って整えようと墓へ行ったのです。しかしその墓は、
封印されて、ローマ兵達によって厳重に守られていたのです。ところがそこに
光り輝く、御使いが来て、墓の入り口の大きな石を転がしました。屈強なロー
マ兵達でしたが、死人のように怖がって逃げていきました。御使いはマリヤ達
に、「恐れるな。イエス様は、よみがえらされました。もうここにはおられま
せん。このことを弟子たちに知らせなさい。」と告げたのです。
 イエス様は、どのようによみがえられたのでしょうか。何も書いてありませ
ん。見た人はだれもいません。詮索してもわかりません。隠されているので
す。しかし御使いの言葉に恐れを覚えながらも喜んだマリヤ達に、イエス様は
現れなさったのです。その言葉を聞いて受け入れた人は、復活の主が見えるよ
うになるのです。これが順序です。今日復活の主のことを聞いた私たちは幸い
です。 主の復活は、罪とその結果である死への勝利です。全能の神様が御子
の贖いによって勝利された証拠です。罪を悔い改め信じる私たちにも、死に打
ち勝つ力が与えられているのです。復活の主をたたえましょう
 
 
 
 
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神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。