メッセージ(文責:尾﨑豪)
 
2018年10月21日
【平和なイサク】創世二六12~33
イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争い
がなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今
や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてく
ださった。」創世記26章22節

 イサクについての聖書の記事は、短いのですが、ここにも大切な真理が
現わされています。イサクは言わば二世クリスチャンです。初めから、祝
福を受け継いでいます。しかし自分でしっかりと受け取らなければ失って
しまいます。そして祝福を受け取ることは、その生活、生き方を通してな
されるのです。
 前回は、イサクがみ言葉に従ったことと同時に人を恐れて失敗したこ
と、それにも関わらず神様が守って下さったことを見てきました。
 今日の箇所ではどうでしょうか。イサクの種まきは百倍の収穫となりま
した。祝福です。しかしそれがペリシテ人の妬みを買い、井戸を埋めら
れ、追い出されてしまいます。荒地の多い土地で、井戸を失うことは、家
畜や収穫という財産も失うことです。ゲラルの谷に井戸を掘ります。水が
出ます。喜んでいると、ゲラル人が、自分たちのものだと争い奪います。
イサクは、そこを去って次の場所で井戸を掘ります。水が出ます。喜んで
いるとまた奪われます。そしてまたそこを去り、井戸を掘るのです。
 しかしそこで、神様のみ声を聞きました。祝福の約束です。これはとて
も大きいことです。なぜ自分の掘った井戸を譲り去ることができたのでし
ょうか。それはどんなことがあっても神様は、祝福し、守って下さると信
頼したからです。悪い状況の中で信頼したのです。ここに信仰の成長があ
ります。神様は私たちにも同じ信仰を期待しておられます。見ないで信じ
る信仰です。
 信じて従った後、ペリシテ人の王と講和の契約が結ばれ、井戸から水が
でます。祝福は後からついてきたのです。(この信仰は、ヤコブそして殊
にヨセフに継承されていくのです。)
 私たちも主に信頼して、平和と祝福を受け取りましょう。
 
2018年10月14日
【全知の神様】詩篇一三九篇
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知
ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をと
こしえの道に導いてください。詩篇139篇23・24節

 毎月第二聖日には、神様の品性についてのみ言葉が開かれています。今
日は、すべてご存知の神様についてみ言葉に聞いて行きましょう。
 この詩篇一三九篇は、神様の全知についてよく表しているところです。
神様はこの世界、天地宇宙を造られたお方ですが、造られただけではな
く、その隅々までもご存じで、治めておられます。
 この著者は、神様を離れて、どこに逃れましょうか、天に昇っても、黄
泉に下ってもそこにも神様がおられますと歌っています。広大な宇宙ばか
りではなく、霊の世界も治めておられます。
 また次の段落では、人が造られる胎内において、人が組み立てられ、骨
も内臓もすべて数えれていますと言っています。イエス様は、髪の毛一筋
も数えられていると言われました。自分でもわからない自分の身体の隅々
までも神様はご存知です。神様は、どんな小さなことも見逃されません。
 私たちは、神様についてどんなイメージを持っているでしょうか。ある
人は、恐れを持っているかもしれません。それも大切ですが、前回み言葉
が開かれたように、良いお方です。すべての知識を私たちの最善のために
用いておられます。
 また「知る」という言葉は原語では「ヤーダー」です。これはただ知っ
ているということではなく、経験として、また互いの関係の中で知るとい
う意味です。写真やテレビあるいは人の言葉で人を知るのとその人と会っ
てみて話してみるのでは、その人の印象は大きく違うこともあります。神
様は、私たちを関係の中で知ることを願っておられます。そして私たち
が、神様に心を開いて、会おうと願うなら、神様ご自身を現して下さいま
す。そればかりでなく、私たちの心を探り知っているお方は、キリストの
十字架によって、私たちのあらゆる傷、自分でも気づいていない傷をも癒
し、本来の私たちの姿に回復してくださるのです。
 主を求めましょう。
 
2018年10月7日
【私たちは神の作品です】エペソ二1~10
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスに
あって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良
い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。エペソ2章10節

 私たちは、神の作品ですと聖書に書いてあります。作品とは、一つ一つ
作られたものです。製品とは違います。製品は、どれも同じに作られてい
ます。この教会のステンドグラスも作品です。同じものは、他のどこにも
ありません。私には四人の子供がいますが、同じ親から生れたのかなと思
うほどに違います。私たちは、神様からユニークな存在として造られまし
た。そして救われると言うことは、新しく生まれるとも言いますが、ここ
では、神様に造られた本来の姿に戻ることです。
 近くの松原に熊手が置いてあります。そこに「私を五分間使って下さ
い」と看板があります。どうなるでしょう。旅行者が掃除に使うのです。
三年でボロボロになって捨てられます。でもどうでしょう。熊手がずっと
倉庫にしまわれているのとどちらが幸せでしょうか。
 人間はどうでしょうか。日本は豊かな国で、幸せでしょうか。人間にも
造られた目的があります。人間にとって大切な日が二つあります。一つ
は、生まれた日です。もう一つは、生まれた意味を知った日です。何のた
めに生きているかをはっきり知っていると生き方が変わります。クリスチ
ャンも造られた目的をはっきり知ると変わります。使徒十38を見ると神が
共におられ、良いわざをして、悪霊につかれたすべての人を癒すことだと
わかります。私たちは聖霊によってイエス様と同じことができるのです。
 教会も、生まれた日と、生れた意味目的がわかると変わります。津田教
会には、いくつかの事件の後遣わされました。とても大変でした。しかし
宣教師がイザヤ二七のみ言葉によって始めたことを知った時、世界に出て
いく教会であると知りました。今神様によってそのようになっているので
す。私たちが弱い時に、神様の栄光が現わされるのです。
 
2018年9月30日
【過ちを絶つ】創世記二六6~11
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
詩篇121章3節

 今日は、先週に引き続いて、イサクについてみ言葉が開かれています。先
週は、祝福を受け継いだことを見ましたが、今日の箇所は、過ちをも引き継
いでしまったところです。
 神様の示されたゲラルの地に留まったこと、また神様と個人的に約束をい
ただいたことは、まさにアブラハムからの祝福の継承でした。ところがイサ
クは、アブラハムと同じ過ちを犯します。人々に、妻のリベカを妻と言わず
に、妹と言ったのです。妹と妻とでは、どちらの関係が重要でしょうか。も
ちろん妻です。なぜ妹と言ったのでしょうか。自分が殺されて、リベカを奪
われるかもしれないと恐れたのです。
 このウソにはどんな問題や罪があるのでしょうか。どんな結果を引き起こ
すのでしょうか。どう向き合えばよいのでしょうか。
 このウソは、神様に対する不信仰です。あなたの子孫を祝福するという神
様の約束を信じなかったのです。不信仰の罪の結果です。またこれは自分の
安全のために妻を利用する自己中心の罪です。また妻に対しては守る義務、
結婚の放棄です。そして社会に対しても、姦淫を招くことになります。決し
て許されないことです。
 しかし神様は、イサクがそれ以上の罪に陥らないように、アビメレク王を
通して守られました。夫婦であることに気づかせ、手を出すなと命じさせた
のです。この世は神の許しなしに何もできません。
 この罪には、もう一つの側面があります。父から引き継いだのです。罪
は、自分の代で向き合うべきです。解決しないと次の代に影響を与えるから
です。神様は解決できると信じ、罪や弱さ、傷を認めるのです。悔い改め
て、キリストの十字架で古い自分も死んだことを認めるのです。キリストが
私のうちに生きておられることを信じることです(ガラテヤ二19・20)。
主の赦しを感謝し、主をほめたたえましょう。
 
2018年9月23日
【祝福の継承】創世二六1ー5
あなたはこの地に、滞在しなさい。
わたしはあなたとともにいて、
あなたを祝福しよう。
創世記26章3節

 今日開かれているみ言葉は、アブラハムの子イサクについてです。祝福を継
承する恵みを覚えていきましょう。
 イサクについての記述は、アブラハムやヤコブに比べても短いです。でもこ
の中に大切な祝福の継承が記されています。
 アブラハムは、神様の召命に応答したいわば一世です。ほとんど何もかも手
探りで、神様の招きに応答して従って来ました。その中で、大きな神様からの
祝福を受けることができました。
 一方イサクは、言うなら二世です。すでにアブラハムに与えられた祝福があ
ります。アブラハムの信仰を見て、一緒に経験していることは大きな恵みで
す。でも祝福を継承することは、自動的になされることではなく、確かに受け
取っていくことが必要です。
 この時イサクは、飢饉に会いました。祝福を受け継いでいるから苦難に会わ
ないというわけではありません。ゲラルに移動しました。しかしそこで、神様
の御声を聞いたのです。エジプトに下ってはならない。この地にとどまりなさ
いと。それと同時にアブラハムに約束された祝福の約束を神様から受け取った
のです。それは、子孫にこの国々を与えること、また国々は子孫によって祝福
されるということでした。
 イサクが祝福として受け取ったのは、財産というよりも神様からの約束で
す。それは神様のご計画です。それを受け取っていく信仰の姿勢です。そこに
は、自分の計画よりも神様の計画に合わせる信仰が必要です。イサクは、ゲラ
ルに留まり、神様のお言葉に従ったのです。
 私たちも祝福を継承します。それは、イエス・キリストによる救いです。そ
れをただ受け取るだけでなく、他の人に手渡していく恵みに招かれています。
主を賛美しましょう。
 
2018年9月16日
【食物と水】出エジプト十六1~十七7
『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あな
たがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。』
出エジプト16章12節

 聖書は、神様の救いを歴史として表しています。旧約は、イスラエルの救い
の歴史で、新約は、教会の救いの歴史です。
 今日の聖書箇所は、紅海渡渉に続くところです。エジプト軍から奇跡的に助
けられたイスラエルの民は、神様に導かれて、荒野を進んで行きました。一ヵ
月半経ちました。すると食べ物がなくなりました。神様は、私たちを殺すため
にここに連れてきたんだ、エジプトで死んでいればよかった、あそこには肉が
たくさんあったと不平不満を言い始めました。本当でしょうか?いいえ、エジ
プト人に苦しめられて助けてくれーと叫んでいたのです。でも今食物はいつ手
にはいるかわかりません。
 神様は、モーセのとりなしに答えて下さいました。二百万人が食べきれない
ほどのうずらが、飛んできたのです。もう見るのも嫌になりました。
 また毎朝早く、地面の表面に不思議な食べ物が降りてきました。日が昇ると
溶けてしまうのです。安息日以外毎朝それを取って食べました。次の日にはそ
れは虫がついて臭くなるのですが、安息日だけは大丈夫でした。
 イスラエルは、水がなくなった時も、同じように不平を言いました。モーセ
が祈って岩を打つと、水が出て潤いました。
 神様をよく知らないとき、神様は忍耐強く、恵みで満たされます。しかしい
つまでもそうであってはいけません。神様は、皆が成長して、神様に信頼して
求めて、豊かに与えられることを知るようにと願っています。
 私たちは、困った時どうでしょうか。地震と停電の時どうだったでしょう
か。イエス様の荒野の誘惑は、イスラエルの失敗の踏みなおしです。私たちの
失敗もイエス様が十字架で償って下さいました。十字架の赦し、愛を信じ、神
様に信頼して従いましょう。
 
2018年9月9日
【善いお方】詩篇一一九68
「あなたは善なる方、すべてを善とする方。あなたの掟を教えてください。」
詩篇119章68節(新共同訳)

「あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなた
のおきてを私に教えてください。」(同新改訳)

 主にあって、大きな地震や停電の中守られて感謝でした。今日は、神様の品
性について、主は善いお方であることを、聖書に聞いていきましょう。
 よいという言葉は、ヘブル語では「トーブ(tov)」です。聖書の中で大
切な言葉の一つです。原意は「心地よい」という意味です。天地創造の時も神
様は、造られた時良い(トーブ)と言われました。この65~72節に動詞を含め
六回使われています。その訳は「良い」「慈しみ深い」「慈しみを施す」「し
あわせ」「まさる」と多様で、豊かな意味があります。「主はすばらしい」と
いう賛美も「Oh! God is Good!」です。
 神様が、「善なる方」とはどういう意味でしょう。それは人や全被造物との
関りの中で現れるご性質です。創造主である神様は、良いお方であるので、良
い事しか考えられないお方です。つまり悪意や意地悪の類を一切考えられない
お方です。だから神様は、悪いことは何一つできないのです。そしてイエス様
は良いお方はただお一人であると父なる神様を指して言われました。
 では、神様と私たちとの関りにどんな影響があるのでしょうか。神様は、全
被造物を最高に良いものとして造られました。それ以下のことはできません。
あなたも神様の最高傑作です。しかし人間に罪が入ってきたので最高が損なわ
れています。それを回復するための最も良い私たちへの贈り物がイエス・キリ
ストです。しかし私たちは、この「善いお方」を人間の尺度で、悪い事や意地
悪をするお方と考えるのではないでしょうか。そのような状況でも主は善いお
方と信じるべきです。その時その通りに変えられるのです。この65~72節も苦
しみに会ったことが、主の最善をしることになったと歌っているのです。
 どんな時も主は善いお方です。主を信じましょう。
 
2018年9月2日
【燭台と量りの譬え】マルコ四21~25
「隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明ら
かにされるためです。」マルコ4章22節

 今日は、二つの譬えが開かれています。譬えは、ある面ではわかりやすいの
ですが、ある面では、わかりにくく、そこが心にひっかかり、深く考えて、神
様のみ心を知っていくことができるのです。
 最初の燭台の譬えはどうでしょうか。あかりは燭台の上に置くのが当たり前
です。升の下や寝台の下では、あかりは見えません。次の22節では「隠れてい
るのは、必ず現れるためであり、覆い隠されているのは、明らかにされるため
です。」と言っています。ここだけを見ると、「お天道様は見ている」といっ
た言葉と似て、悪いことは、必ず現れると言っている感じがします。しかしマ
タイの平行記事五15・十26も合わせて見ると悪い事よりもむしろ良いことにつ
いて、言われていることがわかります。良いこととは何でしょうか。善行もそ
うですが、究極に良いこととは、神様の前に、罪の赦しを得させるキリストの
福音です。
 マルコ福音書でも、イエス様は最初、神の国の到来と、悔い改めと福音を伝
えました。しかし反対者たちを前にして、福音は譬えの中に隠され、イエス様
が、神の子キリストであることも隠されたのです。この福音はいつまでも隠さ
れていることではなく、やがて明らかにされるものなのです。そして今は、十
字架と復活、聖霊降臨の時代、恵みの時救いの日であり、福音が明らかにされ
ているのです。
 次の量りの譬えはどうでしょうか。今は情報の多い時代です。それぞれが、
自分の欲する情報を求めます。そうでないものは切り捨てます。求める情報は
相手からもさら多く与えられます。そこで大切なことは、聞いていること、求
めていることによく注意することです(24節)。
 私たちは今何を求めるべきでしょうか。閉じられる前に、この福音を求め
て、しっかりとつかみましょう。
 
2018年8月26日
【眠った人々】Ⅰテサロニケ四13~18
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもら
いたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むこ
とのないためです。」テサロニケ第一4章13節

 今日は、召天者記念礼拝です。二か月前サラの死のところでは、死に向かっ
て私たちがどのように主の前に生きていくのかをみ言葉に聞いていきました。
今日は、先に召された方々を覚えつつ、私たちがどのように送り出していくの
かを覚えてみ言葉に聞いてまいりましょう。
 このテサロニケへ書かれた手紙の目的の一つは、死んだ人がどうなるのかを
教えるためでした。主イエスの再臨を生きて迎えると思っていたのに、先に愛
する兄姉が死んでしまった、救いは無駄になったのではと思う人々がいたので
す。
 その前に、私たちが気を付けるべきことがあります。主の再臨や私たちの復
活、千年王国、最後の審判、新天新地については、様々な議論があります。そ
れに入り過ぎては行けません。それは論争を生むだけで分からないからです。
そしてその時が来ればはっきりとわかることだからです。
 さて、主が雲に乗って来られる時、主にあって死んだ人々が先によみがえり
ます。その後で、私たちは、恐らく栄光の身体に変えられて、たちまち彼らと
一緒に天に挙げられて、主と共にいるのです。だから悲しみすぎてはいけませ
ん。互いに慰めあいましょう。
 そして私たちは、地上のものに心を奪われないで、霊的な遺産を引き継ぎ歩
みましょう。またこの世では寄留者であることを覚え天の故郷を目ざしましょ
う。この後の五章は、単に道徳訓が記されているのではありません。栄光の主
にお会いする期待に、胸が高鳴りつつ、絶えず祈り、いつも喜び、すべて感謝
して生きるのです。
 主の再臨を期待しつつ、み言葉に従いましょう。
 
2018年8月19日
【聖霊によって輝く】ロマ十二10~12
「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と
慎みとの霊です。」テモテ第一1章7節

 ローマ人への手紙は、ローマへまだ行ったことのないパウロがローマへ行き
たいと願いつつ書きました。今日は11節の「霊に燃え」を中心に見ていきまし
ょう。私たちは、霊に燃え主に仕えていきたいなあと思うのですが、どうした
らいいのでしょうか。
 まず、霊に燃えるとはどういうことでしょうか。原語の意味では、熱くな
る、沸騰する、点火するという意味があります。ルカ二四章の弟子たちは、が
っかりしていましたが、復活のイエス様に会って、心燃やされました。ゼカリ
ヤ四6を見ると、「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって」とあ
ります。自分のがんばりでは燃え尽きてしまいます。神の霊、つまり聖霊によ
って燃やされるのです。
 ではどのようにして燃やされるのでしょうか。それはイエス様が下さる御霊
の交わり(コイノニア)によってです(ピリピ二1、Ⅱコリ十三13)。それは
一緒に参加すること、協力すること、捧げることを意味します。パウロは、臆
病になったテモテを励ましました。
 そして聖霊は、力を与えます。イエス様を証する力(使徒一8)、恵みの力
(Ⅱコリ十二9)、勝利の力(Ⅱ歴代三二7)を与えます。
 また聖霊は、愛を与えます(ローマ五5)。失望の中でも希望を与えるの
は、聖霊によって、愛が注がれているからです。また聖霊は、慎みを与えま
す。それは冷静な知恵、自制です。
 私たちは、私たちに注がれている聖霊によって、霊に燃え、愛が注がれて、
主に仕えていくのです。愛への応答なので燃え尽きることがないのです。
 このようにして、互いに愛し合い、主に仕え、望みを抱いて喜び、艱難に耐
え、絶えず祈りに励みましょう。
 
2018年8月12日
【神は愛】一ヨハネ四7~20
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
ヨハネ第一4章10節

 今日開かれているみ言葉は、神の愛についてのみ言葉です。
 今週は、終戦記念日があります。これから見る神様の愛とは裏腹に、人は憎
みあい、国の間には戦争が起こっています。また家族や会社等での個人的な関
係な関係においても争いが起こっています。
 聖書の書かれたギリシャ語には四つの愛という言葉があります。一つは、エ
ロス。これは聖書には使われていませんが、男女の間の情熱的な愛を表しま
す。二つ目のフィリアは友愛と訳されます。三つ目はストルゲーで、親子の愛
等を表します。四つ目は、アガペーで、価値のない相手に対して最善を考え
て、何の顧みも求めず、犠牲的に与える愛です。ここで使われているのもこの
アガペーです。人間の愛は、自己中心的で自己の満足を求めますが、神様の愛
には、相手への寛容、忍耐、犠牲が伴います。神様から離れた人間の中には、
神の愛はないのです。
 神様の愛を、神様の他のご性質と重ね合わせてみるとどうなるでしょうか。
 それは、永遠の愛です。時を超えて、どんな時でも与え続ける愛です。
(エレミヤ三一3)
 それは変わらない愛です。神様は完全なお方なのでそれ以上愛することもそ
れ以下に愛することもできない最大限の愛をいつも私たちに注いでおられるの
です。そしてその愛は、私たちの状況にも左右されることはありません。ルカ
十五
 私たちは、どうでしょうか。自分の調子で、相手の愛が変わると考えたり、
相手の反応で、自分の気持ちが変わったりするのです。
 この神様の愛は、み子イエスキリストを通して表されました。人は聖なる神
様から離れ、聖と愛とを失いました。滅びるばかりの私たちのためにみ子キリ
ストが身代わりとなり、罪の代価を払われたのです。ここに愛が表されまし
た。この愛は、受け取る必要があります。そして受け取った私たちは、この愛
を持ち、それを与えていくのです。
 
2018年8月5日
【四つの種】マルコ四1~20
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍
の実を結ぶ人たちです。」マルコ4章20節

 今日開かれているのは、四つの種の譬えとして知られているところです。イ
エス様は、天国について、多くの譬えで話しています。そしてこの譬えは、イ
エス様の解き明かしもしてくださっています。
 譬えは普通、物事をわかりやすく説明するために使われます。また譬えは、
関心を持たない人には、ごく当たり前に聞こえたりして、心に残りません。で
もそのことをわかろうとする人は、心にとめて、意味を探り出すことができま
す。
 さて、ここには四つの種が、四つの異なる地に落ちたと語られています。一
つは、道端に落ちた種は、すぐカラスに食べられてしまいます。岩地に落ちた
種は、芽を出しますが、根が深くなく日照りがくると枯れてしまいます。茨の
中に落ちた種は、成長しますが、茨に塞がれて、実を結ぶに至りません。良い
地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。
 意味の分からない弟子たちにイエス様は、種とはみ言葉のこと。すると地と
は人の心を表します。道端とは、頑なな心、岩地とは、福音を喜んで受け入れ
るが、根がないので、迫害や困難ですぐに枯れてしまう人、茨の地とは、世の
冨や欲望に心を奪われて実を結べない人、そして良い地とは、素直に受け入れ
て成長するひとのことであると語られました。種の成長は、そのまま人の成長
になっているのです。
 ところで、人の心の状態は、変わらないのでしょうか。そうであれば運命の
ように最初から結末が決まっています。しかし最初から良い地はありません。
農夫が手入れして、固い地を耕し、岩を除き、茨や雑草を抜き、良い地を作っ
ていくのです。主のみ言葉を聞く中で、私たちの心が変えられていくのです。
そして良い実を結んでいくように変えられていくのです。
 主と主の言葉に心を開き、実を結ばせていただきましょう。
 
2018年7月29日
【エサウとヤコブ】創世記25章20~34
「イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからであ
る。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」
創世記25章21節

 今日開かれているのは、エサウとヤコブの誕生とその後の成長のところで
す。ここには二つのテーマがあり、本来分けて聞いていく必要があるのかもし
れません。
 聖書を少し知っている人は、その後のエサウとヤコブを知っています。そこ
に戸惑いはないでしょうか。なぜそうなったのでしょうか。私たちにもそのよ
うな分岐があるのでしょうか。
 まず見たいことは、どのように二人が与えられたかということです。イサク
は四十才で結婚し、なかなか子どもが与えられませんでした。そのために主に
願ったとあります。そして六十才の時子供が与えられたのです。十九年の祈り
に神様が答えて下さったのです。神様の恵みなのです。完全に良いお方には、
何の邪悪なものや計画もありません。二人は、祈りの結果として、祝福されて
与えられたのです。神様は最高の二人を与えられたのです。
 ところが二人は胎内でぶつかりあって、リベカは驚いたのです。そこに争い
があったのです。恵みによって命が与えられても、胎内でさえ、罪や争いが起
こるのです。私たちは、恵みを受けた後でも、祈り続けることが必要です。
 その後の成長は、どうでしょうか。イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブ
を愛したとあります。感情的には、区別があったとしても、愛は意志です。公
平に愛を注ぐ必要がありました。家庭にひずみが生まれてきたのです。主にあ
って取り除かれるべきです。
 そしてエサウは、その日、長子の権利を売ってしまったのです。ヤコブのず
る賢さがあったかもしれません。この長子の権利は、当時の習慣以上のもので
す。アブラハム、イサクと受け継がれた特別な祝福を含んでいます。それを受
け継ぐ意志があるかないか問われたのです。 私たちはどうでしょうか。キリ
ストの十字架と復活を受け継ぐ意志があるでしょうか。しっかりと受け継ぎ、
また手渡していきましょう。
 
2018年7月22日
【花嫁探し】創世記二四章
「そうして私はひざまずき、主を礼拝し、私の主人アブラハムの神、主を賛美
しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正し
い道に導いてくださったのです。」創世記24章48節

 今日開かれているのは、イサクの花嫁探しの箇所です。なぜ、どのように花
嫁を捜したのでしょうか。結婚を決める中にも、私たちの生き方の重要な指針
が現れています。
 アブラハムは、信頼できる信仰深いしもべにイサクの花嫁探しを命じます。
今のカナンではなく、故郷のアラム・ナハライムからです。しもべは、神様に
祈ると、まさにそのような人が、イサクに花嫁として与えられました。このし
もべの信仰は、驚くべきものです。
 実際には、どのように探したのでしょうか。第一に祈りによってです。祈り
の通りになる。そこには神様との親密な交わりがあるからです。またその内容
を見ても、その人は、愛に満ちた、労をいとわない人、また機転の利く、心身
共健康な人であることがわかります。現代は、人間関係さえ、小手先です。自
分をよく見せようとします。しかし必ず本性は現れます。その本性が主によっ
て変えられ成長すること必要なことです。また人は良かれ悪しかれ変わりま
す。それでも愛し続けることが結婚です。それらが祈りの中に含まれているの
です。
 第二のことです。なぜ故郷からだったのでしょうか。それは創造主を知り、
主を畏れることを知っているからです。特にアブラハムは、祝福の約束をいた
だきました。それを受け継いでいく意志と信仰が必要です。この祝福の頂点が
イエス・キリストです。私たちも神の国の祝福をいただきました。それを受け
継ぐ信仰が求められているのです。
 第三は、神の主権を認め従順であることです。イサクもリベカもこの結婚を
自分の意志で運ぶのでなく導きを受け入れているのです。なぜでしょうか。す
べてを最善に導く、主の主権を認めていたからです。私たちは同じようにして
従順でしょうか。
 主に信頼しましょう。
 
2018年7月15日
【良きサマリヤ人】
ルカ一〇25~37(マタイ五43~48 )
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のた
めに祈りなさい。」マタイ5章44節

 ここは、こわい山道です。くねくね曲がった坂道です。町も村もありませ
ん。けがをしたら助けてくれる人もいません。おまけに強盗がいるのです。道
を通る人のお金や持ち物を取ってしまうのです。でもエリコからエルサレムへ
抜ける一番の近道なのです。
 旅人が一人やってきました。
「こらあ、ちょっと待て!」岩陰から恐ろしい顔の強盗が出てきました。「お
となしくしろ!金も荷物も置いていけ!」「たすけて!」「誰も助けてくれな
いぞ!」
 強盗は、お金も荷物もみんな取ってしまいました。おまけに、けったり、な
ぐったり、、さんざん乱暴をして逃げていきました。かわいそうに旅人は、ひ
どいけがをして、倒れています。血が流れています。このままでは死んでしま
います。「うーん・・。誰か・・助けてくれー」
 だれか向こうからやってきます。祭司さんです。えらい先生です。「あなた
の隣人を愛しなさい」聖書を暗唱しています。「わあ、けが人だ!大変だ!」
祭司は道の向こう側を通って逃げていきました。「助けていると、服も汚れる
し、知らんふりしていこう」
 また向こうから誰かやってきます。レビ人です。「たすけて下さい」力をふ
り絞って言いました。「おや?強盗にやられたのだな。ぐずぐずしているとこ
っちも強盗にやられるかもしれない。」レビ人もすたすた行ってしまいまし
た。
 カポカポカポカポ。ロバの足音です。助けてーと叫ぼうとして止めました。
「サマリヤ人だ。だめだ。助けてくれるはずがない。」サマリヤ人とは、仲が
悪くケンカばかりしていたのです。
 ところがサマリヤ人は旅見つけると「何ということだ、お気の毒に。苦しか
ったでしょう。今助けてあげますよ。」と言って、ぶどう酒とオリーブ油で手
当てしてくれました。とても親切です。旅人はうれしくて、涙がでそうです。
そしてロバに乗せて宿屋まで連れて行ってくれたのです。
 
2018年7月8日
【神殿の準備】Ⅰ歴代二九1~25
「富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手
には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけら
れるのです。」歴代誌第一29章12節

 今日は献堂三六周年記念礼拝です。そして今日開かれているみ言葉は、ダビ
デの賛美です。ダビデは、神殿を建てることはできませんでしたが、様々な資
材や、設計などあらゆる準備をして、長たちにも、捧げものを呼びかけ、神殿
建設をソロモンに託しました。そして、主をほめたたえました。
 ダビデは、なぜ神殿を建てようとしたのでしょうか。それは、神様が、羊飼
いの少年であったダビデを選び、ゴリアテへの勝利、敵やサウル王の手から、
死から救い出して下さり、イスラエルの王として立てて下さったからです。そ
れだけでなく神様は、ダビデの家を建てると約束してくださったからです。私
たちの教会も、主が私たちを罪と死から救い出してくださり、ここに集めて下
さって建てられているのです。その主を賛美するのです。
 では、ダビデはどのように、神様を賛美したのでしょうか。一つは、すべて
の支配者所有者としてです。天地宇宙を創造し、すべてを治めておられる偉大
なお方だからです。全知全能のお方です。すべての栄光の源であるお方だから
です。その支配は、雀の一羽、髪の毛一筋にまで及ぶのです。
 もう一つは、永遠のお方としてです。人の造られる前から、世の終わりま
で、時を超えて治める方、すべての歴史の統治者だからです。
 三つ目には、その偉大なお方にもかかわらず、私たちの心を試されるお方で
あり、私たちの心の内を知り、心に触れるお方だからです。まっすぐな心を喜
んで下さるのです。それは私たちの曲がった心もご存じで、それでも愛し、み
子キリストを罪の身代わりとして、十字架につけて、私たちを贖われたお方な
のです。ダビデ大きな過ちを犯しましたが、それでも赦されたのです。
 私たちも主を賛美しましょう。
 
2018年7月1日
【神の家族】マルコ三31~35
「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なので
す。」マルコ3章35節

 今日は、神の家族について聖書を開いていきましょう。この箇所は、前回マ
ルコの続きです。そこには、多くの人々が集まっていましたが、ある人は、イ
エス様が気が狂っていると言いました。また律法学者たちは、悪霊の頭によっ
て悪霊どもを追い出していると言いました。つまり悪霊が追い出されているこ
とを認めていたのです。イエス様は、聖霊を汚す罪は許されないと言われまし
た。
 さて、ここにイエス様の母マリヤ、イエス様の兄弟姉妹たちが、イエス様を
連れ戻しにきました。気が狂ったと思ったからです。そして外に立って、イエ
ス様を呼びに人をやったのです。そして呼ばれたイエス様は、私の母、兄弟、
姉妹とはだれか。」と問われました。周りにいる人々をよく見て、ここに、私
の母、兄弟、姉妹がいる」と言われたのです。イエス様は、天の父のみ心を行
う人が、私の家族であると言われたのです。
 では、父のみ心とは何でしょうか。それを行うとはどういうことでしょう
か。イエス様の周りに集まった人々は、どんな父のみ心を行ったのでしょう
か。彼らは、福音を聞くために、また癒されるため、また悪霊を追い出しても
らうために集まっていたのです。何かをしたわけではありません。そういう意
味では、父のみ心とは、福音を求め、イエス様の言葉と御業とを求めること、
慕うことではないでしょうか。
 では、なにもしなくても良いのでしょうか。ある意味では、その通りです。
主のみ名によって集まるところに、主イエスも共にいて下さるのです。しかし
イエス様のみ心を知ったもの、罪の赦しや癒しを味わった人々は、イエス様と
同じ思いで、人々のもとへ出ていき、人々に福音を、愛を、持ち物を分かち合
うのではないでしょうか。それも父のみ心を行うことなのです。
 私たちも父のみ心を知り行うのです。神の家族とされているのです。主をほ
めたたえましょう。
 
2018年6月24日
【サラの死】創世記二三章
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れ
ることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人で
あり寄留者であることを告白していたのです。」ヘブル11章13節

 今日は、サラの死を通して、神様のみ言葉に聞いていきましょう。以前は、
死について話すことは、タブー視されていた面がありますが、近年は、社会的
にも向き合うことに前進しているように感じます。
 死と向き合うというとき、二つの面があります。一つは、自分の死に向き合
うことです。もう一つは、身近な人の死に向き合って送り出していくことで
す。今日は特に前者について、聞いていきましょう。
 多くの場合、自分がいつ死ぬのかはわかりません。今日かもしれませんし、
何十年も後かもしれません。けれども確実なことは、キリストの再臨がなけれ
ば、死は必ずやってくるということです。ですから聖書は、いつも死に備える
べきことを示しています。直ぐの場合、ずっと先の場合にもです。
 死に備えるとは、何を備えるのでしょうか。ここにも二つの面があります。
一つは、神様の前に備えるのです。聖書は、すべての人は死んで神の裁きを受
けると言っています。すべての人は罪人です。しかしキリストが十字架で私の
罪の身代わりに死んで下さったと、その神の愛を受け取る人は、もう罪と死に
定められることはありません。キリストの命に与るのです。もう一つは、この
世での責任を果たすことです。地の塩世の光として神様の栄光を表すことで
す。
 では、私たちはどのように、これらの備えをするのでしょうか。それは私た
ちが終わりの時を思い描くことです。どのように死を迎えたいか、それをしっ
かりと見ることです。目標(ゴール)を見失っては、いけないのです。サラ
は、主と夫とに付き従う中で、生涯に数々の修正が加わりました。しかし約束
の成就としてイサクを与えられ生涯を閉じました。悪魔は良いお方である神様
から目を離れさせようとします。気を付けましょう。主を見上げつつ、しっか
りと自分の最期と向かい合いましょう。
 
2018年6月17日
【後ろのものを忘れ・・・目標を目ざして一心に走ろう!】ピリピ三12~14
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この
一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに
向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得る
ために、目標を目ざして一心に走っているのです。ピリピ三13

 これは、パウロが獄中で書かれた手紙です。彼自身忘れなければならないも
のを思いながら書いたものです。
 パウロが忘れるべきものがありました。簡単ではなかったようです。それ
は、誇りでもある、生まれ、育ち、学問でした。それが前へ進む妨げとなりま
す。それが過ちであっても、成功やほこりであっても、後ろのものを忘れるの
が前へ進むのに必要です。クリスチャンでも忘れるべきものがあります。私た
ちが忘れるべきものは何でしょうか。
 私たち自身が信仰を走るものです。私たちは、観客ではありません。人の信
仰をああだこうだ言うのではなく、私たち自身が走るのです。
 そして走るときには、一心に走ります。それは不正を働いてはだめだという
ことです。誠実に、喜びと感謝をもって、信仰の創始者であり、また完成者で
あるイエス様から目を離さないことです。そしてもう一つ大切なことは、目標
を目ざしてということです。私たちは、故郷を忘れることはできません。でも
私たちが忘れてはいけないのは、天の故郷です。それが私たちの帰っていくと
ころです。ゴールがちゃんとあります。それはだれかと競って一位二位という
ことではない。ちゃんと完走することが大切です。
 私の息子は、幼稚園の運動会で、一生懸命走りました。だれもいません。そ
う、逆走していたのです。でも途中で、気づいて、向きを変えてちゃんとゴー
ルに走り切りました。信仰の歩みにも、いろんなことがあります。つまずき
や、間違いもあります。でもゴールすることが大切なのです。
 召して下さった方が導いて下さいます。
 
2018年6月10日
【遍在の神】詩篇一三九篇
「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。詩篇一三九篇7節

 今日開かれている詩篇から、神様は遍在するお方であることをわかりたいと
思います。神様のご性質は、人間の知恵では、計り知れないものです。しかし
それを少しでも理解するとき、私たちは、神様をますます愛すること、賛美す
ることができます。
 遍在とは、どこにでもおられるということです。天にも地にも、またよみに
もおられるお方です。地獄は悪魔が支配しているのではありません。悪魔もそ
こに投げ入れられて、神様の刑罰として、永遠の苦しみが定められています。
そこは神様が治めるところです。この宇宙、霊的な世界のすべても神様が治め
ておられ、そこに存在されるのです。海の果てとは世界の果てと同じです。光
も闇も神様には同じです。神様は、そのどこにでもおられるお方です。
 どこにでもおられるからと言って、その存在や力が部分的になるのではあり
ません。どこにおいても、神様の優れたご性質が満ち満ちているということで
す。
 また神様は、私たちを胎内で形造り、生まれる前から生涯を知っておられま
す。全宇宙に満ち溢れておられますが、私たちの細胞一つ一つも知っておら
れ、それも治めておられます。しかしそれは運命論ではありません。神様は人
を人形やロボットのようには造りませんでした。ただ神様は、時間を超えたお
方なので、人間の選択の結果をご存知なのです。神様は、時を超えても満ちて
いるお方です。
 神様は、完全な良いお方ですので、すべてをよいもので満たそうとしておら
れるのです。だから私たちの過ちや傷、罪であっても、神様は、それを示され
ます。そしてそれを良いものに変えるために、み子による贖いを用意されまし
た。そして、み子を信じる私たちを信頼し、この危機の時代に遣わしておられ
るのです。
 
2018年6月3日
【聖霊による赦し】マルコ三20~30
「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけ
ます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。し
かし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められ
ます。」マルコ3章28・29節

 弟子を任命し、派遣したイエス様は、弟子達と共にカペナウムに帰って来ま
した。彼らには休みが必要だったでしょう。しかし大勢が押しかけて、休む暇
もありませんでした。そこでどんな論争が起こったのでしょうか。イエス様
は、なんと答えられたのでしょう。
 イエス様の母マリヤや兄弟たちは、イエス様のことを聞いて、気が狂ったの
ではないかと心配しました。首都エルサレムから来た律法学者達は、それを見
定めようとやってきました。そしてイエス様を見て、ベルゼブルにとりつかれ
ている。悪霊どものかしらによって、悪霊を追い出しているのだ。」と言った
のです。律法学者たちは、悪霊が追い出されていると認めています。イエス様
は、そうではない、と言われたのです。悪霊どものかしらサタンは、自分が滅
びることを知っているので、一人でも道連れにしようと必死なのです。しかし
イエス様はその悪霊どもを縛り上げて、囚われている人々を救い出しているの
です。
 イエス様は、天の創造主や御子を汚す者も赦される、しかし聖霊を汚す者は
永遠に赦されることはなく、とこしえの罪に定められると言われました。大変
厳しい言葉です。しかし神を汚す言葉も赦されることと一緒に語られているの
です。
 私たちは、人を裁き、聖霊のみわざをけがしていることはないでしょうか。
聖霊様は、復活の主の栄光を与えられて、地上に遣わされています。人に罪と
義と裁きについて悟らせ、イエスは救い主と悟らせるのです。聖霊様抜きに救
いはありません。しかしもし、聖霊を汚すようなことがあっても、間違いに気
づき、悔い改めるなら、救われるでしょう。それは聖霊なくして気づいたり、
認めたりできないからです。
 へりくだって、悔い改めて、主の救い、いやしを求め、聖霊様を、私たちの
心にお迎えしましょう。
 
2018年5月27日
【イサクを献げる】創世二二1~19
「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あな
たがわたしの声に聞き従ったからである。」創世記22章18節

 この箇所は、半年前にも開かれていますが、もう一度見ていきましょう。こ
の出来事は、アブラハムの生涯のクライマックスであり、旧約全体でも重要な
箇所の一つです。
 約束の子イサクが与えられて、アブラハムにとっては、とても恵まれた時を
すごしていたはずです。その時、神様はアブラハムを試験されたのです。なぜ
試験をするのでしょうか。それは結果を見ればわかります。普通は、性能を試
すためだったりします。神様が試験をすると人間の隠れた部分があらわにされ
ます。それは、試験しないとわからない部分でもあるのです。だから試験は必
要なのです。
 アブラハムにとって、この試験は、大変過酷で、矛盾に満ちたものでした。
神様の祝福の約束として与えられたイサクです。アブラハムの過去・現在・将
来のすべてが、約束のイサクにかかっていたのです。そのイサクを全焼の供え
物としてささげなさいというのです。イサクは死にます。神様の約束はなくな
ってしまいます。なぜそんな命令をされたのでしょう。
 しかし、なぜという以上に、アブラハムがどのようにこの試験を乗り越えた
かが大切です。全く意味のわからない、最悪の結果を招く命令でした。アブラ
ハムは、拒否することもできたでしょう。しかし、神様の言葉に信頼しまし
た。なぜかはわからない、どうなるかわからない、でもイサクを下さった神様
に間違いはない、必ず約束を成就して下さると信じて、命令に従い切ったので
す。主は直前で、しかし心で完了した時、試験を終えなさいました。彼のひと
り子さえも惜しまない信頼を知ったからです。その時神様も共に苦悩しておら
れたのです。やがて御子を惜しまず犠牲とするために。信じたアブラハムは大
きな報いが与えられました。私たちにも試験があります。信頼の祝福、救いへ
の参与のためです。
 神様の試験を越えて、この祝福に与りましょう。
 
2018年5月20日
【ペンテコステ】使徒二1~21
「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あ
なたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」
使徒2章17節

 今日はペンテコステです。それはどんな日なのでしょうか。それは聖霊の来
て下さった日です。聖霊はどんなお方なのでしょうか。聖霊は神様です。霊で
すから見えませんが、良いお方です。
 さて、エルサレムの町のある家の二階です。皆とても熱心に祈っています。
「聖霊様、おいで下さい。私の心をきよめ、強くして下さい。」 ペテロさん
は一生懸命お祈りをしています。「私はうそをつきました。イエス様の弟子で
あるのに、イエス様を知らない、と三回もうそを言いました。どうぞ私の汚い
心を清くして下さい。弱い心を強くして下さい。」うそをついたことがありま
すか。うそはとても悪いことです。うそつきは、天国に入ることはできませ
ん。
 ヨハネさんも祈っていました。「私はすぐに怒ります。我慢ができないので
す。こんな心は嫌です。どうぞやさしい心に変えて下さい。」怒りん坊の人は
いませんか。他の弟子たちやマリヤさんたちも、自分の汚い心を清くして下さ
いと、一生懸命にお祈りをしました。お祈りは十日も続きました。イエス様は
天にお帰りになる前に聖霊を送って下さると約束なさいました。
 その十日目の朝九時頃です。突然、ゴーッという大風の吹くような音がし
て、舌のような炎が現れ、それが分かれて、一人一人の上に止まりました。聖
霊の来て下さったしるしでした。皆の心が温かくなりました。
 人々は大きな音に驚いて集まってきました。するとペテロは十一人と一緒
に、お話ししました。「皆さん、聖霊が来て下さったのです。皆さんはイエス
様を、十字架につけて殺しました。しかしイエス様は三日目によみがえらされ
ました。そして天に帰って聖霊様を送って下さったのです。イエス様は救い主
です。」これを聞いた人々は、心を刺されて、悔い改め、イエス様を信じまし
た。そして一緒に礼拝し、祈り、持ち物を分け合いました。この聖霊様は、今
もイエス様を信じる人々と共にいて下さるのです。イエス様を救い主と信じま
しょう。
 
2018年5月13日
【聖霊を迎える準備】使徒一1~14
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネ
は水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマ
を受けるからです。」使徒1章45節

 ペンテコステを待ち望む期間です。その十日前にイエス様は昇天されまし
た。今年はこの前の木曜日が昇天記念日でした。この世で、神のみ心に添って
生きるのには戦いがあり、天国へ行くまで続きます。しかし同時に、聖霊の満
たしによって、私たちは神の国を生きていく者であります。私たちと聖霊様と
の関係を心にとめてみ言葉に聞いていきましょう。
 今日の聖書箇所には、間もなく聖霊を受けるから待っていなさいという主の
命令と、そして聖霊のバプテスマが与えられるという約束が書いてあります。
 聖霊のバプテスマはそれほど重要なのでしょうか。5節には、バプテスマの
ヨハネの名前が出てきます。彼は、私の後から来る方は、聖霊のバプテスマを
授ける偉大なお方だと話していることが福音書の初めに出てきます。新約聖書
は、悔い改めも大切ですが、それ以上に聖霊のバプテスマが大切だと最初から
語っているのです。
 ではすでにペンテコステに聖霊が教会に下ったのであれば、今個人的に求め
る必要があるのでしょうか。ルカ十一13を見ると、聖霊は求めるものに与えら
れるのです。主イエス様は求めるようにと言っておられます。またバプテスマ
とは「浸す」という意味です。聖霊様は、人が救われる前から人と共にいて働
いておられますが、浸されて、満たされること、満たされ続けることが大切な
のです。
 ではどのように求めたら良いのでしょう。弟子たちは、心を合わせ祈りに専
念したのです。互いに
誰が偉いか争っていた弟子たちが、心を合わせました。それには、へりくだり
と悔い改めがないとできません。また専念するためには、他の事はすべて投げ
捨てて祈ったのです。
 私たちも来週のペンテコステに向かって同じように祈って、待ち望みましょ
う。聖霊に満たされ続けて歩みましょう。
 
2018年5月6日
【弟子の選び】マルコ三7~19
「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼
らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであっ
た。」マルコ3章14・15節

 今は、主の復活から聖霊降臨日への時を過ごしています。そのことを覚えな
がら、イエス様の弟子の任命について見ていきましょう。イエス様は何のため
に弟子を選ばれたのでしょうか。
 聖書の中で、弟子という言葉は、二つの使われ方があります。一つは、マタ
イの最後のところのように、すべてイエス様を信じる人は、主の弟子であると
いう場合です。もう一つは、今日の箇所のように、弟子の中でも、リーダー的
な立場を指す場合です。
 弟子の選びと言いましたが、マルコは任命と書いています。元のギリシャ語
で見ると、造るという意味の言葉です。優れたものを選ぶと言うよりも立て上
げて下さるというのがイエス様の弟子の選び方です。
 さて選んだ目的は三つあります。第一に、そばにおくため、です。仕えさせ
ることもあるでしょうが、それ以上に、イエス様のすることを見て、共に生活
して、そのあり方を知るということです。そして同じあり方、父との交わり、
宣教の働きをするためです。二つ目は、彼らを遣わして、福音を伝えさせるた
めです。創造主に立ち帰り、悔い改めることこそ福音です。三つ目は、悪霊を
追い出す権威を与えるためです。権威を与えられたら、その通り権威を使うの
です。しかしこの権威は、祈りによって、主との深い交わりの中に与えられる
ものです。
 イエス様は、どのように、弟子たちを選ばれたのでしょうか。それは、自分
のためでなく、祈りの中で、父のみ心に従った選びです。聖書の専門家がいた
わけでもなく、ごくありふれた人々、もしかしたらふさわしいと思えない人を
主は弟子として任命されたのです。そして今も神様の愛に心を開く人を招き、
弟子として立てて下さるのです。
 私たちも主の招きに応答しましょう。
 
2018年4月29日
【約束の成就】創世二一1~7
「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラにな
さった。」創世記21章1節

 今日開かれているところは、イサクの誕生のところです。誕生という以上
に、神様の約束の成就でした。神様のみわざを見て参りましょう。
 約束の成就というのは、とても大きな出来事です。しかしどちらかというと
淡々と記されています。私たちは、そこまでの経過を考える時に、その大きさ
を感じることができます。
 神様は約束を、二五年という長い年月をかけて成就されました。スポーツ選
手も一瞬の大会のために長い時間をかけて準備をします。皆さんは二五年の約
束をすることがあるでしょうか。アブラハムが七十五歳の時に、あなたと子孫
を祝福すると言われました。いろんなことがありましたが、子供は与えられま
せんでした。その間に年も取り、子供は不可能と思っていたのです。長い年月
が報われるような約束の成就だったのです。
 そしてこの成就は、人間の不可能であり、神様だけが可能な成就でした。す
べての栄光は神に帰するのです。だから神様から人への一方的な恵みなので
す。
 ところでこのような約束の成就は、現代の私たちと関係があるのでしょう
か。神様はアブラハムだけでなく、すべての人に対して、救いの約束を成就さ
れました。それはアダムが罪を犯した時から、数千年にわたる約束の成就で
す。人間の罪の身代わりとして、御子キリストを送り、人の罪、その罰の苦し
みを代わりに負わせたのです。だから私たちは、それを信じ受け入れるなら、
罪の赦しを受け、永遠の命を受けることができるのです。
 また神様の約束は、人類全体に対してもそうですが、一人一人に対しても、
ご計画をもっておられます。詩篇一三九篇13節からを読みましょう。それは生
まれる前に立てられ、一人一人にとって最善の計画なのです。主に信頼して、
そのご計画の成就を見させていただきましょう。
 
2018年4月22日
【過ちの反復】創世記二〇章
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこに
おいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
箴言3章56節

 今日開かれているみ言葉は、アブラハムが過ちを繰り返したところです。ゲ
ラルに滞在し、妻サラを妹と言うのです。それは何を意味しているのでしょう
か。どうすればいいのでしょうか。あなたも失敗を繰り返してしまうことはな
いでしょうか。
 この記事は、一二章後半でエジプトへ下った出来事ととても似ています。同
じように感じてしまうかもしれません。しかしここでは、繰り返されているこ
とこそが問題であり、焦点をあてるべきところです。
 様々な失敗を通して、神様の導き、約束や計画、神様に信頼することを学ん
できたアブラハムです。そしてその約束の成就の時も示されたアブラハムでし
た。しかしここでは、過去と同じ過ちを繰り返しています。妻を妹といい、王
に召し入れられ、彼の妻になるところでした。
 どうしようもなくなった時、神様が夢でアビメレク王に現れ、叱責して、彼
は恐れてサラを返すのです。なぜ過ちが繰り返されるのでしょうか。でも私た
ちはこれを見て、ホッとします。なぜなら私たちも過ちを繰り返す存在だから
です。神様を信じる信仰や悔い改めで解決しないのでしょうか。この問題を解
決しないと、本人が繰り返すだけでなく、子供も同じ過ちを繰り返すのです。
 神様はどんな問題の解決ももっておられます。それでも簡単とはかぎりませ
ん。私たちは罪に目を向けますが、聖書は、心の傷にも目を向けています。そ
れは表面に現れた事柄ではなく、目に見えない根っこの部分の傷が問題なので
す。ギャンブルや買い物の依存症も心の傷の現れです。表面の問題を扱っただ
けでは解決しません。聖書は「彼(キリスト)の打ち傷によって、私たちはい
やされた。」(イザヤ五三5)とあります。主キリストが十字架で私たちの心
の傷や孤独も負って下さったと信じるとき、神の愛が私たちの傷を癒すので
す。放っておかないで、主に傷をいやしていただきましょう。
 
2018年4月15日
【ロトの脱出】創世記十九章
「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておら
れた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊
の中からのがれさせた。」創世記18章20節

 今日開かれている聖書箇所は、ソドムとゴモラの滅亡とロトの脱出です。脱
出と言うよりも、かろうじて救い出されたのです。
 しばしば聞かれることですが「もし明日がこの世の終わりだとしたら、どう
しますか。」できれば考えたくないかも知れませんが、地震や事故がないとも
限らないです。考える必要があることです。ルターもこの質問に答えていま
す。
 今日のソドムとゴモラは、神様によって滅ぼされました。神様はなぜ滅ぼし
たのでしょうか。なぜ裁くのでしょうか。一概に答えられない部分もあります
が、ここにはこの町の悪に対する人々の叫びが天に達したからだと、聖書は言
っています(一八20)。
しかし人間は、人間の基準でお互いを正義と言うことができたとしても、創造
者で少しの悪も赦すことのできない神様の正義の前に立つことができるのでし
ょうか。そして神様は愛であるので、救いの道も用意されました。悪を御子に
代わりに負わせ、私たちに赦しの道を開かれたのです。もし裁きがなければ、
救いはありません。救いと裁きは、コインの裏表なのです。
 このソドムとゴモラで助かったのは、ロトと二人の娘だけでした。なぜ彼ら
は助かったのでしょうか。良い人だったからでしょうか。確かに悪に憂えてい
ましたが、人々の悪の前には無力でした。神様の裁きの厳粛さに鈍かったので
す。だから真剣に逃げようともしなかったのです。助かったのはアブラハムの
とりなしと神様の憐れみです。ロトには何の功績もありません。全能の神を信
じるアブラハムは、神の裁きの恐ろしさを知り甥ロトのために必死でとりなし
たのです。救いを知っている私たちにも、真剣にとりなすべき人々がいるので
はないでしょうか。主が祈りに答えて下さることを信じ、祈りましょう
 
2018年4月8日
【集まって主の名で】マタイ一八~20
「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈
るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりで
も三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからで
す。」マタイ18章19・20節

 今日開かれている聖書箇所は、今年度の標語聖句です。復活された主イエス
様は、いつも私たちと共にいて下さると約束して下さっています。そして私た
ちの祈りも父が全てかなえて下さると言っています。み言葉に聞いていきまし
ょう。
 このみ言葉は、私たちもよく知っているみ言葉です。しかし、なぜ一人とは
書いていないのでしょうか。一人の時はイエス様は共にいて下さらないのでし
ょうか。祈りは聞かれないのでしょうか。別の箇所を見れば、隠れた祈りを聞
いて下さること、譬え一人でも共におられることは、すぐにわかります。で
は、なぜ一人と言われなかったのでしょうか。何か違うのでしょうか。
 もう一つ、私たちの祈りは、どんな祈りでもかなえられるとは本当でしょう
か。ここでも「私の名によって集まる所」に主は共におられるのです。それは
ただの集まり、違う目的を持った集まりではありません。では、主の名によっ
て集まるとは、どんな集まりでしょうか。
 今日の前の部分を見ると、教会の中でも、人に傷つけられること、人を躓か
せること、人に罪を犯す時と書かれています。もし誰かがあなたに罪を犯すな
ら、二人で話しなさいと。それは悔い改めて兄弟を得るためです。実際には互
いに罪人ですので単純ではありません。しかし主の御名によって互いに悔い改
め許し合うことがここで言われている集まりなのです。これは簡単なことでは
ありません。私たちの罪の赦しのために十字架につけられた主を見上げて初め
てかなえられる祈りです。
 私たちの集まりはどうでしょうか。主を見上げ、主の御名によって、ゆるし
あい、またとりなしあう集まり、主が共にいる集まりとなりましょう
 
2018年4月1日
【復活の主】マタイ二八1~20
「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたから
です。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」マタイ28章6節

 今日は、主が死からよみがえられたことをお祝いする日です。地域によって
は、クリスマスよりもイースターを盛大にお祝いします。初代教会もそうでし
た。この一週間私たちは、主の十字架の苦しみが私のためだったことを特に覚
えながら過ごしました。そして主の復活を祝うのです。さて、主がよみがえら
れたときは、どんなことが起こったのでしょうか。
 イエス様は、十字架で死なれた後、アリマタヤのヨセフによって新しい墓に
葬られました。日没と共に安息日が始まるので、その日は墓に葬るのが精一杯
でした。そして安息日が明けた日曜日の朝早く、マグダラのマリヤや女性たち
が、亡きがらに香油を塗って整えようと墓へ行ったのです。しかしその墓は、
封印されて、ローマ兵達によって厳重に守られていたのです。ところがそこに
光り輝く、御使いが来て、墓の入り口の大きな石を転がしました。屈強なロー
マ兵達でしたが、死人のように怖がって逃げていきました。御使いはマリヤ達
に、「恐れるな。イエス様は、よみがえらされました。もうここにはおられま
せん。このことを弟子たちに知らせなさい。」と告げたのです。
 イエス様は、どのようによみがえられたのでしょうか。何も書いてありませ
ん。見た人はだれもいません。詮索してもわかりません。隠されているので
す。しかし御使いの言葉に恐れを覚えながらも喜んだマリヤ達に、イエス様は
現れなさったのです。その言葉を聞いて受け入れた人は、復活の主が見えるよ
うになるのです。これが順序です。今日復活の主のことを聞いた私たちは幸い
です。 主の復活は、罪とその結果である死への勝利です。全能の神様が御子
の贖いによって勝利された証拠です。罪を悔い改め信じる私たちにも、死に打
ち勝つ力が与えられているのです。復活の主をたたえましょう
 
 
 
 
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神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。