メッセージ(文責:尾﨑豪)
 
2017年8月27日
【どこからどこへ】ローマ一一33~36
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからで
す。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
ローマ11章36節

 今日は、召天者記念礼拝です。今日開かれているのはローマ人への手紙で
す。この手紙は、三部に分かれています。一部は1~8章まで救いの教理につ
いて、二部はユダヤ人の救いについて、三部は実践的信仰生活についてです。
 今日の聖書箇所は、二部の最後の部分です。パウロは、同族ユダヤ人の救い
について、イエス・キリストを拒否して中々救われないことへの嘆きと切望、
またそれが異邦人への救いへとつながっているという、人知をはるかに超えた
神様の知恵に対する感嘆でこの部を閉じています。
 ところで、人がどこから来て、どこへ向かっているのかは、人類の大きなテ
ーマです。それは私たちが、何のために存在しているのかという大切な課題で
す。聖書は、そのことについて、人類の始まった時から、人を造り、天地宇宙
を造られた神様が、示していらっしゃると言っています。
 始まりについては、人を含めたすべてのものは、神から出て来ていると言っ
ています。神様が源なのです。神は霊なる方ですから、科学では理解すること
はできません。しかし人が自分の作ったもの大切にするように大切に思い、心
を注いでおられます。だから人が心を向ける時、神様の語りかけを聞くことが
できるのです。
 そして神様は、造った世界をほったらかしにしてはいません。今も秩序正し
く世界を統治しておられます。人は神に似たものとして自由意志を持っていま
すが、それでも神の許しの外に出ることはできないのです。
 そして、すべてのものは、神様の元に返っていきます。身体は土に帰ります
が、霊は神に帰るのです。人は死と裁きとを通らなければなりません。しかし
イエス様の十字架を信じた人は、裁かれないで永遠の命に至るのです。以前の
方も今年加えられた方もいます。私たちも神様に帰ることを目指して生きてい
るのです。
 
2017年8月20日
【神はどんなお方?】ヨハ一四1~9
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにい
るのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見
たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うので
すか。

 今日開かれているところは、イエス様が、私はやがてあなたがたを離れて行
くと話し始めたところです。それを聞いて弟子たちは動揺し始めます。残され
て、あとは頑張って下さいと言われたようなものです。
 イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのです。」と言われます。
 街頭インタビューで「神はいると思いますか」と聞くと結構「いる」と答え
る人が多いです。続いて「ではどんな存在だと思いますか」と聞くと様々な答
えが帰ってきます。例えば、悪いことをしないか見張っているなどです。
 神様は、祝福の湖です。祝福は、川のように私たちの心に流れ、また周り
(下流)に祝福を流していく目的で与えられています。しかし、流木で流れが
せき止められるように、裁く思い、偽り、赦さない心などで、祝福の流れはせ
き止められてしまいます。
 それはサングラスやフィルターで光が遮られ、本当と違う姿に見えてしまう
のと似ています。父なる神様のイメージをフィルターでゆがんで見えます。例
えばタラントの譬えでは、一タラント与えられた僕は、主人は、まかないとこ
ろから刈り取る恐ろしい方だと言っています。これは例えば両親に対する怒り
や恨み、裁く思いなどでフィルターがかかり、本来の父の姿が見えなくなって
いるのです。
 聖書の示す父なる神様は、権威者ですが、愛情豊かで、信頼できるお方で
す。そして私たち人間を価値ある存在、あなたがたを養ったと言っています。
私たちが受け止めるべき大切なメッセージです。すると神様に立ち帰ることが
できます。私も父のイメージを天の父に反映していましたが、裁く心を認め、
赦し、変えられてきました。神様の祝福を受け取りましょう。
 
2017年8月13日
【からだと器官】Ⅰコリ十二12~31
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
コリント第一章12~27節

 今日の聖書箇所に入る前に、今日は終戦記念日前の主日です。日本基督教団
の統理富田は伊勢神宮に参拝し、教会は宮城遥拝をしてから礼拝を行っていま
した。それは唯一の創造主に対する信仰を失った姿です。そして再臨信仰を明
確にしたきよめ教会の牧師は一斉検挙され教会は解散させられました。終戦記
念日は、日本の教会が信教の自由を取り戻した日でもあるのです。創造主は、
今の歴史をも治めておられるお方です。
 さて、今日は、教会についてです。
 教会はキリストの身体です。頭はキリストです。他のどんなものも、それに
変わることはできません。牧師や役員などの人、組織や儀式、富みも変わるこ
とができません。それが教会です。
 次に見ることは、キリストの身体は一つということです。身体には、様々な
器官がありますが、それが結び合わされて一つの身体となっています。キリス
トという頭に、いくつもの身体があるわけではありません。それをクリストフ
ァー・ライト師は、教団や教派毎に別のキリストの身体があるわけではありま
せん、と表現しました。全世界の教会が一つの教会となって、一つのキリスト
の身体をなしているのです。
 なぜ、そう言っているのでしょうか。人間は、分離、分裂分派を起こしやす
いからです。自分との違いを非難するのではなく、同じ身体の別の働きとし
て、互いに尊びあうべきなのです。
 そして各器官には、違いがあります。目や口、手や足と同じように、教会で
も、子供伝道、聖歌隊、福祉など長所が違います。お互いに、それを認め合う
ことが必要です。イエス様は、互いに愛し合いなさい、互いに愛し合うことに
よって、人々はあなたがたを私の弟子と認めると言われました。弱さを補い合
い、長所を喜び合うのです。
 主にあって、すべての聖徒が一つであることを喜びましょう。
 
2017年8月6日
【レギオンからの解放】マルコ五1~20
しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家
族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、
どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」マルコ5章19節

 今日開かれている聖書箇所は、汚れた霊にとりつかれた人が、イエス様によ
って解放されたところです。イエス様とは、どんなお方であるかみ言葉に聞い
ていきましょう。
 イエス様は、ガリラヤ湖を舟でわたり、デカポリスのガダラ人の地域に来ら
れました。すると、汚れた霊につかれた人が、墓場からやってきました。そし
て、「私を苦しめないで下さい。」と言うのです。それは、イエス様が汚れた
霊に対して「この人から出て行け」と命じられたからです。
 聖書は、汚れた霊や悪霊の存在を明言しています。その長がサタンです。悪
霊たちは、堕落した天使と言われます。神様の被造物です。しかし、創造者に
背いて、自分が神のように振る舞っています。また彼らには、すでに永遠の滅
びが定められています。悔い改めの機会や裁きが終わっているのです。そし
て、神様に似せて造られた人をも道連れにしようと働いているのです。しかし
人間の中には、勝手に悪霊は入ることはできません。やたらに恐れる必要はあ
りません。でももし迎え入れるなら悪霊に支配されてしまします。
 神の御子イエス様の御名には、悪霊に対する権威があります。だから汚れた
霊たち(その名はレギオン)は逆らうことができません。彼から出て行ったの
です。彼がイエス様を迎えに出て来たのは、助けを求めたからではないでしょ
うか。
 汚れた霊が出て行くとその人は「正気に」もどりおとなしく座っていまし
た。本来の自分に戻ったのです。そしてイエス様のお供をしたいと申し出まし
た。しかしイエス様は、家に帰って主のすばらしさ、憐れみを証するように言
われました。主イエス様は、ある人を使徒としてそばに置き、ある人は証人と
して家に帰らせ、それぞれを祝して用いる権威をもっておられます。
 私たちも主の御名によって歩みましょう。
 
2017年7月30日
【祝福の基となる】創世記十二章
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの
名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。創世記12章2節

 十二章からアブラハム(最初の名はアブラム)が登場します。アブラハムか
らユダヤ民族が始まります。旧約聖書は、ユダヤ人を通しての救いの歴史が記
されています。そういう意味で十一章までの世界の始まりは、序章にあたりま
す。アブラハムと神様との関係はどのように始まり、どんな関係なのでしょう
か。
 神様とアブラムの関係は、神様の呼び出しから始まります。創世記では、カ
ランで父親の死後となっていますが、使徒七章を見ると、すでに生まれ故郷ウ
ルで呼び出されています。するとカランで、父に引きずられてそこに留まって
いたのです。神様は、もう一度アブラムを呼び出されたのです。私たちと神様
との関係も神様の呼び出し(召し)から始まるのです。神様はは、すべての造
られた人を愛し呼んでおられます。私たちは、それに応答する必要があるので
す。
 アブラムの選びは、人類の救いのための特別な選びでした。そこで神様が、
アブラムに言われたことは、「あなたを祝福する」ということでした。祝福と
は何でしょうか。普通に考えると、物質や家族や仕事、健康、交友関係などが
豊かになることではないでしょうか。神様の祝福は、物質等のこの世のことに
留まらず、霊的なものに及びます。神様は、その人が何者であるかを教え、人
それぞれに使命を与えられます。それを知り、全うしていくのです。神様の祝
福は、自分の祝福に留まらず、すべての人が祝福を受けるというとてつもない
約束です。それは彼の子孫として生まれた御子イエス・キリストを通して成就
しました。
 アブラムが祝福を受けた秘訣は何でしょうか。それは、家族を離れ、民族を
離れ、神様が示す地へ出発したことです。彼が優れていたというよりも、主の
言葉に従ったところに秘訣があります。私たちも主の言葉、聖書のお言葉に従
い、キリストを信じ、祝福を受けつぐものとされ、神の国を目指しましょう。
 
2017年7月23日
【ノア契約】創世記八、九章
わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約の
しるしとなる。創世記9章13節

 ノアの箱舟、洪水の続きになります。八章では、まだ水が引いていませ
ん。そして箱舟に入ってから、水が引いて、箱舟から出るまで一年以上かか
りました。また箱舟から出る時も、勝手に出たのではなく、神様のみ言葉を
聞いて出たのでした。
 ノアが、箱舟から出て最初のしたことは何だったのでしょうか。それは、
礼拝でした。なぜ、礼拝をしたのでしょうか。神様を礼拝する第一の理由
は、神様天地を創造する全能なる主の偉大さのためです。神様の存在そのも
のが、礼拝の理由です。第二の理由は、救いへの感謝です。ノアと家族は、
すべての人が滅びの中で、神様に聞き従って箱舟を作り、救われました。主
が裁きの中から助けて下さったことへの感謝の礼拝をささげたのです。第三
の理由は、神様が、これから守って下さるようにというお願いです。この洪
水は、環境の劇的変化を引き起こしました。その中で助けて下さるようにと
礼拝したのです。
 神様を礼拝したノアに対して、神様はどのように答えられたのでしょう
か。四つのことを語られました。一つは、再出発ということです。神様は祝
福して「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」と言われました。天地創造の時と
同じ言葉です。再出発するように言われたのです。二つめのことは、動く生
き物つまり動物なども食物として与えるということです。三つめは、契約と
して、もうすべての生き物を洪水によって滅ぼすことはしない、と語られま
した。それは、人の考えることは最初から悪いからということです。洪水で
滅びても良くならない、変わらないのです。しかし、聖書全体で見ると、天
地を裁くこと、この天地は滅びると語られています。四つめは、この契約の
しるしとして、天と地を結ぶ虹を置くということです。虹は、やがて来られ
るキリストを指しています。天と地を結ぶ唯一の仲介者は他にいません。私
たちは、地に来られ、十字架で死に、よみがえられたキリストを救い主とし
て、礼拝しているのです。
 
2017年7月16日
【中風のいやし】ルカ五17~26
彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われ
た。ルカ5章20節

 イエス様は、カペナウムで、神の国を伝えていました。家の中には、大勢の
人がいて、玄関の外も人でいっぱいでした。
 さて、中風という病気の人がいました。この病気は、手や足が動かなくなっ
て、寝たきりになったり、言葉がしゃべれなくなったりします。この病気の人
のお友達たちは、何とか治って欲しいと思っていました。そして多くの人の病
気を治しているイエス様のところへ行ったら治るに違いないと思ったのです。
 病気になったり怪我をしたりすると、どうしてこんなになったんだろう、あ
んな悪いことをしたからかなあと思うことはありませんか。病気は、アダムと
エバが罪を犯したときから人間に入って来たのです。悪いことをしていなくて
も病気になります。でも心に悪いことや後悔があるなら、それは神様に赦して
いただく必要があります。
 友達たちは、中風の人を布団にのせ、四隅をもってイエス様のいる家まで運
んできました。でも人があふれて、イエス様のところへ行くどころか、家の中
にも入れません。とても困りました。そのまま帰るわけにも行きません。
 「そうだ、屋根に穴を開けよう」そう思いつくと早速、屋根に登りました。
瓦をはぎ、どろや木の枝を取りのけて、やっと寝ている人をおろせるようにな
りました。
 中にいた人々はびっくりしました。天井からゴミが落ちてきて大きな穴が開
いたのです。そして、中風の人がおろされてきたのです。
 イエス様は、病気の人、そしてその友人達の信仰を見て、「友よ、あなたの
罪は赦された」とおっしゃいました。その時病気の人は、とても安心した気持
ちになりました。そしてまたイエス様は、「起きなさい。家に帰りなさい。」
と言われました。するとその人は起き上がって、神様を賛美しながら家に帰っ
て行きました。人々も神様を崇めました。神の子、罪を負うために来られたイ
エス様は、罪にも病気にも権威をもっておられます。このイエス様の救いを信
じましょう。
 
2017年7月9日
【主イエスの教会】マタイ十六13~28
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上
にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
マタイ16章18節

 今日の開かれている聖書箇所は、ペテロの信仰告白として、またイエス様の
教会設立宣言として有名なところです。主イエスの教会とはどんなものである
かみ言葉に聞いていきましょう。
 最初、イエス様は人々がイエス様について何と言っているかと弟子たちに聞
きました。弟子たちは、エリヤ、エレミヤ等の預言者と言っていると応えまし
た。イエス様は、ではあなたはどうかと弟子たちに問われました。周りの誰か
ではなく、あなた自身にとってイエスは誰かが、重要なことです。それに対し
てペテロが、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました。イ
エス様はこの答えを本当に喜ばれました。それは人の考えでなく、天の父が示
して下さったことだったからです。
 18節のように、イエス様は、イエス様の教会を建てると宣言されました。岩
とは何でしょう。イエス様を神の子キリストと告白する信仰です。
 「教会」と言うと私たちは建物を連想しますが、原語では「会衆」とか「呼
び出された人々」のことです。教会は、神様の呼びかけに応えて集まった人々
の集まりが本質なのです。そして神様は、すべての人に呼びかけておられま
す。
 この時から、イエス様は、弟子たちに、苦しみを受け、祭司や律法学者達に
捕らえられ、十字架に付けられ、殺されること、三日目によみがえることを話
し始められました。ペテロがこのことを諫めたとき、イエス様は、「黙れ、サ
タン」と言われました。それは、神の意志ではなく人の考えだったからです。
 そしてみんなに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、
自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われたのです。
これはもう一つの「岩」です。主イエスを救い主と信じることは、命を捨てる
ことです。その時永遠のいのちが与えられます。主イエスはこの信仰の上に主
イエスの教会を建てられたので
す。
 
2017年7月2日
【恐れるな】マタイ十四22~33
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。
恐れることはない。」と言われた。マタイ14章27節

 皆さんは、ある困難や問題があって、それがいつになったら解決するのだ
ろか、私はどうしたらいいのだろうかと思ったことがあるでしょうか?今日
はそのような人生の逆風とも言える中で、神様が私たちにどのようにかかわ
ってくださる方であるのかを見ていきたいと思います。
 時として、人は自分の抱えている問題があまりにも困難であるときに、神
様は本当にいるのだろうかと思ってしまいます。激しい向かい風のために弟
子たちが九時間も一〇時間も苦しんでいる所に、イエス様は近づいて来て下
さいました。そのように神様は、私たちにも近づいて下さる方です。
 二つ目は、神様は私たちにみ言葉を与えて、励まして下さる方です。「し
っかりしなさい。わたしだ。おそれることはない。」と声をかけて下さいま
す。なぜ恐れなくてもよいのでしょうか。「神である私がここにいる」とお
っしゃる方が共にいて下さるからです。(イザヤ四一10)
 三つ目は、神様は私たちを助けて下さる方です。神様に叫ぶことも大切な
ことです。ペテロは、「神であるあなたでしたら」と信仰の一歩を踏みだし
ましたが、恐れ疑ったために、沈みかけてしまいました。私たちも神様を信
じて信仰の一歩を踏み出したとしても、全能の神様を信じきることができず
に沈みかけてしまうことがあります。けれどもペテロが「助けて下さい」と
叫んだように、私を救って下さいと神様に叫ぶとき、私たちの手を固くつか
んで引き上げてくださいます。
 私たちにも様々な困難や恐れがあります。しかしこの方がいつも共におら
れます。この方に信頼し、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れるな」とい
うみ言葉を握って歩んで行きたいと思います。
 
2017年6月25日
【裁きの中の救い】創世記七章
「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受け
たとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟に
よって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」
ヘブル11章7節

 今日はノアの箱船の二回目です。ノアはすべての現代人の先祖です。未曾
有の洪水、神様の裁きの中でなぜ、助けられ守られたのでしょう。どんな備
えをしていったのでしょうか。
 一.ノアの備え
 ノア正しい人でした。また天地を造られた神様を畏れかしこんでいまし
た。ですから、神様が、世界を滅ぼすと言われたことも、箱船を作りなさい
と言われたことも謙虚に受け取りました。だからそのお言葉を実行したので
す。
 しかし箱船を作ることは簡単なことではありませんでした。(今米国に箱
船公園ができ、実物大の模型がありますが、思った以上に大きいです。)お
そらく百年か百二十年かけて作ったのです。すべて手作業です。しかしそれ
以上に、人々の奇異な目、中傷が気持ちをそいだのではないでしょうか。ま
たノアは、神様の言葉をそのままに、みんなが箱船に入り救われるようにと
声をかけ、祈ったことでしょう。イエス様の再臨の時もこの時と同じである
とイエス様は警告しておられます(マタイ二四章)。しかしノアにも限界があ
ります。一つは、神様の決断を止められないこと、もう一つは、他の人に変
わって決断できないことです。救われた喜びと同時に多くの悲しみも覚えた
ことでしょう。
 二.神様の決断
 そして神様は、地と人間と動物とを滅ぼす決断をされました。そうでなけ
ればもっとひどいことになったからです。そしてそれまでの長い間神様は救
いの門を開けておいたのです。けれどもその時が来たのです。現代も今救い
の門が開かれています。でも必ず閉じられるときが来るのです。その前に主
の救いを信じ、罪を離れ、神様に立ち帰りましょう。また福音を伝えましょ
う。
 
2017年6月18日
【「永遠の命」への水を飲もう!】ヨハネ四13~14
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありま
せん。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水
がわき出ます。」ヨハネ4章14節

 以前の流行歌に高度経済成長の中で、人の心がすれ違い、渇いていること
を歌ったものがありました。人の心は、いつどこへ行っても同じです。
 イエス様とお弟子達は沙漠の中のスカルという町に来ていました。弟子た
ちが買い物に行っている間に、一人の女性が井戸の所に来ました。キリスト
は、私に水を飲ませて下さい、と言われました。女性がびっくりしている
と、キリストは、「この水を飲む者はまた渇きます。しかし、私が与える水
を飲む者は、決して渇くことがない」と言われました。
 私たちの体もそうですが、心も渇きます。流行歌では、あなたがいれば、
明日も生きていけると歌いますが、それは、そのあなたも変わってしまうと
いうことです。しかし、キリストは、「世の終わりまであなたと共にいる」
と約束しています。
 元々人は、渇くことのない泉を持っていました。しかしそれは、罪という
大きな石によってふさがれてしまったのです。キリストは、その石を取りの
けて、渇くことのない命の水を与えるのです。キリストとは、重荷を負い、
疲れている人を招いておられます。
 昨年八月一人の女性が突然に三七才で亡くなりました。それは大きな悲し
みです。その人の愛唱句は詩篇の二三篇でした。その最後には、「私は、い
つまでも、主の家に住まいましょう」とあります。私たちの肉体が壊れて
も、永遠の命を与え、迎え入れて下さっています。受け止めきれない事実の
なかでそのことを感じています。
 私たちに命があるのは、この永遠のいのちを得るためです。祝福のためで
す。祈りましょう。
 
2017年6月11日
【イエス様の食物】使徒の働き二章
「イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そ
のみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」ヨハネ4章32節

 今日の聖書箇所は、サマリヤの女と言われる場所の後半部分です。教会の
七つの本質の「伝道と増殖」ということを覚えながらみ言葉に聞いていきま
しょう。
 私たちにとって、生きるために適切に食事を取ることはとても大切です。
ずっと取らなければ死んでしまいます。でもあなたにとって、食事を忘れて
何かに熱中するようなことはないでしょうか。また三浦綾子さんは、食費を
削っても本を買う作家のことを書いています。
 イエス様は、食べるのが遅くなり空腹だったと思います。しかし、それ以
上にイエス様は、心満たされて満足していたのです。その心を満たしていた
ものは何でしょうか。それが、父の御心を行い、そのみわざを成し遂げるこ
とです。イエス様は、この女性と話しをし、命の水の話しをして、この女性
に永遠の命を与える水を与えることができて、とても満足していたというこ
となのです。
 イエス様は、伝道の機会を、わざわざご自分から作り、命の水を手渡され
ました。なぜ心が開かれたのでしょう。それは責められることなく、ありの
ままで受け入れられたからです。伝道の機会は、多いのですが、いつでもと
思うと、機会がなかったりします。
 またイエス様から命の水をもらったこの女性は、機会を作るというより
も、自分の内から出る喜びが自然にあふれ出て、イエス様がキリストかもし
れないと伝えていきました。
 どちらの場合もあるでしょう。私たちも主からありのままに受け取って下
さる愛を受け取って、喜びに満たされましょう。そして主を礼拝し、主の愛
を伝えましょう。
 
2017年6月4日
【聖霊に満たされ】使徒の働き二章
「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受け
て、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」
使徒の働き2章33節

 今日はペンテコステです。聖霊降臨日とも言います。クリスマス、イース
ターと並ぶ教会のお祝いの日です。弟子たちに聖霊が降り、教会が始まった
日です。この日どんなことが起きたのか。今の私たちにどのような関わりが
あるのかみ言葉に聞いていきましょう。
 イエス様は、復活から四〇日目に昇天されました。その時約束されていた
のが、聖霊が降るのを待っていなさいということでした。弟子たちは、聖霊
を求めて祈り待ち望んでいました。そして主の復活から五十日めのこの日、
聖霊様が天から下られたのです。
 この時恐らく一二〇名程が一緒に祈っていました。すると天から大きな風
の音が鳴り、炎のような舌のようなものが、一人一人の上に留まり、一同は
聖霊に満たされたのです。
 彼らは様々な国の言葉でイエスキリストを証しました。人々は驚きまし
た。しかしペテロと弟子たちは、この出来事は、預言者ヨエルが預言したこ
とであり、彼らがイエス・キリストの復活の証人であることを力強く語りま
した。この話しを聞いた人々は、無実のキリストを十字架に付けて殺したこ
とに気づき、心動かされ、また弟子たちに勧められて、悔い改めて、バプテ
スマを受け、同じように聖霊に満たされキリスト復活の証人となりました。
そして共に礼拝し、交わりをし、信仰が成長していきました。
 今も、聖霊に満たされることは重要なことです。そのために、①主の前に
へりくだり、②罪の悔い改めを徹底し、③聖霊様を求めて祈ることです。す
ると主イエス様が、私に来て下さったとわかり、キリストの証人となるので
す。聖霊に満たされて歩みましょう。聖霊を求めて祈りましょう。
 
2017年5月28日
【ノアの全き歩み】創世記六章
「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。これはノアの歴史である。ノア
は、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神と
ともに歩んだ。」創世記6章89節

 今日開かれているのは、ノアの歩みです。ノアがどんな時代にどのように
主のみ心にかなって歩んだのかを見ていきましょう。その時代は、どんな時
代だったのでしょうか。エデンの園を追い出された後人々は、急速に増えて
いったと思われます。その中で「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計
ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(5節)と
あります。楽園追放やカインの追放を忘れたかのように、人は悪いことを教
わらなくても覚えていったのです。特に男女の関係で自分の好むままに振る
舞ったようです。それを見て神様は、人を造られたことを後悔し、滅ぼそう
と考えられたのです。
 そんな中でノアは、主の心にかなっていました。正しい人、全き人だった
のです。なぜでしょうか。それは、神と共に歩む人だったからです。
 聖書で言う、正しい人、全き人とはどういうことでしょうか。聖書はくり
返し、私たちが、全き者であるようにと命じています。しかもそれは、聖な
る神様の前で全き者ということです(Ⅰテサロニケ五23、24参照)。人がそ
のように歩めるのでしょうか。神様はできないことを命じたりはしません。
 聖書が示す全き歩みは、決して完全無欠のことではありません。人間は、
どんなに立派だとしても、知識も認識も完全ではありません。それをもとに
する行動も過ちがないとは言えません。でも人が創造主の心を求め、主の心
にかなって生きたいといった心の中を主は、ご覧になるのです。主は愛の動
機を全き者とみて下さるのです。
 もう一つ大切なことは、主との人格的な交わりです。ノアは、「神と共に
歩む人」でした。それは聖や義や愛を言葉や知識で知っていたのではなく、
人格的な交わりによって体験的に知っていたのです。それを支えるのは、礼
拝とディボーションです。
 主は、今も不完全な私たちを恵みのゆえに、全き者とみて下さるのです。
 
2017年5月21日
【バベルの塔】創世記十一章1~9
「神は高ぶるものをしりぞけ、へりくだるものに恵みを賜わる」
ヤコブ4章6節

 今日は、順番が前後しますが、バベルの塔の出来事を共に見ていきましょ
う。
 ノアの洪水の後、百年余りでこの出来事が起こりました。バベルというの
は混乱という意味です。
 神様は、人を創造されたときと同じように、洪水の後も、人に「地に満ち
よ」と命じておられました。洪水の後人々はシヌアル(今のイラク)の平野
に移動し、爆発的に人口が増え始めました。皆一つの言葉でした。そして、
レンガとアスファルトが発明され、大きな建物も造ることができるようにな
りました。すると人々は「天まで届く塔を建てて全地に散らないようにしよ
う」と言い始めました。神様はこのこと見に下って来られ、人々の心が変わ
らないのを見ると、言葉を乱し、分かれさせたのです。お互いの言葉が通じ
なくなった人々は、塔を造るのをやめ、全地に散って行ったのです。
 この出来事には、どんな意味があるのでしょうか。一つは、人はまたも
や、傲慢にも、神様のように高くなろうとし、神様の言葉に逆らっていった
ということです。神様の祝福を押しのける、人の罪深さがあります。技術は
進歩しても人の心は変わりません。
 そして二つ目には、神様は、人の傲慢な心を砕かれるお方ということで
す。人が全地に満ちるように、言葉を乱されたのです。この時寿命も短くな
っています。人は神様にへりくだると祝福されます。
 三つ目に、神様は、人々の悪をも、ご自身の栄光に変えて、人々を祝福す
る方ということです。各言語の特色は、神様の多様性を現しています。人
は、ちりぢりになりましたが、全地に満ち、全地を治めるようになったので
す。
 神様は、さらに、人々がへりくだり祝福されるために、御子を送り、十字
架の死に至るまで従順にならせられたのです。そして乱された言語は、ペン
テコステの聖霊によって、言葉を超えた一致に導かれたのです。
 
2017年5月14日
【十字架での死生】ガラテヤ二章15~20
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているの
ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世
に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を
信じる信仰によっているのです。」ガラテヤ2章20節

 今日は、教会の七つの本質の四番目、つまり中心にある「イエス中心」につ
いてみ言葉を開いていきましょう。
 パウロがガラテヤの教会に手紙を書いた時、大きな憤りと悲しみをもって
書きました。それは、律法と行いによっては、救いが成就しなかったのに、
イエス様を信じた人々がそこへ戻っていったからです。自分の行いでは正し
く歩めなかったから、イエス様の身代わりの死、十字架と復活が必要だった
のです。では救われた後は、どのように歩むのでしょうか。律法と良い行い
によって歩むのでしょうか。それができなかったのにそこに戻るのでしょう
か。そうではないというのが、このみ言葉です。
 イエス様が私の罪の身代わりとして死んでくださったというのが第一の十
字架です。第二の十字架がここにあります。それは、十字架で死んだのは、
イエス・キリストばかりではなく、自分もあの十字架でキリストと共に死ん
だということです。この自分とは、生まれたままの罪深い人間性のことで
す。
 では、私たちが生きているとはどういうことでしょうか。それは、復活の
キリストが、死んだ私の中に生きているので、私は生きているということで
す。これがイエス様中心の生き方です。私が生きていては、キリストは私の
中に生きることはできないのです。
 イエス様中心の生き方は、教会や牧師中心ではなく、ましてやお金や仕
事、趣味、家族や友だち、自己中心でもありません。私たちが聖霊の宮で
す。イエス様の住まい=教会です。キリストの命が注がれているので、命が
与えられ、同じ性質に生かされるのです。何とすばらしいことでしょう。
 
2017年5月7日
【からし種の信仰】マルコ四章30~34
「それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる
種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よ
りも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになり
ます。」マルコ4章31・32節

 今日開かれているのは、イエス様のからし種のたとえです。イエス様は、
神の国をいろいろな譬えで話されました。譬話は、心が閉ざされていると、
ただの話しで、それがどうしたのかと思います。でも心を開いて聞く時に、
より深くわかるようになるのです。
 からし種とは何でしょうか。どうも粒マスタードの粒とは違うようです。
一度見せてもらったことがありますが、黒ゴマより小さく、一見するとゴミ
に思えるほどです。木ではなく草や野菜の一種で、一年で枯れてしまうので
すが、2~3m程に生長するようです。からし種とは、慣用句でとても小さ
いものを表しています。雀の涙とかネコの額と言うのと似ています。
 このからし種は、神の国とどう関わっているのでしょうか。一つは、始ま
りはとても小さいということです。見えるか見えないほど小さいのです。し
かし、二つめは、そこに命があるということです。同じように小さくても砂
粒ならば何の変化もしません。でも命があると変化するのです。命の特徴
は、命を生み出すことと、生み出された命は同じ性質を持っていることで
す。三つめは、他のどんな野菜よりも大きく生長する点です。初めは小さく
ても、神の国も生長して、世界を覆うものになっていることです。四つめ
は、空の鳥が巣を作ると言われていることですが、ここでは空の鳥は、神の
国に属さないこの世に属するものと考えられます。つまり神の国の中にも、
この世が入ってくるということです。それは無理に追い出す必要はありませ
ん。しかし最後の審判の時に裁かれることになるのです。
 私たちが創造主の前にへりくだる時、キリストの十字架により、永遠の命
が与えられます。その命は、人の思いを超えて成長して、神の栄光を表すの
です。
 
2017年4月30日
【罪を治めるか】創世記四1~16
「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが
正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っ
ている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」創世記4章7節

 今日は、創世記四章が開かれています。三章で人間に罪が入って来ました
が、それがエスカレートします。私たちは、どのように罪を治めることがで
きるのでしょうか。
 事の発端は、神様は、アベルのささげ物に目を留められたのに、カインの
ささげ物は目を留められなかったことです。なぜでしょうか。神様に捧げな
かったわけではありません。アベルは、心の現れとして最も良いものを持っ
てきました。神様の喜ばれるささげ物は、砕けた悔いた心です(詩篇五一
17)。その時、レプタ二つのわずかなささげ物でも喜ばれるお方です。カイ
ンのささげ物というより、カインの心が問われていたのではないでしょう
か。私たちの心と礼拝も、神様中心か自分中心かが問われています。
 なぜカインは、罪を治められなかったのでしょうか。神様は、カインに罪
を治めるようにと注意を促しますが、カインのねたみは大きくなり、遂にア
ベルを殺してしまいました。人は罪を犯すなら、自分で負うことのできない
代償を負うことになります。それがわかっていても罪に勝つことができませ
ん。罪は、衝動です。善悪の判断、後先のこと、理性を奪う力があるので
す。罪に勝つ力は、愛です。愛の源は、創造主です。神の愛を離れると、罪
に負けます。神の愛を知ると、罪を治めることができるのです。
 アベルを殺したカインを神様はどのように扱われたのでしょうか。殺人の
贖いは、殺人者の血の他ないと律法は言っています。カインは殺されたでし
ょうか。殺されませんでした。神様は、断絶の代わりに、関係を保ち、殺さ
れないためのしるしを与悔い改めの機会を与えるためであったのではないで
しょうか。私たちは、神様にへりくだって悔い改める機会を逃してはいけま
せん。
 
2017年4月23日
【伝えなさい】マルコ十六14~20
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造
られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救わ
れます。しかし、信じない者は罪に定められます。マルコ16章15・16節

 今日は、イースターの続きです。イースターにつづいてペンテコステ(聖
霊降臨)があり、福音宣教が始まります。弟子たちはどのように、ペンテコ
ステを待ち望んでいったのでしょうか。
 イエス様は、復活の後、何度か弟子たちや女性たちに現れなさいました。
そして十一弟子が食事をしている時に現れなさいました。復活は、到底信じ
られない出来事ですが、イエス様は、他の人の復活の証言を信じなかった弟
子たちを責められました。しかし、弟子たちが復活を確かなこととわかった
後は、これから弟子たちがどうすべきかを話されました。それが一五節から
の所です。
 一つは、宣教の命令です。全世界へ出て行って、すべての造られたものに
福音を伝えなさいということです。福音とは、神の御子キリストの十字架の
死によって罪の代価は払われたと言うことを信じて、罪を悔い改めて、神の
赦しを信じることです。
 もう一つは、命令に伴う約束です。信じてバプテスマを受ける人は救われ
ること、信じない人は罪にさだめられること。また信じる者にはしるしが伴
うことです。そのしるしとは、御名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を
語り、へびをもつかみ、たとい毒を飲んでも害を受けず、病人がいやされる
ということです。これらの約束は今でも起こっています。けれどももちろん
すべての人に、死と裁きとが定められています(ヘブル九27)。しかし永遠
の命を持っているので、恐れません。ある人は取られある人は残されます。
 この命令と約束を受けるために弟子たちはどうしたのでしょうか。祈り、
徹底的に悔い改めたのです。そして最後の晩餐の時もだれが一番偉いか争っ
ていた弟子たちが、心砕かれて、へりくだり、そこに聖霊が降ったのです。
私たちも、祈り悔い改め、聖霊の満たしを求めましょう。
 
2017年4月16日
【復活の知らせ】マルコ十六1~13
青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられた
ナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。こ
こにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
マルコ16章6節

 今日は、待ちに待ったイースターです。十字架で死なれたイエス様が、復
活された日です。それは、私たちの本能に逆らう、誰も信じられないことが
起こった日です。今年はマルコの福音書から見ていきましょう。
一、墓へ行った女性たち
 マグダラのマリヤをはじめ数人の婦人が、安息日が明けた朝にイエス様の
お墓に行きました。それは当時の習慣に従って香油を塗るためでした。でも
墓の入り口は、大きな石で塞いであったので、どうしたらいいか分からない
まま行ったのです。しかし行ってみると、石は取りのけてあり、中には白い
衣を着た青年が座っていて「あの方はよみがえられました。ここにはおられ
ません。」と言われたのです。その時婦人たちは喜んだ以上に恐れを感じて
帰って行ったのです。
二、最初の復活の顕現
 ここには簡単に書かれていますが、復活したイエス様は、一番最初、墓の
前で泣いていたマグダラのマリヤに、ご自身を現しなさいました。それから
他の弟子たちにも現れなさいました。聖書は、どのように復活したかは書い
ていません。隠されています。復活は、人の経験では信じられないことです
が、聖書の預言、また見た人の証言でわかります。それは、蝉の抜け殻を見
たら、蝉が抜け出たと分かるのに似ています。
三、復活の与える希望
 復活の主は、私たちそれぞれにも復活を分からせて下さいます。ウェスレ
ーは、アルダスゲートの経験で、心温かくなりました。その前と後との違い
は、死への恐れがなくなったことです。復活が分かったからです。この復活
の主が信じる私たちを復活させて下さるのです。主を賛美しましょう。
 
2017年4月9日
【イエス様の十字架】マルコ十五16~41
そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタ
ニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見
捨てになったのですか。」という意味である。マルコ15章34節

 イースターの一週間前の日曜日は、棕櫚の主日と言われ、イエス様がエル
サレム入城した日です。この週は、イエス様の受難を覚えて過ごしましょ
う。福音書は、十字架の出来事を淡々と記しています。今日開かれているみ
言葉は、三つの場面に分けることができます。
一.人々の侮辱
 ピラトが無罪と認めつつ死刑のためにイエス様を引き渡しました。ローマ
兵は、全部隊集まり、茨の冠をかぶせ、紫の上着を着せ、王様万歳とひれ伏
しました。これは皮肉です。そして葦の棒でたたいたり、唾をかけたりした
のです。十字架につけられた時、人々も、様々な侮辱の言葉や、自分を救
え、と言った言葉を浴びせました。神様の救いのご計画は人々のあざけりの
中で進んでいたのです。このあざける人々は私たちのことだと旧約聖書は言
っています。
二.十字架上のイエス様
 マルコは、イエス様の十字架上の言葉をたった一つだけ記しています。そ
れが34節です。私たちは、あれこれうまくいかなくても、これがある、と
か、いろんな人に裏切られてもこの人だけは信頼できるといった、最後の頼
みの綱があれば、生きることができます。御子イエス様にとってそれは父な
る神様でした。人々の罪を負ったイエス様は、その父からも捨てられたのが
十字架です。しかしその絶望の中で、詩篇二二篇にあるように、それでもイ
エス様は、父なる神様に信頼したのです。そして息を引き取りました。そこ
に不信=罪は入ることができなかったのです。信頼が全うされたのです。
三.百人隊長の告白
 不思議な事ですが、正面にいた百人隊長は、「この方は、本当に神の子で
あった」と告白しました。私たちも正面から十字架と向き合うとき、神の子
キリストを受け取ることができるのです。
 
2017年4月2日
【イエス様の裁判】マルコ十四53~65
「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」
マルコ14章49節

 イースターに向かいつつ、私たちの罪の身代わりであるキリストの十字架
を偲びつつ過ごしています。教はイエス様の裁判を通して、十字架の苦しみ
と主の愛に心をとめましょう。
 ゲッセマネの園で、血のような汗をしたたらせながら祈ったイエス様です
が、イスカリオテのユダの裏切りによって、捕らえられ、裁判にかけられま
した。神の御子キリストがなぜ裁判にかけられ裁かれたのでしょうか。
 イエス様の裁判は、大きく分けると、ユダヤ教による裁判とローマ帝国の
裁判に分けられます。ユダヤ人には、支配国ローマから死刑の権限が与えら
れていなかったので、そのために二回の裁判が開かれたのです。
 なぜ裁判にかけたのかを明らかにしているのは後から行われた総督ピラト
による裁判です。ユダヤ人はいろいろ訴えますが、ピラトはそれがねたみに
よると分かっていたのです。それでも群衆の声に押され、イエス様を死刑の
ために渡します。人間のねたみや罪の醜さ、恐ろしさ、人の義のいい加減さ
が現れています。
 もう一つの、先に行われた裁判は、教理的な動機を明らかにしています。
ねたみからの証言は一致しませんでした。しかし大祭司が「あなたは神の子
キリストか」と尋ねると。「私がそうだ」と答えました。大祭司は、大いに
怒りました。人間が自分を神とするのは神への冒涜だからです。つまりイエ
ス様は、御子である神、ユダヤ人の王であるので死刑にされたのです。それ
は、罪のないお方が、全ての人の罪を身代わりに負うことを表す罪状となっ
たのです。
 救い主(メシア)を待ち望みつつ、メシアが自分の考え、思い、利益と違
えば殺してしまうところに人の罪があります。神の御子として、自分の思い
よりも御子の言葉を信じ従う心でこそ、救い主を迎え入れることができるの
です。神の言葉にへりくだって聞き従いましょう。
 
 
 
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神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。