メッセージ(文責:尾﨑豪)
 
2017年3月26日
【苦しみの中で】マルコ十四32~42
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この
杯をわたしから取りのけてください。しかし、私の願うことではなく、あな
たのみこころのままを、なさってください。」マルコ14章36節

 受難説のこの時、十字架に向かわれるイエス様の歩みを心に刻みたいと思
います。イエス様は、恐れている人々に、「恐れるな」と語っておられまし
たが、ここでは、十字架を前に恐れ、おののき、悩まれたのです。イエス様
の十字架の苦しみは、ゲッセマネから始まりました。
 イエス様は「どうぞこの杯を私から取りのけてください」と祈られまし
た。杯とは、罪のないお方が、人類の罪を負って十字架にかかって死ぬこと
です。また
「私は悲しみのあまり死ぬほどです」と言われました。完全な愛の関係で結
ばれている父から捨て去られ、怒りを受けることへの悲しみと苦しみでし
た。
 「主はご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助
けることがおできになるのです」死ぬほどの苦しみを通られた主は、あなた
のその苦しみを知っていて下さいます。
 イエス様は、ご自分が祈っている間、弟子たちにも、祈っていてほしいと
言われましたが、彼らは、目をさまして祈ることができませんでした。ルカ
による福音書には、イエス様が祈っておられる時、御使いが天からイエスに
現れて力づけたとあります。
 私たちも、神様のために、そして、神様が愛しておられる誰かのために苦
しみ祈ることがあると思います。また人によってその状況は様々ですが、苦
しみの中に置かれ祈ることがあるでしょう。そしてどのように祈ったらよい
のかわからない時でも、聖霊様がうめき、私たちのためにとりなしてくださ
います。苦しみの中で主はあなたと一緒に祈っていて下さいます。
 イエス様は「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのま
まをなさってと祈られました。杯を受け取って下さったイエス様は、仕方な
く受け取ったのではなく、それはただ苦しみで終わるものではないと知って
おられ、私たちを愛して下さったからです。苦しみの中で、主はあなたを愛
して下さいます。
 神様の御心を選び取って行く時、苦しみもありますがそこに待っているの
は、神様の完全な計画の成就であり天においの喜びと賛美です。
 イエス様は自分の命よりも罪だらけの私たちを大切に思って愛して下さ
り、あなたを失いたくないと十字架にかかって命を捨てて下さいました。そ
の愛を知ってそれを神様から受け取った時にはじめて喜んで「私の願うこと
ではなく、あなたのみこころのままを」と祈ることができ、自分を捨てて、
日々自分の十字架を負ってイエス様に従うことができるようにされるので
す。
 
2017年3月19日
 
2017年3月12日
【御霊を受けた】ローマ八9~17
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではな
く、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「ア
バ、父。」と呼びます。ローマ8章15節

 今日は、教会の七つの本質の三番目、能力付与について、み言葉に聞いて
いきましょう。神様は、私たちに様々な能力(才能、賜物)を下さっていま
す。そして、その能力を用いて、世界で神の御名が崇められるように私たち
を遣わしておられます。
 イエス様は、十二弟子をお選びになったのは、そばに置き、宣教に遣わ
し、悪霊を追い出す権威を与えるためと記されています(マルコ三14.15)
。また後にイエス様は、弟子たちに聖霊をお授けになりました(ヨハネ二〇
22)。またローマ十二章、Ⅰコリ十二章、エペソ四章等には、人に与えられ
た様々な賜物について書かれています。
 これらをよく吟味し、自分の賜物を知り、主の用いていくことは、大きな
恵みです。しかし、それ以上に重要な能力(賜物)が聖徒には与えられてい
ます。それが「(天の父の)子としての身分(養子)」です。これは他を圧
倒する賜物です。またこれがあるからこそ他の賜物も生きるのです。
 では、神の子の特徴は何でしょうか。まず悪の奴隷から解放されたことで
す(1~17)。もう罪と死とに悩まされません。キリストが十字架でそれを
負って下さったのです。次に天の父を幼児のように「お父ちゃん」と呼べる
ことです。これは神の子だけの特権です。第三に、これから受ける栄光に比
べると取るに足らない(それでも大きな)苦難をも受けることです(17)。
第四に、だからキリストと共同の相続にであることです。第五に、祈ったこ
とがすべてが最善になされていること。第六だれもこのキリストの愛から引
き離せないことです。
 では、これらはどのようにして受け取ることができるのでしょうか?それ
はイエスは私たちの罪の身代わりになったことを信じ、また神の御霊に信頼
し、すべてを明け渡すことによってです。神様に信頼して、すべてをお委ね
しましょう。
 
2017年3月5日
【人手によらず】マルコ四26~34
「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に
実がはいります。」マルコ4章28節

 イエス様の話された譬えを開いていきましょう。今日開かれているのは、
種の生長についての譬えです。どのような意味があるのでしょうか。
 イエス様の譬えは、神の国について話しておられます。イエス様が、譬え
で話されたのには、意味があります。真剣に聞かない人、求めない人には、
それはありふれた話しでしかありません。しかし、真剣に聞く人、求める人
には、深く考え、悟るようになるためです。私たちもどのように聞くのかが
問われています。
 この譬えの始まりは、種を蒔く人がいるところからです。それが誰かは書
いてありません。蒔く人がいなければ始まらないのです。そして、種は、み
言葉を指し示しています。それは以前見た四つの土壌からわかります。そし
て種まきは、神様の言葉を自発的に蒔き広げているのです。
 蒔かれた種は生長します。この生長が大切なところです。種の生長は蒔い
た人にはよらないのです。極端に言えば、本来神の言葉を広めるのは信じて
いるからです、しかし信じていない人が神の言葉を話しても生長があるので
す。なぜでしょうか。それは、種そのものに命があるからです。命の性質
は、生長し変化する力があるということです。 種の生長は、蒔いた人によ
らないだけでなく、人の力にもよらないのです。水をあげたり肥料をやった
り生長を助けることはできます。でもそれだけです。人が知らなくても生長
するのです。「人手によらず」とは英語ではオートマティカリーです。「自
動的に」というこのなのです。これは種そのものの力を示しています。つま
りここでは、土地はあまり関係ないのです。
 では、どのように実を結ぶのでしょうか。それも人は知りません。しかし
順番があります。芽、苗、穂、実です。それには時間が必要です。主は、私
たちが心を開かれ、実を結ぶのを待っておられるのです。
 
2017年2月26日
【堕落と呼びかけ】創世記三章
「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるの
か。」」創世記3章9節

 創世記三章は、この世界への罪の侵入が書かれています。罪とはどういうも
のか。また神様はどのようにお取り扱っているのか聖書に聞いていきましょ
う。その前に二章に人間の創造またその働きについて書いてあります。神様
は、人を男女に創造し、エデンの園を管理し、耕す仕事を与えられました。ま
た園の中央に命の木と善悪を知る木とを置かれました。「善悪を知る木から取
って食べてはいけない。それを食べると死ぬから。」と言われました。最初の
世界は、罪と死のない世界でした。
 聖書は、悪魔(サタン)について多く語っていません。しかし天地創造の前
に造られ、神様に逆らい、永遠の苦しみに定められた存在であることがわかり
ます。悪魔は、初めから偽り者です(ヨハ八44)。

 この悪魔が、へびを使って誘惑しました。善悪を知る木の実を食べると神の
ようになる、決して死なないと言いました。真実と偽りを混ぜて巧みにだまし
たのです。そしてアダムとエバは、神様の命令を破ったのです。その時に、人
は堕落して、罪と死とが入ったのです。罪とは、神の被造物という置かれた立
場を超えて、神様に不従順であることが本質です。そしてその罪の結果、神の
命が失われ、死が入ってきたのです。人は、神との関係が壊れ隠れたのです。
 では、神様との従順な関係を失った人間を神様はどのように扱われたのでし
ょうか。神様は、「あなたはどこにいるのか」と語りかけています。全能の神
様です。どこにいるのかはご存知です。なぜ関係が壊れているのか、隠れてい
るのか聞いているのです。アダムもエバは答えましたが、罪を認めず、責任転
嫁して、言い逃れしようとしました。
 神様は、そのような人に呪いを置きます。しかしその中に罪と死からの救い
の道を約束して下さいました(15節)。
 神様は今も神様から迷い出た人々に「どこにいるのか」と問いかけていま
す。自分の罪を認め帰るようにと語りかけているのです。応答しましょう。
 
2017年2月19日
【非常によかった】創世記一1~二3
「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。そ
れは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。
創世記1章31節

 今日開かれているのは、聖書の一番最初の天地創造のところです。神様の言
葉に心を開いて聞きましょう。
 聖書は、はじめに神様が天地を創造されたと証言しています。世界には、様
々な違った教え考え方もありますが聖書は、神が造ったと言っているのです。
天地宇宙を造られるというお方は、時間や空間を超え、宇宙の外におられるお
方です。これは科学での証明を超えています。
 このお方が宇宙を造られたのなら、他に神と呼ばれる存在はありません。す
べては創造主によって造られたものだからです。また現代日本では、進化論が
真理として教えられていますが、仮説に過ぎません。ノーベル賞を受賞した山
中教授は、将来創造論が主流かも知れないと言っています。進化論ではすべて
が偶然の結果であると言います。結果には原因があります。その原因も偶然の
結果です。結果はかならず原因があります。これをたどっていっても永遠に最
初の原因にたどり着くことはできません。もし最初の原因がなければすべての
結果は存在しないのです。今は存在しないことになります。
 今一三七億光年先が見えるようになりました。宇宙のはじまりが見えるかと
科学者は期待しました。しかし見えたのは銀河系などすでにできあがった宇宙
でした。
 この箇所で、繰り返されている言葉があります。「非常によかた。」神様は
この世界をただ良いのではなく、非常に良いものとして創造されたのです。後
の罪と堕落が入ります。でも神様は、この世界を非常に良いものとして造り、
愛し、喜んでいるのです。しかし偶然の世界には存在の目的や意味はありませ
ん。無意味です。空しいのです。神様は最高に良いものとして私たちを造り喜
んでいるのです。だから私たちは喜んで生きることができるのです。
 
2017年2月12日
【愛にとどまる】ヨハネ十五7~19
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの
愛の中にとどまりなさい。」ヨハネ15章9節

 今日開かれているみ言葉は、ヨハネが記していますが、十字架の直前に弟子
達に語られた言葉です。私たちは、神の国に参加する者であることを覚えつつ
み言葉に聞いていきましょう。
 神の国に参加するということはどういうことでしょうか。ルターは、万民祭
司と言いました。それは、罪を悔い改めて神の赦しを得るのに、クリスチャン
はだれでもとりなすことができ、救いを渡すことができるということです。こ
の当時は、聖職者にしかそれは赦されていなかったのです。
 ではどのようにして、祭司の働き、主の働きに参加できるのでしょうか。そ
れは私たちが御子イエス様の愛の中にとどまっていることによってです。御子
は、いつも父なる神様の愛の中にとどまっていたからです。そして互いに愛し
なさいと言われたのです。その愛とは、友のために命を捨てる愛です。ともす
ると私たちはこれはイエス様の愛だと思います。でもイエス様は、ご自身がそ
うしたように、私たちにそのような愛で生きるようにと言っておられます。し
かし私たちは、たとえそのような愛を受けても、そのように生きられないので
はないでしょうか。私たちは、どんな愛を受けられるかと消費者のように、お
世話を受けるのを待っているかも知れません。その逆に、聖書の愛とは、最善
を与えていくことであると言っているのです。これは私たちの考えと逆のもの
です。天国の文化です。だからそのように生きるためには、いつも主イエスと
つながり、命の交わりを持っている必要があるのです。
 このような歩みは、永遠の実を結びます。また私たちの思いをはるかに超え
た神のみわざを見させていただくことができるのです。
 では私たちはどこで神の国に参加するのでしょうか。教会の中というよりも
外、あなたが今遣わされている家族、友人、職場、また弱さを覚える人々の中
ではないでしょうか。
 
2017年2月5日
【四つの土壌】マルコ四1~20
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍
の実を結ぶ人たちです。」マルコ4章20節

 今日の聖書箇所は、種まきの譬えのです。譬話は、聞こうとしないとわから
ないのですが、聞こうとすると神の国をより深く理解する助けになります。
 最初、イエス様は群衆には、四つの土壌に種が蒔かれてそれがどうなったか
だけを話されました。後で弟子たちがその意味を尋ねたので、その意味を話さ
れたのです。
 種はみ言葉です。神様の言葉、あるいは聖書の言葉を指しています。四つの
土壌は、人の心です。同じみ言葉でも、人の心の状態によって結果が変わって
くるのです。
 一つ目の種は、道ばたに落ちました。パレスチナ地方の種まきではよくある
ことです。それは鳥が来て食べてしまいました。心が開かれていないと、命の
み言葉を聞いても、それを受け入れず、サタンが奪い去ってしまうのです。
 二つめは、岩地に落ちました。芽が出ますが、根が深く張れないので、水が
なくなるとすぐに枯れてしまいました。最初は喜んでみ言葉を受け入れても、
根を張らないので、み言葉のために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいて
しまうのです。
 三つめは、いばらの中に落ちました。成長しましたが、いばらに阻まれ、実
を結びませんでした。それは、み言葉を聞いてはいますが、世の心遣いや、富
の惑わし、いろいろな欲望のために、み言葉をふさぐので、実を結ばない心で
す。
 四つめは、良い地に落ちました。み言葉を受け入れ、成長し、三十倍、六十
倍、百倍の実を結びました。
 私たちの心はどうでしょうか。神の言葉に信頼し、困難や迫害を乗り越え、
世の富や欲望を主の十字架につけ、良い心でみ言葉を聞き、忍耐をもって実を
結びましょう。
 
2017年1月29日
【隣人を愛せよ】マルコ十二28~34
「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主
は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くし
て、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあな
た自身のように愛せよ。』」マルコ12章29~31節

 このみ言葉の三回目です。これまで、神様を愛すること、自分を愛すること
をみてきました。今日は、「隣人を愛せよ」をみていきます。
 これまでも見てきたことですが、聖書が示す愛するということは、相手にと
っての最善だけを考えて、自分を顧みずに相手に与えることです。悪魔は獲得
することだけを考えますが、神様は、与えるお方です。愛せよとは、命令で
す。ですから従順に従うべきことです。しかし自発的でない愛は愛ではありま
せん。自発的であって初めて可能な命令です。 隣人とは誰でしょうか。第一
の意味は、関係の近い信仰者と言えます。しかしイエス様の良きサマリヤ人の
譬えや、敵を愛せよというメッセージ等から、関わるすべての人であり、そこ
には敵対する人々も含まれています。
 ではなぜ主は、なぜ私たちに隣人を愛せよと命じられるのでしょうか。ま
ず、神様が愛であるからです。私たちはこの神様に造られました。そして自分
勝手に神様に敵対していた時も、神様は私たちを愛しておられたからです。次
に、主が私たちの隣人を愛しておられるからです。キリストは彼のためにも死
なれたのです。私たちは元々キリストにあって一つだからです。もう一つの理
由は、愛することによって私たちは祝福されるからです。受けるより与える方
が幸いなのです。もし私たちが、愛する代わりに憎むなら、私たちは憎しみに
捕らわれて自由を失うのです。愛する時自由になります。
 しかし愛するということは簡単ではありません。自分のことで精一杯と感じ
たり、もっと豊かになったらと考えるでしょう。自分の完成を待つなら永久に
できません。与える時に、主は私たちをより豊かにし、完成へと近づかせて下
さいます。
 主に信頼し、愛を実践しましょう。
 
2017年1月22日
【あなたのように】マルコ十二28~34
「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主
は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くし
て、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあな
た自身のように愛せよ。』」マルコ12章19~31節

 今日は、黄金律の二回目です。教会の本質の「関係」についての二回目で
す。「あなた自身のように」愛せよということを見ていきます。
 隣人を愛するのですが、自分のように愛せよと言われています。そこでは、
自分を愛することが前提となっています。人間は、本能的に自分を愛し、優先
するように、また自分を守るようにできています。自分を愛するのは、言うま
でもないことのように感じますが、果たして私たちは、本当に自分を愛してい
るでしょうか。またその自己愛は健全なものでしょうか。
 ナルシストという言葉がありますが、自分を愛するあまり、自分に溺れると
したら、また隣人との関係を築けないとしたら健全ではありません。イエス様
は、自分のように愛するということは、神様を愛することの次に置かれまし
た。創造主の愛を受けること、その創造主を愛し応えることが、自己愛に優先
される時、自分を愛しすぎずある意味客観的に、しかし愛を受ける存在として
ありのままに愛することができます。
 また逆に、自分を愛せないで、自分が嫌い、あるいは自分のある部分をイヤ
だったりすることは多々あります。すると隣人を愛することも難しくなりま
す。
 自分を愛する根拠はどこにあるのでしょうか。それは、創造主が、あなたは
良い、高価で尊い(イザヤ四三4)と言われていることです。神様に愛されて
いることが根拠です。自分や周りの評判ではありません。しかし悪魔は、あな
たには価値がないと偽りを吹き込んでいます。決してそれを信じてはいけませ
ん。また私たちの失敗、罪、あるいは人の悪口非難、暴力等は自分の価値を疑
わせます。しかし神様は、失敗した人をそのままで愛してくださるのです。神
様に立ち帰り、偽りを捨て、神様の愛にとどまると自分を愛せるのです。
 
2017年1月15日
【義とされたのは】ルカ十八9~14
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるから
です。」ルカ18章14節

 今日は、イエス様の譬話です。これは、自分を義人だと自任し、多の人を見
下している人々に対して、イエス様が話された譬えです。
 パリサイ人は胸をはって、自分の正しいことを感謝して祈りました。取税人
は、頭を垂れて、罪深い私をあわれんで下さいとお祈りしました。神様に義と
された人、つまり祈りが聞かれ、救いを与えられたのはパリサイ人ではなく、
取税人だったのです。
 パリサイ人の祈りはどうだったのでしょうか。彼は、他の人のように、ゆす
ったり、不正をしたり、姦淫をしたりしない者、またこの取税人のような人で
ないことを感謝しました。さらに、週に二度断食、十分の一の献げ物をしてい
ることなどを祈りました。とても立派な人です。人々も尊敬していました。そ
れなのになぜ神様に受け入れられなかったのでしょうか。神様が人を義とする
基準がわかっていませんでした。彼は、自分の行いによって自分を義としたの
です。また、他の人と比べて自分を義としたのです。ルターは、「罪人にして
義人、義人にして罪人」と言いました。基準は、全く汚れのない聖なる神様で
す。どんなに自分の義を主張しても、正しい行いを主張しても、義とされませ
ん。
 では、取税人の祈りはどうだったのでしょうか。彼は、主の宮から遠くに離
れて立ち、目を天に向けようともしないで、自分の胸をたたいて「神様、こん
な罪人の私をあわれんで下さい。」と祈りました。取税人は、知恵もありまし
たが、ローマのためにお金を集めるので、人々から嫌われ、蔑まれていまし
た。しかし、聖なる神様に信頼しました。彼は、自分の心の底に染みついた罪
を感じ、心から悔い改めて祈ったのです。聖なる天の神様は、そのようなあり
方を受け入れ、祈りを聞き入れ、罪を赦されたのです。この罪の赦しのために
御子イエス・キリストを十字架ですべての人の罪の身代わりとされたのです。
 私たちも、義なる神様を信頼し、心砕かれ、へりくだって悔い改めましょ
う。
 
2017年1月8日
【最大の戒めは】マルコ十二28~34
「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主
は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くし
て、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあな
た自身のように愛せよ。』」マルコ12章29~31節

 今日の聖書は、教会の七つの本質(1.関係、2.参加、3.能力付与、
4.イエス中心、5.伝道と増殖、6.ネットワーク、7.適応可能な構造)
の関係についてです。その中で、まず神様との関係について、み言葉に聞いて
いきましょう。
 今日の聖書の言葉は、イエス様が、聖書の戒めで一番大切なものとして答え
られたものです。ここに、神、自分、隣人への愛が書かれています。今日は、
神様への愛を見ていきます。
 あなたの神である主を愛しなさいと言われている前に、前提があります。そ
れは、主は、唯一のお方であるということです。人間には、多くの宗教があり
ますが、それらは人間が上を目指すものや自然を崇拝するものです。聖書は、
この天地宇宙は、主である神様によって創造されたと言っています。神の存在
を認めない考えもありますが、そこではすべては偶然で何の意図や目的もあり
ません。人間の存在の意味は見出せません。聖書は、創造者の意図があり、す
べてを良いものとして造られましたと言っています。初めに神様が、人を愛し
ている(第一ヨハネ四章)という前提があって、神である主を愛せよと命じら
れているのです。
 最も大切な戒めは、「主を愛せよ」という命令です。愛されているから愛し
ないさいという命令です。しかし愛するということは、心を伴わないでするこ
とはできません。主の愛に応え、自発的に愛することがこの戒めです。
 「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして」ということ
は、人の存在の根幹である霊において、精神や意志、知識、力といった全存在
をかけてということです。
 主は最も親密な人格関係を私たちに注ぎ、また私たちにも求めているので
す。礼拝、聖書、祈り等を優先し、主との愛を深めていきましょう。
 
2017年1月1日
【主は羊飼い】詩篇二三篇
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あな
たが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰め
です。詩篇二三篇4節

 新年にあたって、詩篇二三篇を開きましょう。この詩は、多くの人が暗唱し
ている有名な詩です。表題には、ダビデの歌とあります。ダビデは、羊飼いで
した。羊を飼いながら、羊と羊飼いの関係、主なる神様と自分との関係を思い
巡らしたことでしょう。またこの詩から後のダビデの様々な経験を垣間見るこ
ともできます。
 「主」という神様の名前は、「あってあるもの」という意味です。言わば存
在の根源であるお方であることを表しています。そのお方が、私を導いて下さ
る方です。
一、導き養うお方(1,2節)
 主は、私たちに必要なものをすべてご存知で満たして下さいます。羊飼い
は、ユダヤの荒野の中で良い草のあるところ、よい水場のあるところを知り、
導き、羊に十分な栄養を与えて養います。主も私たちに必要な身体の必要、霊
の糧をご存知で、欠けるところなく与えて下さいます。
一、守って下さるお方(3,4節)
 それでも羊は時に、弱って病気になったり、怪我をしたり、道を間違えたり
ます。そんな時には、手当をしたり、探し出して、羊を守るのです。私たち
も、時に間違った道に進み、魂が弱りますが、守ります。主なる神様が一緒な
ら、死の陰の谷を歩いても、恐れません。生き返らせる力のあるお方だからで
す。
一、祝福するお方(5,6節))
 主は、私たちが敵に囲まれ八方塞がりの時にも宴会を開いて下さるお方で
す。主が味方です。恐れはありません。この地上でも私たちを祝福し、永遠の
住まいに招いて下さるお方です。
 この祝福をいただくのに必要なことは、羊飼いである主に信頼し、聞き従う
ことです。主に信頼しましょう。
 
2016年12月25日
【博士たちの喜び】マタイ二1~12
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリ
ヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、
黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。マタイ2章10・11節

 今日は、クリスマスです。イエス・キリストがこの世に来られ、誕生された
ことをお祝いする日です。聖書には、羊飼い達と博士たちとが、キリストの誕
を生お祝いしたことが記されています。今日はこの博士たちの訪問のみ言葉に
聞いていきましょう。
 まず、博士たちとはどんな人々だったのでしょうか。推測になりますが、東
方とは恐らく文明の進んだバビロンやペルシャの当たりを指しています。そこ
で星の動きを観察したり、様々な学問を学び、あるいは、国政に助言を与えた
人々であるかも知れません。エステル記に出てくるような、くじ引きや星占い
をしていたとも言われています。(神様は、占いは禁じています。)彼らは、
特別な星を見つけました。何かと調べて、ユダヤの王(2節)=キリスト(4節)の
誕生を知ったのです。調べた書物は、キリストの時について預言したダニエル
書かも知れません。ダニエル書は、悔い改めととりなしの祈りの書でもありま
す。
 今も昔も、どんなに文明が栄え、食物が豊かになったとしても、科学技術が
発達したとしても、人の性質そのものは変わらず、多くの問題を抱えていま
す。それを変えることのできる救い主を期待してきたのではないでしょうか。
 しかし博士たちの訪問は、時のヘロデ大王やエルサレムの人々を不安にしま
した。他の王がいるか、また自分たちの地位や生活を心配したのです。救い主
の預言やその星は、祭司たちを始めすべての人が知ったりみたりすることので
きるものです。しかしそれを求め、神様の前にへりくだらない人は、キリスト
が来ても気づきません。私たちはどうでしょうか。
 博士たちは、星が先に進んでいるのを見つけて喜びました。そして遂に救い
主に会い、喜んで礼拝し、贈り物を献げました。私たちも主の前にへりくだ
り、救い主をお迎えしましょう。
 
2016年12月18日
【あなたがたのために】ルカ二1~20
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。ルカ2章11節

 今日は、最初のクリスマス、キリスト誕生の出来事を聖書から見ていきまし
ょう。
 聖書は、淡々とその出来事を書いています。その中に様々な神様の働きを見
ることができます。預言を成就するために、時のローマ皇帝をも動かしている
のです。それでイエス様はベツレヘムでお生まれなさったのです。
 では、その時だれに救い主の誕生の知らせは届けられたのでしょうか。それ
は、王や貴族ではなく、夜、野宿をしている羊飼い達でした。彼らは、律法を
守ることのできない地の民と言われ蔑まれていました。天の民ではない滅びる
者という意味です。しかし彼らが養う羊は、衣食といった生活に欠かせないも
のでした。そればかりではなく、多くの羊は、神様への供え物として献げられ
ていたのです。
 羊飼い達は、御使いの栄光に照らされて恐れました。そこで告げられたの
が、救い主の誕生です。ここに「あなたがたのために」と言われています。人
から蔑まれている羊飼い達のために救い主は来られたのです。それは、私たち
のためでもあります。もう一つのみ告げは、今日、その救い主に会うというこ
とでした。そして天の軍勢の賛美を聞いたのです。
 その後羊飼い達はどうしたでしょうか。彼らは、まずその知らせを喜びまし
た。信じたのです。信じたなら行動します。救い主に会いに出かけました。そ
して会ったのです。幼子を礼拝しました。そして御使いの告げた通りであった
こと、救い主にお会いした喜びを人々に話したのです。
 彼らのその後の生活は変わらなかったでしょう。しかし様々な蔑みを超え
て、救いの喜びが心にある生涯を送ったことでしょう。救い主イエス様は、す
べての人々のために、そしてあなたのために、罪の赦し、癒しのために、神の
小羊として来られたのです。イエス様を心にお迎えし、恵みの救いを受け取り
ましょう。
 
2016年12月11日
【ヨセフへの告知】マタイ一18~25
ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入
れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名を
イエスとつけた。マタイ1章24節25節

 クリスマスを待ち望みつつ過ごしていますが、今日はヨセフへの告知を通し
て、聖書のみ言葉に聞いていきましょう。
 まずヨセフという人はどんな人だったのでしょう。この箇所の前には、系図
が出て来ます。ヨセフはダビデ王の子孫子孫でした。しかし彼は大工であり、
普通の市民として生活していました。また彼は正しい人でした。ユダヤ人であ
り、神を恐れて律法を守り生活していました。すでにマリヤと婚約していまし
た。この当時ユダヤ人は、婚約は結婚と同じ重みを持つと考えていました。ロ
ーマやギリシャでは、結婚外の性交渉や離婚など当たり前のように起こってい
ましたが、律法に厳格であったと思われます。そしてヨセフはとても愛情に満
ちていた人でした。
 ところがマリヤが聖霊によって、神の子を宿します。それは人には想像すら
できないことでした。普通に考えればマリヤの不貞です。ヨセフとマリヤはど
のように話し合ったのでしょうか。話し合えたのでしょうか。信じ合えたので
しょうか。
 ヨセフは悩みの中で、マリヤがさらし者にならないように密かに別れようと
考えたのでした。裏切った者を告発しないのです。それどころか、婚約中に子
を宿らせ離縁したその非難はヨセフが受けることになるのです。とても不思議
な決断です。なぜそうしたのでしょうか。
 そのヨセフに夜の夢で御使いが現れました。マリヤの宿しているのは聖霊に
よる、彼は民を罪から救う者になる、マリヤを妻として迎えなさい、生まれる
子をイエスと名付けなさい、と告げました。ヨセフは、この夢を信仰をもって
受け取りました。マタイはこのことをイザヤ書のインマヌエル預言の成就と示
しています。
 ヨセフは、マリヤの不義と誹り(と思われたこと)を負うと決めたことによ
って、天の父が、御子キリストを送るみ思いを知ったのです。
 主は、私たちが置かれているそれぞれの場所で、主のみ思いを知るようにと
願っているのです。
 
2016年12月4日
【約束の預言者】申命十八15~22
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者
を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命
じることをみな、彼らに告げる。申命記18章18節

 今日は、申命記から救い主(メシヤ)について預言のところが開かれていま
す。不思議なことに、旧約聖書の三九巻どこをとっても救い主についての預言
が記されています。それはイエス・キリストによって成就しています。
 申命記はモーセ五書の最後です。「申」とは再び、もう一度という意味で、
出エジプトの民が約束の地に入る前に、もう一度神様の命令を確認しているこ
とを記しています。
 ここには、モーセの後を継ぐ預言者を起こすと約束されています。それは、
具体的に実際的には、ヨシュアのことを指しています。彼が、イスラエルの民
を約束のカナンへと導き入れました。
 ところでこのお言葉を新約聖書で見るとどう捕らえているのでしょうか。使
徒の働き三22で、ペテロが、この御言葉を解き明かしています。そして神様が
起こそうと言われている預言者こそ、イエス・キリストを指していると言って
いるのです。そしてヨシュアが民を約束の地に導いたように、イエス様は、私
たちを悪から立ち帰らせ、祝福へと導くと言っているのです。
 聖書は、イエス・キリストが来られたのは、決して偶然ではなく、初めから
神様のご計画であり、預言の通りに来られたと言っているのです。聖書を見る
とその場所、時、働き、ご性質などが預言されて準備されていました。
 モーセに戻ると、この申命記のお言葉をいただいた時のことが出エジプト記
三二、三三章に書かれています。神様とモーセを見失った民が、偶像を造り礼
拝したので、神様は民を滅ぼすと言われました。その時モーセは、天の命の書
をかけて民をとりなしたのです。それはキリストを身代わりとして人類を救お
うとする天の父のみ心を表す出来事でした。
 天の神様は、私たちにも父のみ心を知って欲しいと願っておられます。イエ
ス様を心にお迎えし、本当のクリスマスを迎えましょう。
 
2016年11月27日
【神の子とする聖霊】ローマ八12~17
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、
子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、
父。」と呼びます。ローマ8章15節

 今日開かれているローマ人への手紙八章は、御霊に導かれている人はどんな
人であるかを示しています。救われた者のあり方、歩みをしっかりと握りまし
ょう。
 御霊に導かれている人は、神の子どもです(14節)。神の子どもは、「イエ
スは主です。」(Ⅰコリ十二3)と告白する人です。「主」とは、「主人」と
いう意味です。自分で自分を治めているのではなく、主が私を治めていますと
主に対する信頼をもって告白する人のことです。それは、自分の力ではいうこ
とのできないことであり、神様の祝福です。
 神の子どもである人は、肉に従って生きているのでなく、からだの働きを殺
している人です(13節)。それは生まれたままの、罪の性質に死んだということ
を意味しています。肉は御霊に反するからです。だから御霊によって生きるこ
とができるのです。ウィルバーフォースが回心した時、性質は変わらないが習
慣が変わったと言われました。
 神の子どもは、天の父を「アバ」と呼びます。幼児が父親を呼ぶ呼び方で
す。「父ちゃん」といったところです。子供のように信頼して呼ぶことができ
ます。そして何でも聞いていてくれると知っています。
 また神の子どもは、苦難を共にします(17節)。父親に信頼するので、苦難
を受けることができるのです。信頼していない人は逃げ出します。
 そして神の子どもは、神の相続人です。天の父の持っている栄光を、キリス
トの復活の力を相続することを知っています。
 あなたは神の子どもが受ける祝福を知っているでしょうか。忘れて放棄して
いないでしょうか。御霊によって、神の子どもであることを自覚しましょう。
歩みましょう。
 
2016年11月20日
【王となったダビデ】Ⅱサムエル七章
あなたのおことばはまことです。あなたは、このしもべに、この良いことを約
束してくださいました。Ⅱサムエル7章28節

 今日は、ダビデが遂に王様になったところが開かれています。ダビデを殺そ
うとしていたサウル王は、ペリシテ人との戦いで、王子たちと共に戦死してし
まいました。それから、イスラエルの部族の代表者たちは皆でダビデのところ
に来ました。そしてこう言ったのです。
 「ダビデさん、イスラエル中の民は、あなたが、神様から油注がれた王であ
ることを知っています。どうぞ私たちの王様になって下さい。」そしてダビデ
は、遂に、神様の約束の通りに王に選ばれたのです。
 ダビデは、王様になって、契約の箱を首都エルサレムに迎え入れました。そ
れは神様の臨在、あがないの象徴です。それまで粗末に扱われていましたが、
これからは、創造主を大切にするということです。
 ダビデ王は、神殿も建てたいと思いました。でも神様は、預言者ナタンを通
して、「あなたが私の家を建てるのか。私は、人の作ったものに収まりきるも
のではない。そうではなく、私が、あなたの家を建てるのだ。あなたの子、子
孫を王として立て、永遠の王国を建てる。」とおっしゃいました。ダビデはあ
まりにも大きな約束にびっくりしました。
 そして聖所で神様を礼拝しました。少年ダビデを選び油注がれたこと、ゴリ
アテ等あらゆる危機から救い出して下さったこと、そしてこのすばらしい約束
を感謝して主をほめたたえたのです。
 ダビデはなぜ祝福されたのでしょうか。ただ選ばれたからではありません。
もうダメだ、死んだ!と思う時にも神様に信頼したからです。そして羊を飼う
日常の中で、忠実であったからです。神様に信頼して、自分で王位を奪うので
はなく、待ち続けたからです。
 永遠の王国を建てる約束。それはただの子孫ではなく、救い主イエス様によ
る神の国を指しています。
 神様は、今も、主に信頼する私たちを祝福して、神の国を受け継がせてくだ
さいます。感謝しましょう。
 
2016年11月13日
【新しい人を着て】コロサイ三1~11
あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着た
のです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の
知識に至るのです。コロサイ3章9・10節

 私たちの教会は教会の七つの本質に立っています。その中心は、イエス様中
心です。教会は、牧師や役員など人中心ではないということです。今日の聖書
箇所からこのことを見ていきましょう。
 この聖句では、イエスキリストを信じる生き方を、服を着ることに例えてい
ます。キリストを信じる前の古い人という服を脱ぎ捨てて、キリストという新
しい人を着るといっています。
 それは、どういうことでしょうか。まず、服を着替えるその人自身は、変わ
らないのです。その人の存在そのものがなくなったり、変わったりするのでは
ないということです。
 もう一つのことは、私たちは新しい服を自分で作り出すのではないというこ
とです。その服は、すでにキリストによって用意されています。十字架の血汐
で洗われた白い服です。私たちはこれを作り出すことはできません。ある人
は、一生懸命作ろうとしています。ただ用意されているものを着ればいいので
す。
 「救い」(贖う)という意味には「覆う」という意味があります。ノアが箱
船を造った時、水が入らないようにヤニで覆いました。それが同じ語源をもっ
た言葉です。私たちを救うとは、私たちを覆って下さることです。
 どのようにキリストを着るのでしょうか。その時私たちは、古い性質の服を
脱ぎ捨てます。それは古い私は死んだ、キリストが生きていると認める事です
(1~4)。認めたそのように生活することです。自分の力でそうするのではな
く、すでに新しい服を着ているからそうするのです。そして、赦し合うので
す。その上に愛を着ます(14)。また日々主を賛美し、礼拝することによって、
しっかりとキリストを着ることができるのです。
 
2016年11月6日
【赦されない罪は】マルコ三20~35
しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定めら
れます。マルコ3章29節

 今日開かれている聖書箇所は、ベルゼブル論争と言われます。節は節も一緒
に心にとめる必要があります。聖書のみ言葉にしっかり聞いて、罪の赦しにあ
ずかっていきましょう。
 イエス様が、宣教の働きをしていると、そこに宗教的な権威をもった律法学
者たちがやってきました。そして、「イエスは、ベルゼブル、つまり悪霊ども
のかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言ったのです。イエス
様は、二つの譬えを語り、ベルゼブルの力ではなく、聖霊の力によって追い出
していることを示されました。
 そして、「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦し
ていただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただ
けます。」28節そして29節を言われたのです。
 聖書は、どんな罪も神を汚す言葉も赦されると言っています。でも赦されな
い罪もあると言っています。それは、聖霊を汚す罪です。なぜでしょうか。ど
う違うのでしょうか。
 聖霊の働きの一つは、罪と義とさばきとについて、人々の目を開くことで
す。(ヨハネ十四9)。人々は自分の本当の姿に気づくのです。もう一つの働
きは、「イエスは主です」と認めさせることです(Ⅰコリント十二3)。も
し、神の聖霊を汚し、悪霊のわざであるというなら、罪を悔い改め、イエス様
を救い主として受け入れることはできません。だから、その罪は赦されず、永
遠の滅びに至るのです。大変厳粛なことです。私たちは、聖霊の働きを認め、
素直な心で、福音を受け入れましょう。
 どんな罪を犯した者でも、父なる神、子なる神、聖霊なる神の前にへりくだ
り、悔い改め、身代わりの十字架、赦しを信じるならその人は赦されるので
す。
 
2016年10月30日
【生ける石】Ⅰペテ二1~10
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊
い、生ける石です。ペテロ第一2章4節

 10月31日は何の日でしょうか。宗教改革記念日です。一五一七年(来年で五
〇〇年)、ルターが教会の扉に九五カ条の提題を貼ったのがきっかけとなりま
した。ルターは、恵みのみ、聖書のみ、万民祭司の三つを掲げました。聖書に
基づく救いに立ち返ったことを覚えつつ、み言葉に聞いていきましょう。
 ルターは、聖書に基づき、贖宥状(いわゆる免罪符)や難行苦行による救い
を否定しました。宗教裁判にかけられても、死刑になるとわかっていても撤回
できませんでした。
 今日開かれているペテロの手紙は、ネロ皇帝の迫害の最中で書かれたと言わ
れています。ペテロは、危機を感じつて、聖徒を励まし、数年後には、殉教し
ました。
 では、このキリストはどんな方なのでしょうか。ここには「人に捨てられた
石」また「つまずきの石、妨げの石」(8節)とあります。聖書のみ言葉に従
わない人には、つまずきなのです。そしてキリストを邪魔者として排除したの
です。しかし、聖書を見るとキリストは約束の救い主です。私たちのすべての
罪、傷を代わりに負って十字架で苦しみを受け、死なれました。人は捨てたの
ですが、天地の造り主は、御子キリストを「尊い、生ける石」また「選ばれた
石、尊い礎石」(6節)とされたのです。御子を信じる者は、皆、罪が赦さ
れ、救われるのです。(エペソ二8、9、)
 ところで、聖書は、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられ
なさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれ
る霊のいけにえをささげなさい。」(5節)と言っています。私たち一人一人
も生ける石として、キリストに生き、霊の家を建て上げられ、また祭司とし
て、人々をとりなし、救いへと導くように召されているのです。(万民祭司)
み言葉に信じ従いましょう。
 
2016年10月23日
【何が見えるか】Ⅱ列王六8~23
そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるよ
うにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なん
と、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
列王記第二6章17節

 先週のみ言葉の中に、見えるために目薬を買いなさいとみ言葉がありまし
た。今日は、私たちの目が開かれると何が見えるか、どうしたら見えるように
なるか、預言者エリシャの記事から見ていきましょう。
 アラムの王様は、イスラエルを略奪するための策略がことごとく裏をかかれ
るので、家来の中にスパイがいると思い怒りました。しかし、預言者エリシャ
が、アラム軍の作戦を神様から教えられて、それをイスラエルの王様に告げて
いることを知りました。それでエリシャのいるアドラムの町を夜のうちに大軍
で包囲したのです。
 エリシャに仕える若い者は、朝早く起きて、敵の大軍を見て慌てました。エ
リシャは、少しも慌てず、味方は敵の大軍よりも多いと言って、17節のように
祈ったのです。霊の目が開かれた若い者は、神の大軍を見て驚いたのです。
 聖書の世界観を見ると、問題がないのが良いとは限りません。問題がないの
は、問題が隠れているかも知れません。わざわざ問題を起こす必要はありませ
ん。しかし、神様は、しばしば私たちの問題を通して、私たちの眠っている信
仰を揺り起こし、霊の目を開いてくださいます。
 若い者は、最初、なぜ火の馬と宣社が見えなかったのでしょうか。それはこ
の世の現実に目を(心を)奪われていたからです。また悪魔は私たちの目を閉
ざそうとしているからです。そして私たちは自分で聖書の世界を見ようとしな
ければ見えません。
 私たちが見えるようになるには、神の愛を信じ、聖書のみ言葉、つまり、キ
リストの十字架による赦し、傷の癒しを信じることです.現実に見える事実以
上に神様に信頼するなら、神様は、私たちの味方であり、誰も神様に勝つこと
はできないのです。
 
2016年10月16日
【心を開いて】黙示録三14~21
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸
をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼
もわたしとともに食事をする。ヨハネ黙示録3章20節

 今日は黙示録の七番目、最後の教会への主の言葉に、耳を傾けていきまし
ょう。
 主は、ご自身を「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られた
ものの根源であるお方」と言われました。
 ラオデキヤの教会にも書かれていない特色があります。それは、フィラデ
ルフィアの教会と反対で、ほめ言葉が一つもないのです。ラオデキヤは、と
ても裕福な町であったと言われます。でも神様の前に賞賛されることがない
とは、何と惨めなことでしょう。イエス様は、この教会を、熱くもなく冷た
くもないので吐き出そうと言っておられるのです。
 ラオデキヤの教会は、自分では、豊か、富んでいる、乏しいものは何もな
いと思っていました。でもイエス様から見ると、みじめで、あわれで、貧し
くて、盲目で、裸のものであったのです。ラオデキヤの自慢は、黒光りする
羊毛でした。また目薬を世界に売っていました。でもそれは世の富みに過ぎ
なかったのです。
 イエス様は、イエス様から非で精錬された金を買いなさい、白い衣を買い
なさい、目薬を買いなさいと言われました。白い衣は、イエス様の十字架の
血汐で洗われ白くなるのです。
 霊の目の見えない彼らに、イエス様は、心の戸をノックしておられるので
す。その音を声を聞いて、戸を開けるなら、イエス様は、入って食事を共に
して、命の交わりを持つことができるのです。
 現代の日本、厳しい生活かもしれません。でも世界で見ると大金持ちで
す。私たちの信仰はどうでしょうか。この世の富で、永遠の命は買えませ
ん。富や計算に心を奪われ、真実な心を失っていないでしょうか。キリスト
の命につながる他に、命への道はありません。悔い改めの機会を無駄にして
はなりません。
 
2016年10月9日
【忍耐の教会】黙示録三7~13
あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地
上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、
あなたを守ろう。ヨハネ黙示録3章10節

 今日は、黙示録の六番目の教会を見ていきましょう。七つの教会は、実際
のあった教会ですが、あらゆる時代あらゆる地域の教会の特色を表している
と言われています。
 六番目の教会は、フィラデルフィヤです。兄弟愛という意味の教会です。
サルデス教会よりもさらに内陸にあったようです。
 この教会の特徴は何でしょうか。この教会は、少ししか力のない教会でし
た。小さく弱い教会です。でも神様は小さく弱い者を大切にされるお方で
す。小さい教会でしたが、主の言葉を守り、主の名を否まない教会でした。
簡単に書かれていますが、これは並大抵のことではありません。自分に都合
のいいことだけを守ったのではありません。主を基準として守ったのです。
様々な迫害がある中で、イエスは主ですと告白し続けていったのです。それ
はいつもイエス様につながり、十字架から流れる命で生かされていたからで
す。イエス様は、人々の前で私を拒まない人を、天において父の前で拒まな
いと言われます。またこの教会は忍耐する教会でした。悪魔の攻撃は、短い
とは限りません。くり返しくり返しなされます。忍耐し続けたのです。なぜ
そのような試練があるのでしょうか。試練によって、真理が確かなことがは
っきりするからです。
 この教会には、もう一つの特徴があります。それは書かれていないことで
す。イエス様から何も非難されていないということです。何とすばらしいこ
とでしょうか。他の五つの教会が、立派に見える教会が非難されているので
す。主は来臨のときに、霊と心と身体とを完全に守って下さるでしょう(Ⅰ
テサ五)。この教会は、新しい聖所を支える柱となると約束されているので
す。
 私たちの教会も小さいかもしれません。しかし主は、私たちが忍耐をもっ
てみ言葉を守り、主の名を否まないことを喜んで下さっています。主の命に
生かされて歩みましょう。
 
2016年10月2日
【弟子の任命】マルコ三13~19
そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼
らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであっ
た。マルコ3章14・15節

 今日開かれているのは、弟子の任命についてです。この聖書箇所では、十
二弟子を指していますが、マタイの最後を見ると、イエス様は、すべての人
を弟子としなさいと命じておられます。つまりイエス様を信じる人々は、イ
エス様の弟子になるということです。
 まず、イエス様は、何のために弟子を任命されたのでしょうか。ここに
は、三つの目的が書かれています。第一には、身近に置くためです。おもし
ろい理由に見えます。それは、召使いや僕、執事秘書としてそばに置くこと
ではありません。そばにいるということは、その人となりを裏まで知りま
す。そしてその人を知ると話し方考え方動作までも似てきます。しかしそれ
でもイエス様はわかりません。イエス様につながりイエス様の霊の命をいた
だくために、弟子たちを身近に置いたのです。
 第二の目的は、遣わして福音を宣べ伝えるためです。それは一章15節にあ
るとおりです。
 第三の目的は、悪霊を追い出す権威を持つためです。今も悪霊は働いてい
ます。しかし十字架の賛美とイエスの御名による命令には逆らうことができ
ません。主の命に生かされて遣わされて行くのが弟子たちです。
 では、イエス様はどんな人を弟子と選んだのでしょうか。聖書の専門家で
はなく、漁師など普通の人々です。しかも、ペテロは裏切り、ヤコブとヨハ
ネは雷の子、トマスは疑い深いなど、立派な人とはいえない人々でした。強
いて言えば、従って来なさいと言われ、すぐに従った人々です。才能より
も、従順、謙遜こそが主の弟子の道です。神の力は人の才能よりはるかに優
るからです。
 では、私たちはどうでしょうか。イエス様は、すべての人を弟子として招
いておられます。謙遜に従順についていきましょう。多様な私たちを、その
ままで、しかし愛で造りかえて、遣わして下さるのです。
 
2016年9月25日
【死んでいる教会】黙示録三1~6
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私た
ちもまた互いに愛し合うべきです。第一ヨハネ4章11節

 今日は、復活のキリストからサルデスの教会への手紙が開かれています。
他の教会への手紙と同じ構造をもっています。
 しかし教会への最初の賞賛の言葉が見つかりません。そしてこの教会は死
んでいると言われています。教会が死んでいるとは穏やかではありません。
どういうことでしょうか。またどうすればいいのでしょうか。
 教会が生きている死んでいるとはどういうことでしょうか。生きていると
は、命があることです。死んでいるとは、命がないことです。生きているよ
うに見えても命がなければ死んでいるのです。
 サルデスの教会は、眠っていました。そしてその行いが、神様の前にまっ
たきものとみなされていませんでした。サルデスの教会には、大きな偶像の
神殿はなかったかもしれません。激しい迫害もなかったかもしれません。し
かしキリストに生きることとこの世に生きることには、大きな違いがあるは
ずです。世と同じ生き方をしていれば摩擦は起こらないのです。それが死ん
だ状態です。生きた魚は川の流れに逆らって泳ぎます。死んだ魚は流される
だけなのです。
 キリストは、この教会が、生きるために、どのように受け、聞いたのか思
い出しなさいと言っています。悔い改め、信仰が目ざめる必要があるので
す。信じることは、必ず行いにも表れてくるはずです。もう一つ大切なこと
は、死んだ状態では、キリストが来られても気づかないで裁かれることで
す。生きた信仰は、来臨を悟り備えているのです。
 それでも十字架の血で衣を白く洗った人々がいます。その人々には、白い
衣が与えられ、いのちの書に名が永遠に刻まれているのです。弱っている人
を励ましましょう。悔い改めて、目を覚まして、主と人々に仕えましょう。
 
2016年9月18日
【ヤコブとヨハネ】マルコ一〇35~45
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私た
ちもまた互いに愛し合うべきです。第一ヨハネ4章11節

 今日は、イエス様の弟子のヤコブとヨハネについてみ言葉に聞いていきま
す。ヤコブとヨハネは、兄弟で漁師をしていました。ペテロやアンデレとも
一緒に仕事をしていました。イエス様に「私についてきなさい。」と言わ
れ、イエス様の弟子になりました。
 ある時、イエス様がエルサレムへ向かっている時、それを知ったサマリヤ
人はイエス様を歓迎しませんでした。するとヤコブとヨハネは「天から火を
呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言いました。(ルカ九54)
イエス様は彼らにボアネルゲというあだ名をつけました。「雷の子」という
意味です。彼らはとても怒りっぽかったのです。(あなたは怒りっぽい人好
きですか)
 またある時に、ヤコブとヨハネは、イエス様に、神の国が来た時に、イエ
ス様のそばで仕える右大臣、左大臣にして下さいとお願いしました。イエス
様は、「私の飲む、(神様からの怒りの)杯を飲めるか」と尋ねました。二
人は意味もわからず「できます」と答えました。それは、すべての人の罪を
負う十字架のことでした。でもイエス様は、やがて二人も飲むことになると
言われたのです。
 十字架を目の当たりにした弟子たちは、逃げて恐れました。でも復活の主
に会って喜びました。それから聖霊を受けてイエス様の証人となったので
す。
 ヤコブは間もなく、ヘロデ王に斬り殺されました。死をも恐れない信仰で
した。ヨハネは長生きして、様々な迫害の中をとおりイエス様を証しまし
た。怒りの人から、愛の人に変えられて、互いに愛し合いなさいと生涯伝え
続けたのです。
 私たちも聖霊の導きに従ってイエス様につながって、イエス様の愛と赦し
に生き、それをお友だちに伝えましょう。
 
2016年9月11日
【私の前に主を】詩篇一六8~9
私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。詩篇16章8節

 皆さんにとって神様はどういう存在でしょうか?日々の生活の中で、どの
くらい神様を意識し、また感じているのでしょうか?私の前に主を置くとは
どういうことを言っているのでしょうか?
この時のダビデは、神様が私に最善のことをして下さったと信じ、夜に神様
からの助言を思い出したり、穏やかな中にありました。なぜでしょうか?そ
れは8節9節に秘訣があったと思います。
 私の前に主を置くとはどういうことでしょうか?時に私たちは私が前にな
ってしまって、神様が後ろになってしまうことがあります。自分の思いだけ
で進んでいる自分勝手な道を歩いてしまうことはないでしょうか?
 私たちは羊のように迷いやすく弱く羊飼いがいなければ生きていけない存
在。やりたいことをして、行きたいようにする時、身動きができなくなって
しまう。私たち一人一人には牧者であられるイエス様が必要です。羊は羊飼
いの声を知っている。イエス様の声を知っているでしょうか。イエス様を私
の救い主として信じ受け入れたお一人お一人はイエス様の声を知っているは
ずです。私の前に主を置くとは神様の臨在がそこにあることを意味していま
す。神様がここにおられることがわかるのはお祈りをしている時です。祈り
を聞き答えて下さる神様を感じることができます。主が私の右におられる、
とは私を弁護する方として私の右におられるということです。もう一つ右の
座はチャンピオンの座という意味があります。右の座は、私の力では罪に勝
っていくことができない、でも勝利者であられるイエス様がいて下さるか
ら、私は勝ち得てあまりがあるのです。そして右の座を神様に明け渡してい
く時に主が私の右におられるので私はゆるぐことがないと言い切ることがで
きると思います。
 見えない方を見て祈ってみ言葉をいただいていく時に私たちは揺るがされ
るようなことがあっても揺るがされない歩みをすることができます。これが
いつもでありたいと思います。私たちは私の前に主を置くことを意識的に決
断し、神様に祈り、み言葉を与えられて進みたいと思います。
 
2016年9月4
【イエス様のわざ】マルコ三7~12
また汚れた霊どもはイエスを見ると、その前にひれ伏して、「あなたは神の
子だ」と叫ぶのであった。マルコ3章11節

 先週の台風では、十勝地域も多くの被害を受けました。その中で多くの命
が無事に救い出されたことは、主の憐れみであったと思います。今日の聖書
箇所は、大きなトピック、いやされた特別な人が出てくるわけではありませ
ん。そういう意味では、まとめであり、平凡な感じがします。その中でイエ
ス様がどのようなさっていたのかは大切なことです。
 イエス様の宣教には、大きく分けると、言葉とわざや行動に分けられま
す。言葉は、福音のメッセージで悔い改めと信仰の勧めです。ここに出てく
るのはわざや行いになりますが、いやしたり、汚れた霊を追い出したことが
記されています。しかし良く聖書を読んでみると、イエス様は、積極的にわ
ざに取り組んでいるのではない感じです。大勢が押し寄せてきた時、小舟を
用意させ、人々が押し寄せて来ないようにしました。また汚れた霊を追い出
されたのですが、誰にも言わないように言われました。どちらかというと、
人々を避けて逃げているような感じです。なぜでしょう。
 人は、多くの働きをすると疲れます。人間となられたイエス様もそうでし
た。わざは、からだを疲れさせますが、心や霊も疲れるのです。心や霊も休
み、いやそれ以上に、養いが必要なのです。全能の神の御子イエス様も、人
となられて、休みを必要とされたのです。
 またその疲れは、静まって、天の父との交わり、祈りによって、休みを
得、回復することができるのです。そして父との交わりによって、いつも目
標を見ていました。目の前のいやし、汚れた霊の追放は、人を自由にします
が、まだ一時的です。イエス様の生涯の目標は、十字架の死によって多くの
人に、罪の身代わりとして、命を与えることでした。
 私たちは、目の前の忙しさで、人生の目標を見失ってはいないでしょう
か。使命を見失っていないでしょうか。天の父との交わりによって、目標
(救いや伝道)をいつも忘れることのないように歩みましょう。
 
2016年8月28日
【しっかりと持って】黙示録二18~29
わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っ
ていなさい。ヨハネ黙示録2章24・25節

 今日は、復活の主からテアテラの教会宛の手紙が開かれています。五番目
の手紙で、他の手紙と同じように、差出人、賞賛、非難、約束などが記され
ています。
一、テアテラ教会への賞賛
 テアテラ教会は、「あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っ
ており、」と言われています。テモテ四12の勧告を思い出します。模範的な
信仰でした。しかも「近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っ
ている」と言われているのです。私たちは最初は情熱的でも時間が経てば冷
めやすいのです。ところがますます熱心に仕えていたのです。これ以上ない
ほど主は賞賛しています。
一、テアテラ教会への非難
 そんな賞賛された教会ですが、非難すべきところがあったのです。イゼベ
ルをなすがままにさせているというのです。イゼベルは、北イスラエル王国
の妃でしたが、偶像礼拝と不品行によって、国を滅亡に導いた人物です。そ
のような間違った教えに導く人が教会の中にいたようです。間違った教えは
取り除かなければなりません。 キリスト教と自称しながら、キリスト教で
ないものがたくさんあります。見分ける一つの方法は、主の祈りを祈り、使
徒信条を告白するかです。そしてそれを信じて行動するかです。これを曖昧
にすることはできません。教会の存亡に関わるからです。
一、テアテラ教会への約束
 教会の内外での戦いは激しいものでした。主は、ご自身が教会を裁き聖別
すると約束しています。またそのような教会には、他の重荷は負わせませ
ん。今持っているものを、イエス様が来るまで「しっかりと持っていなさ
い」と命じておられます。その人たちに「諸国の民を支配する権威」、「明
けの明星」を与えると約束しています。
 私たちの信仰をしっかりと持って、歩みましょう。
 
2016年8月21日
【永遠への思い】伝道者の書三11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠へ
の思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終
わりまで見きわめることができない。伝道者の書3章11節

 今日は、召天者記念礼拝です。先に天に召された方々を偲びつつ、その信
仰を思い、主にある私たちのゴールに心をとめましょう。また天と地と一つ
の礼拝であることに心をとめて礼拝しましょう。今日開かれている伝道の書
は、人生、空、時、永遠といったことが鍵語です。日本人にも読みやすいと
ころでしょう。
 私たちは、宇宙の空間に目を向けることができます。月、太陽、銀河それ
らを超えて広大な宇宙を思うことができます。聖書は、神様がそれを創造
し、すべて良かったと言われました。すべて良いものとして造られました。
 また私たちは、永遠の時を感じることができます。小さな子供でも、大人
になることを考えることができます。また人生の時間を超えた過去の歴史や
未来を考えることができます。神様は、時を超えた永遠のお方です。ブラッ
クホールの影響下では、時間の流れが違います。宇宙の中でもそうです。宇
宙を超えたお方は、時を超えたお方でも不思議はありません。
 この時空の中で、人は、他の誰とも違う自分の存在を認識することができ
ます。
 神様が、良く造られた世界ですが、私たちの人生は良い時もあれば悪い時
もあります。一生は苦労や仕事の連続かも知れません。悲しい時の一つは、
親しい人との死に別れです。しかしクリスチャンにとってそれは永遠の別れ
ではなく、天国での再会の希望でもあります。
 死の悲しみは、忘れることのできないもであり、無理に忘れる必要もあり
ません。イエス様の十字架は、悲しみをになうものでもあります。(イザヤ
五三3、4)また神様は、私たちの失った時間をも償って下さるお方です。
 私たちは、悲しみを担うキリスト、死を打ち破ってよみがえられた主を見
上げて、死を超えた希望に生きることができるのです。だからこのキリスト
を伝えるのです。
 
2016年8月14日
【ペルガモへの非難】黙示録二14~17
しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バ
ラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエル
の人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、ま
た不品行を行なわせた。ヨハネ黙示録2章14節

 今日は、ペルガモ教会へのメッセージの二回目です。一回目は、サタンの
座がある町で、殉教者を出しても動揺しなかった姿が、キリストの賞賛にあ
ずかっていました。そのようなすばらしい教会でしたが、今日は、キリスト
から非難されているところが開かれています。
 なぜ非難されているのでしょうか。それは、バラムの教え、ニコライの教
えに奉じる者がいると言われています。どちらも同じ事を指していると思わ
れます。バラムについては民数記に記されています。偶像と占いとの預言者
でした。真理を知りつつも、どん欲と情欲とに流され、人々を扇動しまし
た。そしてその誘惑に負けたイスラエルの人々も偶像礼拝と不品行とに陥っ
たのです。主の怒りに触れ、多くの人が死に、バラムも剣で殺されました。
不品行と偶像礼拝とは、神様の最も嫌う罪の一つです。
 今も、創造主でないものへの礼拝は創造主への背きであり、その背後で
は、サタンが働いています。
 また不品行、姦淫も同じです。神様は、祝福として性を造りました。それ
は結婚した夫婦の間で用いられるべきものとして造りました。神様はそのよ
うに造られたのでそこから外れることはできません。食欲も正しく用いれば
健康でいられるのと同じです。それ以外のところで用いることは、罪であ
り、自分や人を傷つける結果となります。
 現代は、性的少数者の人権や配慮が叫ばれています。人としての尊厳は大
切にしなければいけません。しかし創造の秩序に反するあり方に賛同するこ
とはできません。
 キリストは、悔い改める者、サタンに勝利する者に対して、祝福、命のマ
ナを与えると約束しています。
 私たちも、偶像と不品行と、その背後に働くサタンに対して、キリストの
十字架によって、打ち勝っていきましょう。
 
2016年8月7日
【安息日とは】マルコ二23~28
また言われた「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のた
めに造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。
マルコ二2章27・28節

 今日は、安息日についての教えです。ユダヤ教では、安息日である土曜日
がお休みの日になっています。それはなぜなのでしょうか。キリスト教で
は、なぜ日曜日になっているのでしょうか。
 安息日に弟子たちは、麦の穂を摘んで食べていました。ちょうどよい季節
だったのでしょう。なぜそうしたかと言えば、お腹がすいていたのだと思い
ます。しかしそこへ律法学者が来て、「なぜ安息日にしてはならぬことをし
ているのか」と指摘したのです。イエス様は、ダビデにもそう言うことがあ
ったことを聖書で読んだことがないのかと逆に質問しました。
 イエス様は、ユダヤ教の基本である十戒などの律法を、表面的な行動では
なく、本来の意味を説き明かしています。安息日もそうです。
 ところで安息日はどのように決められたのでしょうか。神様は、六日間で
天地を創造されました。すべてを良しとされました。そして七日目を祝福し
て休まれたのです。そしてこの日は、休む日と定められたのです。
 では休むとはどういう意味でしょうか。思いっきり遊んだりすることや、
よく寝ることでしょうか。仕事を休みなさいと言われているのはその意味も
あるでしょう。安息とは、神様の前に安心することです。神様は、造ったも
のを愛し、無条件で受け入れて下さるので「安心」して「憩える」のです。
だから疲れが癒され回復されるのです。だから安息日が主となり、人を仕え
させるのは本来の意味ではないのです。
 またこの日は、聖別された礼拝の日です。エジプトからあがない出して下
さった主を崇めるのです。
 私たちは、今、日曜日に礼拝しています。それは、主の復活を記念して礼
拝しています。主は、安息日の主なのです。そこで人は、主の愛に満たさ
れ、賛美し、悔い改め、癒され、十字架と復活を確認し、み言葉に従い、ま
たこの世に遣わされていくのがその意味です。
 
2016年7月31日
【新しい皮袋とは】マルコ二21、22
また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そ
んなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめにな
ってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋にいれるのです。
マルコ2章22節

 今日の聖書のみ言葉は、新しいぶどう酒には、新しい皮袋をという、イエ
ス様の例話です。なぜこんな話になったのかといえば、バプテスマのヨハネ
の弟子と、パリサイ人とは断食をしていたのに、イエス様の弟子たちはして
いなかったからです。断食をする人たちは、なぜ断食をしないのかと、問い
かけたのです。パリサイ人は、週に二回、半日の断食をしていました。ヨハ
ネの弟子たちも同じだったのでしょう。それは、自らを神の前に清めるため
でした。だからなぜ断食をしないのか不思議だったのです。
 イエス様は、今は花婿がいるお祝いの時だからといわれました。それはや
がてそうでないときも来ることを暗示しています。
 ここには新しいぶどう酒は、発酵し体積が増えるのです。脂ののった皮袋
は、その膨らむ圧力に耐えられます。しかし古い皮袋は、脂がなく、膨張圧
力に耐えられず、破裂してしまうのです。
 では、それらは何を意味しているのでしょうか。ぶどう酒とは、血、すな
わち命を意味しています。新しいキリストの命が、この世に与えられ、新し
い時代が来たことを知らせています。それを古い皮袋、つまり律法や言い伝
え、伝統では、受け止めきれないということです。律法は、本来救いへ導く
ものですが、人の罪によって、裁きをもたらすものとなりました。
 しかし、新しい命にふさわしい「新しい皮袋」であるならば、受け止める
ことができるのです。キリストの命を入れる新しい器は、私たち自身です。
それは、行いではなく、心の動機を問われます。また実際の入れ物は、それ
ぞれによって違うでしょう。ただその元には、全能の神様への礼拝、セル
(聖徒の交わり)、静思の時(神との個人的交わり)の三つが中心となりお
互いにつながったものとなります。
 あなたの皮袋は、どんなでしょうか。
 
2016年7月24日
【ペルガモ教会1】ヨハネ黙示録二12~17
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得
る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それ
を受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。
ヨハネ黙示録2章17節

 今日は三つ目のペルガモ教会へ宛てた手紙の前半です。ペルガモ教会は、
海岸から六十キロほど内陸に入ったところにありました。
 まず発信人である主イエス様ですが、ここでは、両刃の剣を持つお方と書
かれています。一章16節では、それが口から出ていることから、神の言葉が
剣であることがわかります。神の言葉は、人の心の内に秘めているものを見
分け、裁くものです。これは、ペルガモの教会が必要とするものです。
 そして次にすばらしい賞賛が与えられています。その町には、偶像の本山
がありました。その中で教会は、主の御名を堅く保っていたのです。しかも
恐らく指導者であったアンテパスは、殉教したのです。このアンテパスを主
は、「わたしの忠実な証人」と呼んでいます。サタンの座があるこの町で激
しい迫害があったことでしょう。しかしその主への忠実はゆるぎませんでし
た。それは単に彼だけではなく、教会の多くの聖徒がそうであったというこ
とです。その危機の時にも信仰を捨てなかったのです。
 なぜでしょうか。それは、キリストが十字架で命を差し出して、罪を赦
し、死から命へと移して下さったことをしっかりと堅くもっていたからで
す。ペテロは女中にイエスの弟子かと聞かれた時に、とっさに否定しまし
た。女中の言葉に心の奥底に秘めているものが現れたのです。
 アンテパスの殉教、また教会の迫害を、主キリストは、その傷をご自分が
受けていると言われています。私たちもキリストのゆえに受ける傷がありま
す。その傷を主が負って下さっているとはなんと不思議な幸いなことでしょ
う。
 十字架を見上げて、主に忠実にお仕えしましょう。
 
2016年7月17日
【小羊の血によって】
出エジプト十二1~14 、21~36
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」Ⅰヨハネ1章7節

 エジプトで苦しめられているイスラエル人の叫びを聞かれた神様は、モー
セとアロンをエジプト王のもとへ遣わしました。神様は9つの災いをエジプ
トにくだしましたが、王は、彼らを出て行かせようとはしませんでした。そ
こで神様は、初子が死ぬという災いをくだすと言われました。イスラエルの
人々は、羊を殺して家のかもいと柱に塗りました。やがてエジプトの初子が
死に、王は出て行かせたので、彼らは、神様が与えられる約束の地へ向かっ
ていきました。
 これは二つの意味があります。イスラエルの人たちが、エジプトの支配か
ら自由にされ、小羊の血が流されたことによって救い出されたということ。
バプテスマのヨハネはイエス様のことを、見よ、世の罪を取り除く神の小羊
と紹介しました。
 もう一つの意味は、私たちが罪の中から救われるためにイエス様の血が流
されたということです。罪は、私たち一人一人を悪いことの奴隷にして縛っ
ているものです。血を流すことがなければ罪の赦しはあり得ません。がんじ
がらめになっている罪の鎖から解放されるためには、小羊の血が必要です。
イエス様の血がすべての罪から私たちを救います。罪をもったままできよい
神様とお会いすることはできません。
 小羊の血が私たちのために流されたことを信じることが大切です。イエス
様が私たちを限りない愛をもって愛して下さっているので十字架にかかり血
を流して下さいました。
 私たちは悔い改めることが必要です。もし私たちが自分の罪を言い表すな
ら、神は真実で正しい方ですからその罪をゆるし、すべての悪から私たちを
きよめてくださいます。悔い改めて赦して下さいと祈る時、イエス様の十字
架によって私たちの罪が赦されがんじがらめになって、奴隷のようにされて
いるそこから解放されて、神様のところへ行くことができるようにされるの
です。
 
2016年7月10日
 
2016年7月3日
 
2016年6月26日
 
2016年6月19日
 
2016年6月12日
【初めの愛で】黙示録二章1~7
あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちた
かを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。
ヨハネ黙示録2章45節

 黙示録二章と三章には、キリストから七つの教会へのメッセージが書かれ
ています。これはそれぞれの教会へのメッセージでしたが、現代の私たちへ
のメッセージでもあります。今日は、その最初のエペソ教会へのメッセージ
に聞いていきましょう。
 七つのメッセージには、差出人、宛先、賞賛、非難、励まし、勝利者への
約束といった共通の形式が用いられています。そして、差出人は、それぞれ
の解決に必要な神の姿が記されています。
 エペソ教会は、どのように賞賛されたのでしょうか。ここには、偽使徒を
見抜いたこと、追い出したこと、また困難な働きを忍耐深く、やり通したこ
と等がほめられています。偽物を見抜くことも、働きを忍耐深くすること
も、決して容易ではありません。主はそれらのことをご存知で、エペソの教
会を賞賛したのです。
 続いて、非難されるところです。これは、励まして、立ち直らせるために
書かれています。そんな立派なエペソ教会ですが、「初めの愛から離れてし
まった。」と言われました。初めの愛、それは、キリストの十字架の愛で
す。独り子を惜しまず与え、罪をあがなう愛です。この愛が私たちの救いの
源です。この愛から離れるとは、重大なことです。救いを見失ってしまうの
でしょうか。初めの愛から離れた働きとは何でしょう。それは働きそのもの
が目的になります。私たちは、キリストにつながっているから命があるので
す。そこから離れると命を失い、高慢で、自分勝手な歩みへ戻ります。
 しかし、主は、どうすべきか、いわば処方箋も記しています。まず、どこ
から落ちたか、それを認めることです。次には、それを悔い改めて、主の救
い、初めの愛に立ち返ることです。私たちは、日曜日教会でキリストにつな
がっていることと同じように、日常生活でどうキリストとつながっているか
が問われています。
 
2016年6月5日
【中風のいやし】マルコ二章1~12
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されまし
た。」と言われた。マルコ2章5節

 今日聞かれている聖書箇所は、中風のいやしと言われるところです。この
出来事を通して、いくつかの大切なことが書かれています。
 まず、イエス様は、どんな方でしょうか。人となられた神様です。そのお
方は、人の心を見抜くお方です。また罪を赦すお方です。病気をいやすこと
のできるお方です。
 ここで時々質問されます。9節の言葉です。罪の赦しと中風のいやしとど
ちらがやさしいのでしょうか。それを見る前に、この病気の人は、イエス様
に何をのぞんでいたのでしょうか。そしてなぜイエス様は、中風をいやすの
ではなく、罪の赦しを宣言されたのでしょうか。
 病気のいやしより、罪の赦しは大切です。罪が赦された人は、永遠のいの
ちを持ちます。病気はいやされても、やがて死に支配されます。だからイエ
ス様は、罪を赦されたのです。イエス様は、罪をゆるす権威をもっていま
す。病気をいやす権威ももっているお方です。
 なぜイエス様は、罪を赦すことができるのでしょうか。律法学者は、罪を
赦すことができるのは、神お一人だけだと心の中でつぶやきました。それは
真実です。ただ彼らは、イエス様を神と認めなかったのです。罪の一つの意
味は、「負債、借金」です。借金を帳消しにするには、誰かが肩代わりする
必要があります。自分の借金で苦しんでいる人には肩代わりはできません。
罪のないイエス・キリストは、十字架の死によって、全人類の罪を代わりに
負って下さろうとしていたのです。今それが成就しています。だから罪の赦
しを宣言できたのです。
 イエス様は、罪を赦す時、肩代わりする時、「彼らの信仰を見」ました。
私たちがキリストによる罪の赦しを信じるなら、私たちも罪の赦しを受け、
永遠のいのちを得るのです。
 今、この福音を信じましょう。
 
2016年5月29日
【心に留める幸い】黙示録一章
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを
心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
ヨハネ黙示録1章3節

 ヨハネの黙示録は、キリストがヨハネに幻で語られたことが記されていま
す。黙示とは、覆いを取り除いて、顕わにすることです。ヨハネの黙示録は、
当時の教会へ注意と警告をし、またこれから起こることについて、あらかじめ
預言しているのです。
 ところで私たちは、預言や幻について気を付けることがあります。一つは、
全能の神を信じると言うことは、今も神様は、夢や幻で人に語りかけることが
あるということです。もう一つは、預言や幻を何でも信じて良いわけではない
ということです。
 神様は、聖霊様によって、聖書を記されました。だから聖書は、千五百年も
の期間、数十人の著者によって記されていますが、統一した内容で、救い主キ
リストを指し示しています。ですから聖書は、原典において誤りがありませ
ん。もし聖なる神の霊が示す、預言や幻であるなら、聖書と矛盾するはずはあ
りません。そこが基準です。悪魔も光の天使のように偽装するので、気を付け
なければなりません。しかし私たちは見分けることができるのです。
 またこの黙示録の内容は、ほとんどは旧約聖書ですでに預言されていたこと
かその展開です。だから旧約聖書とも一致しています。そして今も働く聖霊に
よって私たちは、聖書の言葉を悟り、また生活に適用することができるので
す。
 この黙示録の言葉の心に留める人は幸いです。とくに、キリストの栄光の姿
に心を留めましょう。あのヨハネが、倒れ死人のようになるほど輝く栄光の姿
でした。主は、死と黄泉とを通られましたが、そこから復活した栄光のお方で
す。
 もう一つ心に留めるべきことは、恵みが注がれていることです。ヨハネは、
流刑でこの島にいました。どんなに隔離しても、全能の神、キリスト、聖霊を
妨げるものは何もなく、恵みが注がれたのです。
 同じ恵みが私たちに注がれていることに感謝しましょう。
 
2016年5月22日
【とげの祝福】Ⅱコリント一二章
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたし
の力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。です
から、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さ
を誇りましょう。第二コリント12章9節

 この中心聖句は、今年度教会の標語聖句です。もう一度、この御言葉を心に
とめて歩んでいきましょう。
 パウロは、コリントに福音を伝えました。彼らは福音を受け入れ大いに喜ん
だのですが、いろんな過ちがあり、パウロは第一の手紙で叱責しました。それ
で悲しみ悔い改めたので、慰めるために書いたのが第二の手紙です。
 パウロは、その一四年前に天に昇る体験をしました。あまりにすばらしかっ
たので、傲慢にならないために神様から「とげ」が与えられたと言うのが今日
のみ言葉です。それは傲慢にならないためでした。神様は人に害を加えませ
ん。人に害を加えようとする悪魔のわざを、良い目的のために許されているの
です。
 このとげは何だったのでしょうか。肉体のとげですから、何らかの病や傷か
とも言われます。そうだとしても、その痛みは、心や霊に影響を及ぼすほど辛
いものでした。
 このとげは、とても辛く苦しかったので、パウロは三回も取り去って下さる
ように祈り願ったのです。しかし聞き入れられませんでした。
 そして主が言われたことが、この12節です。神様は、私たちが自分の知恵や
力で何かしようと知ると働かれません。しかし、自分の無力を認め、自分や状
況から目を離し、主に頼る時、主のみわざは起こるのです。だから自分の弱さ
を誇り、主をほめたたえることができるのです。
 イエス様は、十字架を前にして、三度祈りました。そして天の父に信頼した
のです。私たちも日常の主への信頼の中に主のみわざがなされるのです。主に
信頼して歩みましょう。
 
2016年5月15日
【聖霊注がれて】使徒二章
神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あな
たがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。使徒2章17節

 今日は、ペンテコステです。イエス様の昇天の後、聖霊様が降られた記念日
です。それは、教会の誕生日でもあります。どのようなことが起こったのでし
ょうか。私たちには、どのような関係があるのでしょうか。
 聖霊のバプテスマは、新約聖書の最初から、バプテスマのヨハネを通して、
約束されていました。それは、天の父とイエス様からの約束でもありました。
十二人の弟子たちは、心を合わせて、祈りに専念していました。祈っている内
に、それが一二〇人ばかりになっていたようです。
 イエス様の昇天から一〇日目、その日は、日曜日で、初穂の祭の日でした。
朝の九時頃、弟子たちが祈っていると、天から激しい風のような轟音が響きま
した。後で見るように、それは弟子たちだけでなく、周りの三千人以上の人が
びっくりするほどの音でした。そして、炎のような舌が、分かれて一人一人の
上にとどまりました。使徒たちは、立ち上がり、様々な外国の言葉で、イエス
様の救いの業を証しし始めました。
 集まった人々は、何事かと驚き、ある人は酒に酔っているかと思いました。
しかしペテロと他の弟子たちは、これは、ヨエルの預言が成就したのだとハッ
キリと伝えたのです。そしてヨエル書の預言が成就し、聖霊が降ったこと、十
字架に付けられたキリストこそ救い主であると証しました。
 その時、キリストを十字架に付けたユダヤ人たちは、心を刺され、ペテロの
勧告に従って、主の前に悔い改め、三千人が洗礼を受けたのです。それがキリ
スト教会の始まりです。
 さて、神様は、今も、求める人々を聖霊に満たしてくださると約束していま
す。それは老若男女、ユダヤ人も異邦人も、自由人も奴隷も関係ありません。
主は、聖霊に満たし、救われる人を起こし、信じる人を証人として成長させ、
宣教の業をなして下さるのです。ハレルヤ!
 
2016年5月8日
【祈って待つ】使徒一12~26
この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちととも
に、みな心を合わせ、祈りに専念していた。使徒章14節

 来週はペンテコステです。この前の木曜日はイエス様の昇天記念日でした。
弟子たちは、どのように聖霊のバプテスマを受けるというイエス様の約束を待
っていたのでしょうか。
 イエス様が天に昇った後、エルサレムのある家の屋上の部屋に、弟子たちや
女性たち、イエス様のお母さんや兄弟たちが共に集まりました。
 まず第一に、彼らは、イエス様の約束に信頼して聖霊を待ち望みました。そ
れは、イエス様の約束でしたが、同時に、天の父の約束でもありました。聖書
に預言された約束でもありました。まだ与えられていない聖霊でしたが、約束
を信じて祈り待ち望んだのです。
 次に、彼らは「心を合わせ」て祈りました。心を合わせるには、自分一人で
はできません。相手の人を認めて、互いにへりくだることが必要です。弟子た
ちは、最後の晩餐の時も互いにだれが偉いかと争っていました。彼らは、互い
に謝り、赦し合ったので心を合わせられたのではないでしょうか。
 そして彼らは、「祈りに専念」していました。専念するとは、他のことをし
ないことです。祈ることに集中していました。時には断食をし、寝る間を惜し
んで、神様を求めて祈ったのです。専念するためには、そのために時間を聖別
することが必要です。また時には、そのために信仰書を読んだり、聖会などに
出ることも良い機会となります。
 ペンテコステによって、すでに教会には、聖霊様が与えられています。しか
し、私たちは聖霊様に絶えず満たされ続ける必要があります。
 そのために、私たちは、今も聖霊の満たしを求めて、心を合わせ、祈りに専
念する必要があるのです。この週をそのように過ごしていきましょう。
 
2016年5月1日
【約束を待って】使徒一1~11
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを
離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテス
マを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからで
す。」使徒1章45節

 今週は、イエス様の昇天日(5日)を迎えます。イエス様は、復活から四十
日目に天に帰られました。それが今日の聖書箇所です。今日は、その出来事と
その時にイエス様が語られた約束を待つこととに心をとめていきましょう。
 まず、イエス様は、聖霊のバプテスマを待つようにと弟子たちに命じておら
れます。聖霊のバプテスマは、ここにも記されているようにバプテスマのヨハ
ネも言及していたことが福音書のはじめに書かれています。新約聖書の最初か
ら預言されていた大切なことです。
 では、聖霊のバプテスマにはどんな意味があるのでしょうか。イエス様は、
キリストの証人となる力を与えると言われました。十字架と復活を目撃してい
るのですが、弟子たちはこの世への恐れを持っていました。証しする力は、あ
まりなかったのです。聖霊に満たされた時、大胆な証人とされました。
 ところで、イエス様が昇天された時、二人の御使いが、イエス様が再び来ら
れること(再臨)を宣言しています。ここにもう一つの待ち望むべき約束があ
ります。マタイ二五章には、天国について、賢いおとめと愚かなおとめの譬え
話があります。賢いおとめが持っていた油は聖霊を指すと言われています。主
の再臨の約束を待ち望むのには、聖霊を持っていることが必要なのです。
 では、私たちは、どのように聖霊を受けるのでしょうか。教会はペンテコス
テの時に聖霊を受けています。またイエスは主と告白することは、聖霊なくし
てはできません。だからイエスを救い主と信じる人は心配いりません。しかし
聖霊様は、罪や汚れを悲しみ、消えるお方です。満たされ続ける必要があるの
です。それには、主のゆるしの十字架と永遠のいのちの希望である復活を見続
けることです。
 主を証し、主の再臨を待ち望みましょう。
 
2016年4月24日

【私を愛するか】ヨハネ二一15~25
イエスは三度ペテロに言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ヨハネ21章17節

 この箇所は、イエス様が復活してから三度目に弟子たちに会われたところで
す。この箇所の前には、まるで、ペテロたちの献身の時の出来事を繰り返すか
のような出来事を経験したのでした。食事の後、イエス様は、ペテロに聞かれ
たのです。
 なぜ、イエス様は、ペテロに「わたしを愛するか」と聞かれたのでしょう
か。言うまでもなく、男女の愛のようなことを聞いたのではありません。原語
では、もっとはっきりと犠牲的な愛を示しています。
 このことは、十字架を前にして、ペテロが三度もイエス様のことを「知らな
い」と言ってつまずいたことと関係があります。
 イエス様は、ペテロが裏切ったことを根に持ったり、咎めたりして聞いてい
るのでしょうか。そうではありません。またペテロの愛を試しているのでしょ
うか。そうでもありません。
 イエス様は、ペテロが失敗から立ち直り、もう一度立つようになることを知
っていて、このように聞いているのです。(ルカ二二31・32参照)
 では裏切ったペテロは、何と答えたのでしょうか。以前のように「はい、愛
します。」とは答えられません。実に微妙に「はい、主よ。私があなたを愛し
ていることは、あなたがご存知です。」と答えたのです。精一杯の答えです。
しかも三度も聞かれたので、心を痛めるほどでした。
 しかしイエス様は、そのペテロに、「私の羊を飼いなさい」と命じられまし
た。そして、若い時とは違って、自分の思い通りに生きるのではなく、行きた
くない所へ連れて行かれると言われたのです。
 それはなぜでしょうか。それは、イエス様を愛するゆえに、つまり喜んで、
行きたくない所へ行くのです。そしてペテロは、兄弟たちを立ち直らせるもの
になるのです。私たちが、神様の前に、真実に告白する時、聖霊様の働きによ
って、不思議なことですが、私たちは変えられるのです。私たちも、真実に主
の前に出ましょう。
 
2016年4月17日
【イエス様の派遣】ヨハネ二〇19~23
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父が
わたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
ヨハネ20章21節

 イエス様の復活からペンテコステまでの期間を私たちは過ごしています。今
日の聖書箇所は、復活されたイエス様が、その日の夕方、弟子たちに現れなさ
ったところです。
 最初は、イエス様は、復活なさったことが確かな事を弟子たちに示されたと
言われています。ところがこのヨハネの福音書では、この最初に現れなさった
時から、弟子たちのこれからに重点が置かれています。それは、弟子たちを遣
わすということです。
 この時、弟子たちはどんな状況だったのでしょうか。部屋の戸を閉じ鍵を閉
めた状態でした。恐らく自分たちも捕まるのではないかと恐れていたのです。
また、イエス様が死んだので絶望していたのです。その弟子たちをイエス様は
遣わすと言っておられるのです。
 またイエス様が遣わす人は他にもいます。それは、弟子たちの言葉を聞いて
信じる人々です。つまり弟子の弟子をも遣わされるのです。その中には私たち
も入っているのではないでしょうか。
 ヨハネ一七章に、十字架にかかる前のイエス様の祈りが記されています。そ
こでは、ご自身のため、そして弟子たちのため、それから、弟子たちの言葉を
聞いて信じる人々のために祈られています。
 そこには、父がイエス様を遣わしたように、イエス様が弟子たちを遣わすこ
とが書かれています。彼らを聖別し、彼らと共にいて遣わします。また彼らが
世から取り去られるのではなく、守られるように祈っています。主が私たちを
遣わされるのは、天の父の栄光が現されるためです。
 また主は、私たちに聖霊を注いで下さいます。聖霊様の助けによって、使命
を全うできるのです。
 そして私たちに、罪を赦す権威残す権威を預けています。それはもちろん父
のみ心によってなされるものです。
 主からの派遣をしっかりと受け止め、この世に主の栄光を現していきましょ
う。
 
2016年4月10日
【見ずに信じる】ヨハネ二〇24~31
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに
信じる者は幸いです。」ヨハネ20章29節

 イエス様は復活の後、幾度かに渡って弟子たちにご自身を現されて、復活が
確かな事を示され、聖霊が来られることに弟子たちを備えさせられました。私
たちもこの時期、そのように過ごしていきたいです。
 さて、復活の主が、その日弟子たちに現れた時、トマスはいませんでした。
そして、弟子たちがどんなに話しても、信じないで「私は、手の釘の跡に指を
入れ、脇の槍の跡に、手を入れなければ信じない」と言ったのです。八日の
後、イエス様は、再び弟子たちに現れなさいました。トマスもいました。そし
て、トマスに、「さあ、私の釘の跡に指を入れなさい。槍の跡に、手を入れて
ご覧なさい」と言われたのです。
 トマスは、復活の主にただただ圧倒され、「私の主、私の神」と感動をもっ
て告白したのです。見ないで信じる人は幸いです。見て信じる人もいます。見
ても信じない人もいるのです。
 そして、今も復活の主は、信じる私たちにご自身を示して下さいます。
 今、私たちが問われているのは、復活の主が、今も全世界を治めて歴史を導
いておられることを、信じるかということです。ともすれば、神抜きで、人間
が、やりたいように世界を動かしているように見えます。しかし、すべてを治
める主が、今も神を信じる私たちの中にしっかりと働いておられ、万事を益と
なるように導いておられるのです。
 二年目にこのみ言葉が示された時もそうでした。今年四〇年振りに鹿追に教
会が開きます。たった三年間の伝道が後に救いの実を結び、その人が開所式に
出席したのです。人には見えないところでも主は、脈々とみわざを進められて
いるのです。神様は、今でも、見ないで信じるかと、問いかけておられるので
す。
 
2016年4月3日
【お心一つで清く】マルコ一40~45
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心
だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよ
くなった。マルコ1章41・42節

 イースターのすばらしい恵みを覚えつつ、主を礼拝していきましょう。さ
て、今日開かれているのは、ツァラアトが癒され、きよめられるところです。
 イエス様は引き続き、ガリラヤで、働いておられました。すると突然、ツァ
ラアトの人が出て来ました。ツァラアトとは別訳では、重い皮膚病です。この
病気の人は、隔離され、人々に近づく時は、「汚れた者」と言わなければいけ
ませんでした。祭儀的に汚れているとされていたからです。しかし、その人
は、ひざまずいて、イエス様に「お心一つで、私をきよくしていただけま
す。」と言いました。これはとても強い意志が現れています。恐らくどこか
で、イエス様が病気を癒されたのを聞いたのでしょう。きっとこれまでも治そ
うとして、治すことができなかったことでしょう。しかしイエス様は、治すこ
とができると言ったのです。
 それを聞いたイエス様は、何をする前に、深く憐れまれました。これは、自
分のことのように痛みを感じるということです。イエス様は、瞬時に、病気で
辛かったこと、またそれ以上に、人々から蔑まれ、あるいは拒絶され心の痛ん
だこと等理解されたのです。主は、私たちの痛みをすべてご存知なのです。そ
して、彼に手を触れました。普通は触れた人は汚れます。しかし、主イエス
は、逆に触れるものを清くする力のあるお方です。「わたしの心だ。きよくな
れ。」と言われたのです。これは、イエス様の意志のあらわれです。そしてそ
の時、ツァラアトは癒され、清くされたのです。
 主は癒やし主です。信じて祈る時癒やして下さいます。しかし癒されないこ
ともあります。すべての人に死と死後の裁きが定められているからです。(ヘ
ブル九27)この癒された人も死にました。しかし十字架の死を通られた主は、
病や死の苦しみを共に負って下さいます。そして信じる者に復活の命を与える
力のある方です。主に信頼しましょう。
 
 
 
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神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。