メッセージ(文責:尾﨑豪)
 
2012年3月25日
【十字架への道】マタイ二六章47節~二七章26節
「だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖
書が、どうして実現されましょう。」(マタイ二六章54節)

 今日開かれている聖書箇所は、ゲッセマネの祈りの後、イエス様が捕らえら
れるところとユダヤの指導者やピラトから裁判にかけられるところです。弟子
たちやピラトの言動とイエス様の決断と行動を心にとめましょう。
一.つまずく弟子たち
 イスカリオテのユダが口づけし、群衆がイエス様を捕らえた時、ペテロは剣
を抜いて、大祭司のしもに斬りかかり、耳を切り落としました。ところがイエ
ス様は、ペテロをいさめました。イエス様は、世界一のローマ軍以上の天の軍
隊を呼ぶことができるのです。人は、戦うために勇気を出すことができます。
しかし、自分を損なうことには、身を任せられず、耐えられません。数時間前
には死んでもついていきますと言っていた弟子たちは、みな逃げ出したので
す。
二.民衆にこびる権力者ピラト
 ピラトはローマの総督でこの地方の最高責任者でした。18、23、24節に見る
ように、イエス様が死刑に値しないことを認めていました。しかし群衆を恐れ
て、自分には責任がないと言って、十字架刑のために渡したのです。人は、真
実を偽ると壊れていきます。それこそ聖なる神様に造られた存在である証拠で
す。進化には真実は必要ありません。ピラトも弱い人間でした。
三.聖書のみ言葉を貫くイエス様
 イエス様は54節のお言葉のとおり決断し行動しました。自分が損なわれるこ
とを恐れず、裁判で弁解するのではなく神の前に、それは神の言葉である聖書
の言葉が成就するために、自ら十字架への道を決断し進まれました。神の前
に、人の罪を負う愛を貫かれたのです。真実でありえない私たちですが、十字
架の愛を見上げ、受け入れ、天の父の前に真実に歩ませていただきましょう。
 
2012年3月18日
【ゲッセマネの祈り】マタイ二六章36節~46節
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。し
かし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってく
ださい。」(マタイ二六章39節)
 イースター、受難週が近づいています。今日はゲッセマネの祈りです。イエ
ス様は、最後の晩餐の後、捕まえられる前に、いつものようにゲッセマネの園
で祈られました。しかし十字架に向かって進んでおられたイエス様は、その時
をご存知で、弟子たちを脇に置きつつ、悲しみのあまり死ぬばかりになって必
死に天の御父様に祈られました。
 その祈りは、この杯を取りのけてくださいというものです。杯とは、神様の
怒りを表しています。神の御子であり、罪のないイエス様は、すべての人の罪
を負い、すべての人に代わって神の怒りとその刑罰を身に受けようとしていた
のです。ともすれば、神の子だから、楽に十字架を通ることができたと思われ
ますが、そうではありません。むしろ切ることのできない神の愛との断絶、死
ぬはずのないお方が死を味わうことは、だれよりも恐ろしい苦しみであったは
ずです。この苦しみを前にしてイエス様は、弱い小さな人以上にもだえ苦し
み、本心から取りのけてくださいと祈られたのです。
 もう一つの祈りは、しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみここ
ろのように、なさってください、です。その苦しみにもかかわらず、父のみ思
いの通りにと祈られました。なぜでしょうか。それは、御子にとって、自らの
意志のゆえに天の父のみ思いから離れることは、その杯を飲むこと以上に苦し
い恐ろしいことだったからではないでしょうか。イエス様は、そのようにして
父に対する信頼を貫き通したのです。それが真実(信仰)です。
 弟子たちと同じようにすぐに恐れ不信仰な私たちのために主は、ここで祈り
決心して十字架に向かわれました(45・46節)。私たちもこれ以上、主を悲し
ませることがないように、祈り、決意をもって進ませていただきたいです。
 
2012年3月11日
【王として迎える】マタイ二一章1節~11節
「見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に
乗って、それも荷物を運ぶろばの子に乗って。」(マタイ二一章5節)

 イエス様が、ろばに乗ってエルサレムへ入城された箇所です。復活の一週間
前の出来事、つまり十字架の直前の出来事です。人々は、上着や木の枝(棕櫚
の葉など)を道に敷いたので、棕櫚の聖日などと呼ばれます。このエルサレム
入城にはどんな意味があるのでしょうか。
 ヨハネはこの時の人々の歓迎は、ラザロのよみがえりを見たからだと言って
います。上着や木の枝を敷いて迎えるのは、王の凱旋を表します。これまでの
奇蹟やしるしから、人々は、イエス様を力ある王として迎えようとしたので
す。当時のローマの支配を打ち破り、政治、軍事、経済、宗教的圧迫から自由
にされたいと願い、イエス様に期待したのでした。
 そのような社会的な要求は、今も変わりません。人々は、民族や自国の繁栄
を願います。しかし時にそれが、自国自民族の優越主義となり、他民族を圧迫
することもあります。また人の知恵によって幸福を追求したり、科学万能を信
じたりしましたが、どれも不完全なものでした。
 私たちは何を、真のよりどころとし、平安になれるのでしょうか。イエス様
の思いは、人々と違っていました。それは、ろばに乗ったことに現れていま
す。普通、王は、戦いの道具である馬や戦車に乗ります。イエス様がろばに乗
られたことは、権力や武力ではなく、柔和によって平安が来ることを示してい
ます。ろばが荷を負うように、イエス様は、人々の重荷である罪を負い、人々
に仕えることによって、罪の赦しと真の平安である神様との平和の道を開かれ
たのです。
 私たちはこのキリストを王として迎え、罪を悔い改めて、平安をいただきま
しょう。
 
2012年3月4日
【偉くなりたい者】マタイ二〇章20節~28節
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであ
るのと同じです。」(マタイ二〇章28節)

 近年、サーバント・リーダーシップつまり仕えるリーダーシップが注目され
ています。人の上からではなく下から引っ張っていくのです。実は、これはイ
エス様が教え、また実行された方法です。
 弟子ヤコブとヨハネの母が来て、イエス様が新王国を確立した時には、王に
次ぐ右大臣左大臣にして下さるようにとお願いしました。それを聞いた他の弟
子たちは憤慨しました。彼らは皆、だれが偉いかと争い、イエス様が捕らえら
れるまで止めませんでした。
 なぜ人は偉くなろうとするのでしょうか。権力があれば、人やものを思い通
りにでき、お金持ちになれると考えるからです。
 では、イエス様は、どう考え、どうされたのでしょうか。必ずしも、人の上
に立つことを否定したわけではありませんが、偉くなろうとするヤコブとヨハ
ネに、私の飲もうとする杯を飲むことができるかと問われました。杯は、神の
怒りを表します。二人は、つかの間の苦痛と考えて、本当の意味をわからず、
飲めますと答えました。
 その後、イエス様は、人の上に立とうとするなら仕える者となるように言わ
れました。そしてイエス様自身仕えられるためではなく、仕えるために来られ
たと言われます。それは、多くの人の罪の身代わりとして、十字架の死で、ご
自分のいのちを与えることを意味していました。
 仕えることは、容易ではありません。イエス様が私たちに命を下さったこ
と、またその愛を覚える時に、私たちも主に続いて、仕え、受けた愛を人にも
分け与えことになるのです。主に仕えるように人にも仕えましょう。エペソ六
章5節
 
2012年2月26日
【五時からの報酬】マタイ二〇章1節~16節
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分
自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ二章8節)

 譬(たとえ)話では、日常的なものとそうでないものがつながっています。
多くの場合そこに要点があります。
 今日の譬えでは、ぶどう園の収穫のために、その日の労務者を雇いに行くの
は、日常です。しかし一時間働いた人と十二時間働いた人が、同じ賃金をもら
います。一デナリは当時一日の標準賃金です。イエス様が話すとぶどう園の主
人の言葉が当然のように思ってしまいますが、そうでしょうか。むしろ不満を
言う労務者の言葉が当然ではないでしょうか。暑い中十二時間も肉体労働をす
れば、心も身体もふらふらになります。一時間の労働とは全く違います。その
人達よりも、多くもらえると思うのは当然のことではないでしょうか。私たち
が掃除をさぼる人をずるいと感じるのと似ていないでしょうか。
 ぶどう園の主人のしたことは普通ではあり得ないことです。ではなぜ、その
ようにしたのでしょうか。「最後の人にも」「同じだけ上げたいのです」と書
かれています。主人の意思です。とすればこれは労働の報酬ではありません。
では何でしょうか。これが「恵み」なのです。ギフトです。
 この前の箇所には、富める青年またペテロが出て来ます。ペテロは、家族や
仕事を捨ててイエス様に従った報酬は何かと聞きました。イエス様は永遠の命
を受けると言われました。そしてこの譬えが語られたのです。つまり永遠の命
は、報酬ではなく、神様からの贈り物としてなのです。受けるにふさわしいか
ら与えられたのではありません。
 救いは早い人もぎりぎりの人もいます。恵みと知れば、信者の長い労苦は、
共に十字架を負うことで、多くの収穫得る喜びなのです。
 
2012年2月19日
【安息日の主】マタイ一二章1節~14節
「人の子は安息日の主です。」(マタイ十二章8節)

 今日は、安息日についてです。ユダヤ教の安息日は土曜日ですが、これはキ
リスト教会の日曜日、礼拝の日に当たります。この聖書箇所では、麦の穂を摘
んで食べたことや病気を癒すことから安息日が問われています。
 安息日は、なぜあるのかというと、天地創造の時に、主が六日の間にすべて
を創造し、七日目に休み祝福されたからです。そして、神様が定めた十戒や律
法でも安息日を聖なる日と定め、労働、火を使って料理することなどを禁止し
ています。また出エジプトの時には、荒野でマナが与えられましたが、安息日
には与えられませんでした。しかし前日に安息日の分も与えられて、特別な日
であることを造り主自らあらわされたのでした。
 しかしその後厳格な人々は、労働の禁止を拡大解釈して、多くの決まりを作
り、文字を二文字以上書くこと、穂を摘むことなどを禁止しました。そこで
は、義務に縛られ、祝福と休みは忘れられ、愛と喜びは失われてしまいまし
た。
 イエス様は、旧約聖書に「大切なのはあわれみであって、いけにえ(儀式)
ではない」と記されている言葉を示されました。また穴に落ちた羊は、安息日
であっても助け出すことを示されました。そうでないと弱い羊は死んでしまい
ます。そして手の不自由だった人を安息日に癒されました。
 神様は、この日を創造の祝福と喜びの日、休み憩う日とされました。私たち
の日曜日も同じです。そしてさらに、十字架による罪の赦し、死からの解放を
覚える日です。神様からの愛とあわれみをいっぱいに受けて、重荷を下ろし、
心と身体が癒され、自由にされた喜び、復活の希望にあふれて神様を賛美する
日です。それは受けた愛を分かち合う日でもあります。
 この日を心から喜び祝いましょう。
 
2012年2月12日
【姿が変わって】マタイ一七章1節~13節
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさ
い。」(マタイ十七章5節)

 イエス様が、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて山に登った時に、光り輝
く姿に変わりました。ゴーデーは、変貌ではなく、これこそ本来の姿だと言っ
ています。それは、どんな意味を持ち、私たちとどんな関わりがあるのでしょ
うか。
 それを知るには、そこに現れた人物と話しの内容が鍵になります。そこに現
れたのは、旧約の人物モーセとエリヤでした。そしてルカによれば「エルサレ
ムで遂げようとしておられる最期のこと」について話していたのです。つまり
十字架の死、全ての人の身代わりとしての死について話していたのです。
 モーセは、神様が不信仰なイスラエルを滅ぼすと言われた時、とりなして祈
り、かなわなければいのちの書から自分の名前を消して下さいと言った人でし
た。またエリヤは、多くの偶像の預言者を滅ぼしましたが、それでも偶像と罪
はなくならないことを経験しました。人の救いは、愛による罪の身代わりの他
ないのです。
 5節は天からの声です。これはイエス様の洗礼の時と同じ言葉です。つまり
メシヤ特に苦難のしもべとしての使命を再確認させるものでした。ペテロの信
仰告白から救いのための苦難へと再出発されたのです。
 この光り輝く姿は、本来のイエス様の栄光の姿です。死後復活し、高く引き
上げられた姿です。それは、私たちが復活した時の栄光の姿をあらわしていま
す。私たちは、この栄光をめざしているのです。
 しかしそれは、死後だけではありません。この地上でも、祈り、主と交わ
り、イエス様の後に従いとりなす時に、モーセがそうであったように、私たち
も内から光が与えられるのです。
 
2012年2月5日
【ペテロの信仰告白】マタイ一六章13節~28節
シモン・ペテロが答えて言った。
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ十六章16節)

 私たちにとって、イエス様は何者なのかと言うことは、いつも問われている
ことです。今日の聖書箇所もそうです。そしてこの告白が、この福音書を大き
く分け、主イエス様が、十字架へ進路を明らかにされたことを告げています。
 イエス様が最初に聞かれたのは、人々が人の子(イエス様のこと)をだれと
言っているかと言うことでした。エリヤやバプテスマのヨハネなどいろいろな
答えがありましたが、いずれも偉大な預言者の一人でした。
 次にイエス様は弟子たちに、あなたがたはだれと言うか聞かれました。その
時ペテロが答えたのが16節です。イエス様は、この答えを大変喜ばれました。
それは父なる神様から示されなければ、イエス様は神の御子キリストとは言え
ないことだからです。今でもイエス様を偉大な預言者の一人のようにしか見る
ことのできない人々や団体が多くあります。今でもイエスは、「神の御子キリ
スト(=救い主)」と言うことができるのは、天の父の啓示と聖霊の働き(Ⅰ
コリント一二章3節)によるのです。このように信じ告白できることは、何と
幸いなことでしょうか。
 この時からイエス様は、ご自身の十字架の苦しみと復活を話されました。と
ころがペテロはことのことで、イエス様に「サタン」と呼ばれました。すばら
しい信仰告白をしてもまだ救いのご計画についてほとんどわかっていなかった
のです。しかし、主イエス様は、この信仰告白があれば大丈夫、やがてこの上
に黄泉も死も打ち破る教会が建てられると約束されました。そこには私たちが
負うべき十字架もあります。
 私たちの信仰がどんなに弱く未熟であったとしても、イエスは神の御子キリ
ストと告白する時、私たちをも共に十字架を担うもの、復活の勝利に与るもの
へと導いて下さるのです。イエスを神の御子キリストと信じましょう。
 
2012年1月29日
【イエス様の常識】マタイ十四章22節~32節
イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を
歩いてイエスのほうに行った。(マタイ十四章29節)

 今日の箇所は、イエス様の水上歩行です。聖書また福音書には、しばしば奇
蹟が記されています。よく見るとその目的は、主の御名が崇められることで
す。この箇所でも、弟子たちが主を崇めています。
 この出来事を読んで、普通の人はどのように思うでしょうか。しばしば教会
の中では、言うのがはばかられるような気がするかも知れませんが、できるは
ずがない、あり得ないというものです。これが正常な反応です。普通だれも水
の上を歩けません。歩いたとすればしかけがあるか、錯覚や勘違いか、あるい
は作り話と感じるのではないでしょうか。
 しかし信仰を持つようになると、やがてイエス様ならできると信じられるよ
うになります。そうでない人も時間のかかる人もいるかも知れません。しかし
創造主であるお方は、自然の法則も作られたのであれば、それを越える事もで
きると考えるのは、矛盾することではありません。
 この場にいたペテロはどうしたのでしょう。イエス様だけではなく、イエス
様が命じさえすれば、自分も水の上を歩くことができると信じたのです。事
実、イエス様の命令を受けて水の上を歩いてイエス様の方へ行くことができま
した。しかしその時風を見て怖くなると沈んでしまったのです。すぐにイエス
様が助けて下さいました。
 イエス様から見るとどうなのでしょう。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うの
か。」この言葉は、なぜ沈んだのか不思議でならない、どうして水の上を歩け
ないのかと言っている気がしてなりません。
 私たちは水の上を歩けません。しかしイエス様にとって私たちが水の上を歩
く方が当然のことなのです。水の上とは、この世に沈まないで恵みの世界を歩
くことを示しています。それは私たちの力ではできません。主から目を離さな
いで、ただ主の恵みによってのみ歩める世界を、私たちは信仰によって歩き続
けるのです。
 
2012年1月22日
【ついて来なさい】マタイ四章18節~22節
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間を
とる漁師にしてあげよう。」(マタイ四章19節)

 荒野での試みの後、イエス様は、神の国の宣教を始めました。今日の聖書箇
所は、ペテロ、アンデレ、ヤコブとヨハネの召しです。イエス様の弟子とはど
んな人なのでしょうか。私たちとどのような関係があるのでしょうか。
 第一に、召しの目的は何でしょうか。それは、人間をとる漁師にするためで
す。その意味は、神の国へと人々を導くことです。主は、神の国を導くために
人を召し、共に救いのみ業に参与するようにと導いておられるのです。
 第二に、召しの条件は何でしょうか。どんな人が召されるのでしょうか。ペ
テロ達は、漁師でした。聖書を良く知っ、ているとかお祈りが上手とか、才能
やお金ではないようです。しいて言うなら、素直な心ですぐに応答する人では
ないでしょうか。..主へ信頼をもっていることです。
 第三に、どこで彼らは呼ばれたのでしょうか。それは、仕事の真っ最中でし
た。主が私たちに語りかけるのは、必ずしも礼拝や黙想の時とは限りません。
いつでも語りかけて来られます。職場でも家庭でも学校でも恵みの御座は開か
れるのです。
 第四に、いつ召されたのでしょうか。「すぐ」の応答は大切ですが、初対面
ではありません。ヨハネ一章など、その前に主イエスと会いよく話しをし知っ
ていたのです。しかし成熟には遠っかたはずです。主が適切な時をご存知で
す。
 第五に、召しの障害になることは何でしょうか。それは、条件を付けること
です。仕事がある、家庭がある、能力がない、ふさわしくないなどです。召し
て下さった方が真実で、私たちをふさわしく作りあげて下さると信頼しましょ
う。
 第六は、弟子訓練はいつまで続いたのでしょう。十字架の時も復活の時もま
だ弟子としておぼつかないものでした。聖霊を受けて,真理に立つことができ
るようになったのです。
 主は、私たちそれぞれを弟子として用い、共に喜ぼうとされています。
 
2012年1月15日
【悪魔の試み】マタイ四章1節~11節
「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口か
ら出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ四章4節)

 洗礼を受けたイエス様はすぐに宣教を始めたのではありませんでした。御霊
に導かれたのは荒野で、四〇日の断食の後、悪魔の試みにあわれたのでした。
 なぜこの記事が記されているのでしょうか。だれが見ていたのでしょうか。
当事者以外だれも見ていません。イエス様が弟子たちに話したのです。なぜで
しょう。弟子たちも、そして私たちも知っている必要があることだからです。
私たちも悪魔によって魂を揺さぶられるような試みにあうことがあるからで
す。
 では、試みはどのようになされたのでしょうか。第一は、もし神の子なら石
をパンに変えてみよでした。これは能力による救いを示します。イエス様は人
は神のみ言葉によって生きると答えられました。第二は、高い神殿の上から飛
び降りてみよというものでした。ここにはユダヤ人の王なる救世主像がありま
した。それは力による救いの道でした。イエス様は、主なる神を試みてはなら
ないと答えられました。第三は、世界の栄華を見せ、悪魔を拝んでこれを得る
ことでした。これは富みと偶像による救いを示します。イエス様は、サタンを
叱り主のみ拝せよと答えられました。飛んで、最後の試みは、十字架から降り
て自分を救うことでした。試みには共通の特徴があります。それは身代わりの
十字架以外の救いの道です。罪の報酬である苦しみと死を代わりに負うほかに
救いの道はなかったのです。私たちも十字架の他進む道はありません。そして
悪魔は勝てなかったのです。
 この試みに勝利したことは、何を意味するのでしょうか。マタイは、イエス
様の生涯をイスラエルの歴史の踏み直しととらえています。イエス様はいずれ
も申命記のお言葉を引用されました。不信仰による荒野の四〇年をイエス様が
代わりに勝利して下さったのです。私たちの不信仰も主が代わって勝利して下
さるのです。もう一つは、私たちと共にいて下さる主(インマヌエル)です。
どんな試練の中でも主はその苦しみを知って共にいて下さるのです。
 
2012年1月8日
【イエスの洗礼】マタイ三章1節~17節
「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行す
るのは、わたしたちにふさわしいのです。」(マタイ三章15節)

 バプテスマというのは、浸すという意味で、洗礼のことを指しています。そ
れまで洗礼を受けるのは、おもに異邦人がユダヤ教に改宗した時でした。ユダ
ヤ人は洗礼を受けていませんでした。それは、アブラハムの子孫で神様に選ば
れているから悔い改める必要はないと考えていたのです。しかしヨハネが、悔
い改めのバプテスマを受けなさいと進めると、ユダヤ人も心を開いて罪を悔い
改めたのです。これは救世主が来られる道ぞなえでした。
 イエス様のもこのヨハネのところへ来て洗礼を受けられました。しかし神の
御子、罪のないお方は、罪を悔い改める必要はありません。洗礼の必要もあり
ません。ではなぜ洗礼を受けられたのでしょうか。イエス様はご自身の洗礼を
「正しいことを実行する」ことだと言われました。この正しいとは神の意志で
ありみ心にかなうことを示しています。それは救いを成就するためです。そし
てそれは人と同じ罪人の立場に立つためでした。なぜなら天の父の前にとりな
すことのできるのは、まったき神であり、まったき人だからです。罪は犯され
ませんでしたが、人の弱さをことごとく知り尽くしたイエス様だから救いを成
就できたのです。
 この洗礼は、メシア就任式とも言われます。この時およそ三〇才になるま
で、家庭で社会で人に仕えていたのですが、ここから神の国の宣教を始められ
たのです。
 イエス様の洗礼には、二つの天からのしるしがありました。御霊が鳩のよう
に降られました。また天からの声がありました。それはイエス様の使命が、王
なる支配者であると同時に、苦難のしもべであることを示しています。
 今、私たちは、信仰告白として洗礼を受けますがそれには、古い罪深い自分
がキリストと共に死に、キリストと共によみがえらされたことを意味していま
す。私たちは、キリストと結び合わされているのです。
 
2012年1月1日
【ナタナエル】ヨハネ一章43節~51節
「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなた
は信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになり
ます。」(ヨハネ一章50節)

 今日は、ナタナエルについて、み言葉に聞きましょう。ナタナエルとは、神
の賜物という意味です。その名前はヨハネ一章と二一にしか出て来ませんが、
十二弟子の一人、バルトロマイの別名であろうと言われています。いずれにし
ても、具体的に記されているのは、この箇所だけです。
 イエス様とナタナエルをつないだのは、ピリポでした。ナタナエルは最初
「ナザレから何の良いものがでるだろう」と言ってあまり期待をしていません
でした。しかしイエス様と話し「神の子」と認めました。イエス様への見方が
変わって弟子となったのです。
 では、イエス様は、ナタナエルをどう見ておられたのでしょうか。まずナタ
ナエルに合う前から見て知っておられました。創造主は、私たちが知らなくて
も私たちを心にかけてご存知なのです。次に47節「これこそほんとうのイスラ
エル人だ。彼の心に偽りがない。」と。その心の内まで見抜いておられます。
ところで偽りのないとはどういうことでしょうか。それは、自分の心の良し悪
しを知り、それを隠さず神様の前に認めることです。全てご存知ですから、隠
す意味はありません。第三には、いちじくの木の下にいたことです。これは瞑
想や祈り、主との交わりを示します。それは私たちにも大切です。信仰生活の
基本は、主との人格的関係です。五つの約束は、毎日聖書を読む、毎日お祈り
する、礼拝を守る、献金をする、伝道と奉仕をすることです。第四は、さらに
大きなことを見るという約束です。事実ナタナエルは、十字架と復活のキリス
トを通して、天の恵みが全世界に注がれることを見ました。その恵みは今日に
も続いて、私たちにも注がれています。この新しい年、私たちも恵みの約束を
信じて、偽りのない心で祈りましょう。基本に忠実な信仰生活で、主との交わ
りを深め、主のみわざにあずかりましょう。
 
2011年12月25日
【共にいます神】マタイ一章18節~25節
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエル
と呼ばれる。」 (訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である
。)(マタイ一章23節)

 今日の聖書箇所は、ヨセフに対するみ告げが記されているところです。神様
は、マリヤに対しても、御使いによって特別に知らせましたが、ヨセフに対し
ても、夢を通して特別に語られたのです。
 ヨセフは、マリヤと婚約し結婚を待ち望んでいたことでした。当時ユダヤで
は、婚約は、結婚と同じ程の重みをもっていました。かといって結婚したよう
に一緒に暮らすわけではありません。その辺ははっきりしていました。しかし
婚約を解消することは、離婚すると言われたほどでした。
 ところがそのマリヤが妊娠していると気づいたのです。ヨセフは正しい人で
した。身に覚えのないことでした。裏切られたと考えるほかありません。ここ
にヨセフの苦悩があります。真実だと思っていた人の裏切り。その事実の前
に、マリヤを受け入れることはできませんでした。聖書によれば、姦淫は、石
打ちの死罪です。しかしマリヤを告発することは、ヨセフにはできませんでし
た。それでもマリヤを愛しているからです。ヨセフが考えに考えた結論は、内
密に離婚することでした。ヨセフは非難されますが、マリヤは助かるのです。
 その時に、主の使いが夢に現れて告げました。マリヤの子は、聖霊によるも
ので、恐れないで結婚するように、またその子はその民を全ての罪から救う者
となると。ヨセフは、どれほどに驚き喜んだことでしょうか。そのようなこと
は、どんなにマリヤが一生懸命話したとしても、信じられることではありませ
んでした。
 著者のマタイは、この出来事が、イザヤ書の預言の成就であると言っていま
す。そしてその名をインマヌエルと言いました。それは、「神は私たちととも
におられる」という意味です。罪とは、本来造り主である神様から離れること
を意味しています。離れた私たちのところに、救い主は来て下さって、共にい
て下さるのです。そして私たちを神様に立ち帰らせて下さるのです。
 
2011年12月18日
【まことの光】ヨハネ一章1節~18節
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
(ヨハネ一章9節)

 旧約聖書を読んでみると、至る所にキリスト預言があることに驚きます。救
い主の到来がどれほど待たれていたか感じます。
 さて、ヨハネは、独自の視点から、キリストについて記しています。それに
は当時のギリシャ思想が影響していると言われます。私たちには、最初とっつ
きにくく見えます。しかし、物質や見えるものよりも霊的なものや見えないも
のに価値があると見なしたことを考えるとわかりやすくなります。
 ここでの「ことば」はキリストのことです。私たちの使う言葉というよりも
言葉の源や本質のようなものをあらわしています。ことばなるキリストは、ど
んな性質をあらわしているのでしょうか。
 キリストは、世界の始まる前からおられ、その創造にたずさわり、父なる神
様つまり創造主と共におられ、神であられると記されています。キリストは、
神であられるお方が、人となって来られたのです。聖書は、父、子、聖霊なる
神様は三位一体であることを示しています。それぞれの個性がありますが、愛
によって一つの存在なのです。御子は、被造物ではなく、神から生まれたもの
と記されています(コロサイ一章15節~)。そしてこのお方は、命の源であ
り、まことの光なのです。まこととは、偽物ではなく、また不完全でもなく、
完全なということです。光は暗闇にすでに勝ったのです。
 ではこの御子が人となってこられた目的は、何でしょうか。それは、すべて
の人を照らすということです。心の中を照らすことです。でも人は、心の中を
照らされることを好みません。そこに罪や汚れ、暗闇が見えるからです。しか
しキリストを受け入れた人は、まことの光に照らされて、暗闇を取り除くこと
ができます。すると暗闇が除かれ、神の子となる力が与えられて光り輝くので
す。だから恐れずに、主の御前に出て、いのちの光をいただきましょう。
 
2011年12月11日
【ミカの預言】ミカ五章
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、
あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。」
(ミカ五章2節)

 旧約聖書を読んでみると、至る所にメシア預言、つまり救い主が与えられる
ことについての預言があることに驚きます。このミカ書五章もその一つで、救
い主がベツレヘムから出ることを預言しています。マタイ二章には、博士たち
がヘロデ王のところに来た時に、祭司と律法学者が、それはベツレヘムですと
証言したことが記されています。ベツレヘムとはどんな場所なのでしょうか。
 実は、ベツレヘムは、ダビデ王の出身地として知られていました。ダビデ王
は、皆が尊敬する王で、強く敵を破り、民の心を捉えた王でしたが、それ以上
に、神様に信頼し、信仰によって患難を乗り切ってきたからでした。ミカが預
言した時もダビデの子孫が王でしたが、国は衰退し、信仰も揺らぎ、周辺国の
執拗な攻撃にさらされていました。ダビデのような王を期待する気持ちもあっ
たでしょう。しかしダビデも完全ではありませんでした。姦淫と殺人、それ以
上に神様をあなどったことは大きな罪でした。ダビデはゆるされましたが、そ
う言う意味では神のメシア(救世主)にはなれなかったのです。神様は、本当
に罪のない救い主を備えて来られたのです。
 神様は、マリヤとヨセフを選ばれましたが、彼らはナザレに住んでいまし
た。彼らは皇帝の命令によって出身地ベツレヘムまで移動することになったの
です。そしてこの預言が成就したのです。
 そしてこの救い主は、最も小さいものに与えられます。ダビデには、七人の
兄がおり、サムエルが来た時、呼ばれもしませんでした。神様は、今も小さい
ものに目をとめて、救い主を送り、救いの道を開いています。
 
2011年12月4日
【受胎告知】ルカ一章26節~38節
「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご
自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ一章21節)

 私たちは、クリスマスを待ち望んでいます。学校や幼稚園でもクリスマス会
のために一ヶ月以上も前から準備して、すばらしいものができるようにと準備
します。天の神様は、人が罪と死から救われるように、救い主を送ろうと何千
年も前から、それは人が罪を犯してしまった時から、計画して準備してきまし
た。マリヤさんへのお告げは、この準備の最後の仕上げといってもいい出来事
でした。
 さて、マリヤさんはヨセフさんと婚約していました。そしていつものように
お祈りしていると突然その場所が明るくなりました。マリヤさんは、びっくり
しました。そこには、天使のガブリエルが立っていたのです。天使は言いまし
た。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」マリヤが
戸惑っていると、天使はさらに「こわがることはない。マリヤ。あなたはみご
もって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子は、いと高き者
の子と呼ばれるでしょう。」と言いました。マリヤは、びっくりしました。そ
して訪ねました。
「私は男の人を知らないのにどのようにそうなるのですか。」
「聖霊があなたに臨むからです。だからマリヤさんの子だけれども、マリヤさ
んの子ではなく、神の子なのです。」そして「神にとって不可能なことは一つ
もありません。」と言われました。
 最後の言葉を聞いた時、マリヤさんは「あっ」と思いました。それは、イサ
クが生まれる時に、年老いたアブラハムやサラが天使から言われた言葉だった
からです。神様が、特別なことをなさるんだとわかりました。わからないこと
や不安なこともあります。でもそのお言葉を信じました。そして神様にお任せ
しようと決心したのです。
 こうして、大切な救いの準備はできたのです。私たちに与えられた救い主を
私たちも受け入れましょう。そして、私たちも神様にはできないことは一つも
ないと信じて、み言葉にお任せする時、神様は私たちに特別なことをして下さ
るのです。
 
2011年11月27日
【益になること】Ⅰコリント六章
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだを
もって、神の栄光を現わしなさい。」(Ⅰコリント六章20節)

 コリントの教会は、イエス・キリストによる罪の赦しと救いにあずかったは
ずですが、教会内にある不品行の罪を悲しんだり、悔い改めて取り除くことが
できないでいました。その背景には、この世の考え方がありました。
 ギリシャ思想では、霊的な存在を聖なるものと考えましたが、その反対に、
物質的なものや人の体、肉体は悪であると考えました。するとそこから、体を
喜ばすことを否定する禁欲主義と体はもともと悪だから自由勝手にする快楽主
義と両極端の思想が生まれてきました。コリントの教会もこれらの影響を受け
ていたのです。
 しかし、聖書の教えはこれらと違います。私たちは、キリストにあって罪か
ら自由にされています。しかし何かをする場合、それが益になる場合と益にな
らない場合があるのです。聖書は、霊的なものを大切にします。同時に、物質
的なものや人の体も、父なる神様が造られた大切なものなのです。私たちは、
かつては自分のからだを、自分勝手に使っていたとしても、今は、キリストの
十字架という代価を払って、罪と死から買い取られたのです。だから自分のか
らだであっても、神様のものであり、聖別されたものなのです。だから私たち
は、自分のからだをもって、神の栄光を現すように造られているのです。私た
ちは、キリストのからだの一部なのです。
 パウロは、「からだ」にこだわっています。特にこの箇所では顕著です。そ
れには訳があります。あのダマスコ途上で天から「なぜ私を迫害するのか」と
声を聞いた時、パウロは「主よ、あなたはどなたですか」と答えました。その
答えは「私は、あなたの迫害しているナザレのイエスである」というものでし
た。パウロは、キリスト教徒を迫害したことはあってもイエス様を迫害したこ
とはありません。クリスチャンとイエス様は、一つのからだだから、クリスチ
ャンの苦しみはイエス様の苦しみなのです。だから私たちは、自分のからだを
聖別し、主の栄光のために用いるべきなのです。
 
2011年11月20日
【祭りのパンは】Ⅰコリント五章
「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あ
なたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、す
でにほふられたからです。」(Ⅰコリント五章7節)

 パウロは、畑や建物等の譬えでわかりやすく書いていますが、ここでは過ぎ
越の祭りで使われるパンに譬えて話しています。しかしそれに先だって、コリ
ント教会内にある罪を指摘しています。それは不品行です。近親相姦が指摘さ
れ、未信者よりもひどいものでした。それにもかかわらず、教会はその罪に向
き合ったり、悲しんだり、取り除こうとしなかったのです。Ⅰペテロ四章17節
には、神の裁きは教会から始まることが記されています。この世はすでに裁か
れているからです。
 祭りに使うパンは、パン種つまりイースト菌を入れませんでした。ここでは
パン種は、悪いものを指しています。パン種は発酵させます。わずかでも粉全
体に影響を及ぼします。一度菌が入ると発酵は止まりません。そして酸っぱく
なります。発酵は腐るのと同じ現象です。
 祭りに使う良いパンは、パン種=イースト菌が入っていないパンです。それ
は膨らみません。でも菌が入っていないので変化せず、いつまも新鮮なままな
のです。
 一度粉に入った菌は、取り除く事は出来ません。罪も似ています。しかし私
たちは悪いパン種を取り除き、純粋なパンで祭りをするのです。
 どのようにしてパン種を除くのでしょうか。過ぎ越の祭りとは、御使いが過
ぎ越したことを記念しています。そうしなかったエジプトの全ての家では、長
子が殺されました。門に羊の血が塗っていなかったからです。羊が代わりに死
んだのです。これは罪を身代わりに負うキリストを指しています。過ぎ越の祭
りの日に、十字架で血を流されたキリストこそ、私たちの罪を代わりに負って
死なれたのです。私たちは、キリストの御名と神の御霊によって、洗われ、聖
なる者とされ、義と認められたのです(六章18節)。主の前に罪を告白し、赦
しを信じましょう。
 
2011年11月13日
【奥義の管理者】Ⅰコリント四章
「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと
考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。」
(Ⅰコリント四章12節)

 パウロは、三章に引き続き、譬えを使ったりしてわかりやすく書いていま
す。6節までの「私たち」とはパウロとアポロ、つまり牧者を指しています。
パウロはここで、牧者と信徒を分けるようにして書いています。しかし信徒も
神の奥義を知る者ですから、牧者について記しているところも全く無関係では
ありません。
 パウロは、自分たちをキリストのしもべ、また神の奥義の管理人と呼びまし
た。しもべとは、ガレー船の底でオールを漕ぐ人々をさす言葉です。目には見
えないところでひたすら働いているのですが、船は彼らによって動いているの
です。牧者は、そのようにキリストに仕えるのです。また奥義は本来秘密秘伝
を表しますが、キリストの十字架による救いによって全ての人に明らかにされ
ています。この救いを王冠を守るように預かっているのが管理人です。彼らに
求められるのは、忠実です。ところでヘブル三章には、モーセとキリストが忠
実であったと記されています。モーセは、イスラエルが神様の約束を信じない
で滅ぼされようとしたとき、自分を引き換えに執り成しをしました。そして大
祭司であるイエス・キリストは、あの十字架で全ての人の罪を負い、死をもっ
て、人々の命をあがなったのです。牧者の心は、キリストと同じ心になってと
りなすことなのです。
 さて、信徒については、「書かれていることを越えない」つまり「高慢にな
らない」ことです。コリントの信徒は、パウロが皮肉たっぷりに言っているよ
うに、高慢になり、牧者を裁き、互いに争っていたのです。パウロは、16節
「わたしにならう者となって下さい」と勧めています。牧者と信徒が、共にキ
リストの心を知り、キリストと同じ心で執り成し、仕え合うことは何とすばら
しいことでしょうか。
 
2011年11月6日
【神の神殿】Ⅰコリント三章10節~23節
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられること
を知らないのですか。」(Ⅰコリント三章16節)

 先週の部分では、パウロは、私たちを神の畑に譬えていましたが、今日の箇
所では、神の神殿に譬えています。だから神の御霊つまり聖霊が私たちのうち
に宿っていると言っています。建物から私たちはどのようなものであるかを知
ることができます。
 建物は、それ自体も大切ですが、もっと大切なのは、造る目的と設計です。
造るにはやはり目的があるからです。住居、店舗、工場、教会などそれぞれの
特色があります。人が住むのに、大きな劇場では、住みにくいのです。住宅と
工場では必要な動力や設備、広さも違ってきます。
 人が造られたということも、目的や理念があり、それに沿って設計されてい
るのです。それは、神の神殿であり、神の御霊が住むところです。そして神様
の栄光、すばらしさ、また愛の交わりのすばらしさを表すために造られたので
す。もし違った使い方をすれば本来のすばらしさは生きてきません。もし人間
が偶然の産物と考えるなら、目的はなく空虚な存在です。しかしそうではあり
ません。
 その土台は、イエス・キリストです。人は、神の愛に背きました。その負債
を代わりに負われたのがキリストの十字架です。神様の愛は、与える愛です。
人の愛は、自分を満たそうとし、時には人から奪うのです。キリストは愛によ
って私たちは神様との愛の交わりを回復されたのです。
 その上の建物が、私たちの生活と言えるのではないでしょうか。土台に合わ
ない建物は、支えられず建てられません。愛の交わりを回復された私たちは、
互いに、与える愛を実践して生きるようにと導かれています。それが御霊の宿
る神の神殿です。そしてどんな建物かは、終わりの日に火で試されるのです。
神への愛と愛の働きとは、無駄になることはありません。永遠に残ります。
 私たちのうちに、神の御霊を宿していることを心にとめて、大切に生活しま
しょう。
 
2011年10月30日
【成長させてくださる神】Ⅰコリント三章1節~9節
「それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長さ
せてくださる神なのです。」(Ⅰコリント三章7節)

 パウロは、一、二章では、キリストと救いについて話しましたが、三章で
は、コリント教会の問題点に触れ始めました。今日は、三つの点から、その問
題点を見て行きましょう。
一.所属の問題1
 一~三節をみると、パウロはコリント教会の聖徒たちに、霊的な面で大人に
話すようにできず、幼児のように話したと話しています。パウロは、人間の所
属を霊的な面から三種類に分けています。一つは、主イエスを救い主と信じて
いない人々で、ただの人、生まれながらの人間(二章14節)で神の御霊に属さ
ない人々です。残りの二つは、主イエスを救い主と信じる人々ですが、御霊に
属する人々と肉に属する人々です。前者は、御霊によって世界を見、考え行動
します。後者は、霊によって生まれたのですが、救われる前の肉によって、世
界を見、考え行動します。そうすると父なる神様のみ旨がわからないのです。
私たちは、信仰的な幼児から健全に成長するようにと期待されているのです。
二.ねたみと争い
 肉に属する結果として出てくるのは、神様ではなく自分中心な考え方です。
そこにねたみや争いが起こります。神の愛は、人に豊かに与えるものです。神
様から離れると自分を満たそうと人から奪おうとするのです。私たちは、神様
から赦された者として、人をゆるす時、ねたみと争い、ゆるせない人の支配か
ら解放されます。
三.所属の問題2
 彼らはパウロにつくか、アポロかと争っていました。救い主は、キリスト・
イエスのみです。私たちの命はキリストの内にあり、キリストにあって成長す
るのです。パウロは伝道し、アポロは聖書を教えましたが、それは主にある役
割の違いです。私たちの個性や違いは、神様にある豊かさです。それを認め合
うときに神様の栄光は、最も豊かに表されるのです。
 主によって霊的な大人へと成長させていただきましょう。
 
2011年10月23日
【嵐を静める】マタイ八章23節~27節
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」
(詩篇四六篇1節)

 イエス様が、嵐を静められた出来事です。日曜学校でもよく話されます。
 聖書には、ガリラヤ湖の嵐がしばしば登場します。この湖は、回りは高い山
や岡に囲まれ、突然に風が吹き下ろしてくることがあるようです。
 なぜ嵐にあったのかを考えてみます。するとイエス様が舟に乗り、弟子たち
が従って来ました。つまりイエス様が導かれたところで弟子たちは嵐に会った
のです。私たちは、何か起こるとなぜと考えます。自分のせいとかああしなけ
ればと考えます。しかし、私たちの人生で、嵐は避けられません。信仰が弱い
から嵐に会うのではありません。信仰があっても嵐はやってくるのです。私た
ちは、どう嵐に対処したらよいのでしょうか。
 弟子たちは、あまりの嵐に舟が沈むのではないかと恐れました。イエス様が
嵐をしかり、静められた時、その権威に驚きました。神様は、天地宇宙を造ら
れた創造者です。ただ造られただけでなく、今もその営みをご支配されていま
す。主イエス様は、ちょっと優れた人というのではなく、創造の権威をもって
おられるお方です。
 もう一つ覚えるべきことは、神様は私たちが求めるなら答えて下さるお方だ
ということです。遠くにおられて、無関係なのではなく、造った私たち一人一
人に目をとめて慈しんでおられます。
 しかし私たちは、主がすぐ近くにおられることに気づかなかったり、主に頼
らないで自分のちからで何とかしようとしてしまいます。弟子たちに必要なこ
とは、イエス様を起こして、イエス様にお願いすることでした。私たちに必要
なことは、主の権威を認め主に求めることではないでしょうか。その時嵐は静
められるのです。
 
2011年10月16日
【イサクの花嫁】創世記二四章
「あなたのしようとすることを主に委ねよ。そうすれば、あなたの計画はゆる
がない。」(箴言一六章3節)

 アブラハムは、年長のしもべにイサクの花嫁を、アブラハムの故郷で親族の
中から捜してくるように言いました。結婚も人生の中で大切なことですし、ま
たここに見られる信仰も大切なことを私たちに示しています。
 このしもべは、主人の故郷へ行き、どう捜していいか皆目検討もつきません
でした。そこで神様にへりくだって祈りました。それは、ここに来た娘に、井
戸の水を汲んで下さいとお願いするものでした。水を汲み、さらにらくだにも
飲ませるなら、神様に導かれた人だとして下さいというものでした。
 まるで夢のような話しですが、神様は、その祈りのとおりにして下さいまし
た。結婚相手が、真の神様を知り、祝福の約束を握って、忘れず、しかも子供
も約束に立つように導く人であるようにと願い、僕は大胆に祈ったのです。そ
して事の成り行きは、しっかりと見極めました。
 また、この信仰と祈りの成就には、リベカの従順も大切なことでした。この
結婚は、家族との一生会えないことを意味しましたが、リベカはすぐに出発す
ることに同意をしました。私たちは、神様が導かれていることに、従うことを
躊躇していると、その間に恵みを逃してしまうことがないとは限りません。
 またしもべは、願っているとおりに導かれなかった場合にはどうするかも、
アブラハムに聞きました。私たちが導きだと思っても、実際にことが進まない
こともあるのです。その時も、神様に信頼して、別の導きを求めていく必要が
あるのです。
 主に心へりくだって祈る時に、必ず答えて下さると信じて祈りましょう。祈
りの答えを見て主をほめたたえましょう。
 
2011年10月9日
【神の御霊を受けて】第一コリント二章
「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けまし
た。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るため
です。」(Ⅰコリント二章12節)

 パウロがコリントの教会へ宛てた手紙です。パウロは、腐敗の多い町にでき
たこの教会を愛して、成長を願い手紙を書きました。二章では、どのように福
音を聞いたかが記されています。
一.パウロの伝道法
 パウロは、どのようにコリントで福音を伝えたのでしょうか。ここには、す
ぐれたことば、すぐれた知恵を用いなかったとあります。私たちは、人を説得
しようとする時、一生懸命にどう話そうかと考えます。パウロは、どうしたの
でしょう。パウロは、十字架につけられたイエス・キリストだけを知ろうとし
た(2 節)のです。この「知る」とは、知識として知るのではなく、体験とし
て人格として知ることを意味します。その人のことは、人から聞くよりも、そ
の人に会ってわかるということです。キリストとの深い交わりによって、キリ
ストはコリントに伝えられたのです。それは、人の業ではなく、御霊の力、業
によるということです。この頃パウロは、とても弱さや恐れを覚えていました
が、御霊は働かれたのです。
二.コリントの教会の救い
 人々は、どのようにして救われるのでしょうか。それは、その後の歩みを決
める上でも重要です。救われたというのは、単に知識でわかった、人の説得に
納得したということではありません。神の御霊を受け入れ、御霊によって心が
開かれ、キリストにお会いして、救われるのです。だから神様からの確信が与
えられます。御霊は、キリストを示します。
 私たちは、恵みによってキリストを知ったのです。だから御霊によって歩む
のです。
 
2011年10月2日
【み言葉を行う】マタイ七24節~27節
「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの
者であってはいけません。」(ヤコブ一章22節)

 今日の箇所は、イエス様の山上の説教の最後の部分です。愛に富んでしかし
厳しくもあるメッセージを主は話されましたが、最後に話されたことが、み言
葉を聞いて行う賢い人と、み言葉を聞いても行わない愚かな人についての譬え
でした。
 二人の人が家を建てました。どちらもすばらしい家でした。しかし、ある時
嵐がやって来ました。その時、一つは何ともなく、もう一つは跡形もなく崩れ
てしまいました。なぜでしょうか。一人は、岩の上に、もう一人は、砂の上に
家を建てたのでした。土台の違いが、結果の違いでした。
 人生も家を建てるのに似ています。しかし人生は、一度しかありません。何
を建てるかどのように建てるかも大切ですが、それが残るか残らないかは、土
台によって決まるのです。土台は外には見えません。私たちの人生も見えると
ころでなく、見えない土台がたいせつなのです。
 また賢い人であっても愚かな人であっても、人生の中で嵐がやって来ます。
それは、人の力ではどうすることもできないもので天災、人災、自分の過ちな
ど様々なことがあります。私たちは、嵐が来ることを前提に人生の土台を据え
る必要があります。
 そしてこの土台とは、み言葉を行うことです。聞いただけの人は、み言葉の
力を知りません。するとまさかのときに、祈ることも、神様やみ言葉に頼るこ
ともできないのです。しかし、み言葉を行っている人は、み言葉の力を知って
います。まさかのときにも、祈り、み言葉に信頼し、乗り越えることができる
のです。
 しかしみ言葉を行うことは、自分の力でできることではありません。自分に
は嵐を乗り越える力がないことを認めて、神様にすべてを信頼して任せるとこ
ろに、神の力が表れるからです。御子なるイエス様も、自分の思いではなく父
のみ心に委ねたとき、あがないと復活が成就し、人類の救いの道が開かれたの
です。
 み言葉を行うことも恵みによるのです。
 
2011年9月25日
【心配するな】マタイ六章25節~33節
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加
えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ六章33節)

 今日の聖書箇所も山上の説教の一部です。全体の教えを心にとめながら聞い
ていきましょう。この題の通り心配するなというメッセージです。当時の人々
は、今以上に、日々の食べ物や健康と病気について心配がありました。しかし
今の時代は、不安な時代と言われるように、多くの心配で満ちた時代でもあり
ます。心配は、わからないことが一つの原因です。若い人は、将来のこと、進
路のこと、大人も老後のことなどが見えにくい社会になっています。またもう
一つ原因として、自分の存在や評価がわからないことがあります。自分は、価
値があるのか、存在が認められているのか、愛されているのかがわからないの
です。
 これに対してイエス様は、私たちの存在は、空の鳥や、野の花にまさってい
ると言われます。それらも、造り主である神様は、愛し養っておられます。ま
してそれにまさる私たちを神様が養い心配しておられるのです。だから心配し
なくていいのです。また食べ物や健康、着る物についても、命や体はそれらに
まさっているのです。だから心配しなくてもいいのです。また私たちは、なく
ても大丈夫なものを求めたり、与えられれば欲が出たりします。しかし天の父
は、必要はすべてご存知でいて備えて下さいます。
 心配する代わりに、もっと積極的に求めるべきものがあります。それが神の
国とその義です。神の国は、神の恵みの支配する領域です。私たちが恵みに満
ちていることです。神の義は、救いと同義語と言われます。そこには聖なる神
様には本来受け入れられない私たちを、御子の身代わりによって義として下さ
った神の愛があります。これらを知る時、心配する必要が無いことがわかるの
です。
 
2011年9月18日 (メッセージ:石井師 文責:尾﨑豪)
【三つの求め】ヨハネ二章11節
「イエスは、このことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分
の栄光を現された。それで弟子たちは、イエスを信じた。」
(ヨハネ二章11節)

 児玉先生とは、修養生の時、北海道の開拓伝道のために、寮の屋上で共に祈
りました。なぜか私が札幌に遣わされました。六、七年後、児玉師の教理伝道
への思いは変わらず、芽室へ遣わされて来ました。今日の記念礼拝、献堂式を
感謝します。
 三つの求め。私にはないので祈り求めています。
一、「栄光」主イエス様は、最初のしるし、キリストであることのしるしをカ
ナの婚礼で表されました。水を料理がしらのところに持っていく。変なことも
その通りにした時に、最高のぶどう酒に変えられたのです。札幌教会の最初の
開拓者はS姉でした。遅くに結婚されましたが、双子が与えられました。「神
様は、最後に最高のものを与えてくださる」と賛美しています。
二、「権威」教会で口論になり、遂に「あんたは」と言われてしまいました。
言わせた私の負けです。イエス様の教えには、権威がありました(マルコ一章
21節)。説教者は主権者に服するとき、主権者である神の権威に与ります。信
徒にも証の権威があります。それは神を第一にする忠実な信仰の歩みに裏付け
られるのです。
三.「勝利」罪や悪は、強い力を持っています。油断したら足もとを救われま
す。信仰には戦いがあります。エペソ六章には、信仰の戦いに勝利するための
神の武具が書かれています。エペソの教会でも「今後、盗まないように」(四
章28節)と言われています。罪に勝つのは、神の子です。キリストの執り成し
によって勝利を得ます。死に勝てる人もいません。しかしキリストの十字架と
復活は罪と死への勝利のしるしです(Ⅰコリント十五章55節)。また自分自身
への勝利が必要です。これほど手に負えない者はいません。自我が砕かれ、キ
リストの十字架に自分も共に死ぬ時に、キリストが内に生きて下さるのです。
 私たちは、主の栄光、権威、勝利を求めていきましょう。
 
2011年9月11日
【完全な者】マタイ五章17節~48節
「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
(マタイ五章48節)

 今日の聖書箇所は、山上の説教の一部分です。だからその全体の中で聞く必
要があります。「完全な者」というと年を重ねるほどに、ほど遠い感じがする
のではないでしょうか。イエス様は、義について、私たちに、当時立派だと思
われていたパリサイ人以上にまさっていなければ、「天の御国に入れません」
と言われました。では、どんな義が求められているのでしょうか。
 ここには、多くの実生活に関わることが出て来ます。「殺してはならな
い。」しかしイエス様は、隣人を憎む者は同じように裁きを受けると言われま
した。行動に及ばなくても、心の中が問われているのです。
 姦淫についても、「情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯
したのです」と言われました。
 誓いは、心に誠実であるべきことを言われました。
 復讐については、全く逆に、呪ってはいけない、敵を愛し、祈って祝福しな
さいと言われました。
 だれがこのようなことをできるのでしょうか。
 しかし、天の父は、良い者も悪い者も差別しないで、太陽の恵みを注ぎ、雨
を降らせているのです。悪人でさえ、仲間には親切にするのです。だから私た
ちは、天の父がするようにし、完全な者になりなさいと言われているのです。
 神様の愛は、「アガペー」という語で表されます。これは犠牲をいとわない
で、相手の最善だけを考える愛です。感情だけでなく、意志と行動を伴いま
す。そして「完全」とは、無欠を表すのではなく、成熟して十分に機能を果た
すことを表します。まず神様は、キリストの十字架の死によって、敵であった
私たちへの愛と完全を示されたのです。それを信じ受け入れる私たちに同じ愛
の心(と意志と行動)で生きるように示しておられるのです。
2011年9月4日
【幸いな者】マタイ五章1節~12節
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
(マタイ五章3節)

 人はだれでも幸せになりたいと望んで日々暮らしています。何が幸せをもた
らすでしょうか。お金、美しさ、社会的地位、健康、家族や友人など様々なこ
とに期待をします。これらをもっているに越したことはありません。ではもっ
ていれば幸せになれるのでしょうか。そうでない人もたくさんいます。ではも
っていない人は、幸せになれないのでしょうか。これらのものをもっていなく
ても、幸せに感じている人は大勢います。では幸せは、どこから来るのでしょ
うか。聖書は、なんと言っているのでしょうか。
 今日の聖書箇所は、八福と言われ、・・の者は幸いですと八回記されていま
す。しかしそれは普通に考えると幸せとは思えないことです。なぜイエス様は
そう言われたのでしょうか。
 「心の貧しい」とは、主から恵みを受けなければ生きていけないことを知っ
ている人のことです。へりくだる人に、主は豊かに恵みを注がれます。「悲し
む者」は慰められます。何より自分の罪を悲しむ者は赦されるのです。「柔和
な者」は中庸な人です。神様に委ねる事を知っています。「義に飢え渇いてい
る者」それは義を求める人です。自分の限界を知り、神様から与えられます。
「あわれみ深い者」は、親身になることができます。自分が豊かに主からのあ
われみを受けていることを知っています。「心の清い者」は、汚れなくいつも
神様に心を向けてるので、神様に気づくことができます。「平和をつくる者」
主イエスは、神と人の間に平和をつくられました。これが源です。「義のため
に迫害されている者」大きな苦しみを伴うことがあります。しかし主の励まし
と希望がありま。主の前にへりくだり主にお会いする時、苦しみの中にも尽き
ることのない幸いがあります。
2011年8月28日
【妨害と再開】エズラ三章~六章
「しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、この者た
ちは、彼らの働きをやめさせることができなかった。」(エズラ五章5節)

 バビロン補囚から帰還した民は、神殿の再建に着手しました。基礎ができ、
大いに喜びました。しかし近隣の異邦の民が、妨害を始めると遂に工事は中断
に至りました。私たちも信仰をもっても様々な困難や試練に遭うことがありま
す。民はなぜ工事を中断したのか、どう再開できたのか。私たちの信仰にも当
てはめることができます。
 中断の原因は、何よりも妨害工作です。悪いうわさを始め、批難や中傷、い
やがらせ、圧力そして実力行使。遂に民は、屈服しました。悪魔は私たちの信
仰を攻撃します。私たちは、悪魔のやり方を良く知り、どのように守るかを知
る必要があります。また傷には癒しと回復が必要です。
 次の原因は、原点を忘れてしまったことです。中断の命令が出た時、何の反
論もできませんでした。しかし彼らは、初代ペルシャ王の命令により、帰還し
神殿再建を始めたのでした。私たちも妨害に囚われて、信仰の原点、イエスキ
リストの十字架による救いから離れては、何もできません。彼らは、預言者ハ
ガイとゼカリヤによって、再起しました。私たちもみ言葉によって、いつも救
いを確かめ、信仰の働きを継続しましょう。
 もう一つの原因は、動機の不純です。ハガイ書を見ると、民は神殿再建を差
し置いて、板張りの家つまり立派な家に住んでいると言っています。神殿再建
の動機がうすれ、自分の繁栄や欲が入り込んできました。神様は、純粋に神様
に仕えることを喜ばれます。主は、心を見られます。ルターの宗教改革も純粋
に救いを問うた時に、主が用いられました。自己の欲など、不純なものを聖別
しましょう。
 主の目は、私たちに注がれています。
 
2011年8月21日
【みな変えられる】Ⅰコリント一五章50節~58節
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、
死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」
(第一コリント一五章52節)

 今日は、召天者記念礼拝です。先に召天された方々を偲びつつ、私たちの信
仰と目標とを確認させていただきましょう。
 この十五章は、コリント人への手紙のクライマックスになりますが、パウロ
がよみがえりについて、繰り返し説明しています。それは、よみがえりについ
ての議論が多々あったからです。よみがえりは起こりえないとか、キリストは
復活しなかったとか、どうやってよみがえるのかなど多くの議論がなされてい
ました。よみがえりということは、普通では考えられないことですが、死の原
因である罪を打ち破られたキリストにあっては、その起こりえないことが起こ
ったと聖書は述べています。そして、罪を赦された私たちも、主と同じよみが
えりの希望があるのです。
 ではなぜ、よみがえりが、議論となるのでしょうか。一つは、それが普通で
は考えられないことだからです。必ずしも歴史は再現可能ではありません。し
かし五〇〇人以上の人が同時によみがえられた主に会いました(三節)。それ
は幻覚ではあり得ないことです。
 もう一つは、私たちが死んでどうなるのか、それは大切な問題だからです。
死んで終わりなら信仰も空しいのです。主が復活されたからには、私たちにも
同じ希望があると聖書は語っています。だから、今信仰によって生きる意味が
あります。
 もう一つは、先に死んだ人たちをどう捉えたらいいのかということです(二
九節)。天国で再会するとしても、地上での別れには、深い悲しみがありま
す。主イエスは、その悲しみをそのままに受け入れて下さいます。それは十字
架で辱めを受け、すべてを失い、死を味わい、黄泉に降られたお方ですから、
悲しみを味わい尽くされているからです。私たちは、そのお方が、よみがえら
されたので、同じよみがえりの希望に生きることができるのです。
 
2011年8月14日
【獅子の穴でも】ダニエル六章1節~28節
「この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行
い、獅子の力からダニエルを救い出された。」(ダニエル六章27節)

 ダニエル書は、補囚でバビロンに連れて行かれた人々への神のみ業が記され
ています。神の民が、異教社会の中で、どのような信仰に立ったのかというこ
とは、今でも異教社会での信仰生活の示唆に富んでいます。心にとまるのは、
ダニエルの謙虚さですが、それを心に留めつつ進みましょう。
 ダニエルは、ダリヨス王から、太守を束ねる三人の大臣の一人に任じられま
した。その三人の中でもリーダーに選ばれました。しかしそれが、他の大臣や
太守達の妬みを買い、罠にはめられたのです。彼らは、ダニエルが創造主を礼
拝しているのを承知で、一ヶ月間、王以外に願い事をしたものは獅子の穴に投
げ入れて殺すという法律を作ったのです。
 何が変わったかといえば、法律が変わりました。それは、時に、人々の生活
に大きな変化を与えます。この法律もそうでした。今までと同じように、創造
主なる神様を礼拝すると、命がなくなってしまうのです。今でも法律はいつも
良いものとは限りません。
 では、変わらなかったものは、何でしょうか。それは、ダニエルの礼拝でし
た。ダニエルは、今までと同じことが命取りになるとしても、「いつものよう
に」「日に三度」開かれた窓から、エルサレムに向かって礼拝を献げたのでし
た。なぜ変わらなかったのか、それはダニエルの心に法律以上に揺るがないも
のがあったからです。そしてダニエルの心以上に、創造主なる神様は、変わら
ないお方です。そして今も世界を治めておられます。
 神様は、ダニエルを獅子から守り、ダリヨス王は、本当の統治者を知りまし
た。神様は、今もキリストにある愛を示し、永遠に変わらないお方です。
 
2011年8月7日
【神の知恵】Ⅰコリント一章
「しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとって
は、キリストは、神の力、神の知恵なのです。」(第一コリント一章24節)

 第一コリントは、パウロがコリントの教会に宛てた手紙です。教会のいろん
な問題に答えています。そして本当の問題の解決は、人の力や知恵ではなく、
神の知恵によって得られることを示しています。世界の創造主は、愛なるお方
です。同時に聖なるお方です。罪が世界に入るまで、それに何の問題もありま
せんでした。しかし人に罪が入ってからそこにジレンマが生まれました。それ
を解決する神の知恵とはどんなものなのでしょうか。
 ユダヤ人に象徴されているのは、行いによる義です。律法を守り良い行いに
よって、清くなり、神の救いにあずかるのです。今日も、いろんな修行があり
ます。人の力や努力は、すばらしいものです。しかし、限界があり、神の清さ
に達することはできません。
 ギリシャ人は、知恵を求めました。人や世界は何からできているのか等で
す。それは、知の基を認めつつも、霊肉二元論となり、物質や体に対して否定
的となりました。人の知恵が、人の存在を否定的に捕らえるものとなったので
す。
 では、神の力、神の知恵とは、何でしょう。それがイエス・キリストの十字
架と復活です。ローマ軍が力をふるう中で、すべての力を否定し、辱めを受け
たのが十字架です。神は、イエス様に、すべての罪の罰を帰せ、人の救いの道
を開かれました。そして罪の結果である死を打ち破る復活が起こりました。
 またこの救いは、人が信じるだけであずかることができます。何の行為も知
恵もいりません。それでは神の聖には届かないからです。ただ神様の備えられ
た救いを受け入れれば良いのです。ここに人にまさる神の力神の知恵がありま
す。
 
2011年7月31日
【そうでなくても】ダニエル三章1節~30節
「しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神
々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」
(ダニエル三章18節)

 補囚でバビロンに連れて行かれた、ダニエルや、今日出てくるシャデラク、
メシャク、アベデネゴの信仰は、異教社会にあって、創造主なる神様とはどん
なお方であるか、他の神々とはどう違うのか、また信仰とは何かを問いかけて
います。それは、今の私たちに対する問いかけでもあります。
 大王ネブカデネザル王は金の像を建て、落成式のために、官僚を集め、ひれ
伏して拝むように命じました。しかも違反者は、火で焼き殺すことを命じまし
た。そしてこの三人が、命令に背いたものとして告発されたのです。彼らの弁
明がこの聖句です。
 彼らは、全能の主の助けを信じつつ、しかし決して楽観することはできず、
覚悟をもって臨んだことでしょう。神様は、彼らに神の子を遣わし、火の中で
守られました。王は、驚き、この神を敬うように命令を出したのです。
 私たちにいつも奇跡的な救出が起こるとは限りません。では、イエス様は何
と言われているのでしょうか。体を殺すことのできる人ではなく、その後地獄
の火に投げ入れることのできる方を恐れなさいと言われています。また「一粒
の麦」はもし死んだなら実を結ぶと言われました。
 主の命に生かされるということは、己の命に死ぬことであると至る所で聖書
は、示しています。キリストの死に与ることによって、キリストの復活に与る
のです。この信仰は、異教の中にあっても、キリスト教国にあっても今も試さ
れています。
 しかしそれは、必ずしも異教との対立を示しているわけではありません。主
の栄光、主の愛は、世界中に現されています。信仰に立ち、平和と救いを求
め、祈りつつ、主の助けを仰ぎましょう。
 
2011年7月24日
【四人の決心】ダニエル一1節~21節
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何
か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきま
え知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ十二2節)

 ダニエル書は、バビロン補囚となったダニエルとハナヌヤ、ミシャエル、ア
ザルヤのことが記されています。彼らは、王に仕えるために、養育されること
になりました。彼らは、王の準備するごちそうとぶどう酒で養われることにな
りました。しかし彼らは、それらで身を汚すまいと心に定めたのです。
 ユダヤの律法で、主の前に汚れた食物とされたものがあったからかもしれま
せん。あるいはそれらは、偶像に供えられたものであったかもしれません。新
約の時代、主イエスは、すべての食物をきよいものとされ、人のうちから出て
くるものが人を汚すと言われました。ですから私たちはどんなものでも食べる
ことができます。旧約時代の彼らは、異国で異教の地で、律法に従い、主の前
にそのようにきよくあろうとしたのでした。それは、主に信頼する生き方の現
れでした。
 彼らは、宦官の長に、野菜と水で養うように頼みました。今日では、菜食と
見られるものですが、宦官の長は、彼らの健康を損なえば王に罰せられること
を恐れました。ダニエルに知恵が与えられ、十日間試すことになり、その結果
は、だれよりも健康で肉付きも良かったのです。彼らは、主の前に謙虚なだけ
でなく、人の前にも謙虚でした。そこに主の助けがありました。
 私たちも、クリスチャンが少数の社会で、主の前に清く歩もうとすると、い
ろいろな面で試練にあいます。主に信頼し、へりくだり、世に流されず、しか
しまた人々の前にもへりくだり、仕えることが大切です。主は、知恵を与え、
助けてくださいます。
 
2011年7月17日
【エルサレム陥落】エレミヤ三八~三九章
「わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあ
なたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼し
たからだ。--主のみ告げ。--」(エレミヤ三九章18節)

 今日の聖書箇所は、神様が祝福を約束された、ユダヤ王国の滅亡の箇所で
す。ここに極限状態に置かれた人々が出て来ますが、その状況は、その人の守
るべきもの、つまりその人が何に価値を置いているのかということを、露わに
しています。すべてが失われようとする中でも、私たちが本当に守るべき大切
なものは、何なのでしょう。
 まずゼデキヤ王です。彼は、王として、国を左右する決定をする立場にあり
ます。エレミヤは、バビロンへの降伏が、主のみ心であることを示し、勧めま
すが、高官などの顔色をうかがい、優柔不断で、国や民よりも、自分の命の心
配をしています。結果王は、命は助かりますが、国も民も息子たちもみな失っ
たのです。
 次に見るのは、高官たちです。彼らは降伏に反対します。体制維持こそが彼
らの安泰への道だったのです。しかしすでにそのような状況ではなく、すべて
が崩れ去りました。
 第三は、預言者エレミヤです。彼は、スパイ扱いされ、捕らえられ、命の危
機の中でも、主の言葉を伝え続けました。ユダヤへの神様の愛が彼に迫ってい
たからです。
 第四は、エベデ・メレクです。彼は、命も顧みず、王に訴え、エレミヤを助
け出します。善悪が価値基準であったかもしれません。しかしその結果、自分
の命を、主から分捕り物としていただいたのです。
 私たちの主イエス・キリストは、私たちに命を与え、私たちを罪から救うた
めに来られました。自分の命を守るのは、本能です。それを超えた愛によって
私たちは、永遠の命が与えられました。だから私たちも愛に生きるのです。
 
2011年7月10日
【将来と希望の計画】エレミヤ二九章1節~14節
「主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あ
なたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ二九章11節)

 このみ言葉は、試練や苦しみの中にあって、多くの人を慰め、励ましてきた
お言葉であり、知っている人も多い。この大震災でも、しばしば耳にしたみ言
葉である。
 この二九章は、エルサレムにいるエレミヤからバビロンへの補囚の民または
指導者に当てられた主のみ告げの手紙である。
 将来と希望に満ちているように見えるが、この箇所の鍵は、10節の「七十
年」である。七〇年後にエルサレムに帰れるのである。歴史を見るとあっとい
う間にエルサレムに帰還し、この預言を振り返ることができる。しかし、生身
の人間にはそうはいかない。七〇年後、それは多くの人にっては生きているう
ちに、帰ることはできないという言葉だ。強制的に移住させられた民にとって
は、絶望に近い主の言葉である。
 いったいその中でどのように、平安と希望と将来を持つことができるのだろ
うか。
 強いられた環境であるが、主はそこで祝福すると語っておられる。そこに
「家を建てて住み、畑を作って」「めとり、息子、娘を生み」生活するように
語られている。そこに主が共にいて下さり、繁栄を与えると約束しておられ
る。主のご計画は、私たちの一生よりはるかに遠大である。
 では、どうすべきなのか。主のみ言葉を受け止めること、主に将来を託すこ
と、また次世代に託すことである。それは、み言葉を子や次世代に伝えること
でもある。そして、住む町の繁栄を祈ることである。
 私たちの置かれたところが、苦痛の地であるかもしれないが、そこに主はお
られる。共にいる。主に将来を託し、平安と将来と希望を持とう。
 
2011年7月3日
【御名と御霊によって】Ⅰコリント六章1節~11節
「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたが
たは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」
(Ⅰコリント六章11節)
 コリントの教会は、いろいろと問題を抱えた教会でした。世俗的な考えや不
品行が入ってきたり、だましたりといったことがあり、パウロはとても心配し
ていました。そして教会の外の人に、問題の仲裁が持ち込まれていきました。
 パウロは、私たちは、神様から造られ、主イエスと共にこの世界をさばく存
在であることを示し、教会の中で解決できないことを嘆いています。
 今も教会は、主によってこの世に置かれています。だから教会の中に、様々
な問題や課題が起こることがあるのです。
 パウロは、彼らに、むしろ不利益を受け、だまされていないのかとさえ言い
ました。やせ我慢しろというのではありません。不正、不利益、侵害を訴える
ことは、とても大切です。
 パウロは、私たちは、以前はどうであって、今はどうかを思い起こさせてい
ます。以前は、偶像礼拝をし、罪を犯していましたが、今は、キリストの御名
と御霊によって救われたのです。
 御名とは、十字架で私たちの罪を代わりに負い、血を流された方の御名で
す。主は私たちのために辱めや苦しみを受け、私たちはその打たれた傷によっ
て癒されたのです。私たちは、この主を仰ぐとき、不利益も甘んじて受け、耐
え忍ぶことができるのです。
 また聖霊は、ローマ八章にあるように、私たちの深い思いを、御父の思いを
もご存知で、共にうめいてとりなして下さる方です。
 私たちを滅びから救いへと変えて下さった方を見上げるとき、救いにふさわ
しく行動も変えられて、主ご自身が問題も根本から解決して下さるのです。
 
2011年6月26日
【完全な守りを】Ⅰテサロニケ五章23節~28節
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますよう
に。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あな
たがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」
(Ⅰテサロニケ五章23節)

 この手紙の最後の部分です。再臨を待ち望むに当たっての祈りと祝福の部分
です。23節を中心に見てみましょう。
 ここには「全く聖なる者」としてくださいますよにとまた来臨のときに「責
められるところのないように」とあります。人間は、完全になろうとすればす
るほど、自らの不完全さを知らされる存在です。そんな私たちにこのような要
求は可能なのでしょうか。修行したりしてすばらしい人もいます。しかし全く
聖なる神様の前に出るには、どんな人の努力でも足りません。しかし「平和の
神ご自身が」その方法を備えて下さいました。それが御子によるあがないで
す。罪のないお方がすべての罪をあの十字架で代わりに負って下さったので、
私たちは全き者とされて、主の前に立つことができるのです。
 当時の人々は、人を「霊、たましい、からだ」に分けて考えていました。
「たましい」は口語訳では「心」です。霊は存在そのものを指しています。心
の奥深さは、近年少しずつわかってきましたが、心も表面に出てこない過去の
経験など、潜在意識が深く関わっています。からだは、突然に死を迎えること
もあり、高齢化によって、機能しなくなったりします。人は、自分もわからな
くなったりします。しかし、主が守って下さるということは、それらのことを
超えて、完全に守って下さるということです。
 現代でも、人々との関わりの中で、私たちの信仰は問われます。今日は、弾
圧記念日です。自由に心から、イエスは主であると告白できる社会であること
を願いつつ、それらを超えて、聖として下さる主を仰ぎつつ、この週も歩みま
しょう。
 
2011年6月19日(合同礼拝 メッセージ:原田師、文責:尾崎豪)
【希望・・・あなたを忘れない】使徒の働き二章
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」
(イザヤ四九章15節)
「雀は五羽二アサリオンで売られるではないか。しかし、神の前にはその一羽
も忘れられていない。」(ルカ一二章6節)

 イスラエルの国が、(戦争などで)国難の時でした。イザヤは、神様が、た
とえどんなに、あなたがたが苦しいときでも、神様はあなたがたを忘れてはい
ないと、主の言葉を民に伝えました。
 売られている雀でさえ、神様から一羽も忘れられていないのです。
 私はある時、海に一人で小さなボートで釣りに行きました。何かの拍子にボ
ートがひっくり返って海に投げ出されてしまいました。ボートは表裏にくるく
る回り、なかなか元に戻りません。ようやく乗っても水が入って進みません。
何時間か格闘しもうダメだと思いました。その時、大きな漁船が通り、助かっ
たと思いました。船員がロープをたらし、つかまって上ってくるように言いま
した。つかまって上ろうとしましたが、できません。体が冷えて、力が入らな
いのです。助かりそうで助からないのです。そんなことをしているうちに、小
さなボートがやって来て、漁師さんが手を伸ばし、私の体をまるまる抱えて、
ボートの中に入れてくれました。ようやく助かったのです。
 この経験は、イエス・キリストの十字架をとても良くわからせてくれまし
た。私たちは、自分で何とかしようとしてもできない。上から見下ろされても
助からないのです。でもその私たちのところへ、キリストが降りてきて下さっ
て、まるまる私の罪を負って、十字架にかかって下さったのです。神様は、私
たちのことをそのようにいつも覚えていてくださるのです。
 
2011年6月12日
【ペンテコステ】使徒の働き二章
「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キ
リストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を
受けるでしょう。」(使徒の働き二章38節)

 ペンテコステは五〇日目という意味ですが、この日聖霊が降られ、教会の誕
生日とも言われます。
 聖霊降臨は、旧約で預言され、また主イエスは、父の約束の聖霊が与えられ
るまで待っていなさいと言われました。その約束が成就したのです。
 聖霊は、賜物(ギフト)として私たちに与えられました。その必要性は、そ
の働きをみるとわかります。そしてこの聖霊は、主を信じるすべての人に注が
れると約束されているのです。
 聖霊の働きの一つは、真理に目を開くことです。救いについて悟らせ、確証
を与えます。そして証人として立たせて下さいます。また私たちに幻(ビジョ
ン)を示し、主のみ心を示してくださるのです。夢がなくては生きていくこと
はできません。
 第二は、私たちをとりなして下さることです。ローマ八章28節に「私たち
は、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いよう
もない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」と記
されています。聖霊は、私たちの自分でも気づかないような苦しみ痛みを知っ
て、共にうめいてとりなして下さいます。そして父のみ心に従ってとりなして
くださるのです。だから祈りが届くのです。
 第三は、私たちに償われることです。ヨエル二章は、聖霊についての預言の
言葉ですが、その25節に「わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽
くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」とあります。失われたと思っ
た年々が、聖霊によって、回復されるのです。新しい意味をもって祝福に変え
られるのです。
 ですから、私たちは、聖霊を求め、満たされましょう。ペンテコステ後も、
弟子たちは繰り返し聖霊に満たされました。今も続いています。そして主の来
臨を待ち望むのです。
 
2011年6月5日
【ナアマンの癒し】Ⅱ列王記五章
「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りまし
た。」(Ⅱ列王記五章15節)

 ナアマンは、アラムの将軍で、王にも重んじられたすばらしい人でした。し
かしアラムは、しばしばイスラエルとも戦いを交えていました。
 ナアマン将軍には、一つの大きな悩みがありました。それは重い皮膚病にか
かっていたことです。普通の医者では、治すことができず、また徐々に悪化し
て、恐らく体の機能にも障害を起こしたのかも知れません。体が資本の仕事で
は、ただの病気では済まされず、生活も脅かされたかもしれません。私たちに
もいろいろな苦悩があります。人知れず悩むことも、大きな問題もあります。
 そんなナアマン将軍でしたが、家にいるイスラエル人の奴隷少女の言葉か
ら、預言者エリシャの所へ行き、ヨルダン川で七回身を洗い、病は癒されたの
でした。神様は、私たちにも、悩み苦しみから、癒され、解放される道を示し
ておられます。
 癒しや救いを妨げる一つは、主を主と認めないことです。創造主、全能の主
を認めない傲慢さです。もう一つは、思い込みや自分の考えです。神様の考え
は、もっとはるかに大きいからです。
 聖書の救いを見ると必ずしも罪の悔い改めが記されていません。しかし必ず
へりくだって主を主と認めています。信仰がない時の「もし神様が本当にいる
のでしたら、助けてください。」という叫びは、しばしば答えられています。
そしてもう一つは思い込みを捨て、従順に主の方法に従うことです。ナアマン
は、手をかざして祈って癒してくれると思っていました。主は、別の方法を示
されました。そこに葛藤がありましたが、へりくだって従ったのです。その時
癒されました。そして、「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はお
られないことを知りました。」と告白したのです。
 私たちも、主を主と認め、主の方法に従う時に主は、私たちを癒し、救って
くださいます。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ
一〇章13節)
 
2011年5月29日
【私たちへの期待】Ⅰテサロニケ五章12節~22
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しな
さい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられるこ
とです。」(第一テサロニケ五章16節~18節)

 この五章の後半部分には、教会への大切な勧告が数多く述べられています。
その中でも有名なのが、中心聖句の三つです。
 「いつも喜んでいなさい。」喜ぶというのは心の状態です。外面を繕うので
はなく、内から出てくるものです。鳥はなぜ引力に逆らい空を飛べるのでしょ
うか。羽があるからです。しかし当たり前ですが、死んだ鳥は、空を飛べませ
ん。命があるから引力に逆らえるのです。私たちも霊の命が与えられているの
で、この世の引力に逆らうことができます。命があるので喜ぶことができるの
です。
 しかし実際には、喜べないことも起きてきます。その時にはそのまますべて
を主に話すのです。そして喜ぶことができます。
 「絶えず祈りなさい。」祈ることは、主との交わりです。私たちは、日々思
わぬことによって心が騒ぎます。だから日々、主の前に静まり、主のみ声を聞
くことによって、命が新たにされることが必要なのです。そして一つ一つの出
来事の中でも、祈り心をもって主と共に歩むことができるのです。
 「すべてのことについて感謝しなさい。」これは私たちの主が私たちに最も
良いものを満たしていて下さることに信頼することのあらわれです。「キリス
ト・イエスにあって」とは、私たちが死から命へ移されるために、十字架で罪
の苦しみを受け、私たちに命を与え身代わりになって死なれたキリストにあっ
てです。主イエスの命によって、神様が私たちにこれらのことを期待しておら
れるのです。
そしてこの「期待」の目的が大切です。単に生活の訓辞を示したのではありま
せん。主の再臨を目指して勧められているのです。私たちは、主に再びお会い
するために、喜び、祈り、感謝するのです。
 
2011年5月22日
【再臨とその備え】Ⅰテサロニケ四章13節~五章11節
「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目覚めていても、眠
っていても、主と共に生きるためです。」(第一テサロニケ五章10節)

 アドベントと言えばクリスマスを思い浮かべます。アドベントには「来る・
到来」というと意味があります。そして再臨を待ち望む意味でも使われます。
 今日の箇所には、再臨の時の出来事とその備えが記されています。
 一.再臨の出来事
 これまでも繰り返し見たことですが、まず言われていることは、先に死んだ
人について、希望がないかのように悲しみすぎないようにということです。復
活の希望があるからです。主は、御使いの合図とラッパの音と共に雲に乗っ
て、来られます。これが象徴的な預言が、実際的な預言かはわからないところ
があります。そしてまず先に死んだ人々がよみがえり、主にお会いします。そ
れから、生きている私たちが天に上げられ、雲の中で主にお会いするのです。
この希望があるので、お互いに慰め合うのです。
 二.再臨への備え
 再臨は、主の前に立つ時です。それは、裁きの時でもありますが、主の救い
を信じる者にとって救いの日です。
 再臨の時がいつか、それは父なる神様の他だれもわかりません。その日は、
盗人のようにやって来ます。日常生活をし、安全だと思っている時かもしれま
せん。しかし、クリスチャンにとってはそうではありません。心の目を覚まし
ているからです。いつでも備えているのです。礼拝で、また日々の静思の時に
主にお会いし、直に会う時を待ち望んでいるからです。霊的に眠っていてはい
けないのです。信仰と愛の胸当て、救いの希望のかぶとをかぶって、いつでも
備えていましょう。主の十字架の死は、主と共に生きるためなのです。
 
2011年5月15日
【神のみこころは】Ⅰテサロニケ四章1節~12節
「神のみこころは、あなたがたが聖(きよ)くなることです。」
(第一テサロニケ四章3節)

 神様が、私たちがきよくなることを求めておられることは、聖書で繰り返し
語られています。このきよいとは、人がお互いを見てきよいかどうかと言うこ
とではなく、一点の汚れもない聖なる神様の前に、私たちが聖(きよ)いもの
となるようにということです。この箇所では、三つの点があげられています。
 一つは、性的な面での聖さです。ローマは、共和制の時代は性的な面では比
較的落ち着いていました。しかし当時のローマは、離婚や浮気、不品行は当た
り前でした。同性愛も出て来ました。テサロニケの社会も同じでした。パウロ
は、主を信じた人々が、そのようなことで聖を失い、汚れることがないように
心配し、厳しく警告したのです。そして現代も性的な錯誤が大きくなっていま
す。聖書は、性的関係を夫婦に限っています。それは、愛は排他的な面をも
ち、その中でしか深められないからです。そうでないと深まるのではなく、自
分に対しても、相手に対してもいい加減になるのです。
 聖書は、自分のからだを聖く、尊く保つように勧めています。そして不品行
は、心の内の情欲から出てくるのです。さらに、そのことが人を踏みつけるこ
とになるのです。
 私たちは、主の前に、どのように自分聖くすることができるのでしょうか。
できません。主の十字架、あがないの十字架を仰ぐほかありません。しかしそ
の時、主は、すべての罪からきよめて下さるのです。だから主の前に聖くなれ
るのです。
 二つ目は、兄弟愛です。これは先週見たとおりです。
 三つ目は、生活における聖さです。再臨への誤解から、地上の生活を放り出
し、何もしない人々がいたようです。しかし、落ち着いて生活し、自分でしっ
かり働くように勧めています。再臨は、普段の生活の中に起こるのです。そし
てこの地上に神様の御心が行われるためにすべきことはたくさんあります。そ
の生活が、人々へも証になるのです。
 聖(きよ)くなることを求めましょう。
 
2011年5月8日
【牧者の生きがい】Ⅰテサロニケ三章
「あなたがたが主にあって固く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがい
があります。」(第一テサロニケ三章8節)

 今日の聖書箇所は、この手紙の中でとても美しい愛の交わりが現されている
ところです。
 パウロは、テサロニケの教会をとても心配していました。短期間しかいられ
なかった場所なので、ユダヤ人からの苦難に動揺していないか。信仰を喪失し
ていないか。またこの世の誘惑に負けていないか。その果てにパウロの伝道
は、無駄になってはいないかと居ても立ってもいられなくなったのです。それ
でテモテを派遣したのです。
 そしてテモテが帰って来ると、それはすばらしく良い知らせでした。かれら
は、パウロ達について、変わらずに、親切に考えていました。そしてパウロが
そうであるように、彼らもパウロにしきりに会いたがっていたのです。それは
パウロにとって大きな慰めでした。彼らが主に固く立っていることがわかった
のです。パウロは、それは「生きがいだ」と言っています。
 パウロは、アテネの伝道やコリントの教会内の問題など、思ったようにいか
ないことや心配なことがいっぱいあったのです。ところが、テサロニケの教会
は、パウロの気持ちがわかり、パウロと同じ思いでいて、主に固く立って、福
音を広め、パウロに会いたがっていました。彼らのことを喜んだばかりではな
く、パウロ自身大いに励まされて、喜びがあふれたのです。だから「生きが
い」なのです。
 聖徒(信徒)が、主にあって固く立っていることは、牧者にとって、私にと
っても生きがいです。その信仰によって、牧者も生かされるのです。
 パウロはさらに祈っています。会う道が開かれるように。お互いの愛をさら
に増し加えて下さるように。また主の来臨の時に、きよく、責められるところ
のないように。私たちもお互いに熱く祈り合いましょう。
 
2011年5月1日
【神の言葉を信じる】Ⅰテサロニケ二章
「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」
(第一テサロニケ二章13節)

 テサロニケの聖徒たちは、模範的な信仰で他のクリスチャンにも地域の人々
にも知られていました。彼らの力強い信仰は、何を基としていたのでしょう
か。
 パウロがテサロニケで伝道した時の様子が、使徒一七章2節に記されていま
す。パウロは、「聖書に基づいて」教えたのです。聖書こそ神の言葉が記され
ていて、救いのご計画、キリストについての預言が記されています。当時の聖
書は、旧約聖書です。イエスという名前は出て来ませんが、至る所にキリスト
による救いのご計画が記されています。今日の招詞の詩篇二二篇や交読文の詩
篇一一〇篇もキリストを現しています。3節のように、福音は、偶然や作り事
ではなく、昔からの神様のご計画だったのです。私たちは、この神のことばで
ある聖書を信じる時に、死を打ち破ったキリストの命が私たちの中に力強く働
くのです。
 では、み言葉により示された福音とは、どんなものなのでしょうか。この章
には、被造物への愛が三つ示されています。第一に、8節。命をも与える愛で
す。キリストが私たちの罪の身代わりに十字架で死なれました。第二に、7節。
これは、母親が、赤ちゃんに見返りを求めないで与える愛です。神様は何もで
きなくても無条件で受け入れて下さるのです。第三に、11・12節。これは、父
親の愛です。慰めの中に厳しさがあります。神様にふさわしく歩めるように成
長するためです。
 主は、このような愛を示されました。そして神の言葉を信じる人はその愛を
受けています。この愛は、受けた人の内に働き、その人をも同じように変えて
いくのです。
 この力強い、神のみ言葉、神の愛を受け止めていきましょう。
 
2011年4月24日
【イースターの知らせ】ルカ二四章1節~12節
「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたこ
ろ、お話しになったことを思い出しなさい。」(ルカ二四章6節)

 今日は、主のよみがえりを記念するイースターです。今年は、最も遅い時期
になりました。クリスチャンは、救われて、イースターを毎年祝い、よみがえ
りということを信じています。あるいは、そうでない人もいるかもしれませ
ん。また未信者では、復活を信じるというのはおかしいと思われるかもしれま
せん。信じられない、それが普通なのです。私たちは、だれもよみがえった人
に会った人はいないのですから。しかし、それでも聖書は、キリストはよみが
えったと証言し、またクリスチャンは、それを信じています。それは、あり得
ないことが起こった!ということです。それがイースターです。そこに本当の
希望があるのです。
 さて、この箇所には、主がよみがえられた時の婦人たちと弟子たちの様子
が、記されています。女性たちは、香油を主の亡きがらに塗るために墓へ行っ
たのです。それは、当然復活など考えていませんでした。しかし亡きがらがな
いので当惑したのです。その時、まばゆい服を着た人の言葉を聞きました。そ
して、イエス様が言われていた言葉を思い出したのです。
 女性たちは、出会った事実を受け止めたのでした。まだ復活の主には出会っ
ていません。ある意味で私たちと同じです。しかし言われたとおり、弟子たち
にはっきり伝えたのです。この時弟子たちには、おとぎ話のように思われまし
た。
 聖書は、見ないで信じることが幸いだと言います。ある人は、見たら信じる
と言います。果たして本当に見たら信じられるのでしょうか。人間は、受け入
れられないことは、見せられても拒否してしまうの存在です。しかしやみくも
に信じるのでなく、ラザロと金持ちのたとえのように聖書の言葉を信じるので
す。
 それと同時に、神様は、信じることができるように聖霊を遣わされました。
聖霊は、パウロにされたように、目で見る以上に、はっきりと主の復活をわか
らせて下さいます。
 この復活の事実が、今も人を変え、世界を変えているのです。
 
2011年4月17日
【今日パラダイスに】ルカ二三章26節~49節
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、
わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ二三章43節)

 今日は、しゅろの主日、主イエス様がエルサレムに入城された日です。そし
て今週は、受難週です。キリストが私たちのために、十字架で苦しみと死を負
われたことを、特に覚えて過ごしましょう。
 今日の箇所は、十字架の箇所です。その中でも強盗とイエス様との会話で
す。強盗の一人は、今日主イエスと共にパラダイスにいると言われました。そ
れはどういうことでしょうか。
一.パラダイスとは
 もともとは、ペルシャで箱庭を意味していたようです。そこから天国を表す
ようになりました。厳密に言うと、よみがえらされて天国に入る前に、待って
いるところです。それは、天国への待合室のようなところです。
一.招かれたのは
 そこに招かれたのは、誰でしょうか。十字架につけられた強盗です。よほど
の凶悪犯だったでしょう。すでに死刑は実行中です。初めはもう一人と一緒に
主イエスをののしっていたのです。何の償いも良いこともできない人が招かれ
ています。パラダイスへ招かれるのは、良い行いをした人、悪くない人ではあ
りません。聖なる神様の前には、皆罪人だからです。ただ神様の前にへりくだ
って、救いを求める人を、主は、赦し招かれるのです。
一.いつパラダイスへ
 主は、「きょう」と言われました。強盗は死んでそこへ招かれるのです。し
かし、聖書は、キリストが、死んで、葬られ、黄泉にくだり、三日目によみが
えられたと記しています。主イエス様は、そこにまだおられるはずのないとこ
ろです。「きょう」それはへりくだり信じたその時から、死の淵にありつつ
も、パラダイスにいることを示しています。パラダイスは、主イエスによって
確かなものとされました。私たちも、天地創造の神様の前に、へりくだり、罪
を認め悔い改める時、罪の赦しと平安が満ちあふれます。すでにここできょ
う、主と共にパラダイスは、始まっているのです。
 
2011年4月10日
【ローマ到着】使徒の働き二八章
「彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律
法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとし
た。」(使徒の働き二八章23節)

 使徒の働きの完結部分です。聖霊を受けて地の果てまでと始まったその結論
としては、14節の「こうして、私たちはローマに到着した」です。その内容
が、中心聖句です。このローマに到着したことは、何を意味するのでしょう
か。
一.神様のビジョンの成就
 一章で示されたビジョンを神様が成就して下さったことを示しています。ま
たパウロにもローマでの証という主のビジョンが成就しました。多くの苦難を
通りましたが、主は真実だったのです。
二.世界の中心へ
 ローマは、当時の世界の中心でした。それも神様のご計画の中のことです。
あらゆる食糧、文化、知識、財産、などが集まっていました。偶像もありまし
た。ニューヨークと同じように人種のるつぼでもありました。世界のあらゆる
人が福音とその証を聞くことができたのです。
三.地の果てへの通過点
 しかしこれで地の果てではありません。ローマは地の果てへの通過点です。
そこから広がっていくのです。パウロだけでなく、一人一人の証によって、さ
らに進みました。二八章で終わりではなく、二九章以降へと今も続いていま
す。技術の進歩などによって、世界は広がりまた近くなりました。
 そして今この福音は私たちに託されています。私たちは、主の証人として、
地の果てを目指しているのです。あらゆる民族国語に至るまで、まだ通過点に
いるのです。主の再臨を待ち望みつつ、私たちは、地の果てを目指し、また次
世代にもこの福音を託していきましょう。
 
2011年4月3日
【みことばを受け入れ】Ⅰテサロニケ一章
「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け
入れ、私たちと主にならう者になりました。」(Ⅰテサロニケ一章6節)

 これからテサロニケ人への手紙が開かれていきます。この手紙は、比較的初
期に書かれた手紙です。特色は、再臨についてです。当時キリストの再臨につ
いて混乱があったので、正しく導くために書かれたのです。テサロニケでの伝
道は、わずか三つの安息日に渡る程度でしたが、聖霊によって、しっかりと福
音が根付いたのです。この一章では、どのように福音を聞いて、信じたかを振
り返りつつ、彼らの信仰の模範が喜ばれています。
一.多くの苦難の中で
 彼らは、福音を信じた後もそうですが、信じた時もいろいろな苦難に会って
いたようです。人がどうして苦難に会うのか、それにはわからないことも多く
あります。しかし、苦難を通して、キリストに出会い、信仰を持った人が多い
のも事実です。人は順調な時には、なかなか神様に目を向けようとしないもの
なのです。
二.聖霊による喜びをもって
 信仰には苦難もありますが、喜びもあります。聖霊によって、強い確信が与
えられ、命の喜び、主との交わりの喜びがあるからです。それはキリストの復
活の事実から、死で終わりではなく、再臨の希望へとつながっているからで
す。テサロニケの人々は、これをみ言葉をよく調べ信じ受け入れたのです。
三.先達の模範にならう
 主を受け入れた生活は、その喜びから、生き方や生活をも変えるものです。
彼らは、主イエスやパウロたちの模範にならい、愛の労苦をいとわず、それは
地域のすべての人にも伝えられたほどでした。私たちも、み言葉を受け入れ、
苦難の中にも喜びを見出し、再臨を待ち望みつつ歩みましょう。
 
過去のメッセージ
 2010年度分
 2009年度分
 
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。