メッセージ(文責:尾﨑豪)
 
2010年3月27日
【よみがえりの主】ヨハネ二〇章1節~18節
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられ
るのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
(ヨハネ二〇章14節)

 今日は、イースターです。キリストのよみがえりをお祝いする日です。しか
しこれは普通に考えれば不思議な出来事です。
 さて、ここにはマグダラのマリヤが出て来ます。葬られて三日目の朝、墓に
行ったのですが、イエス様の遺体がありませんでした。マリヤは帰ってから、
「だれが取り去ったのかわかりません。」と弟子たちに報告しました。
 それから、ペテロやヨハネが墓に来て確認した後も、マリヤは、そこにいて
泣いていました。イエス様が後ろから声をかけた時、園の番人だと思って、遺
体を引き取れるようにお願いしたのでした。そして、イエス様が「マリヤ」と
声をかけられた時はじめて、イエス様だと気づいて「ラボニ(先生)」と返事
をしたのでした。それは、まさに十字架につけられたイエス様ご自身でした。
七つの悪霊を追いだしてもらったマリヤにとって、イエス様は完全な望みでし
た。そのイエス様の死は、前にも増して完全な絶望でした。だから十字架と復
活のことを聞いていてもわからなかったのです。しかし、主は復活されまし
た。そしてマリヤが気がつかなくても、マリヤのそばに立っていて下さったの
です。そして主の復活は、私たちにも復活の命を分け与えて下さるのです。主
こそ私たちの復活の希望です。
 「千の風になって」という歌がはやりました。この歌が大好きな夫婦がいま
した。ところがご婦人が末期のガンだとわかった時、彼女はこの歌が嫌いにな
りました。どんなに心地よい歌詞でもそこでは、自分の人格がなくなってしま
うのです。聖書は、主がそのままに復活されたように、私たちも自分自身のま
まで復活にあずかることができると言っています。
 マリヤは弟子たちに、はっきりと「私は主にお目にかかりました」と伝えま
した。何の迷いもありません。主が会って下さったからです。今も復活の主
は、目には見えませんが、私たちに会ってくださいます。
 
2011年3月20日
【嵐の中で】 使徒の働き二七章
 「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途
方に暮れていますが、行き詰まることはありません。迫害されていますが、見
捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
(Ⅱコリント四章7・8節)

 最近の礼拝で、改めて示されていることは、使徒たちの宣教は、華々しい成
功に見えるけれども、実は、思い通りにいかない、多くの苦しみの中で、救い
のみわざが起こっていったということです。
 今日のローマへの移動も、囚人として鎖につながれ、嵐で苦しむ中で進んで
いきました。パウロは、希望をもってみんなを励ましましたが、その希望はど
こから来たのでしょうか。
一.祈りと幻の中で
 23節には、「昨夜」「神の御使いが」「こう言いました」とあります。パウ
ロは、心騒ぎ立つ嵐の中で、祈り心を静めていたのです。そして御使いの声を
聞いたのです。だから仲間を励ませたのです。今回の震災でも、私たちの心
は、落ち着かなくなります。その中で、祈りと幻は、騒ぎ立つ心を静め、主か
らの希望を示します。
二.神の約束に従って
 パウロが祈りと幻の中で確かめたのは、神様の約束でした。ローマへ行き、
皇帝の前でも主を証する、その約束が変わらないことを確かめました。そして
さらに船は失うが、人は失わないという新しい約束をいただいたのです。神様
の約束に確かな希望があります。
三.「私の主」によって
 そして何よりも、その約束をして下さった方が確かなお方です。「私の主
」。それは偉大な方との個人的な関係を示します。このお方は、限りない愛を
私たちに注ぎ、十字架によって罪と死を滅ぼし、私たちの身代わりとなり、ま
た復活し、永遠の命の希望となられたのです。私たちよりも先に死を通られた
お方が一緒にいて下さるから、私たちは、たとえ死の中でも希望を持つことが
できるのです。
 ここに本当の希望があります。希望の主に信頼しましょう。
 
2011年3月13日
【総督の前で】使徒の働き二六章1節~32節
「こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、固く立って、小さい者に
も、大きい者にもあかしをしているのです。」(使徒の働き二六章22節)

 東北関東での震災を覚え、主の慰めを祈りつつ、主のみ言葉に聞いていきま
しょう。
 パウロは、苦難の中にエルサレムでの証の機会を与えられました。今日は、
カイザリヤに移されて、総督や王の前で証をするところです。しかしそれまで
に、二年も放置されたりして、決して順調ではありませんでした。むしろ思い
通りにいかない中に、主の導きがあり、証へと導かれたのです。パウロはその
ような中どのように証をしたのでしょうか。
一.神様の助けによって
 パウロは、自分の力で証をしようとしたのではありません。自分でしようと
すると神様の証ではなくなってしまい、また御霊も働かれません。主に信頼し
て、固く立って、そして神様の助けによって主の証しができるのです。
二.小さい者にも大きい者にも
 パウロは、いつでもだれにでも証しました。身分の高低に関係なく、ユダヤ
の庶民でも総督の前でも同じでした。証への導きを求めて祈ることは大切で
す。しかし聞いてくれる人を探すと証はできません。だれの前でもと思うと主
は備えて下さいます。
三.ありのままに
 パウロは、救いにどのように導かれたか、そのままに話しました。かつて迫
害者であったことなど、不利と思われることも真実に話しました。
四.キリストの救いと復活を
 やはり救いの中心は、キリストです。その十字架と復活、罪の赦しが、自分
とどうかかわって信じたのか。それが中心です。
 私たちは、神の助けによって、だれにでも主の救いを証していきましょう。
 
2011年3月6日
【エルサレムでの証】使徒の働き二二章1節~24節
「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテ
スマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」(使徒の働き二二章16節)

 パウロは、御霊に示されたとおり、証するためにエルサレムへと導かれまし
た。パウロは、そこでどのように証をしたのでしょうか。またどんな証をした
のでしょうか。
 パウロが、エルサレムの指導者と話しみると、ユダヤ人の間には、パウロが
言ってもいない誤解とうわさがありました。誤解を解くために、指導者たちの
助言に従って、きよめの儀式を受けました。ところが、最後の七日目に、ある
ユダヤ人の思い込みによって、騒動が起こり、パウロは打ちたたかれ、殺され
かけたのです。そこへローマ兵が来て、彼を捕まえました。パウロは、捕まえ
られたローマ兵によって保護され、結果として証ができるようになりました。
その成り行きは、証をするために整えられた状況とは、全く逆の状況でした。
しかし主は、そこで、主との出会い、復活の望みを証するように導かれたので
す。
 その証を聞くと、パウロは、キリスト教の大反対者であり、迫害者でした。
その道の者を捕らえたり、死に至らせたりしていたのです。パウロは、主とで
会う時も、ダマスコのクリスチャンを捕まえようとしていたのです。しかしナ
ザレのイエスは、パウロにも目をとめ、会って下さり、アナニヤによって導
き、悔い改めへ導き、異邦人伝道の使命を与えられたのでした。天地を造り、
人を造られた主は、反対者であっても心をとめておられます。だからこそ、神
様を無視して生きていた私たちにも救いの道が開かれたのです。主は真理を求
める者に、今も救いの道を知らされます。素直な心で受け入れましょう。
 また主イエスの十字架と復活もそうですが、逆境と思われる中で、主の救い
のご計画は進んで行きます。主を証しましょう。
 
2011年2月27日
【遺言説教】使徒の働き二〇17節~38節
「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことば
は、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国
を継がせることができるのです。」(使徒の働き二〇章32節)

 パウロは、エペソで御霊に示されて、エルサレム、そしてローマへ行くよう
に示されました。それには様々な理由がありましたが、その旅には、患難と苦
しみが伴うと確信し、また諸教会の愛兄姉とはもう会えないだろうと感じてい
ました。ですから、エルサレムへ行くまで、諸教会に立ち寄り、時間が足りな
くなったのでエペソの長老たちをミレト港まで呼び、大切な話しをしたので
す。その中からパウロが何に彼らを託したかを見ましょう。
一.聖霊に
 28節で、パウロは、長老たちに、あなた方は、神の血汐で買い取られた教会
を牧するために、聖霊によって立てられていると話しました。指導者は自分で
立っているのではなく、聖霊によって立てられているのです。それは主の群れ
を養うためです。そこに悪魔も働いて群れを散らそうとします。しかしこの働
きは聖霊によって託されているのです。だから聖霊の助けによって全うされる
のです。
二.恵みのみことばに
 32節でパウロは、彼らを神とその恵みのみことばに委ねました。み言葉に
は、彼らを育て、聖なる御国を継がせる力があるのです。だから私たちもみ言
葉を大切にし、み言葉によって養われるのです。
三.共に祈って
 32節でパウロは、別れの前に、ひざまずいて、皆で共に祈りました。祈り
は、私たちを愛の交わりへと招きます。恋人や夫婦がいつも一緒にいたいと望
む以上に、父・子・聖霊なる神と私たちを結び付け、私たちお互いも神の愛の
中に結び付けられます。パウロは祈りによって皆が一つであることを確認し、
彼らにすべてを託したのです。
 パウロの遺言説教を心に留めて歩みましょう。
 
2011年2月20日
【エペソ伝道】使徒の働き十九章1節~41節
このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな
恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。そして、信仰にはい
った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ
出して告白した。(使徒の働き十九章17節・18節)

 今日は第三回伝道旅行の中のエペソ伝道です。ここでの伝道の特色を知り、
私たちも伝道に励みましょう。
一.神の力による伝道
 使徒の働きを見ると、いつでもどこでも華々しい伝道成果を上げていた感じ
がします。しかしエペソは、幾度か聖霊に伝道を止められたところでした。何
よりも神の時が満ち実を結んだのです。またエペソの弟子たちは聖霊のバプテ
スマを受け、聖霊に満たされたのでした。そして異言と預言、み言葉による説
得、驚くべき奇跡が起こり、神の力が溢れて、宣教が進められました。
二.信仰による働き
 神の力が現れれば人は何もしないのではありません。それどころかパウロ
は、毎日ツラノ講堂へ行き、人々に福音を語ったのです。それは二年間も続い
たのです。パウロのまねをしてイエスの御名で悪霊を追い出そうとした人がい
ました。しかし逆に傷を受け逃げ出しました。イエスの御名に力があるのです
が、その御名への信仰なくしては、悪魔には勝てません。そして奇跡そのもの
ではなく、主の御名が崇められたのです。
三.徹底した悔い改め
 信じた人々は、自分のした事を告白しました。それは心からの悔い改めで
す。そして魔術や占いの本を皆の前で焼き捨てました。罪との完全な決別を示
しています。私たちにも、心からの徹底した悔い改めは、赦しの確信と新しい
命の豊かな祝福を招きます。ですから心から悔い改めましょう。後の騒動に見
るように、この祝福の中でもサタンが働いていました。気をつけましょう。そ
して主の救いと赦しの恵みに与り、また伝道の祝福に与りましょう。
 
2011年2月13日
【語りつづけよ】使徒の働き十八章1節~22節
ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続け
よ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害
を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」
(使徒の働き十八章9節・10節)

 パウロは、アテネを経て、コリントへやって来ました。アテネでの伝道は、
助け手もなく、福音への感心も薄く、成果の少ない働きとなりました。
 コリントへ来ると、好条件が重なりました。プリスキラとアクラ夫妻が与え
られました。二人は信仰に熱心だったばかりでなく、パウロと同じテント職人
であったので、一緒にテントづくりをし、一緒に住む事ができました。またそ
の後シラスとテモテがマケドニヤから到着しました。人としての伝道力も大き
いですが、宣教献金も携えてきたようです。パウロは、それからは、宣教に専
念できるようになりました。また会堂でのユダヤ人伝道はうまくいきませんで
したが、救われる人々が起こされて来ました。宣教は、良い時も悪い時もあり
ます。
 しかしパウロには、どうしてもぬぐえない不安があったようです。迫害で
す。どこでも大胆そうに見えるパウロです。しかしピリピでの鞭打ちや投獄、
ルステラでの石打ちなどは、恐れてはいなくても体に染みついていたかもしれ
ません。私たちには、良い条件以上に必要なものがあります。
 その夜、主が幻の中で語ってくださったのです。恐れるな、語りつづけなさ
い、黙ってしまうなと。私があなたと共にいると。主の臨在と約束ほど私たち
を安心させるものはありません。だれも危害を加えないとも約束されたので
す。さらに、この町に多くの救われるべき人々がいることも示されたのです。
それでパウロは、コリントの町で一年半もの長期に渡り、腰を据えて、伝道で
きたのです。そして主は、今私たちにも恐れるな、語りつづけよ。黙っている
な。私があなたと共にいる。この町には、私の愛する人々が大勢いると語って
いるのです。だから私たちも伝道し、証しましょう。
 
2011年2月6日
【牢につながれても】使徒の働き十六章16節~40節
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われま
す。」(使徒の働き十六章31節)

 先週に引き続きピリピ伝道です。パウロとシラスは、なぜ牢につながれても
祈り讃美できたのでしょうか。イエスを信じる救いとは何なのでしょうか。
 ピリピで伝道をしていると、占いの霊につかれた女性が「この人たちは救い
の道を伝える者」と言ってまとわりつきました。パウロは困り果ててその霊を
追い出しました。すると彼女の主人たちは、もうけられなくなった腹いせに二
人を訴え、二人はむち打たれ、牢につながれたのです。彼らがそこでした事
は、祈りと讃美でした。囚人たちはそれに聞き入っていました。訴えられ、む
ち打たれ、身も心も傷つく様な状況でなぜ讃美できたのでしょう。
 その時大地震が起こり、獄の戸が開き、鎖が解け、番人が自害しようとしま
した。彼らは自害を留めると、番人は、彼らを家に連れて行き、介抱し、救わ
れるためにどうしたらいいか聞きました。その時の言葉が「主イエスを信じな
さい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」です。主イエスに
よる救いとは何でしょうか。
 マルコ一〇章に富める青年が出てきます。真面目に生活してきた青年でし
た。でも永遠の命には何か足りずにイエス様に聞いたのです。その答えは「持
ち物全部を売り払い、貧しい人に施し、私に従ってきなさい」というものでし
た。青年は、悲しみながら去って行ったのです。
 なぜこの出来事が記されているのでしょうか。悪い見本でしょうか。違いま
す。主イエスの愛のまなざしが青年に注がれています。全部貧しい人に施した
ら救われるのでしょうか。そうでもありません(Ⅰコリント一三章)。ではな
ぜでしょう。それは「何もなくて大丈夫」とわかってもらうためです。それ
は、「私が一緒にいるからだ」ということです。人の行いではとうてい聖なる
神には届きません。しかしイエスキリストが私たちの罪の身代わりとなって死
なれたので、私たちは信じるだけで救われるからです。
 この救いがあるから、牢の中でも大丈夫だったのです。だから、私たちも、
この救いがあれば、財産、健康、名誉、命が失われたとしても大丈夫なので
す。この救いを信じましょう。
 
2011年1月30日
【幻による確信】使徒の働き十六1節~15節
パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにし
た。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べ伝えさせるのだ、と確信したから
である。(使徒の働き十六章10節)

 第二回伝道旅行でパウロ達は、一回目に伝道した場所を巡回した後、さらに
先へと進もうとしましたが、なかなか思うように進めませんでした。私たちも
思い通りに進めないことがあります。その時、どのように神様の導きを知るこ
とができるでしょうか。今日の箇所では、幻によって導かれます。しかし神様
は他にも、夢やみ言葉などいろいろな方法で、それぞれその時にかなって進路
を示すお方です。
 ここではアジヤやビテニヤ(共に今のトルコ内)に行こうとした時、御霊に
禁じられています。彼らが行こうと考えたところに行かないように示したり、
実際的に行けないようにされたりしたのです。聖霊は、神様の御心を教えられ
ます。そしてある夜、示された幻からマケドニヤへ行くことがみ心であると確
信したのです。これは新しい進路でした。それまではすべて今のアジアでした
が、ヨーロッパという新しい地域へ導かれたのです。そしてみ心とわかるとす
ぐに行動し、第一の都市ピリピへと海を渡ったのです。
 実際に行ってみると、川岸に祈り場があり、少ないではありますが、心備え
られた人々がおり、キリストの福音を受け入れたのです。また後で振り返って
みますと、御霊に禁じられたところは、後に訪問し多くの人が救われていま
す。また時が熟していなかったのかもしれません。
 現代も主は、私たちにみ言葉や様々な方法で私たちに進路を示されます。た
だ注意すべき事もあります。み言葉も幻も、自分の思いを反映しやすいので
す。見分けにくい時もあります。そのためには、神の前に全くへりくだりどん
なに自分の思いと違っても、神様の御心の通りにすることが必要です。その
時、私たちの思いをはるかに超えて、主が最善のみわざをなさるのです。現代
は特にみ言葉によって確信を与えます。
 この教団も教会も主の幻によってここにあるのです。私たちそれぞれに主は
ご計画をもっておられます。
 
2011年1月23日
【エルサレム会議】使徒の働き十五1節~35節
私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人
たちもそうなのです。(使徒の働き十五章11節)

 ここには、何によって人は救われるのかという大切な問題が記され、また教
会内での対立と解決が記されています。
 事の発端は、エルサレムからアンテオケに来たあるクリスチャン達が、救わ
れるには割礼が必要だと言ったことでした。バルナバとパウロはこのことを解
決するためにエルサレムへ行ったのです。そして使徒や長老達と協議しまし
た。
 何によって、救われるか。これは救いの根幹に関わる問いでどうしてもゆず
ることのできない真理です。真理は変わることがありません。教会は真理を見
出すために、時に対立することがあります。神様は対立そのものを否定しては
いません。しかしそれが感情的なものになったり、憎しみになったりするな
ら、悪魔を喜ばせるだけで、神様のみ心にかなっているとは言えません。気を
つけましょう。
 また、救いの真理は変わりません。しかしそれぞれの社会的背景の違いは、
意見の違いになることもあります。またこの世に遣わされている教会は、伝道
の方法や文化的な面では、いつも変わることを求められ、時に意見の違いに至
るのです。
 ではこの会議で、どのように解決したのでしょう。第一のことは、それぞれ
の考えをはっきり言うことです。救いに割礼は必要かが焦点です。次に大切な
のは、聖書と聖霊は、どのように導いておられるかです。まずペテロは、異邦
人の救いの事実を再確認し、その時信じるだけで救われ、割礼は必要なかった
ことを確認しました。それは聖霊の導きでした。また長老ヤコブは、異邦人の
救いを旧約のアモス書から確認しました。こうして主はユダヤ人と異邦人を差
別なく救われる真理を確認したのです。
 それで全部終わりではありません。一つは愛の配慮です。ユダヤ人の嫌う偶
像に献げた物や絞め殺した物は食べないように勧め、不品行を戒めました。も
う一つは、各教会にその内容を文書で知らせ、アンテオケ教会には使節を派遣
し、結果を徹底したことです。私たちも救いは聖書と信仰のみによることを確
認し、聖書と聖霊の導きを求めましょう。
 
2011年1月16日
【宣教への派遣】使徒の働き十三1節~12

彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が「バルナバとサウロをわたしの
ために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。
(使徒の働き十三章2節)

 今日の宣教への派遣は、初めての宣教を目的とした派遣、しかも異邦人への
派遣です。この時神様はどのように人を遣わされたのでしょうか。神様の方法
はいろいろですが、その原則は、今の宣教でも大切なものです。
 それは、礼拝と断食の中で導かれました。礼拝は、主の御名をあがめ、主の
み言葉を聞くところです。そしてそれは、聖霊によって語られました。聖霊
は、真理を悟らせ、み旨を知らせる助けぬ主です。またその語りかけは二人で
はなく、教会全体に対するものでした。そして、召した任務につかせます。そ
れは、その時召したというのではなく、もっと前からです。サウロの回心の
時、すでに語られています。サウロは、天地の造られる前から召して下さった
と手紙に書いています。また派遣は二人でも、それを支える教会も、この派遣
に召されているのです。
 最初の派遣は、実際どんなだったでしょうか。教会は二人に手を置いて祈
り、出発させました。教会は二人を聖別しました。それは、彼らのすべてが主
のものですということです。彼らは、聖霊によって遣わされました。最初行っ
たのは、キプロスでした。それはバルナバの出身地で良く知った場所でした。
主は、私たちも良く知っているところにも遣わされます。そしてそこでは、好
意的な出来事も、反対することも起こりました。すべてうまくいくのではあり
ません。しかし主は、反対者を用いて、福音の前進へと変えるお方です。今で
もそうです。神様は、私たちそれぞれをどのように召しておられるでしょう
か。そしてどのように、聖霊によって、遣わしておられるでしょうか。聖霊に
従って、それぞれ召され遣わされた場所で主に仕え、主を伝えましょう。
 
2011年1月9日
【アンテオケ教会】使徒の働き十一章19節~30節
「ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来て
からは、ギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。」
(使徒の働き十一章20節)

 先週のパウロの回心と今日のアンテオケ教会の誕生は、キリスト教会の重要
なポイントになる出来事です。この二つが整って、異邦人伝道つまり地の果て
までの宣教の準備が整ったからです。このアンテオケ教会がどのように誕生
し、整っていったのかを見てみましょう。
 アンテオケ教会の始まりはどんなだったのでしょうか。決してよい状況で誕
生したのではありません。逆に、ステパノの殉教、その後の大迫害で散らされ
た人々が、流れてきてできたのです。すべて治めておられる主は、それも良い
ことへと変えて下さるのです。そして彼らは、ユダヤ人に証をし、確信を強め
られ、仲間が与えられていきました。その中でキプロス人系とクレネ人系のユ
ダヤ人がいてギリシャ人つまり異邦人にも福音を語り始めました。聞いた人々
は、聖霊によって、多くの人が、主イエスによる救いを受け入れたのです。こ
こにはエルサレム教会にはない特徴があります。そこではなかなか異邦人に伝
道できませんでした。心の壁があったからです。しかしアンテオケでは、ギリ
シャ文化になじみがあり、偏見がなかったのです。こうしてアンテオケ教会
は、異邦人伝道の拠点として成長していったのです。神様は私たちそれぞれに
特徴を与え、それを生かして証し、主の栄光を現すようにと導いておられるま
す。私たちは、どうでしょうか。いつでも救われる前、その時、その後を話し
証できるように準備していましょう。
 また群れができた時には、皆信徒で指導者はいませんでしたが、その後バル
ナバとサウロが来て、主にとどまるように導き、聖書を教え、クリスチャンと
呼ばれるようになり、預言と援助をして、主からの愛を現していったのです。
私たちも、キリストがうちにいるのでクリスチャンです。心に主の証がありま
す。だから証できるのです。
 
2011年1月2日
【サウロの回心】使徒の働き九章1節~31節
しかし、主はこう言われた、「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、
王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」
(使徒の働き九章15節)

 キリスト教の迫害の筆頭に立っていたサウロ別名パウロの回心は、本人にと
って劇的であったばかりでなく、キリスト教の歴史も大きく左右する出来事で
した。なぜサウロの回心が起こったのか二つの点から見ていきます。
 第一の点は、それは聖徒たちの祈りの答えとして起こりました。その一つ
は、迫害に対する苦しみの叫びです。三章や一二章には、宣教と同時に迫害さ
れ祈る姿があります。節を見るとその迫害5
の苦しみは、主イエス様ご自身が共に負って下さっています。神様は、聖徒の
叫びに答えて、迫害者を変えて下さったのです。もう一つの祈りは、とりなし
の祈りです。八章の終わりにステパノが殉教するときの祈りがあります。「主
よ、どうぞ彼らの罪を、彼らに負わせないで下さい。」主の十字架上の祈りと
同じです。神様は、この祈りに答えて下さったのです。また祈りは、アナニヤ
のように主言葉への従順な行動も忘れてはいけません。
 第二の点は、神様の救いのご計画です。天の父は、御子イエスによって、す
べての人を選び、救いの道を開かれました。(もちろんそれには応答が必要で
す。)そしてパウロも救いのために選んでおられました。パウロ自身手紙の中
で、「生まれる前から」「天地の造られる前から」選んで下さっていたと言っ
ています。私たちも同じように選ばれています。なぜ選ばれたのか?サウロに
ついては、「王たち、異邦人、イスラエルの子孫」に福音を伝えるためです。
私たちも、神様の栄光を現し、救いを宣べ伝えるために選ばれているのです。
サウロはこの選びに応答しました。私たちもこの救いへの選びに応答し、また
この救いを伝えましょう。
 
2011年12月26日
【シメオンとアンナ】ルカ二章22節~39節
ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレ
ムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。
(ルカ二章38節)

 クリスマスの余韻が残る今年最後の礼拝です。イスラエルの人々は、救い主
が現れるのを待ち望んでいました。シメオンとアンナは、救い主をどのような
方として待ち望んでいたのでしょうか。それは、私たちが、どのように救い主
を待ち望むのかをも考えさせるものです。
 シメオンは、イスラエルの慰め、救いとして救い主を待ち望んでいました。
神様が、先祖への約束の通りに外国からの苦しみから救って下さるということ
です。しかしシメオンは、さらに救い主が、異邦人を照らす啓示の光であると
言っています。それは、約束の民だけでなく、すべての人に神様が示されるこ
とです。異邦人を、神様から捨てられたものと考えていた当時には驚くべきも
のですが、旧約聖書で預言されていたことでした。さらにマリヤに言われてい
ることから、人を立ち上がらせたり、倒したりする方だとわかります。この世
界を造られたお方ですが、必ずしもすべての人に喜ばれるのではなく、受け入
れない人や反対する人もいるのです。またもう一つのことは、マリヤも心を刺
し貫かれると言われています。母親としてこの苦しみを見ることもそうです
が、救いとは、御子による身代わりの死によって、成就するのです。私たち
も、心のうちを探られ、えぐられなければなりません。心問われ決断を迫られ
ます。しかしそれは、救いへの道を開く、究極の愛の中でなされるのです。
 若いときに苦しみをアンナですが、シメオンと重複するところもあります
が、アンナは人々にこの幼子のことを語り聞かせて、神様をほめたたえまし
た。
 私たちも、今再臨の主が来られるのを待ち望んでいますが、同じように人々
に、救い主が与えられた喜びを語りつつ、待ち望んで参りましょう。
 
2010年12月19日
【今日あなたがたのために】ルカ二章8節~20節
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。(ルカ二章11節)

 この言葉は、御使いが羊飼いたちに告げた言葉です。これはすばらしいメッ
セージです。
 「きょう」。その日が今日です。多くの人が約束の救い主が来られるのを待
っていました。でもそのお方は「きょう」生まれたのです。もう待たなくてよ
いのです。
 「あなたがたのために」。羊飼いたちのためであり、私たちのためです。羊
飼いは、ローマの住民登録からも除外され、ユダヤ人の中では、地の民、つま
り天に属さない救われないものと言われていたのですが、神様は、あなたがた
のためにと言われているのです。
 「救い主が」罪から救い、自由にするお方です。
 このみ告げに対して、羊飼いたちは、この出来事を見て来ようと言い、出か
けて行き、遂に救い主に会い、神をあがめたのです。
 今も神様は、同じ言葉を私たちに、聖書を通じて語っています。私たちのな
すべきことは、聞く、信じる、行動して確かめる、確かめたら神様を賛美する
ことです。
 羊飼いたちは、救い主にあってどうなったでしょうか。ローマやユダヤ人と
の関係は変わらなかったでしょう。しかし、救い主に会った喜びは、心にとど
まったことでしょう。環境が変わらなくても、神様の救いを信じるとき、自分
が変えられるのです。それによって状況も変わっていくのです。
 ジェイコブ・デシェーザーは、日本の捕虜となり日本人を憎みました。しか
しキリストが十字架の上で「彼らをおゆるし下さい」といったことを聖書で読
んで、全く変わりました。そして宣教師となり日本へ来て、神様の愛を伝えた
のです。
 私たちのために来られた救い主を、きょう、信じ受け入れ、心から主をあが
めましょう。
 
2010年12月12日
【救い主の場所】ルカ二章1節~7節
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸
をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼と共に食事をし、彼もわ
たしと共に食事をする。」(黙示録三章20節)

 ルカは、キリストの誕生の事実のみを淡々と記しています。私たちは、クリ
スマスを一日一日待ち望んでいます。主は、どこに来られたのかをみ言葉に聞
いてみましょう。
 その前に、本来、御子であるお方がいる場所は、どこなのでしょうか。父な
る神と共におられたのです。神様と共に天地創造に関わり、すべての栄光を受
け、霊的な存在で、物質や肉体の制限を受けないので、どこにでもいらっしゃ
ることのできる存在でした。そのお方が人となってこの世界に来てくださった
のです。
 その場所とは、第一に、人類の歴史の中という場所です。ここでは皇帝アウ
グストやクレニオの名があげられていますが、人々が営んできた歴史の現実の
中へ来てくださったのです。
 第二には、ダビデの家系の中という場所です。それは、神様がアブラハムを
通して、その子孫を祝福すると約束したただ中です。突然や偶然の誕生ではな
く、人の考えを超えて、神様の約束とご計画の中に救い主は、生まれたので
す。
 第三に、最も貧しい中に来られたのです。当時救い主は、天使のように突然
に、強い大人が現れると考えられていました。また王としてすべて整った中で
も良かったのです。しかし、最も弱い人間として、そして家畜小屋の飼い葉桶
の中に来られました。十字架の死に至るまで、すべての苦しみと死の中に、主
は来られたのです。
 最後に、救い主は、場所のないところに来られました。この世界は、神のも
のであり、そこに来られたはずですが、この世界は、この神の子を受け入れな
かったのです。しかしこの幼子を、救い主として信じ受け入れる人には、神の
子となる力を与えられたのです。私たちも、救い主が来てくださったことに感
謝し、そのままに心を開いて、迎え入れましょう。
 
2010年12月5日
【み告げを受けるマリヤ】ルカ一章26節~38節
「神にとって不可能なことは一つもありません。」
 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたの
おことばどおりこの身になりますように。」(ルカ一章37節~38節)

 「受胎告知」と言われるところです。しかしマリヤの信仰には驚かされま
す。決して良いことだけではなかったみ告げを、なぜマリヤは無条件で受け入
れることができたのでしょうか。
 マリヤと突然に現れた御使いとのやりとりを見てみましょう。またザカリヤ
の場合と比べるとその落ち着きがよくわかります。御使いが現れた時、戸惑い
ながらも怖がることはありませんでした。またみ告げの内容も、わからないこ
とを落ち着いて質問し確認しました。そして最後に、へりくだって主に対する
全信頼を表し、受諾したのです。
 それは、神様から男の子が与えられる、それは聖霊によるもので、いと高き
者の子、永遠の王だというすばらしいものでした。しかし結婚していなかった
マリヤには、受け入れられないことでした。それは許されないことであり、誤
解を招くことであり、またユダヤの社会からも、つまはじきにされるようなこ
とだったからです。それにもかかわらず、マリヤは引き受けたのです。なぜで
しょうか。
 恐らくそれは、神様へのまったき信頼があったからです。マリヤと言えば、
救い主の母として清らかなイメージがあります。しかし聖書は、義人は一人も
いないと言っています。マリヤの潔さ、それも決して生まれついてのものでは
ありません。私たちは、生育での傷、そこに生まれる憎しみなどによって、悪
魔に捕らわれてしまう弱い存在です。マリヤは、神様との交わりの中で、あり
のままにすべてを探っていただき、すべてに赦しをいただいたのです。ですか
らマリヤ自身も救い主を必要とする存在だったのです。マリヤは、礼拝と日々
の交わりの中で、主の愛を確認していたのです。だから無条件で承諾できたの
です。
 37節は創世記十八章14節の引用です。マリヤはこの言葉を聞いて、これから
起こることを一瞬にして理解したに違いありません。
 
2010年11月28日
【実現する言葉】ルカ一章5節~25節、57節~80節
わたしの言葉は、その時が来れば実現します。(ルカ一章20節)

 今日からアドベントに入ります。それは待ち望むという意味で、救い主が来
られた日を待ち望むということです。
 キリストの誕生の前に、御使いは祭司ザカリヤに現れました。神殿の幕屋の
中で、特別に仕えている時でした。御使いが告げたことは、あなたの祈りは聞
かれ、男の子が与えられる、ヨハネと名付けなさい、主の道を備えるものにな
るということでした。
 大喜びすべき、み告げでした。しかしザカリヤは、恐れ、とまどい、信じら
れませんでした。なぜなら彼も妻も、もう年を取っていて、赤ちゃんはできな
いと思っていたからです。
 信じられなかったザカリヤに対する御使いの答えが今日の中心聖句です。神
様の言葉、ご計画、特に救いのお約束、それは必ず実現します。ご意志をもっ
て約束され、実行されるからです。そしてそれは、人が信じるか信じないかに
よって左右されるものでもありません。必ずなるのです。
 神様の救いのご計画は、キリストの誕生、また十字架でのあがないの死、復
活によって成就しました。もはや罪と死とは力を失ったのです。だから私たち
はクリスマスを祝うのです。
 ところでこのザカリヤに告げられた預言は、普遍的な約束だけではありませ
ん。彼個人に対する約束でもあります。最初は信じられなかったのですが、ヨ
ハネと名付けた時、口は戻され、神様の栄光と救いを賛美しました。恐らくみ
告げのすぐあとに信仰が与えられたのです。そしてみ言葉が実現しました。ザ
カリヤは彼自身、神様の救いを受けたのです。
 神様の救いの約束は、決して遠くのものではなく、すぐ近く私たち個人個人
に対するものでもあるのです。しかし個人的な救いは自動的なものではなく、
信じて答える必要があるのです。私たちが主の言葉を信じて受け取る時に、主
を迎え入れ、救いが実現します。
 
2010年11月21日
【感謝した人は?】ルカ一七章11節~19節
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
(詩篇一三六篇1節)

 十人の重い皮膚病の人がイエス様に離れた所から「あわれんでください」と
言いました。イエス様は祭司に見せるように言われ、十人はその行く途中で癒
されました。その中のたった一人サマリヤ人が神をあがめ、イエス様に感謝す
るために帰って来ました。イエス様は、「他の九人はどこにいるのか」と嘆か
れたのです。
 私たちは、感謝を忘れやすい存在です。癒しなどお願いする時は、必死で一
生懸命ですが、そのお願いが聞かれると、大喜びしますが、神様にも人にも感
謝することを忘れてしまいます。
 感謝することは相手がいます。だれに感謝するのでしょうか。まずは、お世
話になっている周りの人です。次に私たちの身近にいる人、つまり夫や妻、親
など家族があげられます。「外面(そとづら)がいい」という言葉があります
が、私たちはあまりに近い人をないがしろにしやすいのです。感謝しましょ
う。
 そして何よりも天地を造り、私たちを造られた神様へ感謝を献げましょう。
なぜ神様は、天地万物や植物動物を造られたのでしょうか。それは、人間が祝
福されて生きることのためです。太陽と地球の距離、地軸の傾きなどどれかが
少しでも違っていたら、生きていくことのできない世界であったかもしれませ
ん。
 神様は、そればかりではなく、造り主を離れ、勝手な道を歩み、お互いに苦
しめ会っている私たちが、神様に立ち帰ることのために、イエス・キリストを
送られました。キリストがすべての罪を負って下さったので、信じる人は誰で
も救われて、神様との関係が回復され、憩うのです。だから感謝するのです。
その感謝の時が、礼拝であり静思の時です。その度ごとに、その恩恵を確かめ
て、喜ぶのです。
 そして感謝があなたを救います。私たちが感謝を忘れると他のものが私たち
を支配します。不平やつぶやき、自己中心な思いです。イスラエルの民はその
ために荒野で四十年さ迷い、朽ちたのです。しかし感謝はそれらを追い出し、
救いの確かなことを私たちの内に証するのです。
 
2010年11月14日
【ラザロと金持ち】ルカ一六章19節~31節
「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみこ
とばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救う
ことができます。」(ヤコブ一章21節)

 主イエスの語られたこの話は、死後についての特別な証言(と忠告)です。
私たちは、死んだ後どうなるのでしょうか。またそのためにどう備えるべきで
しょうか。
 この箇所や他の箇所で聖書が死後について教えていることがあります。人は
必ず死ぬこと、死んだ後主の裁きの前に立つこと。そして二つに分けられるこ
とです。一つは、永遠の命、もう一つは、永遠の苦しみの刑罰です。注意すべ
き点は、その中間はありません。煉獄やこの世をさ迷う魂はありません。また
人の命は循環しません。生まれて、この世で生き、死んで、裁かれて永遠が決
まります。直線的です。それは生まれ変わりや輪廻というものはないというこ
とです。それぞれの生き方が責任を問われるのです。
 では、どのように死後へ備えるのでしょうか。そのためには、この世と死後
の関係を知ることが大切です。死後を決めるのは、現世です。死んだ後は何も
変えられません。また人の功徳によっても変えられません。すべての人は罪人
だからです。しかし、唯一罪のないお方、神の御子イエスキリストの贖罪によ
って、罪が赦され、永遠の命への道が開かれているのです。生身で聖なる神様
の前には誰も立てないのです。死後は、この世での持ち物には関係ありませ
ん。お金では天国へ行けません。またどんな知識(聖書の知識も含めて)も人
を天国へ連れいていけません。では何が必要なのでしょうか。それは、聖書を
信じ従うこと、キリストの救いを信じることです。聖書は、神を恐れると同時
に、正義、あわれみ、誠実を行うべきことを示しています(マタイ二三章23
節)。キリストはそのように歩まれました。そしてキリストは死んでよみがえ
り、その証人が多くいます。ですから、今、聖書を信じ、従うことが、死後へ
の備えです。ラザロは、何もできなくても信仰によって天国に迎えられたので
す。
 
2010年11月7日
【放蕩息子】ルカ一五章11節~32節
「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思
い、走りよって彼を抱き、口づけした。」(ルカ一五章20節)

 とても有名なたとえ話です。私たちの目は、帰って来た息子に注がれます
が、そのテーマは、父親の愛です。この父親は、天の神様を表しています。父
親の愛とは、どんなものなのでしょうか。
一.放蕩息子の喪失
 この弟息子は、生きている父の財産を求めるというとんでもないことをしま
す。そして財産を分けてもらうとすぐに遠い国へ旅立ち、放蕩に身をくずし、
全財産を失いました。ちょうどその時、飢饉が訪れ、餓死しそうになったので
す。
 この息子は、父の財産を求めたことは、父の愛に気づかない、父の存在を認
めないことで、結果として父の元を離れることになりました。彼は、父を捨て
たと思ったかもしれませんが、実は、彼が父を失っていたのです。そしてその
結果は、故郷を失い、財産を失い、夢を失い、そして自分自身を失ったので
す。私たちも天の父を失う時、すべてのものを失っているのです。
二.放蕩息子の回復
 極限に来た彼はようやく「我に返った」のでした。そして悔い改めて、父の
存在を認めます。息子と呼ばれる資格はないと言いつつ、父の所に帰って行っ
たのです。父は、遠くにいる時から彼を見つけ、走って、抱いて迎えます。き
れいな服を着せ、お祝いの準備をさせます。そして息子は失っていた自分自
身、夢、財産、故郷が回復されたのです。
三.父の愛
 この父は「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのが見つかった」と
言って大喜びしました。父は息子が良いから愛したのではありません。悪い時
にも愛して待っていたのです。ところで息子はなぜ「あなたの子と呼ばれる資
格はありません。」と言いつつ帰って言ったのでしょう。きっとそれは、それ
でも受け入れてくれる父の愛を知っていたからではないでしょうか。このたと
えの転換点、「我に返る」、それは父の愛に気づいたからこそできたことなの
です。天の父は、今もあなたの帰りを待っているのです。この天の父のもとへ
返りましょう。
 
2010年10月31日
【百匹の羊】ルカ一五章1節~7節
「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるな
ら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるので
す。」(ルカ一五章7節)

 百匹の羊の譬えは、律法学者たちのつぶやきへの答えとして話されました。
彼らは、イエス様が「罪人たちを受け入れ食事をしている」と言ってつぶやい
たのでした。それは汚れると考えたからです。
 羊は、目も近視で、犬のような嗅覚もないので迷いやすい動物です。また角
も丸くて牙もないので襲われたらひとたまりもありません。人に飼われていな
ければとっくに滅びていたと言われています。この羊の一匹がいなくなったの
です。
 羊飼いは、一匹一匹を良く知っています。一匹がいなくなったことに野原で
気づいて、そこに九十九匹を残して探しに行くのです。迷った羊を放っておけ
ば、間違いなく餌食にされてしまいます。実は人間も迷いやすいことは、羊と
似ています。目の前のことに捕らわれ、神様を見失います。また将来がわから
ず不安になります。
 しかし、羊飼いである神様は、必死で捜します。山も谷も、昼も夜もどこま
でも。それは決して失われてはいけないからです。他に九十九匹いたとして
も、その一匹に代えることはできないのです。だから獣の口からでも助け出す
のです。
 そして遂に見つけます。ここに現れているのは「喜び」です。いなくなって
いたのに見つけた喜びです。あふれ出て、友だちや近所の人に話さずにはいら
れない喜びです。7節を読みましょう。ひとりの人が悔い改めるなら、それを
必要としない九十九人にまさる喜びが天にあるのです。
 主は、神様から離れ、罪に迷っている人が、神様に見出され、人本来の祝福
に与るように望んでおられます。そしてひとりの人の救いの喜びを皆と共に喜
ぼうとしているのです。
 
2010年10月24日
【盛大な宴会】ルカ一四章15節~24節
「主人は言った。『街道や、垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱ
いになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。』」(ルカ一四章23節)

 盛大な宴会の譬えは、宴会に出た客の一人の言葉への答えです。神の国に入
る幸いな人はどんな人かを示すため三つのグループが出てきます。
 最初の人々は、招かれている人々です。しかしこの人々は、出席を断り、来
ませんでした。これは当時の律法学者たちを指しています。しかし今でも商売
や仕事のこと、家族やつきあいのために神様の招き(救いへの道)や集会を断
ることは良くあることです。この人々は、救いの価値を見いだせずに招きに応
じなかったことをあらわしています。救いの尊さ、価値を確かめましょう。
 次の人々は、貧しい人々や体の不自由な人々でした。この人々は、当時招か
れてもお返しのできない人々を指しています。宴会を開くためには事前の準備
が大変です。神様は、私達を招くために、アダムが罪を犯したときから、御子
の十字架の死による救いの道を準備され、ついに整いました。今の私たちも、
この命の代価をだれもお返しはできません。しかし心を開いて招きに応じる人
が神の国に入れるのです。
 最後の人々は、だれでも招かれていることを示しています。街道とは今の高
速道路、つまりその町を通過しようとする人々です。神様の救いの道はだれに
でも開かれているのです。招きに応じる人はだれでも入れるのです。
 そしてここには「無理にでも」と書いてあります。伝道はついつい遠慮がち
になりますが、主は無理にでもと言われます。うれしいことがあれば、話した
くてしようがなくなります。無理にでも伝えたくなります。この福音を知らな
ければ、神の国に入れません。こんな良いものは、無理矢理にでも伝えて連れ
てくるべきではないでしょうか。積極的に伝道しましょう。
 
2010年10月17日
【愚かな金持ち】ルカ一二章1節~21節
「朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。」(ルカ一二章33節)

 この譬えは、豊作で裕福な金持ちが、自分の魂に、大きな倉を建てて楽しも
うと言ったのですが、その夜、神様は、あなたの魂は今夜取り去られると言わ
れたというものです。
 事の発端は、ひとりの人が遺産を分けるように兄弟に話して欲しいと言った
ことでした。現代に至るまで、遺産の分配は、争いの種となっており、醜い話
しが耳に入ります。
 主イエスは、遺産を分けるように言って欲しいと言われたすぐ後に「どんな
どん欲にもよく注意して、を警戒しなさい」この譬えを話しました。
 しかしよく考えてみると、どこがどん欲なのでしょうか?遺産の自分の分け
前を主張するのは、当然ではないでしょうか。またこの譬えでも、自分の畑で
取れたものであって、決して不正を働いた富ではありません。そうして見ると
「どん欲」について神様の基準と人の基準は、違っているのです。どん欲の反
対は天に宝を積むことです。どうしたらいいのでしょうか。
 「天に宝を積む」第一のことは、創造主を恐れてへりくだることです。金持
ちは神様を認めず「自分のたましい」に「安心して、食べて、飲んで、楽し
め」と言いました。天の父は、私たちに良いものを与え、魂の救いも下さいま
した。へりくだって感謝することが天に宝を積むことです。
 第二のことは、いつも死を計算に入れて生きることです。「私たちはいつ死
ぬかわかりません。ずっと先か、今夜か。いつでも主の前に出られる備えが必
要です。主のみ心なら、私たちは生きていて、このことを、またあのことをし
よう。」ヤコブ四章15節。
 第三のことは、隣り人を顧みる生活です。創造主からただですべての恵みを
受けていることを考えれば、喜んでそうするのです。隣人を顧みることは、富
んでいても貧しくても問われていることです。
 どんなに財産を持っていてもそれで自分の命も救えません。天に宝を蓄えま
しょう。
 
2010年10月10日
【とすれば、なおのこと】ルカ一一章1節~13節
「とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さら
ないことがありましょう。」(ルカ一一章節13節)

 今年の主題の聖句です。主の祈りに続いて、譬えで、聖霊を求めるべきこと
と神様が聖霊を下さろうとしていることが記されています。それは、主の祈り
の言葉では、表しきれないことを主は伝えようとされたのです。
 有名な「求めなさい。そうすれば与えられます。」の聖句。なぜ求めなさい
と言われているのかと言うと神様が必ず与えて下さるからです。しかし、この
前後を見ると、最も良いものとして「聖霊」を求めなさいと言われていること
がわかります。なぜ、聖霊を求めるのか、それは聖霊がすばらしいおかただか
らです。つまり聖霊は、神の子に生まれさせ(悔い改めに導くロマ8)、主と
の交わりを深め、真理(十字架やみ言葉の意味)を悟らせ、主と交わりを深め、
祈りを聞いて下さり、祈りを開いて下さるお方だからです。
 そして神様も、聖霊のすばらしさを知っているので、人に聖霊の賜物を与え
ようとしておられるのです。ただ与えたい以上に与えたくてうずうずしている
のです。
 しかしだからと言って、だれにでもすぐに与えることはできません。そのす
ばらしさのわからない人は、もらっても捨ててしまいます。また神様のみ心に
従って、思いのままに働かれます。自分本位な人の内には留まれません。その
聖が、人を滅ぼします。また聖霊には、人格(パーソナル)があり、悲しんだ
り、消えたりするのです。
 ですから天の父は、聖霊を与えたくてうずうずしているのですが、その尊
さ、大切さ、必要性を知り、一生懸命に求めて、へりくだる人にお与えになる
のです。どれ程求めてきたでしょうか。もっと熱心に、へりくだって求めまし
ょう。
 
2010年10月3日
【よきサマリヤ人】ルカ一〇章25節~37節
彼は言った、「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言
われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ一〇章37節)

 このよきサマリヤ人の譬えは、良く知られています。譬えのきっかけとなっ
たのは、律法の専門家の質問でした。永遠の命を得るためにどうしたらいい
か、また私たちの隣り人とはだれかという問いでした。
 この譬えのポイントは、強盗に襲われ半殺しになった旅人を「だれが助けた
のか」と「なぜ助けたのか」の二点です。
 「だれが」というのは、サマリヤ人です。それはユダヤ人ととても仲が悪か
ったのです。しかし助けたのです。「なぜ」というのは、かわいそうに思った
からです。この言葉は、はらわたがちぎれるような痛みからきています。自分
のことのように、痛みを感じたということです。
 また主は「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。実践が問
われています。そこにも二つのポイントがあります。一つは、隣り人はだれか
ではなく、隣り人になるという点です。隣り人を選んだり待っているのではな
く、私たちが積極的に関係を作り「なる」のです。
 そしてもう一つは、その原点(出発点)は、キリストご自身にあるというこ
とです。黄金律の初めは、神を全力で愛せよということです。その前提には、
エジプトの奴隷の地から導き出されたことがあります。神様の愛、あがないが
始めにあるのです。主が隣り人になって下さったことを知っている。そこが原
点です。そして自分を愛するように隣り人を愛するのです。教会ではよく罪と
いいます。でも罪の赦しだけでは、恐れと緊張の中です。愛のゆえに赦された
なら自由と喜びがあります。愛されていることを知っているからこそ自分を愛
します。だから隣り人を愛せるのです。
 
2010年9月26日
【惜しまれる神】ヨナ三章~四章
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられま
す。」(テモテ二章4節)

 ヨナ書のテーマは「宣教」です。後半の三~四章から二つのことに心を留め
ましょう。
 第一は、主は人が滅びるのを惜しんでおられることです。どんな人を惜しん
でおられるのか、まずニネベの人々です。彼らは聖なる神様を知らず、「右も
左もわきまえない」人々です。次に、ヨナです。神様の思いがわからず、ニネ
ベの人を愛せず、すぐに反抗したりすねたりして、死んだ方がましだと言って
しまうような預言者も惜しんでおられるのです。さらに、彼らに似た私たちで
す。愚かであっても、主は私たちを愛し、滅びるのを惜しんで、御子キリスト
を送り、永遠の命に至る道を開いて下さったのです。私たちの周りにも、神の
救いを知らない多くの人がいます。主はこの人々をも同じように惜しんでおら
れます。救いを伝えましょう。
 第二は、み言葉に従うと祝福があるということです。主イエスの宣教命令
は、マルコ十六章15節、マタイ二八章18節~20節にあります。しかし私たちは
伝道に消極的なことがあります。なぜでしょうか。あの人は救われないと勝手
に考えたり、自分では証にならないと考えたりします。しかし主に遣わされた
弟子たちを見るとみな、頼りない不完全な人々でした。主はそのことをご存知
で、私たちをも遣わされます。その責任は、主が取って下さいます。聖霊の助
けによって伝道していくと、その中で私たちが成長し、主の御心を体験的に知
るようになるのです。悔い改めたニネベの人々は数十年イスラエルに攻めて来
ませんでした。私たちには苦手と思う人がいますが、その人も主は救われるの
を望んでおられます。伝えることを通して、私たちも祝福されるのです。
 
2010年9月19日
【逃げ出したヨナ】ヨナ一章1節~二章10節
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導
き、あなたの右の手が私を捕らえます。(詩篇一三九章9節~10節)

 「ヨナ」と言えば魚に飲まれた人として日曜学校でもよく話されます。ヨナ
書には明確なテーマがあります。「宣教」です。ヨナ書といえば「宣教」なの
です。今日は前半の一~二章です。
 神様はヨナに、ニネベの町へ宣教に行くように命じました。ヨナはどうした
でしょう。素直に行きませんでした。逃げ出したというより断ったといった感
じです。なぜでしょう。ニネベはアッスリヤという国の首都で、しばしばイス
ラエルと敵対していたのです。ヨナは、船に乗り遠くへ行こうとしました。
 そんなヨナを神様は、どうされたでしょうか。神様は、嵐を起こしました。
船の上で人々が恐れてくじを引くとヨナに当たりました。人々は天地の造り主
を知って恐れました。人々がヨナを海に放り投げると魚がヨナを飲み込みまし
た。これらのことは罰として起こったのでしょうか。そうではありません。神
様は、ヨナを呼び戻し、ヨナがへりくだり悔い改めて、神様の愛と救いがわか
るようにとしたことなのです。ヨナは遠く神様の手から離れようとしました
が、神様はヨナをしっかりととらえていました。
 ヨナは、魚の腹の中で、黄泉の苦しみを味わい悔い改めたのです。主はその
祈りを聞き、ヨナを赦し、魚はヨナを陸地に吐き出しました。神様は、もう一
度ヨナを宣教に遣わされました。
 ある隠退牧師は、教会で奉仕をしたいと思いましたがそこで言われたのは、
キャラクターに変装する役でした。最初は断ったのですが、もう一度祈り、古
い自分は十字架に死んだことを確認し引き受けました。ある時その姿を見た弟
さんは「姉さんは変わった」と言いました。それから一年後弟さんは洗礼を受
けました。どんなに私たちが神様から離れようとしても、神様は私たちをとら
え、救いのご計画のすばらしさを教えようとしておられます。へりくだりまし
ょう。
 
2010年9月12日
【賛美の勝利】歴代誌Ⅱ二〇章1節~30節
「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」(歴代誌Ⅱ二〇章21節)

 ヨシャパテ王とイスラエルは、近隣の国が攻めてきたときに、勝つ力はあり
ませんでした。主に祈り助けを求めたときに、神の言葉が与えられました。ヨ
シャパテ王は、聖歌隊に賛美を歌わせ、また軍隊の前に進ませました。その時
不思議な勝利が与えられました。
 賛美とはどんなものなのでしょうか。それは、主をほめたたえることです。
ヨシャパテ王は、凱旋したときにも、賛美を歌わせました。しかし聖書を見る
と賛美は他にもあります。詩篇は、賛美集です。その中には共同体の歌、個人
の歌、たたえの歌、嘆きの歌があります。賛美は、つらい苦しいときに主に向
かって歌うことも含まれるのです。いつでもどんな時でも私たちは、そのまま
の思いで主に向かって賛美を歌うことができるのです。
 私たちが賛美を歌うとき、主はご自身の栄光を表されます。神様ご自身のす
ばらしさを歌い、また主を救い主とほめたたえるとき、主はそれを喜んで下さ
り、私たちに恵みを注ぎ、祝福されます。私たちが、主のみわざを喜んで賛美
する時も同じです。また私たちが嘆き苦しむとき、私たちが主にそれを訴える
とき、その中で主に助けを求めて信頼するとき、主は、私たちの訴えを聞い
て、助けて下さいます。
 ある教会で、会堂建築のことで、教会に分裂が生じ感情的な対立が起こって
しまいました。どうにもなりません。そんなある日器楽での賛美の集会が開か
れました。みんなの心は、その賛美の音色にとかされました。そしてもう一
度、心を開き心を一つにすることができたのです。賛美によって私たちは、主
の前に引き上げられるのです。
 
2010年9月5日
【エリヤの落胆】列王記Ⅰ一九章1節~18節
それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさ
い。旅はまだ遠いのだから。」と言った。(列王記Ⅰ一九章7節)

 前の章では、偶像に大勝利をしたエリヤですが、ここには死を願うほど落胆
したエリヤがいます。いわば燃え尽き症候群です。現代も、スポーツ選手を始
め、若者にもだれにでも起きうることで、牧師にも起こっています。また今
日、うつ病など心の病は、だれでもかかりうる病であり、社会的な課題となっ
ています。神様はどのようにエリヤを導かれたのでしょうか。
 まず、私たちが心に留めるべきことは、人は落胆しやすいということです。
エリヤは、もう偶像に勝利したと思っていました。しかしイゼベルはなお怒り
に燃えていました。エリヤは精も根も尽き果てたのでした。私たちもいろいろ
なことで落胆しやすいのです。その原因の一つは、神の存在や統治を認めない
思想です。神に造られた者が神に立ち帰るのは当然のことで、被造物には、そ
れぞれが神の栄光を表すという目的があります。しかし神を認めないと、進化
し優れたものに価値を認め、弱い者は存在理由がなくなってしまうのです。し
かしそうではありません。またそれだけが原因ではありません。信仰があって
も落胆します。悪魔は今も働き、希望を失わせようとしているからです。
 次に、神様はどのようにエリヤに接したのでしょうか。神様は、まずパンと
水を与えてからエリヤに問いかけています。肉体的な衰弱は、体にも心にも影
響を及ぼします。それから徐々に、心の核心に近づいたのです。主は私たちそ
れぞれの状態に合わせて、必要を与え導いて下さいます。
 さらに神様は、エリヤにビジョンを与えられました。一つは、悪魔に対する
何重もの備えです。悪魔はしつこいのです。いつでも油断できません。しかし
キリストの十字架は決定的な勝利となりました。もう一つは、エリヤは一人じ
ゃない、七千人の仲間、祈り支える者がいるということです。
 旅は遠いのです。しかし主のビジョンは、弱い私たちに希望を与えます。
 
2010年8月29日
【主の言葉の真実】列王記Ⅰ一七章17節~24節
その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にあ
る主のことばが真実であることを知りました。」(列王記Ⅰ一七章24節)

 ここに出てくるやもめは、飢饉に際し、最後のパンをエリヤに渡し、神様へ
の信頼と献身を表したすばらしい女性であり、神様は預言者エリヤを養わせま
した。ところがこのやもめの子どもが病気で死んでしまいました。主は、奇跡
をもってこの子どもを生き返らせて下さいました。このことを通して、主は私
たちに何を語っておられるのでしょうか。
 どんなに、すばらしい信仰と献身を表しても、だれも試練を逃れることはで
きません。しかし信仰をもって試練を見るとき私たちは、そこに神様の無限の
愛に気づかされます。
 息子が死んだことは、言い知れない悲しみと嘆きがあります。その時このや
もめは以前の罪を思い起こしました。私たちは、悪いことが起こると、過去の
罪過ちを思い出し、心責められるのです。しかし主は、息子を生き返らせ、試
練は過去との罪過ちによらないことを示されました。主は、罪を告白し、へり
くだって赦しを求める者をゆるして下さいます。それはもう思い出さないとい
う完全な赦しです。御子キリストの血であがなわれているので、罪がなかった
のと同じなのです。人の愛や赦しは、不完全で何かあると思い出して責めるの
です。私たちはそのような経験から、神の無限の愛と赦しを理解できずに、狭
めてしまいます。神様は、赦したことはもう忘れたので、責めないのです。
 また私たちは、どんなすばらしい親でも、子どもから全く離れないで守るこ
とはできません。しかし全能の主は、すべてのことに責任を持ち、守ることの
できるお方です。主は私たちが負えない者を負って、ささえて下さるのです。
成長させる
のは人ではなく、神様なのです。私たちの重荷を委ねましょう。主は、よみが
えりの命と力をもって、信じる者に全責任を負って下さるのです。主の言葉の
真実に信頼しましょう。
 
2010年8月22日
【復活の順序】テサロニケⅠ四章13節~18節
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はま
たそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られ
るはずです。(テサロニケⅠ四章14節)

 召天者記念礼拝は、先に天に召された方々を偲びつつ、私たちの信仰を顧み
る礼拝です。また希望されれば信仰や洗礼に関係なく、逝去された方々を覚え
て執り行います。この一年に、中村智子姉、澤田芳春兄、宇多川年子姉また親
類知人が天に旅立ちました。
 この聖書箇所は、キリストが再び来られたときの復活の順序について記して
あります。未来のことはわからないことも多いですが、心備えして待つように
言われています。実は、テサロニケの聖徒たちも先に死んだ人々について落胆
し、混乱していたのです。
 まず記されているのは、復活の順序です。キリストはラッパの響きと共に天
から来られ、雲の上にとどまられます。次に先に死んだ人々、その霊はすでに
パラダイスにあるのですが、その人々のからだがよみがえります。その後に、
生きている人々がキリストの体に似たものと変えられて天に引き上げられるの
です。そのあと審判と新天新地の創造、永遠の体が与えられるのです。
 そして次に見るべきことは、再臨を待ち望む心構えです。第一に、希望のな
い者のように落胆しないこと。キリストの復活が確かなしるしです。第二に、
熱心で倦むことなく、信仰に伝道に、仕事に学びに励むこと。だれもその日を
知らないからです。第三に、互いに慰め合いながらです。私たちは、復活の望
みを持っていたとしても、悲しみは悲しみなのです。それを互いに分かち合
い、慰め合うことは大切なことです。
 「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
(18節)
 
2010年8月15日
【ソロモンの知恵】列王記Ⅰ三章3節~四章34節
主を恐れることは知識の初めである。(箴言一章7節)

 終戦記念日は、忘れてはいけない特別な日です。私たちは世界の平和を求め
また、信仰の自由が妨げられない生活を求めて祈りましょう。
 今日はソロモン王を通して私たちが、神様に求めるべきことは何か、私たち
の生涯で何が重要かを聞きましょう。
 ダビデに変わって王と立てられたソロモンです。バテ・シェバの子であり、
王になるまで紆余曲折がありましたが、神様に愛されて王に立てられました。
その初めの頃でしょう。神様から、夢で何が欲しいかを聞かれたのです。
 夢とは何でしょう。ここでは私たちの本心が表される場所と言えるでしょ
う。覚醒時の緊張から解放されたところです。私たちはひょんな時に、自分で
も気づかなかった本心が現れてくることがあります。主は、私たちの心を探
り、銀のように精錬されるのです。
 ソロモンが求めたものは何でしょう。民を正しく裁く知恵を求めました。そ
の本心は御心にかないました。自分の欲や他者の命でなく、へりくだった心で
主に仕えようとしたのです。主は、主への私たちの思いが小さくてもそれを喜
ばれ、祝福されます。そして主はソロモンに、求めなかった富や長寿なども与
えると約束されたのです。事実ソロモンの生涯は、その通りでした。
 しかしソロモンへの歴史的評価は、二分されます。それは晩年傲慢になり、
主へのへりくだりを忘れ、偶像礼拝をし、次世代の信仰低下や王国分裂など災
いの原因となったからです。
 私たちは、いつも神の知恵であるキリストの前にへりくだり、天よりの知恵
によって、キリストの命に生かされる必要があるのです。愛されないはずのも
のが、愛されて救われている喜びをいつも持っていましょう。
 
2010年8月8日
【ダビデの失敗】サムエル記下一一章1節~一二章25節
私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しま
した。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとが
めを赦されました。(詩篇三二篇5節)

 あれほど主に信頼し、サウル王を殺さなかったダビデですが、大きな罪を犯
し失敗をしてしまいました。私たちも失敗しないとは言えません。罪とは何で
しょうか。罪を犯したときどうすればいいのでしょうか。また罪を犯さないた
めに、クリスチャンは、自分もキリストと共に十字架で死ぬ経験が大切です。
一.罪とは
 ダビデは、兵が戦いに出ている間、夕に起き、王宮の屋上から女性が体を洗
っているのを見ました。だれかを調べ、勇士ウリヤの妻バテ・シェバと知りま
した。その上で王宮に招き、彼女と寝たのです。その結果、バテ・シェバは妊
娠しました。するとそれを隠そうとウリヤを戦場から連れ戻しますが、彼は家
に帰りませんでした。彼に彼を殺すための密書をもたせ戦場に帰しました。彼
は戦死し、バテ・シェバはダビデの妻になったのです。ここに、むさぼり、姦
淫、殺人と罪を隠そうとして、罪がエスカレートするのを見ます。しかし本来
罪とは、神様を欺き、あなどることです。それは、殺人その他のどんな罪より
も重いのです。神様をあなどるなら死の他何の報いもありません。
二.罪を犯したなら
 聖書は、「義人はいない」と言っています。罪を犯さない人はいません。す
べての人は神様に背いているのです。すばらしいダビデも罪人でした。しかし
預言者ナタンが、ダビデの罪を指摘したとき、彼は心から罪を犯したことを認
め告白しました。その時神はダビデの罪を赦されました。しかしその生まれた
子は、亡くなりました。私たちは、罪を隠そうとするとますます罪を犯し、し
かしもし罪を認め告白するならば、神様はそれを赦してくださいます。それに
は、キリストによる罪のあがないがありました。
三.罪からの回復は
 罪が赦されると、罪と良心の呵責から解放され自由になります。そして神と
の交わりが回復し、死から命に移されます。さらに人との交わりも回復される
のです。私たちも罪を告白し、回復と祝福にあずかりましょう。
 
2010年8月1日
【主の前に踊れ】サムエル記上六章1節~23節
踊りをもって、御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を
歌え。(詩篇一四九篇3節)

 ダビデ王は、危機を乗り越え、やがて戦死したダビデに変わって王になりま
した。その時、羊飼いだったダビデを選び王へと導かれた主を礼拝しようと、
「主の箱」(神の臨在のしるし)をエルサレムの町に携え入れようとしまし
た。しかしそこに事件が起きました。牛か転び、落ちそうになった箱を押さえ
たウザが神様に打たれて死んだのです。ダビデは恐れ、「主の箱」を迎え入れ
られなくなりました。どうしてこんなことになったのでしょうか。そして私た
ちが主を迎え入れるためにはどうすればよいのでしょうか。
 その第一は、神様の方法に合わせることです。主の箱は祭司が肩に担うべき
ものであって、台車に乗せて運ぶものではありませんでした。それは私たち
が、聖なる主を敬い主にへりくだることを意味します。
 第二は、礼拝が中心ということです。最初は、精兵三万を集め誇示しまし
た。しかしその次は、礼拝をもって出発し、礼拝をもって迎え入れました。橎
祭を献げることは、自分を主に献げることを意味します。
 第三は、自由に主をほめたたえることです。礼拝の土台が正しければ、喜び
の表し方は自由です。ダビデは、王の衣を脱ぎ、奴隷のようになって、踊り歌
い、主の救いとみわざをほめたたえました。私たちもそれぞれに喜びを表しま
しょう。
 第四は、喜びを分かち合うことです。祝福を自分の内に留めておくのではな
く、家族や知人やすべての人に、神様から受けた祝福を分け与えることです。
私たちはお互い祝福し合いましょう。
 
2010年7月25日
【手を下すな】サムエル記上二六章1節~25節
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それ
は、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが、
報いをする、と主は言われる。」(ローマ人への手紙十二章19節)

 私たちが社会で生活する以上、どうしてもどこかで不当な扱いを受けること
が、起こってきます。それは無意識のものから悪意のあるものまでさまざまで
す。私たちはそのような時、どう受け止め対処したらよいのでしょうか。
 ダビデは、サウル王からねたまれ命を狙われるようになりました。必死で逃
げていたダビデでしたが、ある時サウル王も周りの家来も深く眠り、殺すチャ
ンスが訪れました。共のアビシャイは、これは神様がくれたチャンスだと言い
ました。しかしダビデは、「主が油注がれた者に手を出してはいけない。それ
で罪を得ないことは無い。」と言って、それを止めたのです。ダビデは、主の
絶対的な主権を認めて、サウル王は、主が選ばれたのだから、主がその選びに
責任を取られる。主の選びに人が口出しすべきでないと捉えていたのです。
 今は、すべての人に、キリストによる救いの道が開かれています。主は、す
べての人を選んでおられます。ただ人には応答する責任があります。不当な扱
いに対して、主は、自分で復讐するのでなく、私に任せなさいと語っておられ
るのです。不義から私たちを救い出し、御子の命も下さった主に絶対的な信頼
をもって委ねましょう。そうでなければ、相手への怒りが私たちの心を支配
し、平安が失われてしまいます。
 しかし注意すべき事があります。表面で赦したり委ねる事では解決しませ
ん。苦しみのすべては、そのままに主に訴えて、受け止めていただく必要があ
ります。また泣き寝入りではありません。ダビデのように主張すべき時には、
主張しなければなりません。もう一つは、主に委ねたらすぐに解決したり楽に
なるとは限らないことです。ダビデのようにもっと悪くなることもあるので
す。しかし本当の解決へ向かって近づいているのです。主の裁きに委ねましょ
う。
 
2010年7月18日 メッセージ:児玉正人師
【主に生かされて】聖歌257番1,2,3節の歌詞の内容から3つのみ言葉を学ぶ

1節 コリントⅠ十五章1節~4節(特に3節~4節)
「私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおり
に、私たちの罪のために死なれたこと、~4節」
 パウロがコリントの教会に導かれて、「私があなたがたに最も大切なことと
して伝えたのは、私も受けたことであって~4節」(右記)と同じように、私
もこの教会に開拓伝道に遣わされて四〇年最も大切な事として伝えたのは、私
自身も受けたことであって、主の十字架と復活による救いです。そしてその救
いに信仰によってあずからせて下さった神の愛の中に生かされている喜びを賛
美しています。

2節 ヘブル九章12節~14節(特に14節)
「御霊によって、神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心を
きよめ~」
 旧約時代は、やぎや子牛の血が神の前に注がれ罪が赦されきよめられて、神
と親しく交わることができましたが、今の新約の時代、キリストの十字架の血
が注がれた事によって神と親しく交わらせていただく事ができる恵みの中に生
かされている喜びにあずからせて下さっている。聖歌225番賛美したいです。

3節 コリントⅡ三章16節~18節(特に18節)
「鏡のように主の栄光を反映させながら栄光から栄光へと主と同じかたちに姿
を変えられて~」
 モーセは神と親しく交わり祈りの後、民の中に戻って来たとき、その顔は、
神の栄光の輝きが、鏡のように反映していたと同じように、私たちも主と交わ
り祈るとき、主の栄光の輝きが、私たちの顔をして反映し、主ご自身と愛を、
接する人たちに反映させて下さる喜びに、生かされているのですね。折り返し
の歌詞の終わりの所の「きょうもはげもう」を「今も生かされ」と変えて賛美
したいです。
 
2010年7月11日
【主の教会】マタイ十六章13節~28節
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上
にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
(マタイ十六章18節)

 教会とは何かを考えると、聖書の中には、見えない教会と見える教会があり
ます。見えない教会は教会の本質です。見える教会は、私たちが関わる実際の
教会です。教会は、イエス様を頭とし、天と地のすべての教会がつながってい
ます。
 さて主イエスは、弟子たちに人々がイエス様を誰と言っているかを聞かれま
した。多くの人は預言者エリヤやエレミヤなどと言っていました。しかしペテ
ロは、「生ける神の子キリストです」と答えたのです。それは、単に人という
のではなく、神の子であると答えたのです。これは人ではなく神によって示さ
れたことでした。
 そして主イエスは「この岩の上にわたしの教会を建てます」と言われまし
た。この岩とは何でしょう。カトリックではペテロ自身と見ていますが、文法
からすると、ペテロの「イエスは神の子キリスト(救い主)です」という信仰
告白です。主イエスはこの信仰告白上に主の教会を建てられるのです。これは
教会の本質です。
 またこの教会には、二つの約束が与えられています。一つは、ハデスの門も
それには勝てないと言うことです。キリストが十字架で命の代価を払って教会
を買い取られたからです。もはや罪と死には力がありません。二つ目は、19節
です。私たちには、地上と天において、つないだり解いたりする神の国の鍵が
授けられるということです。それは裁く権威ではありません。主の祈りや譬え
にもあるように、赦されたことを知っている者は赦す恵みにあずかることで
す。
 この約束を握りつつ、私たちは、実際の生活の中に教会を建て上げ、主を愛
し、互いに愛し、福音を宣べ伝え、成長させていただきましょう。
 
2010年7月4日
【主は心を見る】サムエル記Ⅰ十六章1節~23節
「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見
るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
(サムエル記Ⅰ十六章6節)

 この箇所は、ダビデが王に選ばれた箇所です。神様は新しい王を選ぶため
に、預言者サムエルをエッサイの家に遣わしました。
 一番上の子エリアブがサムエルの前に来ました。背も高く、立派な体格と容
貌でした。サムエルは、主が選ばれたのはこの人だと思いました。しかし主
は、「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人
が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」と言われ
ました。人は外見や第一印象に左右されやすいものです。しかし、主は外から
は見えない人の心の中を見ておられるのです。
 エッサイの七人の子が、サムエルの前に進みましたが、その中に主の選んだ
人はいませんでした。あとはまだ羊を飼っている少年だけでした。しかし彼が
呼ばれてくると、主は、「さあ、この者に油を注げ、この者がそれだ。」と言
われました。
 主は心の何を見られるのでしょうか。正しいか間違っているか。素直か曲が
っているか。もちろんそれもあるでしょう。しかしサウル王が退けられた理由
を考えても、神様の前にへりくだっているかどうかを見ているのです。先の基
準で見られたら誰も聖なる神様の前に立てる人はいません。
 しかしへりくだる人は、造り主の存在を認め、その前に立つことのできない
自分を認め、それでもそのままの自分を主が受け入れてくださることを認める
ことができます。そして新約時代の今、私たちの罪の代価として、キリストが
命を支払って下さったのです。あの放蕩息子を父が受け入れたように、神は、
受け入れて下さるのです。自分の義ではなく、神にへりくだって、御子による
救いを受け取りましょう。
 
2010年6月27日
【サウルの失敗】サムエル記Ⅰ十三章1節~15節
「見よ、聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪
にまさる。」(サムエル記Ⅰ十五章22節)

 今日は、サウル王の失敗です。サウルは、神様に選ばれ、サムエルから油を
注がれて、王になりました。それは、民の求めでもあり、また時代の要請であ
ったかもしれません。しかしイスラエルの本当の王は、神様です。
 サウルが王となったことは、私たちの救いに似ています。私たちは、神様の
選びに答えて、神様を信じて神の子となります。それが始まりです。そこから
神様を信じ、従う生活はどういうものかが問われてきます。
 サウル王の課題は、自分たちよりも強いペリシテ人とどう戦い、自分たちを
守っていくかです。その中で、どう神様を信じ、従うのでしょうか。神様は、
サウル王に、サムエルが来るまで七日間待つように、そしてサムエルの指示を
待つように言われました。
 しかし現実に、敵の大軍が結集し、味方は恐れて逃げ出し、残った者は、わ
ずか六百人でした。七日の期限が来てもサムエルは来ませんでした。そこでサ
ウル王自ら橎祭を献げたのです。その後サムエルが到着しました。
 サウル王は、なぜ待てなかったのでしょう。一つは、恐れに心が支配された
からです。恐れて当然の状況です。それに圧倒されて、自分を見失ったので
す。もう一つは、神様には勝利があると信頼できなかったことです。神様を見
失ったときに、待つことができなくなったのです。危機の中で神様に信頼する
ことは、なんと大切なことでしょう。待つことができなかったサウルはやがて
多くの祝福を失うことになりました。
 しかし、その後のヨナタンをみると( 6節)恐れないで主に信頼し、イスラ
エルを救いました。弾圧のような時でも恐れないで主に信頼しましょう。
 
2010年6月20日 メッセージ:板倉邦雄師
【本当の放蕩息子】ルカ十五章11節~24節
「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったの
だから。」そして彼らは祝宴を始めた。(ルカ一五章24節)

 今日は放蕩息子を演じたいと思いますが、皆さんに主役になってもらうこと
が大切です。
一.放蕩息子の生活
 息子は父親の財産を分けてもらい、出て行きました。放蕩とは飲む(アルコ
ール、薬物)、打つ(賭博、パチンコ)、買う(異性)ということです。神様
は私たち人が生まれる時から体力、知力、能力という財を与えておられます。
それを自分のためにのみ使っているなら、それは放蕩息子と同じです。やがて
それらはなくなってしまいます。すると笑うときにもうれいがあるのです。ま
た私たちの人生には、飢饉のように努力しても避けられない危機というものが
あります。それ自体は私たちの責任ではありません。しかし私たちを苦しめま
す。
二.放蕩息子の悔い改め
 彼は、食べる物にも窮して考えはじめ、父の家を思い出しました。私は十七
才の時、友人が飛び込み自殺をし、それからなぜ生きるのかを真剣に考え始め
ました。そして教会で聞いたヨハネ三章16節で「ひとりとして滅びることな
く」というひとりに私も入っていると信じたのです。放蕩息子は、天に対して
も、父に対しても罪を犯したことを告白しました。そして、立って父の家へ迎
えました。悔い改めは目に見えません。しかしそれを受け入れる所、目に見え
る生活が必要です。それが教会です。
三.祝福された放蕩息子
 父はまだ遠くにいるときに走りよって来ました。それは受け入れられる祝福
です。そしてきれいな服が着せられ、指輪がはめられました。子として回復さ
れた祝福です。そして祝宴にあずかりました。この地上では、まだ苦難があり
ますが、その中でも神の愛によって、希望をもつことができます。
 
2010年6月13日
【心を主に向け】サムエル記Ⅰ七章1節~17節
「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々
やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなた
がたをペリシテ人の手から救い出されます。」(サムエル記Ⅰ七章3節)

 サムエル記は、イスラエルの王国ができる時のことを書いています。それま
では、士師記にあるように自分の正しいと思うように振る舞っていました。心
を主に向けるとはどういうことでしょうか。そこには二つの面があります。
 一つは、心を主に向けるという面です。なぜ心を主に向けるかというと、主
は、私たちを造られたお方だからです。造ったので私たちを愛しておられるの
です。そして私たちにとって最もふさわしい生き方もご存知なのです。だから
心を主に向ける必要があります。そして心を主に向けるとは、まず、「心を尽
く」すことです。他のものに目を向けないで全力で主に向かうことです。他の
ことを止めることです。次に「主に帰り」「主に向け」とあるように主に方向
を変えるということです。悔い改めるとは、自分の道から主に向きを変えるこ
とです。第三に、「主にのみ仕える」ことです。仕えることは、へりくだらな
ければできません。また仕えるとは、礼拝をも意味します。
 もう一つの面は、偶像を「取り除」くことです。それは、人が造ったものだ
から、人を救うことはできないのです。偶像、占いなどが人の心を支配し、聖
別と成長を妨げます。また偶像は人の恐れる心から生まれます。たたりやまじ
ないでは人は、救われません。そして偶像とは、造り主よりも大切なものを意
味します。アイドルのような人、趣味や仕事、お金や持ち物も偶像になりうる
のです。私たちはこれを取り除きましょう。
 イスラエルの民は、断食し、悔い改めました。そうしたらすぐにすべてがう
まくいったのではありません。かえってペリシテが攻めて来て、事態は悪くな
ったのです。しかしさらに主を求めていったときに、主が雷鳴をもってペリシ
テを打ち破られたのです。そして感謝の礼拝を献げたのです。
 心を主に向け、主の祝福にあずかりましょう。
 
2010年6月6日
【少年サムエル】サムエル記Ⅰ三章1節~21節
そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル、
サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いており
ます。」と申し上げた。(サムエル記Ⅰ三章10節)

 今日の聖書箇所は幼いサムエルが、初めて主の語りかけを聞いた時のことで
す。祈りは神様との対話です。対話は、一方的ではありません。ハンナの祈り
は、人からの語りかけが主でしたが、今日は主の語りかけを聞くことが主にな
っています。主を知るということには、知性、感情(心)、霊、経験など様々
な知り方がありますが、バランスが大切です。その中で、主を霊的に知るには
どうしたらよいのでしょうか。
 まず心に留めるべきことは、「主」です。主は一人一人に語りかけておられ
ることです。それはだれでも求めれば主の声を心に聞くことができるというこ
とです。ペンテコステの聖霊も舌のようなものが分かれて一人一人の上に留ま
りました。神様は、人を造ったから、人を愛して語りかけているのです。しか
しここで気をつけるべきことは、悪魔も人に語りかけてくるということです。
悪魔は、あらゆる願いを聞き入れる代わりに、命と魂を求めるのです。だから
主の語りかけに心を留めるべきです。
 次に「人」です。人との出会いには必ず最初があります。主は私たちをご存
知ですが、主との出会いにも人の側には最初があります。出会いのコツはへり
くだりです。お話しください、「しもべ」は聞いていますという姿勢です。そ
れは、自分ではなく、主に心を留めることです。またどんなことでも聞き入れ
るということです。人はともすれば都合のいいことしか聞こうとしないので
す。
 聞くということは、もう一つ大切なことがあります。それは聞いた責任、応
答する責任です。聖書は神の言葉を伝えています。神の語りかけである聖書の
示す所と私たちの生活の違いを認めるところに神は一人一人に語りかけ、キリ
ストの十字架による救いに応答するように示されるのです。
 
2010年5月30日
【ハンナの祈り】サムエル記Ⅰ一章1節~二章26節
彼女は、「はしためがあなたのご好意にあずかることができますように。」と
言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のよう
ではなかった。(サムエル記Ⅰ一章18節)

 サムエル記には王国の誕生期が記されています。今日の箇所はサムエルの誕
生です。
 エルカナの妻ハンナには子供がいませんでした。そのことでもう一人の妻ペ
ニンナにいじめられ、神を憎むように言われました。ここにも記されているよ
うに、子供は神様からの賜物です。人が誇ることでもさげすむことでもありま
せん。しかしペニンナの呪いの言葉は何年もハンナを苦しめました。現代も憎
しみや呪いが至る所にあり、私たちを苦しめています。そして愛の対極は、無
視です。存在を認めないことです。愛が冷えています。
 ハンナは、この巡礼の時、食事もできず、夫の慰めも心に届きませんでし
た。もだえ苦しんで神様に祈りました。ここには「心痛めて」「激しく泣い
た」「誓願を立てて」「長く祈って」と書かれています。苦しくても人はなか
なか神様の前に出ません。しかし、思いあまって、激しく、決意をもって、祈
りが聞かれるまで祈る時も必要なのです。
 祭司エリはハンナを見て酔っているのだと思い声をかけました。しかしその
ことがきっかけで、ハンナは主が祈りを聞いて下さったことがわかりました。
だから食事ができたのです。だから「彼女の顔は、もはや以前のようではなか
った。」(別訳では、「悲しげではなかった」)のです。
 私たちも子供が与えられるように祈りました。その時の主への叫びにこのお
言葉が示されました。主は今も生きていて祈りに答えて下さいます。だから私
たちの重荷をそのままに、苦しみ叫びをそのままに祈ることができるのです。
主がその苦しみを十字架で共に負って下さるからです。
 
2010年5月23日
【ペンテコステ】使徒行伝二章
「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させて下さるとおりに、他国のこ
とばで話し出した。」(使徒の働き二章4節)

 ペンテコステは、イエス様の約束のとおりに弟子たちに聖霊が与えられた日
であり、教会の誕生日とも言われます。それはどんな出来事で、どんな意味が
あるのでしょうか。
 4節には、「聖霊に満たされ」とあります。聖霊はペンテコステの前から働
いていました。ペテロにイエス様を神の子とわからせたのも聖霊でした。しか
し主は聖霊を待ち望むようにと言われました。聖霊を受けていることと、満た
されていることには違いがあります。そして弟子たちもイエス様が昇天された
後、十日間祈っていて与えられたのです。神様は求める者に聖霊を下さると言
っています。聖霊を求めましょう。
 また弟子たちは、「御霊が話させて下さるとおりに」話し始めました。「他
国のことばで」というのはこのペンテコステに与えられた特別なしるしと思わ
れます。この世には、神様の働きを妨げる力が働いています。一つは恐れで
す。弟子たちは復活の主に会った後も、恐れて部屋で鍵をかけていました。復
活を証するどころではありませんでした。また時に、裁きについて相手の気持
ちを考えて、言うのを控えたりします。しかし弟子たちは、彼らが罪のないイ
エス・キリストを十字架につけて不法に殺したことをはっきりと言ったので
す。しかし弟子たちに語らせた聖霊は、聞く人々の中にも働き、悔い改めて、
キリストの赦しを信じるに至ったのです。
 今も聖霊は、私たちの間で働いています。主は、求める者を聖霊と恵みで満
たし、恐れを取り除き、キリストの証人として大胆に語らせて下さるのです。
聖霊の満たしを求めて祈りましょう。
 
2010年5月16日
【聖さと賜物と】士師記一六章
「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではあり
ませんか。」(ガラテヤ五章25節)

 今日はサムソンのところが開かれています。聖書にこんな事がと思うことも
ありますが、ここに書かれている男女のだまし合いは今も、世界中で行われて
いることなのです。
 サムソンの賜物と短所は何でしょうか。サムソンは、生まれる前から、神様
の約束をいただき、神様に献げられたナジル人でした。今で言えばクリスチャ
ンホームです。そして怪力の賜物が与えられていて、それでイスラエルを外敵
ペリシテ人から救ったのでした。しかし短所もありました。それは性的な堕落
です。神様は性を造り祝福として与えられました。正しく適切に夫婦の間に限
って用いるなら祝福されます。そこを外れることは罪であり、結果を刈り取る
ことになります。サムソンの堕落の一つの原因は、コミュニケーションができ
なかったことです。孤立し、孤独だったのです。そしてほんの一瞬の偽りの愛
と安らぎを求めたのです。
 どんな人が神様から用いられるか考えると、神様を愛し、きよい人であると
考えます。しかし神様は世界を治めているお方です。どんな人でも罪ある人で
も用いることができます。しかし罪はやがてその結果を刈り取ります。サムソ
ンも怪力を失ったばかりではありませんでした。だから主に仕えるのに、賜物
や力ではなく、主のきよさが必要なのです。
 ではどのように、弱点を克服し、神のきよさに与れるでしょうか。それは、
神の愛を知ることです。神様は、人を造ったゆえにどこまでも愛し、不完全な
弱さのままで受け入れて下さっています。だから自分の弱さや罪を神様の前に
認めることができるのです。28節で「主よ。どうぞ、私を御心に留めてくださ
い。」と祈った時、主は受け入れて下さいました。主はキリストの十字架のゆ
えに罪を赦し私たちを受け入れて下さったのです。自分を神の愛に委ねましょ
う。主が勝利者です。
 
2010年5月9日
【三〇〇人で】士師記六章33節~七章25節
「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなた
の手に渡す」(士師記七章7節)

 偶像を除き内側を整えられたギデオンは、外敵ミデヤンと戦うことになりま
した。イスラエル三万、ミデヤン一三万。しかし主は、イスラエルは多すぎ
て、自分たちの勝利を誇ってしまうと言われました。恐れている者が帰されま
した。恐れない、それは主への信頼からくるものです。次に、手で水をすくっ
て飲んだ者が残されました。休んでいる時にも敵前感があるか、緊張感がある
かが問われました。いつの時代も油断は弱い敵にも敗北を招きます。主は、心
ぞなえのある三〇〇人だけを残されたのです。
 しかし本当に三〇〇人で大丈夫なのでしょうか。恐れはないのでしょうか。
実は心配していたのはリーダーのギデオンでした。主はそのことをご存知で、
ギデオンを偵察に行かせました。そこで与えられたしるしに、ギデオンは確信
を持ち、三〇〇人と共に勇敢に戦い、主からの勝利が与えられました。主との
率直なやりとりが大切です。私たちはそれをディボーションで経験するので
す。
 私たちは、この世の君、つまり悪魔と戦っています。永遠の命をかけて戦っ
ています。そのために御子は命の代価を払いました。それはこの世の戦争や肉
体の命以上の戦いです。私たちは大丈夫でしょうか。恐れは?敵前感は?主
は、人の強さを必要としません。主イエスは、わずかな十二弟子を選びまし
た。しかしペンテコステを経て世界中に福音が広がっています。私たちも、こ
の日本でわずかなクリスチャンに思えます。しかし主にはそれは問題ではあり
ません。主に心整えられ、主にへりくだって信頼し、恐れを除かれ、敵前感の
あるところに、私たちではなく、主の働きによって、悪魔を打ち破って命の勝
利を得るのです。
 
2010年5月2日
【勇士よ】士師記六章1節~32節
主の使いが彼に現れて言った「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」
(士師記六章12節)

 士師記は、ヨシュアに引き入れられた民が約束の地カナンに入った後のこと
が記されています。そこでは、堕落懲らしめ悔い改め救い回復堕落が繰り返さ
れています。主は救いのために士師を遣わされました。ギデオンもその一人で
す。ギデオンは、どのように主の勇士となっていったのでしょうか。
 ギデオンは、略奪に来るミデアン人を恐れ、酒ぶねに隠れ、麦を打っていま
した。そこへ御使いが現れ、「勇士よ」と声をかけたのです。しかしこの時ギ
デオンは勇士と言える様子ではありませんでした。さらにエジプトでなされた
驚くべきみわざはどこにありますかと言わざるを得ませんでした。ギデオンに
は神のわざは昔の話でしかありませんでした。そして疑い深く、御使いを確か
めたのでした。しかしギデオンは、主を信じたのです。
 主を信じたギデオンに与えられた命令は、彼の家にある偶像の祭壇を破壊す
ることでした。外の敵にあたる前に、内にある罪を取り除く必要が会ったので
す。どんな言葉も約束であってもそれだけで本当の勇士になることはできませ
ん。実行して勝利してはじめて約束のとおり勇士となるのです。
 もし命令を実行したらどうなるかギデオンは考えなかったでしょうか。ギデ
オンは、恐れと戦いながら、しかしそれをやり遂げました。その時事態は変わ
りました。自分に死の宣告をするはずだった父が、ギデオンを擁護し信仰に立
ったのです。私たちもまず主の約束を信じることが大切です。(主は私たちに
キリストによる愛と救いを約束しています。)そして信じたなら実行すること
です。そのとおりに生きることです。恐れやすいことをご存知の主が、私たち
を勇士として立て、造り上げて下さるのです。
 
2010年4月25日
【私を愛するか】ヨハネ二一章15節~25節
「あなたはわたしを愛しますか。」「わたしの羊を飼いなさい。」「しかし年
をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あな
たの行きたくない所に連れて行きます。」(ヨハネ二一章17節18節抜粋)

 先週の続きで、弟子たちへの三度目の顕現です。この箇所では、復活の確認
よりも使命の確認に重点が移っています。
 イエス様は、ペテロに「あなたはわたしを愛しますか。」と聞かれました。
愛するとは普通別の言葉で言えば好きとか大切に思っていることを言います。
私たちもあの人が好き、嫌いと言ったり心に思ったりします。ペテロは、「わ
たしがあなたを愛していることはあなたがご存知です。」と答えました。ペテ
ロはイエス様が大好きでした。
 しかしイエス様はペテロに「わたしを愛しますか」と三回も聞かれたので
す。何回も聞かれた時、ペテロの心は痛みました。それはイエス様が捕まえら
れた夜、「あなたはあの人の弟子だ」と言われた時「いや違う。あの人を知ら
ない。何のことかわからない」と言って三回も否定したからでした。イエス様
は、「わたしの羊を飼いなさい」と言われた後ペテロに「年をとると、あなた
は自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない
所に連れて行きます。」と言われました。
 ペテロは、あの晩、イエス様のために戦って死んでもいいと思っていまし
た。でもイエス様は、力で戦いませんでした。そしてあざけられつばをかけら
れ、辱められ、十字架の上で死なれました。ペテロは侮辱されることについて
いけませんでした。でもこれからはイエス様の思いを知って、同じようにする
よとイエス様はペテロに言われたのです。
「わたしを愛するか」。それは単に好きとかいうことではなく、「十字架につ
いたわたしの思い、あなたやみんなへの愛がわかるか」と聞かれているので
す。そして今、私たちにもイエス様は「あなたはわたしを愛しますか」と聞か
れているのです。あなたはなんと答えるでしょう。
 
2010年4月18日
【イエスは岸べに】ヨハネ二一章1節~14節
世が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。(ヨハネ二一章4節)

 今日の箇所は、弟子たちへの三度目の顕現です。よみがえられてから天に帰
られるまでイエス様は幾度か姿を現されました。それは、復活の確かさと弟子
たちの宣教の使命を明確にするためでした。ここでは前者に比重があります。
 弟子たちは、ガリラヤ湖に来ました。それは主がそこで会うと言われたから
です。彼らはそこで漁をしました。昔に戻ったのではないでしょう。しかし、
主の十字架の死を経験し、復活の主とも離ればなれの彼らには、スローダウン
が必要でした。もう一度立ち止まって、主の弟子とは何か問い直す必要があっ
たのです。
 彼らはこの時も、何も捕れませんでした。その時、夜明けの薄明かりの中
に、岸に人が立っていたのです。だれかわかりませんでした。しかし言われた
ように網をおろした時、大きな魚でいっぱいになったのです。それは、弟子と
なって、網を捨てて従った時と同じ光景でした。彼らは「主だ」と気づきまし
た。主は彼らのそばにおられたのです。
 彼らが岸に来ると、火がおこしてあり、食事の準備がされていました。主
は、パンを取りそれを分け、魚を取りそれを分けられました。十字架で死なれ
た主が、それ以前と同じように、パンを分け、魚を分け、与えられた。動かす
ことのできない死、その死を打ち破られて、同じようになさったこと、弟子た
ちはそのことにどんなに心動かされたことでしょうか。「イエス・キリスト
は、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」(ヘブル十三章8節)
主は永遠に変わることのないお方です。私たちの側に立っておられます。抜け
出せないと思うような暗闇の中にいても、主は、変わることなく、私たちの側
に立っていて下さるのです。主は、死を打ち破ってよみがえられたのです。
 
2010年4月11日
【見ないで信じる幸い】ヨハネ二〇章19節~29節
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに
信じる者は幸いです。」(ヨハネ二〇章29節)

 この出来事はちょうど復活の翌週の出来事でした。主の復活の日、他の弟子
たちと一緒にいなかったトマスは、主イエスの復活を信じられませんでした。
しかし信じないからといって復活の事実が変わるわけではありません。信じら
れなかったことはとても残念なことでした。しかし、良かったこともありま
す。それはトマスが自分の心をごまかして他の人の言うことに歩調を合わせな
かったことです。聖霊は、心に感じたとおりに告白する所に働いて真理へと導
かれるからです。自分の心をごまかしていると聖霊は働かれないのです。トマ
スは自分に真実な告白をしたのです。
 しかし主が「見ずに信じる」と言われることは決して盲信とは違います。そ
れは人を滅ぼします。しかし主の復活は、確かな証拠があるから見ないで信じ
られるのです。その証拠とは①聖書の預言②主イエスの言葉③空っぽの墓④復
活の主に会った人々の証言⑤聖霊による確証です。だからはっきりと真実だと
わかって信じることができるのです。
 そして見ないで信じることは本当に幸いなことです。それは私たちの信仰の
証明です。信仰が若い時には、試練やかん難が起こってくるとすぐに主が見え
なくなり、慌てます。信仰も揺れ動きます。しかし主に訓練され、成長する
と、試練やかん難に会っても、主が見えないような状況でも慌てません。主が
そこにおられることを信じているからです。そして試練が去った時、やはりそ
こに主がいて下さったと感謝するのです。そういう信仰を主は期待しておられ
ます。お互いに励まし合いながら、復活の主を見ないで信じる信仰へと成長さ
せていただきましょう。
 
2010年4月4日
【よみがえりの主】ヨハネ二〇章1節~18節
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられ
るのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
(ヨハネ二〇章14節)

 今日は、イースターです。キリストのよみがえりをお祝いする日です。しか
しこれは普通に考えれば不思議な出来事です。
 さて、ここにはマグダラのマリヤが出て来ます。葬られて三日目の朝、墓に
行ったのですが、イエス様の遺体がありませんでした。マリヤは帰ってから、
「だれが取り去ったのかわかりません。」と弟子たちに報告しました。
 それから、ペテロやヨハネが墓に来て確認した後も、マリヤは、そこにいて
泣いていました。イエス様が後ろから声をかけた時、園の番人だと思って、遺
体を引き取れるようにお願いしたのでした。そして、イエス様が「マリヤ」と
声をかけられた時はじめて、イエス様だと気づいて「ラボニ(先生)」と返事
をしたのでした。それは、まさに十字架につけられたイエス様ご自身でした。
七つの悪霊を追いだしてもらったマリヤにとって、イエス様は完全な望みでし
た。そのイエス様の死は、前にも増して完全な絶望でした。だから十字架と復
活のことを聞いていてもわからなかったのです。しかし、主は復活されまし
た。そしてマリヤが気がつかなくても、マリヤのそばに立っていて下さったの
です。そして主の復活は、私たちにも復活の命を分け与えて下さるのです。主
こそ私たちの復活の希望です。
 「千の風になって」という歌がはやりました。この歌が大好きな夫婦がいま
した。ところがご婦人が末期のガンだとわかった時、彼女はこの歌が嫌いにな
りました。どんなに心地よい歌詞でもそこでは、自分の人格がなくなってしま
うのです。聖書は、主がそのままに復活されたように、私たちも自分自身のま
まで復活にあずかることができると言っています。
 マリヤは弟子たちに、はっきりと「私は主にお目にかかりました」と伝えま
した。何の迷いもありません。主が会って下さったからです。今も復活の主
は、目には見えませんが、私たちに会ってくださいます。
 
過去のメッセージ
 2009年度分
 
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。