メッセージ(文責:尾ア豪)
 
2010年3月28日
ヨハネ19章17節〜37節「ヨハネの見た十字架」
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するため
に、「わたしは渇く。」と言われた。(ヨハネ19章11節)

 今日は、棕櫚の主日です。主がエルサレムに入城した時民衆が、棕櫚の葉を
敷いて、主を王として迎えたことを記念しています。そこから受難週が始まり
ます。福音書で最後に書かれたヨハネは、イエス様の十字架に何を見たのでし
ょうか。
一.聖書の成就としての十字架
 この短い箇所に繰り返し記されていることは、「聖書が成就するため」とい
うことです。主の十字架に関わる一つ一つの出来事は、突然や偶然に起こった
ことではなく、神様が前々からご計画なさっていたことでした。主が身代わり
となり、人類が救われるためでした。それがこの十字架で「完了した」(30節)
のです。ヨハネは、聖書の成就を見たのです。
二.苦難としての十字架
 十字架にあるのはやはり苦しみです。わざと苦しませて殺すのが十字架刑で
す。とげのあるむちで体は裂かれ、手に釘を打たれ、血を流しながら、死を味
わうのです。主は「渇く」と言われました。のどの渇きもさることながら、本
当の渇き、苦しみは、魂の渇きでした。天の父との愛の交わりが絶たれた苦し
みです。また人の救いを欲する渇きでもありました。しかし、主は最後に「完
了した」と言われました。この苦しみの中で、最後まで、天の父に信頼し続け
たのです。
三.愛の溢れる十字架
 死に際には、うそはつけないといいます。主は十字架の上で、母と愛弟子ヨ
ハネを結びつけました。心刺し貫かれた人々に愛を示されました。私たちは出
口の見えない苦しみを通ることがあります。私たちが主も見えない暗闇の中で
も、主は私たちに愛と命を注いでおられます。
 
2010年3月21日
ヨハネ18章1節〜27節「十字架への道」
イエスは答えられた、「もしそれが上から与えられいるのでなかったら、あな
たにはわたしに対して何の権威もありません。」(ヨハネ19章11節)

 来週は受難週です。ピラトの裁判から主イエスの十字架への道をたどりまし
ょう。ここでは、イエス様は罪人かあるいは王かが問われています。主は裁判
にかけられましたが、ユダヤ人からは、神の子と名乗ったことで死罪とされま
した。しかし死刑の権限は総督のピラトが持っていました。ピラトは、ローマ
法では、イエス様に罪がないことを認めました。罪状書きにはユダヤ人の王と
書き、イエス様を王と認めたのです。またユダヤの人々も十二章では、王とし
てイエス様をエルサレムに迎え入れたことが記されています。イエス様は、王
として認められ、神の子であるので十字架の刑罰を受けることになったので
す。そして神様は今も私たちに、キリストが王であり救い主であることを、聖
書や信じる人々を通して証明しています。
 しかし王ならなぜ、死刑にされたのでしょうか。原因の一つは、ピラトにあ
ります。彼は、イエス様は無罪だと認めつつ、群衆を恐れて、自分を守るため
に、罪のないものを罪ありと定めたのです。しかしこれはピラトだけではなく
すべての人の姿です。自分を守るために何でも利用し、義を曲げてしまうのが
私たちの姿です。そのような罪人である私たちのために、主は神の怒りの杯を
代わりに受け、十字架につけられたのです。
 もう一つの原因は、天の神様は、創造主の権威をもって、ピラトがする事を
許されたからです。それは聖書が成就するためでした。御子の十字架は、父が
許されたのです。それは、罪のない者が、罪を代わりに負って、あがないのわ
ざが完成されるためでした。主は、欲に満ちた人の中に、すべての人を救う十
字架の道を備えられたのです。
 
2010年3月14日
ヨハネ18章1節〜27節「つまずき」
そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに
下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」(ヨハネ18章11節)

 ヨハネは、ペテロがイエス様を裏切ったと言うよりイエス様につまずいたこ
とを、他の福音書以上に明らかにしています。
 ペテロは、最後の晩餐の時、主イエスのために「いのちも捨てます」(13章
17節)と言いました。ペテロには主のために命を捨てても従う覚悟ができてい
たのです。実際に、イエス様を助けるために、僕に剣で斬りかかり、右耳を切
り落としたのです。
 しかし主は、このみ言葉を語り、僕の耳をいやし、捕らえられていったので
す。命をかけて、主のためにしたことは、主の思いとは違っていて、やめなさ
いと言われ、主は捕らえられていったのでした。主のためと思ったことを主は
喜ばれなかったのです。ペテロはとても混乱しました。主の思いがわからなく
なり目的を見失ったペテロには、もう主のためにいのちを捨てることはできま
せんでした。だから三回も主を知らないと言ってしまったのです。
 主のみ思いはどこにあったのでしょうか。それは父の杯を飲むことです。つ
まり人々の罪のあがないとして十字架での死刑を受けることでした。主は十字
架の死に至るまで、へりくだられたのです。
 一方ペテロは、自分の力を振り上げ、神の国を実現しようとしたのです。主
とは全く逆の方向でした。ペテロには、父の下さった杯を飲むことができなか
ったのです。つまりあがないの十字架につまずいたのでした。これは私たちの
姿でもあります。主と人の前にへりくだらず、我を通すのです。それが罪で
す。主はまさにペテロや私たちの傲慢さのために十字架を負い、あがなわれた
のです。
 私たちは、主の前にへりくだり、悔い改め、主のあがないの十字架を共に背
負って歩んで参りましょう。
 
2010年3月7日
ヨハネ13章1節〜15節「愛し合いなさい」
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさ
い。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛
し合いなさい。(ヨハネ13章34節)

 ここには、イエス様が、弟子の一人一人の足を洗ったことが記されていま
す。最後の晩餐の前の出来事と言われています。
 家に入った時、足を洗うのは僕の仕事でした。イエス様が指示された席順か
らするとペテロの役割だったようです。しかしペテロはしませんでした。それ
でイエス様は、僕となった弟子たちの足を洗われました。ペテロの複雑な気持
ちが表れていますが、主はこれを、十字架の血による洗いのしるしとされまし
た(Iコリント6章10・11節)。そして席に戻ると、弟子たちを教えて「互い
に愛し合いなさい」と命じられたのです。
 私たちはこの命令を守ろうとしますが、簡単にはいきません。教会から離れ
る人の中には、人間関係につまずいたという人も少なくありません。私たちは
どうしたらいいのでしょうか。イエス様はだれの足を洗われたのでしょうか。
裏切る心を知ってユダの足も洗われました。ユダをも愛し通されたのです。人
は感情で動きます。しかし愛は意志と言われます。自分へのこだわり(プライ
ド)を捨てる必要があります。それは、必ずしも相手に賛成することではあり
ません。相手を認めることです。その考えを認めることです。また赦すこと
は、信頼することとは限りません。しかし赦さない人は、相手に支配されま
す。私たちは主の血によって赦されたことを心に留め、へりくだることによっ
て、愛し合い、仕え合うことへと導かれるのです。
 そして「互いに」とあります。愛されるだけでは、成長、自立できません。
愛するだけでは、疲れて倒れます。人には、両方が必要なのです。
 
2010年2月28日
ヨハネ11章1節〜44節「ラザロの甦り」
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じ
る者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11章25節)

 ラザロの甦りは、十字架への経緯を知る上でも、キリストの復活を信じる上
でも大変重要な出来事です。同じ甦りでも、この場合は、永遠の体ではなく、
元の体ですが、復活を信じるためでした。エス様は、ラザロが病気だと聞いて
もすぐに出かけられませんでした。しかもそれが死に至ることもご存知で行か
れなかったのです。そこには神様の深いご計画がありました。
 イエス様は、ラザロが死んだことを知って、出かけられました。そこに着い
て、姉妹のマルタに、そしてマリヤに会われました。二人が共に言ったこと
は、もしイエス様がいて下さったなら、ラザロは死ななかったのにということ
でした。私たちも苦しみや悲しみや死に直面する時、「もし〜なら」といろい
ろと考えます。確かにその通りです。しかし、その最中にあって主は「わたし
は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるので
す。」と言われるのです。私たちは主を信じるか問われるのです。そして主は
33・35節にあるように、死の悲しみや怒りを私たちと共有しておられるので
す。主は、その死が神の栄光のためであることを知っておられました。それで
も涙を流されたのです。
 墓に行かれた主は、入り口の石を取りのけるように命じられました。もう腐
って臭くなっているのですが、彼らは取りのけました。主は、お願いではな
く、感謝の祈りをささげました。そして大声で「ラザロよ。出て来なさい」と
言われました。ラザロは出て来ました。主は、死を打ち破ることができるので
す。そして、私たちに、主イエスと同じように、父なる神様に信頼するように
このことを示されたのです。
 
2010年2月21日
ヨハネ10章1節〜18節「良い羊飼い」
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
(ヨハネ10章11節)

 盲人のいやしに続く、イエス様の譬えです。牧者はイエス様、羊は私たちで
す。この譬えの背景には、エゼキエル書四三章の悪い牧者への警告がありま
す。
 良い羊飼いとはどんな羊飼いでしょうか。第一に羊のことをよく知っていま
す。弱さ、迷いやすさ等です。また同じ羊でも個性があります。おとなしいも
のやじっとしていられないものなどです。そしてそれぞれの名前を呼びます。
第二に、羊をよく観察します。囲いに入る時、その日の調子、病気、ケガを良
く見ています。第三に、羊を導きます。良い水や草へ連れて行きます。第四
に、羊のためにいのちを捨てます。自分以上に大切だと思っているからです。
それは主の十字架を指しています。そのいのちは自分から捨てるのです。雇い
人は逃げ出します。第五に、いのちを再び得ます。良い牧者にはそれを得る力
があります。これは復活を示しています。
 良い牧者に対する羊の応答はどうでしょうか。羊は、その羊飼いの声を聞き
分けます。それを知っているからです。そして羊飼いについていきます。でも
他の盗人にはついていかないで逃げ出します。親も子供に悪いことなどを注意
します。子供は、注意されるのはいやですが、それが自分のためであることを
知って従うのです。主の羊である私たちも、主の声を聞き分け、従っていくの
です。毎日曜日、そして日々、主の言葉によって、養われるのです。主は、囲
いの外の羊をも導きます。主は招いておられます。そして羊は一つの群れとな
ります。羊は互いに愛し合い、受け入れあっていくのです。
 
2010年2月14日
マタイ9章35〜10章23節「弟子たちの派遣」
そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、
収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
(マタイ9章37節、38節)

 イエス様は、ユダヤの町々を巡り歩き、福音を伝えたり、病気の人を癒した
りしていました。そして、イエス様のところに来た人たちが、羊飼いのいない
羊のように弱っている姿を見て、とてもかわいそうに思いました。そして弟子
たちに今日の中心のお言葉を言いました。それは、どう生きていいかわからな
いで、苦しんでいる人、病気で困っている人がいっぱいいる。でもその人たち
を助けて、神様のことを教えられる人が少ない。だから父なる神様に助ける人
を送って下さいと祈りなさいという意味です。今も同じです。私たちもそのよ
うに祈りましょう。
 さて、イエス様は、今度は弟子たちに、二人ずつ、町や村へ行き、福音を伝
え、病気の人を癒しなさいと言われました。弟子たちは心配になりました。イ
エス様がいれば大丈夫だけど、自分で大丈夫だろうかと。イエス様は、心配し
なくていいよ、私があなたがたに病気を治したり、悪霊を追い出したりする権
威を与えるからと言われました。弟子たちは、安心しました。
 イエス様はさらに、気をつけなさいと言われました。良いことをしても反対
する人たち、悪口を言ったり、捕まえたりする人もいるのです。でも慌てない
でいなさいと言われました。聖霊様が話すことを教えて下さり、神様のことを
証する良い機会になるからです。そして弟子たちは出発しました。
 主は私たちにも、神様のこと、救いのことを知っているから、行って、苦し
んでいる人を助けなさいと言われています。神様のことを知らないで苦しんで
いる人は多いのです。主を伝えましょう。
 
2010年2月7日
ヨハネ9章1節〜41節「神のわざのため」
イエスは答えられた「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9章3節)

 ここには生まれつきの盲人が出て来ます。なぜ盲目になったのか。当時の考
えは、病気は罪の結果でした。では生まれる前に罪を犯したのでしょうか。両
親の罪を子供が背負っているのでしょうか。日本でもたたりとか、前世の行い
と言われますが果たしてそうなのでしょうか。主イエスは、はっきりとノーと
言われました。それは、「神のわざがこの人に現れるため」なのです。
 ではどのように神のわざが現れたのでしょうか。第一に、この主の言葉、宣
言によって現れました。罪の結果そうなったと考えれば当然、その人は神様に
見捨てられていると人々は見なしていました。しかし主イエスの言葉によっ
て、神様がこの人を見捨ててはいない、愛しているということが現れたので
す。第二は、実際に癒されたことによって、創造主の大能が現されました。第
三は、癒された事実が証されることによってです。そしてだれも自分に起こっ
たことを否定することはできません。最後に、主を礼拝することによって
(38節)神の栄光は現されました。創造主を神、救い主と認める私たちの礼拝
こそ主の栄光なのです。
 ところで私たちも、なぜと思うような苦しみや病気に会っていないでしょう
か。主は、それは神のみわざが現れるためだとおっしゃっています。ジョン・
ニュートンは、奴隷船の船長になりましたが、身を崩し自分が奴隷となり、破
船に会い、九死に一生を得ました。そこで悔い改めました。そして「アメージ
ング・グレイス」でかつては盲目であったが今は見える(原詩・25節)と証し
ているのです。私の弱視もそうですが、私たちの様々な弱さや苦しみの中にこ
そ、神様のみわざは現れるのです。
 
2010年1月31日
ヨハネ6章1節〜14節「いのちのパン」
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢
えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがあり
ません。」(ヨハネ6章35節)

 主イエスは、五つのパンと二匹の魚で、疲れて弱っていた男だけで五千人を
養うという奇跡をされました。ヨハネはその後のことを書いています。この主
を王としようとしたときに言われたのが、今日のお言葉です。人々は、食物を
求めました。しかし主が与えようとしていたものは、いのちのパンでした。そ
れは、どんなパンなのでしょうか。
 それは、物質的なものではありません。それを食べればまた空腹になりま
す。いのちのパンは、霊的なパンです。そしてそれを食べる、つまり受け取る
人は、もう飢えることはありません。それは永遠の食物です。そしてこのいの
ちのパンは、イエス・キリストご自身です。なぜでしょうか。主イエスが、天
から来られた罪のない方であり、多くの人の罪のあがないのために、ご自身を
ささげられたからです。この主イエスキリストを受け入れる人は、罪がゆるさ
れ、罪から解放されるのです。だから、死から解放され、いのちが与えられる
のです。だから主イエスがいのちのパンなのです。
 では、本当に主イエスを信じたら、もう心が飢えることはないのでしょう
か。永遠のいのちが与えられているので、もう大丈夫です。しかし実際には、
飢えることがあり得ます。主イエスから離れてしまうと飢えてしまうのです。
このいのちのパは、聖餐式のパンであらわされています。食する度に見えるか
たちで、生きている言葉である主ご自身を確認するのです。また、礼拝毎に、
また日々の静思の時に、聖書のお言葉により、キリストによってあがなわれた
事実を確認し、永遠のいのちを確かめるのです。
 このいのちのパンを受け取り、神の国を待ち望みましょう。
 
2010年1月24日
ヨハネ5章1節〜16節「なおりたいのか」
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼
に言われた。「よくなりたいか」(ヨハネ5章6節)

 ベテスダの池の傍らで三十八年間病気を患い、体が不自由であった人が主イ
エスによって癒されました。このことをとおして神様が私たちに語りかけてお
られることに耳を傾けましょう。
 第一に、私たちはもっと自分を知る必要があるのではないでしょうか。イエ
ス様が「よくなりたいか」と聞かれたときに、そのことには答えず、(癒され
るために、水が動いたときに)だれも池に入れてくれないと言って、助けのな
いことを訴えました。私たちは、自分の思いがかなわなかったりすると、その
言い訳をしたり、別のことに考えを転嫁して、自分の本当の願いを見失ってし
まうことがあります。今の自分はどうなのか。何を思い願っているのか、自分
と向き合って知る必要があります。
 第二に、私たちはもっと主を知る必要があるのではないでしょうか。主は、
私たちの現状を知っておられます。主は彼が長いこと患っているのを知って癒
されました。主は私たち以上に私たちの願いを知っておられます。そして、主
のお言葉には、それが事実となる権威があります。主は私たちを全く救うこと
ができます。またいつも私たちを見出して導いておられます。
 第三に、私たちはもっとどうすべきかを知るべきではないでしょうか。多く
の病人の中で彼が癒されたことは、彼の信仰や功績ではなく、ただ神の恵みで
した。イエス様は、「もう罪は犯してはなりません」と忠告しました。またユ
ダヤ人は、神様を喜ばせようとしつつ、違うことをしていました。礼拝と静思
の時によって、主の思いを知る必要があります。また私たちは、主からのビジ
ョンを知る必要があります。それは必ず成就します。長い年月が経ってもで
す。あきらめないことが必要です。長い苦しい期間が実は大切なのです。主は
あなたに、なおりたいのか、どうしたいのかと語っておられます。
 
2010年1月17日
ヨハネ4章1節〜42節「サマリヤの女」
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありませ
ん。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわ
き出ます。」(ヨハネ4章14節)

 イエス様は、ユダヤからガリラヤへ行かれる途中、サマリヤのスカルという
町に来られました。お昼頃町外れのヤコブの井戸場で休んでいました。
 そこへこの女の人が来ました。この女の人は、心が渇いていました。それ
は、よく見るとその人の行動にも現れていました。普通井戸で水を汲むのは朝
の仕事です。昼間では暑いのです。女の人は、人と話したくなかったのではな
いでしょうか。人と接すると傷つく、だから話したくない。それは心の渇きの
あらわれです。さらにこの人には、五人の夫がいたことがわかり、また今別の
人と同棲していました。私たちは結婚するとき理想の家族を夢見て、幸せにな
ろうと思います。しかし離婚ということはいつしか、すれ違いが戻せないもの
になってしまったのです。その痛みを幾度覚えてもやはり愛と幸せを求めずに
はおれなかったのです。
 イエス様は、この心の渇きにどう向き合われたのでしょうか。まずは、民族
のいがみ合いを超えて、イエス様の方から話かけて、心を開かせ信頼関係をつ
くりました。次に、必要な命の水を示しつつ、女の人の心で触れられたくない
所に触れられました。それなくして、渇きは癒されないからです。しかし愛な
く触れられれば傷は深まります。だから人はそれを避けます。しかし主イエス
は、同じ視線に立って愛をもって触れられたのです。第三に、イエス様は真の
礼拝について語りました。人の心は、良いも悪いもすべてそのままに受け入れ
られるときに、満たされます。それができるのは創造主なる天の父です。しか
し聖なる神様が私たちを受け入れるには、身代わりの御子の命という大きな痛
みが伴いました。だから私たちは満たされ、礼拝できるのです。満たされた人
は人に求めるよりも、満たされたものを分け与えていくのです。
 この女の人は、変えられ満たされて、町の人々に救い主の話をし、人々を満
たす人に変えられたのです。
 私たちも渇くことのない命の水を飲みましょう。
 
2010年1月10日
ヨハネ3章1節〜16節「ニコデモ」
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御
子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためであ
る。(ヨハネ3章16節)

 明日は成人式です。それを迎える若者に神様の祝福を祈ります。ところで人
は何のために生まれてきたのかを考えることは、生きる方向を考える上でとて
も大切だと思います。人生が楽しい若いときにそれを考えるのは、面倒かもし
れません。しかし後で後悔するよりも良いのです。
 さてニコデモがイエス様を夜訪ねてきました。彼はイスラエルの指導者で、
年輩でした。若いイエス様に尋ねるのは謙遜と勇気のいることでした。でも天
の国のことをよく知りたかったのでしょう。
 イエス様は、新しく生まれなければ神の国に入ることはできないと言われま
した。ニコデモは、よくわからず、どうやってもう一度母の胎に戻るのだろか
と考えました。しかしイエス様の言われたことは私たちの肉体のことではな
く、霊のことでした。私たちは、生まれたままの状態では、神の国を見ること
さえもできません。しかし神の霊によって、新しく生まれるならば、天国に入
ることができます。どうやって新しく生まれるのでしょうか。それは聖霊によ
る神の御業です。それは風と同じで人には見えませんが、その結果が残りま
す。昔イスラエルの民が荒野で神様の怒りで裁かれたとき、モーセは神様の言
われたようにへびを竿の先に上げました。神様が言われたように、それを見た
人はへびの毒が消え生きました。見なかった人は死んでしまいました。神様の
言葉を信じた人は生きたのです。そしてキリストは、へびのように木の上、十
字架の上に上げられました。それを神の子の身代わりの死、罪のあがないと信
じる人を神様は、新しく生まれ変わらせ、罪と死の滅びから救われます。神様
は愛のゆえに、御子の命に代えて天国への道を開かれたのです。キリストを信
じ受け入れましょう。
 
2010年1月3日

ヨハネ1章19〜42節「神の小羊」
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、
世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1章29節)

 今年最後の礼拝です。この一年どう導かれてきたかを思いつつみ言葉に心を
開きましょう。バプテスマのヨハネは旧約最後の預言者と言われます。イエス
・キリストの登場で新約の時代へ入るからです。このヨハネはキリストを何と
紹介しているでしょうか。
 なぜ新約つまり新しい約束が必要になったのでしょうか。それは、天の父は
人に祝福のために律法を与えましたが、人は自分たちでは律法を守れず、罪に
よって恵みからもれてしまうからです。ヨハネは悔い改めて新しい時代に備え
るように導いたのです。
 ヨハネはキリストを次のように紹介しました。 まず、自分は僕になる価値
もない尊い方として(27節)。
 次に世の罪を取り除く神の小羊として(29節)。これは旧約のあがないの小
羊を指しています。人の罪の代わりにささげられましたが、人ではないので完
全なものではありません。神の子であり、完全な人かつ罪のないお方だけが、
罪の身代わりになり得るのです。だから、キリストだけが罪を取り除く小羊と
なれるのです。
 三つ目には、聖霊のバプテスマを授けるお方として(33節)。ヨハネは水で
バプテスマを授けました。それは悔い改めを示す良いものですが、消極面で
す。罪を赦す神の救いは積極的には永遠の命を与えるものです。聖霊のバプテ
スマは、それを与え、喜びを与えます。
 ある牧師は救いを信じた人に、「あなたの人生はこれから、電信柱に花が咲
き、焼いた魚が泳ぎ出します。」と言いました。キリストの与える救いはまさ
にそのような恵みなのです。
 
2009年12月27日
ヨハネ1章19節〜42節「神の小羊」
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、
世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1章29節)

 今年最後の礼拝です。この一年どう導かれてきたかを思いつつみ言葉に心を
開きましょう。
 バプテスマのヨハネは旧約最後の預言者と言われます。イエス・キリストの
登場で新約の時代へ入るからです。このヨハネはキリストを何と紹介している
でしょうか。
 なぜ新約つまり新しい約束が必要になったのでしょうか。それは、天の父は
人に祝福のために律法を与えましたが、人は自分たちでは律法を守れず、罪に
よって恵みからもれてしまうからです。ヨハネは悔い改めて新しい時代に備え
るように導いたのです。
 ヨハネはキリストを次のように紹介しました。
 まず、自分は僕になる価値もない尊い方として(27節)。
 次に世の罪を取り除く神の小羊として(29節)。これは旧約のあがないの小
羊を指しています。人の罪の代わりにささげられましたが、人ではないので完
全なものではありません。神の子であり、完全な人かつ罪のないお方だけが、
罪の身代わりになり得るのです。だから、キリストだけが罪を取り除く小羊と
なれるのです。
 三つ目には、聖霊のバプテスマを授けるお方として(33節)。ヨハネは水で
バプテスマを授けました。それは悔い改めを示す良いものですが、消極面で
す。罪を赦す神の救いは積極的には永遠の命を与えるものです。聖霊のバプテ
スマは、それを与え、喜びを与えます。
 ある牧師は救いを信じた人に、「あなたの人生はこれから、電信柱に花が咲
き、焼いた魚が泳ぎ出します。」と言いました。キリストの与える救いはまさ
にそのような恵みなのです
 
12月20日
ヨハネ1章1節〜18節「まことの光」
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
(ヨハネ1章9節)

 ヨハネはイエス・キリストを「言葉」として紹介しました。その言葉である
キリストは、永遠の最初から存在したお方であり、父なる神と共にいる神なる
お方です。さらに世界の創造に関わり、命を持ち、闇を照らし闇に打ち勝つ光
としても紹介しています。そしてこの9節のように「すべての人を照らすその
まことの光」として紹介されています。キリストとはいったいどういうお方な
のでしょう?
 「すべての人を照らす」と記されています。そこに含まれない人はいませ
ん。ある人は自分とキリストは何の関係もないと思っています。しかしそう思
っていても、世界を造り、人を造られたお方とは、すでに関係があるのです。
ですから私たちはこのお方を知る必要があるのです。
 キリストは「まことの光」と紹介されています。光は何かを照らし出しま
す。しかも「まことの」と言われています。何がまことなのか。ここには完全
なという意味があります。偽物でもなく、不完全なものでもない、本当の光が
キリストです。
 この光であるキリストが来られたのがクリスマスであり、私たちを照らし出
すのです。外見ではなく内側の心を照らし出します。ある意味でそれは避けた
いことでもあります。なぜなら人の光(基準)で見るならばよくても、全く聖な
る神様の光で照らすならば、汚い闇の部分も見えるからです。
 しかしまことの光で照らし出すのは、それを責めるためではありません。掃
除するときも明るい光なら小さなゴミも取ることができます。同じように、闇
を取り除き、「光の子」(エペソ五章)となるためです。その汚れ、罪を全き神
であるキリストは全き人となって、十字架で負って下さったのです。ですから
「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子ども
とされる特権をお与えになった。」(12節)のです。このキリストを信じまし
ょう。
 
12月13日
イザヤ9章1節〜7節「みどりごの称号」
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和
の君」と呼ばれる(イザヤ9章6節)

 称号は、侯爵、男爵などその人の地位を表したり、「ハンカチ王子」などあ
だ名的なものもありますが、いずれもその人の特質を表しています。「キリス
ト」というのも称号で、「救い主」「油注がれた者」という意味です。今日の
聖句には、救い主について四つの称号が与えられています。救い主の性質を
表しています。
 第一は「不思議な助言者」ワンダフル・カウンセラーです。私たちの悩みを
つぶさに聞いてわかって下さるお方です。この世の苦しみと十字架と死を通ら
れたお方だからです。適切にアドバイスし、導きささえて下さいます。
 第二は、「力ある神」マイティー・ゴッドです。全能であらゆる戦いで勝利
を得ることのできるお方です。主イエスは、権威を持って、嵐を静め、病を癒
し、死人を生き返らせました。そして誘惑と罪、死に勝利されました。今も、
世界、歴史、時間を治めておられ、私たちに力を表されます。
 第三は、「永遠の父」エバーラスティング・ファーザーです。永遠には時々
刻々という意味があります。放蕩息子の父は、息子が放蕩しているときも、息
子の父親でした。いつも息子を待っていました。キリストは私たちに対してそ
のような父親です。私たちはキリストを通して天の父を見ます。
 第四は、「平和の君」プリンス・オブ・ピースです。必ずしも戦争や苦しみ
がないことを意味しません。しかしその苦しみや苦難を乗り越えていくことの
できる平安を持ち、私たちに下さるお方です。ヨハネ16章33節。キリストは、
神様から失われた私たちが、神に立ち返り、平安を持つために来られたのです。
 
12月6日(メッセージ、文責:児玉師)
詩篇103篇1節〜5節「主の良くしてくださったこと」
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一
つ忘れるな。」(詩篇103篇2節)

 この一年、主が良くして下さった事と共に、智子姉が召され、姉妹をして、
この一年だけでなく、二十四年間主が私にどんなに良くして下さったかを語
らせて頂きかんしゃしたいのです。

一、「イエス・キリストは・・いつも,変わることがない」ヘブル13章8節(ロ)
 姉妹は、この主にあって二十四年間いつも変わらない方で、私が教会の事お
一人々々に対し、本当に申し訳ない中にあっても、いつも、私の側に立って変
わらない愛をもってささえて下さったことを思い返しかんしゃ。

二、「地上で心を一つにして祈るなら、・・父は、それをかなえてくださいま
す。」マタイ18章19節 個人的に二人で祈ることを大切にしてきました。神の
ご支配の中で、姉妹とは二人だけで祈ることが多くもてた。今天に帰られ、夜
半過ぎ星を見上げて祈る時、主のみ座の前に祈りを共にして下さっていること
を思いかんしゃ。

三、「イスラエルの賛美を住まいとしておられる」詩篇22篇3節 きれいな声
で姉妹が賛美をささげられる時、主の臨在を深く思わされました。私はよく一
つの聖歌から賛美して頂きつつ、メッセージを語らせて頂いた。御霊の自由な
お働きの中で語ることができ喜びに満たされました。クリスマス私達がささげ
る賛美、天でみ使いの軍勢と、共に賛美しておられるのではないかと思いかん
しゃ。
 
11月29日
イザヤ6章1節〜13節「聖なる主を見た」
「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、
あなたの罪も贖われた。」(イザヤ6章7節)

 今日からアドベントです。今日はイザヤの見た救いということで、六章が
開かれています。ここにはイザヤが神殿で聖なる主を見たことが書かれてい
ます。
 なぜイザヤは神殿に来たのでしょうか。神殿は神様を礼拝する場所であり、
いつも来る場所です。しかしこの時、ウジヤ王が死んで、特別に祈る必要を
覚えて、神殿に来たのでした。イザヤは、時代の流れを感じました。神様を
恐れる王が死んでこれからどうなるのだろうと感じたのです。現代も神様を
恐れることを忘れた時代です。私たちも社会のこと、家庭のことなど危機を
感じて祈る必要があるのではないでしょうか。
 そして神様は、祈り求めるイザヤに会って下さいました。そこでイザヤは、
神殿に満ちた御神の衣の裾、御使いの賛美、そのとどろきを目の当たりにし
ました。聖なる主を見たことはイザヤにどんなことをもたらしたのでしょう
か。
 第一には、「もうだめだ」という経験です。彼は預言者でした。王や民の
傲慢や不正を裁いて滅びを預言しました。しかし聖なる神様の前に立ったと
き自らが裁かれ滅びるべき者であることに気づかされたのです。第二には、
「きよめれる」経験です。祭壇の聖なる炭火が口に触れ、きよめられたので
す。聖なるお方は、滅ぶべき人をも聖なる者へと変えるお方なのです。第三
に、神様のみ思いを知って「派遣される」経験です。聖なる主を知り、人の
罪深さを知ったイザヤだからこそ、遣わされたのです。このメッセージの切
り株の残りの「すえ」こそ救い主キリストを指しています。
 私たちは主に会う必要を覚えているでしょうか。聖なる主と会ったでしょ
うか。神様の前に滅びを感じたでしょうか。きよめていただいたでしょうか。
主から喜んで遣わされているでしょうか。
 
11月22日
ルカ8章40節〜56節「ヤイロの娘」
これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そう
すれば、娘は直ります。」(ルカ8章50節)

 事故によって智子姉が召天されたことをお聞きであると思いますが、主の
語りかけに心を開いて聞きましょう。
 主が、湖のこちら側に帰って来ると、多くの人が喜んで迎えました。そし
て娘が病気で死にかかっていた会堂管理者ヤイロは、ひれ伏して、イエス様
に来て下さるようにお願いしました。主は、ヤイロの家に向かわれ、ヤイロ
はどんなに喜んだことでしょう。
 ところが一行は途中で十二年間長血をわずらっていた女性に会い、またそ
の人が癒されたことについて、イエス様は丁寧にお聞きになり、時間を取ら
れました。心はやるヤイロにとって、どんなにもどかしい時間だったでしょ
うか。
 そしてもう一度進み始めたとき、恐れていたことが起こりました。娘が死
んだとという知らせが来たのです。しかしその時主は、「恐れないで、ただ
信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」と言われ、ヤイロの家へ行きま
した。人々は娘の死を泣き悲しんでいました。主は、両親たちと戸を閉じて、
「子供よ、起きなさい」と言われると娘は霊が返って起き上がったのでした。
 長血の女が癒されて、神様の栄光が現されている間に、ヤイロの娘は死に
ました。イエス様は遅すぎたのでしょうか。そうではありませんでした。も
う手遅れと思われましたが、娘は生き返りました。主はすべての時、事柄を
治めておられます。私たちには、なぜと思われることも、御手の中にあり、
神の栄光へと変えて下さいます。
 何よりも絶望と思われたことは、イエス・キリストの十字架と死でした。
皆希望を失いました。しかし天の父は、キリストをよみがえらせ悪魔の力で
ある罪と死を打ち破り、私たちの復活の望みとされました。
 なぜ?と思う出来事も神のご支配の中にあり、神の栄光へと変えられるこ
とを信じましょう。
 
11月15日(ファミリー礼拝)
ルカ8章26節〜39節「レギオン」
「人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足
もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、座っていた。」
(ルカ8章35節)

イエス様が湖の向こう側へ渡ると、悪霊につかれた人がいました。お墓で裸
になって叫んでいました。悪霊の力で鎖を引きちぎっていました。悪霊は、
苦しんでいる人や、弱い人を捕らえます。心に平安はありません。でもだれ
も押さえることができません。
 この人は「いと高き神の子よ。わたしとあなたは関係ありません。わたし
を苦しめないで下さい。」と言いました。イエス様がこの悪霊にこの人から
出ていけと言ったからでした。悪霊は、イエス様のことを知っていました。
そしてイエス様の権威ある言葉に逆らえませんでした。苦しくても神様と関
係ないようにし、永遠の滅びに入れようとします。でもイエス様は、この苦
しんでいる人を放って置くことはできなかったのです。
 悪霊は、豚に入ることを願って許されました。豚の群れは悪霊が入ると、
走って崖から湖に落ちおぼれ死んでしまいました。人々は恐れました。
 しかし悪霊につかれていた人は、「正気に返って」、服を着て座っていま
した。もう暴れる必要はありません。「正気に返って」とは本来の姿に戻っ
てということです。神様が人を造られた本来のすばらしさを表す姿に返った
ということです。これはイエス様が、その後かかられる十字架で、罪を身代
わりに負って下さって、信じる私たちの罪が赦されて完成しました。
 この人は、イエス様のお供をしたいと願いましたが許されませんでした。
家に帰って、神様がどんなに大きなことをして下さったかを伝えなさいとい
うのです。この人は、そのことを町中に言い広めました。それで町の人は次
にイエス様が来たとき、大勢イエス様を信じました。私たちもイエス様が自
分にして下さった救いやすばらしいみわざをみんなに話しましょう。
 
11月8日
ルカ7章36節〜50節「多く赦されたから」
「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけいに愛した
からです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
(ルカ7章47節)

 私たちは、人を食事に招待するときどうするでしょうか。お客さんをもて
なすためにいろいろと準備をします。パリサイ人シモンもイエス様を食事に
招きました。どうなったでしょうか。そして「多く赦された」とはどういう
ことをなのでしょうか。
 パリサイ人はよく人を食事に招待したようです。でもシモンはイエス様に、
普通お客さんをもてなすときにするように、足を洗ったり、挨拶のキスをし
たり、香油をたらしたりしませんでした。その時、罪深い女と言われている
人が入ってきて、イエス様の足を涙でぬらし、髪で拭き、足にキスをして、
石膏に入っていた香油を塗ったのでした。
 シモンの関心は、きよいか汚れているかでした。そしてこの罪深い女のこ
ともイエス様のことも心の中で裁いていました。しかしイエス様は一つの譬
えを話し、この女の人がシモンよりもはるかに多くの愛を示したことを告げ
たのです。それは多く、いやすべてが赦されているからだと言われました。
イエス様の関心は赦しにありました。
 「多く赦された」とはどういうことでしょうか。たくさんのかなりの悪い
ことをしたけれども全部ゆるされたということでしょうか。違います。聖な
る神様の前には、どの人も重い罪人だからです。人には違って見えても神様
にはすべて汚れです。「多く赦された」とは、自分の罪深さに気づいて赦さ
れた人です。自分がきよいと思っている人は、赦される必要はありません。
そして人を裁きます。そこに赦された喜びはありません。しかし赦された人
は、その喜びがあふれ出ます。だから深く愛するのです。
 赦す。そこには汚れて受け入れられないものを受け入れる大きな愛が存在
します。そしてキリストの十字架は、その汚れを取り除き、受け入れられる
ための愛の代価なのです。これを信じる私たちに赦された喜びと愛があふれ
出るのです。
 
11月1日
ルカ7章11節〜17節「ナインのやもめ」
主はその母親をみてかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。
(ルカ7章13節)

 今日開かれているみ言葉は、やもめのひとり息子が亡くなりましたが、イ
エス様によってよみがえらせていただいたところです。
 私たちは、近親者の死や夢の喪失などの痛みを負い苦しみます。このやも
めのひとり息子は、たった一つのよりどころであり、望みでした。それを失
ったのですから、泣かずにはいられないような状況でした。しかしイエス様
は、「泣かなくてよい」と言われました。それはどういうことなのでしょう。
 一昔前は、男は人前で泣く者ではないと言われました。泣くこと、涙、そ
れは弱さのしるしと考えられました。しかし今、泣くことによって、自分の
感情を受け止め、心が癒されるとも言われています。
 そうであればなおさら、イエス様はなぜ泣かなくてよいと言われたのでし
ょうか。一つの理由は、イエス様が、その悲しみを知っていて共に負って下
さるからです。原語で「かわいそうに思い」とははらわたが引きちぎられる
ような激しい痛みを表す言葉です。やもめの悲しみは、イエス様の悲しみで
した。イエス様は、若くして父ヨセフを亡くしたと言われています。そして
イエス様の向かっていた十字架は、人の罪を負ったゆえに、聖なる天の父と
の断絶という痛みと苦しみと悲しみの場であったのです。主イエスは、息子
と死によって断絶されたやもめの苦しみを知っていたからこそ、共に負うこ
とができるのです。だから「泣かなくてよい」と言われるのです。
 もう一つの理由は、主は、その死を打ち破りよみがえらされ、人々をよみ
がえらせる力を授けられていたからです。主は、悲しみを打ち破るだけでな
く、その原因の死を除くことができるのです。だから「泣かなくよい」と言
われるのです。私たちも、肉親の死を始め生きる様々な苦しみに希望を喪失
します。しかし主は、同じように私たちによりそって「泣かなくてよい」と
語りかけて下さっています。
 
10月25日
ルカ6章46節〜49節「岩の上か土の上」
「またみことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの
ものであってはいけません。」(ヤコブ1章22節)

 今日の聖書箇所は、イエス様が人々にメッセージを話した最後に言われた
ことです。岩の上の家は洪水でも大丈夫でしたが、土の上の家はひどい壊れ
方をしました。そして聞くだけでなく、わたしの言葉を行いなさいと言われ
ています。
 岩の上の家と土の上の家と何が違うのでしょう。どちらも同じ家で見た目
には変わりません。けれども建てた土台が違っているのです。土台は普段は
見えません。でも何かあったときに、物言うのが土台です。東京タワーの土
台は、砂の層を抜けて固い岩盤に固定されています。
 忘れてはいけないのは、どちらの家にも、洪水が来たということです。岩
の上なら来ないのではありません。しかし崩れなかったのです。私たちも信
仰によって、人生の苦難や試練を避けることはできません。しかし信仰の土
台によって、壊れないで通り超えることができます。
 ところでイエス様の言われた「わたしの言葉」とはどんな言葉でしょうか。
それは迫害を喜びなさい、敵を愛しなさい、与えなさい、自分の目の梁を取
り除きなさいということでした。これらを行うのは、決して生やさしくはあ
りません。いえ、不可能です。ではどうしたらいいのでしょうか。
 それは、私たちが神の愛を知り、御子の命をもつことから始まります。神
の前にへりくだり悔い改めるときに、私たちに与えられた愛と命の尊さを知
って、行うようにと導かれているのです。
 岩を掘るのは時間も労力もかかり大変です。み言葉を行うことも同じです。
しかし十年間礼拝で聞くだけでは何も変わらない人が、わずか一日の愛の奉
仕をするだけで変わることがあります。そして何より主イエスご自身、十字
架の上で、敵を赦し、み言葉を実行されました。それによって救いが完成し
たのです。私たちはこのキリストの命を内にもち、み言葉を行うのです。
 
10月18日 特別伝道礼拝 説教:榊原寛師(文責:尾ア豪)
ヘブル2章17節〜18節「私たちの痛みを担うキリスト」
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助け
ることがおできになるのです。(ヘブル2章18節)

 今は、紅葉がきれいです。きれいだと感動することは、希望になります。
今人生の闇というときにも希望を持つことができます。
 イエス様が「大祭司」というのは、神様と私たちをつなぐパイプ役という
ことです。罪の身代わりの小羊としてなだめの供え物となられたことです。
 主は、私たちと同じになって下さいました。家畜小屋で生まれ、十字架で
生涯を閉じる、寂しい苦しい人生の試練そのものをわかることができるので
す。
 だから主は試練の中にある人たちを「助ける」ことができます。小さな子
供が転んだとき、母親が「いたいね」と痛みをわかっていると感じるとき、
いたくても立ち上がります。私は小学一年生の息子を亡くしました。神様、
子供を返して欲しい。もう笑うことなんかないと思うような悲しみでした。
無言で慰めてくれた人は、同じように子供を亡くした人だと後で知りました。
「主は私たちの病を負い、悲しみをになった」という言葉に慰められ、家族
で彼の分も生きていこうと支えられています。主は、人生の夜が明けるまで、
私たちを助けて下さるのです。
 そして主が私たちと同じようになられたのは「なだめ」となるためでした。
なだめとは怒りをやわらげ、ゆるしと祝福になるのです。柳田国男著『「死
の医学」への序章』の中で終末医療には、必ずゆるしの時が出て来ます。四
九才で癌で亡くなられた医師は、若いとき裏切られたことが忘れられません
でした。しかし自分の病を知ったとき、その日に備えようと向かい合いまし
た。そこにはこのまままでは神の前に立てないという思いがあったのでしょ
う。そしてゆるし、解放され、賛美と祈りの中に平安な時を迎えました。主
は、私たちのために神へのなだめとなられました。
 そして神様は、主に会った私たち一人一人が、小さな祭司だと言っていま
す。私たちと同じになって下さったキリストを伝えていきましょう。
 
10月11日
ルカ5章1節〜11節「お言葉ですから」
するとシモンが答えて言った。「先生、私たちは、夜通し働きましたが、何
一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
(ルカ5章5節)

 漁をして何も捕れなかった朝。イエス様は船に乗って群衆に話された。そ
の後、イエス様の言われたとおりにすると昼にもかかわらず、たくさんの魚
が捕れた。ペテロは自分の罪深さを感じたが、主イエスは彼を救いへの導き
手として招かれた。
 たくさんの魚が捕れたことも不思議ですが、ここで不思議なのは、「私は、
罪深い人間ですから」という言葉です。大漁に驚いたとはいえなぜ罪深いと
感じたのでしょうか。
 ふと、もし前の夜、魚が少しでも捕れたらどうだっただろうかと思いまし
た。面倒がって網をおろさなかったかもしれません。降ろしても驚きは半減。
あるいはイエス様は何も言わなかったかもしれません。それは、神様もすば
らしいが、俺もちょっとはできる、とか、神様がしてくれなければ、自分で
何とかする、といったような、神様と自分を同列に置くようなことになった
のではないでしょうか。その夜全く魚が捕れなかったからこそ、神様と人、
創造者と被造物の超えることのできない違いを感じたのではないでしょうか。
全能の統治者に「全幅」の信頼を置いていなかったことが、「罪深い人間で
す」という告白になったのではないでしょうか。
 そう考えてみると、一匹も捕れなかったこと、これも主の御手の中にあっ
たことなのです。だからこそ全能の神様に気づかされたのです。うまくいか
ない事も、主の手によって、神様の栄光へとかえられるのです。自分の無力
を知って、主に全幅の信頼を寄せて、お言葉に従うところに、神様の栄光は
表されるのではないでしょうか。
 罪を告白したペテロだからこそ、主は、人を救う導き手として召したので
す。私たちはつぶやくことをやめて、主を主と認め、良いことも悪いことも
御手にお委ねしましょう。そこに主のみ業、救いが起こります。
 
10月4日
ルカ4章1節〜15節「荒野の誘惑」
イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてあ
る。」(ルカ4章4節)

 荒野での誘惑は、神様と悪魔とイエス様以外知らない出来事でした。なぜ
聖書に記されているか、それはイエス様が、弟子たちに、そして私たちに語
る必要があったからに他なりません。
 イエス様は御霊に導かれて荒野に来ました。洗礼を受け、聖霊が降り、高
められているときに悪魔はやって来ました。そして四十日が過ぎたときにも
やって来ました。誘惑は、生涯なくなることはありません。それは罪ではあ
りません。しかし誘惑に負けると罪になります。現代も、お金、異性、権力
を始め多くの誘惑がありあます。信仰の成長においても、自分で善悪を判断
し、行動を選択することは、自立に欠かせません。
 イエス様はどのようにして、誘惑を退けたのでしょうか。ここには、三つ
の誘惑が記されていますが、いずれも申命記のみ言葉によって、悪魔に答え
ています。パンも必要ですが「人は主の口からでるすべてのもので生きる」
(申命記8章3節)のです。私たちの中には、誘惑に勝つ力はありません。神
様にあるのです。ですからもう一つの勝利の秘訣は、神様から離れないこと
です。神様から目を離すと、他のものが入ってくるからです。
 では、私たちはどうやって、み言葉を蓄え、神様から離れないようにする
のでしょうか。それは日々、み言葉に聞くことです。つまり聖書を読み、静
まって祈ることです。知っているみ言葉も神様の愛の中で、新しく開かれて、
私たちに命を与えます。
 誘惑についてもう一つ大事なことがあります。それは、負けたときどうし
たらいいかということです。私たちは、信仰によって限りなく勝利できます。
それでも負けることはあり得るのです。そこにあるのがキリストの十字架で
す。主イエスがなしてくださったあがないの業に立ち返ることによって、再
び罪の赦しを確信し、神様との交わりが回復されるのです。
 
9月27日
ヨシュア記1章1節〜9節「約束の地へ」

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れては
ならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこ
にでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1章9節)

 先週の失敗から四十年が経過している。約束の地へ入る再試験の時が来た。
この時は、モーセに変わってヨシュアが新しい指導者として立てられていた。
 まず神様は、ヨシュアに約束と使命を示している。彼と民は約束の地へ入
ること、主が共におられること、そしてヨシュアに当たる敵は誰もいないこ
とである。私たちの歩みも私たちが進む以前に神様の約束が先立っている。
 次に神様は、命令と課題を与えている。一つは、恐れてはならないという
こと、二つ目は、強くあれ、雄々しくあれということである。これまでも立
派な信仰で手本を示したヨシュアである。しかしそれは今回も大丈夫という
保証にはならない。指導者モーセは死んだ。もうついていくことはできない。
しかしモーセと共におられた主は、同じようにあなたと共にいると約束して
おられる。四十年も経てば、力も衰えてくる。もう若くはないのだ。しかし
勝利は自分の力によるのではなく、主の力によるのだ。私たちも主への信頼
が鍵ではないだろうか。三つ目は、足の裏で踏むこと。神の恵みの奇蹟を待
つのではなく、信じて課題を実践することが求められている。四つ目は、律
法を守ること。日夜これを口ずさむのである。主のみ言葉を守り、いつも主
と交わることこそが、主と共にいる秘訣である。ヨシュアは、モーセと主の
親密な交わりを見てきた。この後ヨシュアが破れたのは主に問わなかった時
である。私たちは日々主のみ旨を静まって聴いているだろうか。いつもみ言
葉を口ずさんでいるだろうか。これこそが私たちの信仰の勝利の秘訣である。
自分の強さ弱さではなく、主が共におられるからこそ、恐れは取り除かれ、
雄々しくあり、強くあることができるのである。
 
9月20日
民数記13章〜14章「カデシ」

「しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
(民数記14章9節)

 数ヶ月の荒野生活をしたイスラエルの民はカデシにおいて、カナンの地を
偵察します。これは約束の地へ入る準備です。神様はこれを荒野生活の卒業
試験にしようとされました。果たしてその結果はどうなったのでしょうか。
神様は時折私たちの信仰の成長を確かめるために試験をされます。それは成
長のためなのです。課題は、偵察と情報収集、分析、そして判断です。試験
の結果はどうだったでしょうか。二人を除いて見事に不合格、落第でした。
彼らには憐れみによって補習が課せられました。四〇年の荒野生活という厳
しいものでしたが、再試験で合格するために必要だったのです。
 ではなぜ不合格だったのでしょうか。カナンは肥沃な地だ、民は強い、町
は堅固、自分たちは小さく弱いという分析までは良かったのです。しかし最
後の判断で間違えました。彼らには勝てないからエジプトへ帰ろう、と。カ
ナンの地を与えると約束された主に信頼できず、恐れて臆病になったのです。
奴隷の地から導き出した偉大な主は今も生きて働いていると信じられなかっ
たのです。私たちは、キリストの十字架と復活によって罪と死からあがない
出してくださった主が、今も生きていて私たちを救い出してくださると信じ
ているでしょうか。
 ではどうしたら合格するのでしょうか。一つは主の約束に立つことです。
もう一つは、現実を直視することです。敵の強さ自分の弱さです。つぶやい
たり不平を言ったり、神様や他人や環境のせいにしている時は、現実と対峙
できません。そして主の約束と現実のギャップを認識し神様に解決を求める
のです。約束を果たすのは神様の責任です。主が弱いままの私たちと共にい
て下さることがわかります。恐れがなくなります。そして神様のみ業がなさ
れるのです。私たちも神の国へ向かって進んでいます。
 
9月13日
出エジプト記32章〜34章「モーセのとりなし」

「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られ
た。」(出エジプト記33章11節)

十戒を与えられた民を残して、モーセは再び神の山に登り、四十日四十夜雲
の中で主の戒めを聞き交わりました。その間に民は、モーセが行方不明と思
い、金の子牛を造り、拝み、戯れて、大きな罪を犯したのです。
 なぜ金の子牛を造ったのでしょう。それはモーセが見えなくなり、神様の
臨在がわからなくなったからです。人は目に見えるものに頼りやすいのです。
大切なものは目に見えません。霊なる神様も見えません。しかしそのしるし
は見えます。雲の柱日の柱、日々のマナは主の臨在のしるしでした。
 モーセは、怒る神様をなだめました。しかし早くも偶像礼拝をしている民
を見て、怒りにあふれ、偶像を取り除き、民を裁きました。
 翌日、モーセは裁かれ滅ぼされるべき民のためにとりなしました。もし赦
されないなら命の書から私の名を消して下さい、命をかけて神様にとりなし
たのです。主はこの祈りを聞かれました。
 なぜモーセはそのように取りなすことができたのでしょう。一つは過ぎ越
の小羊です。この小羊の命で長子はあがなわれました。ならば自分の命でと
思ったのでしょう。神様との交わりの中でそのみ思いを知ったのです。それ
は、独り子をしてすべての人をあがなわれた神様のみ思いです。(ヨハネ5
章46節)
 神様はなぜモーセの祈りを聞かれたのでしょうか。モーセがそこまで言う
のなら、と言うことでしょうか。そうではありません。神様ははじめから赦
したいと思っていたのです。だから赦されたのです。そしてモーセは自分を
あがないの代価としようとしたことにより、愛する御子による罪のあがない
を知ったから「友」と呼ばれているのです。友は友の思いを知るから友なの
です。モーセは主のみ思いを知って取りなし手となりました。私たちも主の
み思いを知っているから、取りなし手として召されているのです。
 
9月6日
出エジプト記20章「十戒」

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、
主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」
(出エジプト記20章23節)

 今日のテーマは「十戒」です。旧約聖書の中心的な戒めで、ユダヤ教、キ
リスト教、イスラム教の土台となっています。この戒めはどのようなものな
のでしょうか。
 まずその内容を見ると前半は神様との関係が問われています。@あなたは
わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。Aあなたは、自分のため
に、偶像を造ってはならない。Bあなたは、あなたの神、主の御名をみだり
に唱えてはならない。C安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。創造主を
創造主として認め、へりくだるところに神様との正しい関係が保たれるので
す。後半は人との関係についてです。Dあなたの父と母を敬え。E殺しては
ならない。F姦淫してはならない。G盗んではならない。Hあなたの隣人に
対し、偽りの証言をしてはならない。Iあなたの隣人の家を欲しがってはな
らない。これらは相手を尊ぶところに自ずと守られるものであり、良い関係
を保たせます。
 さて、主イエスは、この律法を完成するため来られ、神様の前には、行為
以上に内面の動機が問われることを示されました。憎しみ、情欲などの内側
の思いが罪を犯させるのです。そうするとだれも正しいと言える人はいませ
ん。主は、私たちの罪の身代わりとして、十字架で死なれたことによって、
救いをそしてこの律法を完成されたのです。
 なぜ十戒が与えられたか、それを示すのは前文に当たる2節です。「エジ
プトの国、奴隷の家から導き出した神、主」。奴隷から救い出した主との交
わりのためです。神様が私たちに様々な戒めを言われるのは、罪からあがな
い出された私たちが、罪から自由であり、主との自由で霊的な交わりを保ち
続けるためなのです。主との霊的な自由な交わり、人との愛の関係を壊すこ
となく保っていきましょう。(ガラテヤ5章1節)
 
8月30日
出エジプト記16章「天からのパン」

「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。」
(出エジプト記16章4節)

 イスラエルの人々がエジプトを出て、荒野の生活が始まったことは、信仰
の生活の始まりでもあります。ここからどのように神様を信じていくかを実
生活から知ることになります。それは今で言えば、救われたばかりの人が、
信仰の初歩を学んでい
くのに似ています。私たちもどのように信仰の生活をしていくのでしょうか。
天からのパンの始まりは、民のつぶやきでした。奴隷からの解放された喜び
から、数十日が過ぎ、荒野へ導かれ、水も食料もなくなっていく現実に直面
しました。その時彼らは、こともあろうに「エジプトで死んでいたら良かっ
た」と言ったのです。私たちも信仰を持ってもつぶやくことがないでしょう
か。神様は何のために私たちを救い出されたのでしょうか。
 神様は、信仰の幼いイスラエルに恵みをもって答えられました。夕に肉を
与え、朝にパンを与え養うというのです。これが「マナ」です。このマナは
日々与えられました。慣れは恵みへの感謝を鈍化させます。しかし、あの荒
野で日々マナが与えられたことは、奇蹟であり神様の恵みのしるしです。私
たちも日々、神様からのパンで養われるのです。
 このマナには課題がありました。課題によって主を知り信仰が成長するた
めでした。第一は、毎日朝、マナを集めることです。日が昇るとなくなりま
した。次の日には臭くなって食べられませんでした。私たちも神様の恵みの
み言葉で毎朝養われる必要があるのです。第二は、安息日の聖別です。その
前日に二倍のマナが取れ、翌日にも臭くならず食べられました。主は安息日
毎に休み礼拝すること、その祝福を教えられました。主は今も日曜日を祝し、
礼拝を祝して私たちに恵みを注いでおられます。ともすれば当たり前のよう
な日々のみ言葉、毎週の礼拝の中に、キリストの十字架による死と復活とい
う救いの奇蹟が表されているのです。
 
8月23日
伝道者の書12章「創造者を覚える」

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。災いの日が来ないうちに、
また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」
(伝道者の書12章1節)

 今日は先に天に帰った方々の信仰を思いつつ、主を礼拝したいと思います。
この「伝道者の書」の鍵語は「空」です。むなしいと言うことです。私たち
は生きる時にどうしても「死」を考えなければなりません。その時にむなし
いと感じるのです。この十二章はその結論になります。そこで何と言われて
いるのでしょうか。
 結論の第一は、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」です。
それは自分が造られた存在であることを認めることです。自分の限界を認め
ることでもあります。そしてこの世界を造られた方がおられると認めること
です。創造し、治めておられる方を認めることです。そして、へりくだるこ
とです。造られた自分は造った方の御手にあると委ねることです。そうする
れば、神の愛、キリストの十字架による罪の赦し、信仰と悔い改めへとつな
がっていきます。
 結論の第二は、「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰
る」のです。私たちはみな死に、神の裁きの座に立つことが定められていま
す。生まれたままで正しい人はいません。皆罪人です。しかしキリストの十
字架を信じ、悔い改める人は罪が赦され、永遠のいのちを受けます。
 いろいろな死があります。立派な信仰、間際の悔い改め、福音を聞いたこ
とのない人、信仰を持たなかった人など。人は人を裁けません。それは神様
に委ねるべきことです。しかしその信仰に励まされます。一方、信仰のない
死、つまり永遠の滅びも否定できません。それは私たちの痛みです。天の父
もその痛みを共にもっておられます。
 結論の第三は、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべ
てである。」(13節)です。私たちは、神を恐れ敬うことによって永遠の命に
移され、この世の歩みも「空」で終わらないものへ変えられるのです。
 
8月16日
出エジプト14章〜15章「紅海を渡る」

「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われ
る主の救いを見なさい。」(出エジプト14章13節)

 神様の御手によってエジプトを出たイスラエルは救いの始め、信仰生活の
始まりといえます。主とどのように歩んでいくかを知っていきます。
 まず覚えるべきことは、主は私たちの状況を知り、良い状況に導かれるこ
とです。カナンへの近道もありましたが、そこでは戦う必要がありました。
神様はイスラエルの状況を見て別の道、紅海への道に導かれたのです。
 次に覚えたいのは、悪魔も必死に追いかけてくることです。そして救いの
命を奪おうとしています。エジプト軍は再び追ってきました。もう一度奴隷
とするためです。悪魔は生まれたばかりの信仰をもう一度罪の奴隷へと引き
ずり込もうとしているのです。そして私たちはその悪魔の力に対してあまり
にも無力なのです。
 そしてもう一つ覚えるべきことは、神様は悪魔から守ってくださることで
す。雲の柱が後ろへ移動しエジプト軍が近づけないようにしました。紅海が
開けて道ができました。追ってきたエジプト軍は海に飲まれてしまいました。
私たちには悪魔に勝つすべはありません。しかし神様は私たちを守ってくだ
さるお方であり、悪魔は神様の許しなくては何もできないのです。私たちは
開かれた道を進むのです。
 私は以前講壇交換で他教会に行き説教しました。うまくいかず顔で笑いつ
つがっかりして帰途につきました。その帰る途中でしめされたのは、ここの
み言葉でした。説教は、人の業ではなく神様の業なんだ。私でなく主が働か
れるのだと知り本当に感謝しました。
 無力な私たちの中に主は働いて下さいます。この主の救いのみわざを賛美
しましょう。
 
8月9日
出エジプト7章1節〜13章22節「十の災い」

「奴隷の家であるエジプトから出て来たこの日を覚えていなさい。主が力強
い御手で、あなたがたをそこから連れ出されたからである。」
(出エジプト13章3節)

 イスラエル人は神様の十の災いによって、エジプトを出ることができまし
た。そこに示された神様のみ心を知りたいと願います。
 今も私たちは自然その他の災害にあいます。聖書は、その原因は人の罪に
よって地が呪われたからであると言っています。この地があがなわれるまで
待たなければなりません。しかしエジプトでの十の災いは趣が異なっていま
す。この災いは神様が明確な目的をもってなされたのです。それは、@主の
名が全地に伝えられるため(9章16節)A偶像に審判を行うため(12章12節)
Bイスラエル人を救うため(13章3節)です。
 ここでまず私たちが心に留めることは、神様はイスラエルを救おうと災い
を起こしました、しかしすぐに状況は好転しませんでした。むしろパロ王は
心をますます頑なにして状況は悪くなっていったのです。私たちは目先の苦
楽で一喜一憂するのではなく最終的な神様の目的に目をとめて神様に信頼す
ることを学ぶ必要があります。神様はイスラエルを区別して、災いにあわせ
ませんでした。
 もう一つの大切なことは「過ぎ越し」ということです。小羊の血が門柱と
かもいに塗られた家は御使いが過ぎ越し誰も死にませんでした。しかしエジ
プトの家ではすべての家で長男が殺されました。小羊が長男の代わりに死ん
だのです。これは旧約聖書の中で最も大切なことです。というのはキリスト
は、すべての人の罪のための、過ぎ越の小羊だからです。キリストが自分の
罪の身代わりになったことを信じ、受け入れる人を主の裁きは通り過ぎるの
です。
 この過ぎ越しは「聖別」を表します。あがなわれた長男が主のものと聖別
されたように、信じ救われた私たちも主のものとして聖別されているのです。
 主は私たちの頑なな心を砕いて、聖別して下さいます。罪からあがない出
してくださった主を覚えましょう。
 
8月2日
出エジプト2章11節〜4章31節「モーセの召命」

神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのし
るしである。わたしがあなたを遣わすのだ。」(出エジプト3章12節)

今日は八十才のモーセの召命をとおして私たちの信仰を顧みます。そこに
は「私は何者か」(3章11節)という人間の根本的な問いが存在しています。
そこでまず私たちが覚えるべきことは、天地の造り主、全能の主は、私たち
を目的をもって造られたことです。神様の栄光を表す存在として造られまし
た。
 ところでモーセは誕生後実母を乳母とし、エジプトの王宮で教育を受け才
能と賜物を伸ばして成長します。成人した時には、その特異性からイスラエ
ルを救う使命感を持ちましたが、あえなく挫折し、ミデアンの荒野に逃亡し
ます。モーセの才能と使命は(そして彼自身の存在も)否定され、羊飼いと
して一生を送るところでした。私たちは過去の失敗や挫折に捕らわれやすい
存在です。
 しかし神様はその年老いたモーセをイスラエルの救いのために召されまし
た。挫折したモーセは神様の召しをなかなか受け取ろうとしません。自分で
自分をあきらめ、見切りを付けていたのです。しかし神様はあきらめてはい
ませんでした。忍耐強く語りかけ、ついにモーセを立ち上がらせたのです。
モーセも主の召しを受け止めました。
 私は牧師としての召しを受けた時、神様から本心が探られ、召しを受け取
ることができませんでした。そんな自分に失望しました。しかし神様はあき
らめてはいませんでした。
 私たちはいろいろなことで失敗し、自分をあきらめます。しかし神様はあ
きらめていません。神様の栄光を表すようにと造られたからです。自分の才
能や賜物経験では神様の栄光は表せません。「わたしはあなたと共にいる」
この神様の約束に立つ時神様の栄光を表すことができるのです。
 
7月26日
出エジプト1章1節〜2章10節「モーセの誕生」

「女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三ヶ月の間
その子を隠しておいた。」(出エジプト2章2節)

 今日から出エジプト記になります。まずはモーセの誕生です。赤ちゃんが
生まれることに多くの人が喜びと期待をもって待ちます。しかしこの時代は
そうも言っていられない状況でした。男の子が生まれたらナイルに投げ込み
殺されてしまったからです。母ヨケベデは無事に生まれしかも女の子である
ようにとどれほど祈ったことでしょうか。しかし生まれてきたのは男の子で
した。胸の張り裂けんばかりであったでしょう。ヨケベデは「そのかわいい
のを見て」殺すことはできませんでした。三ヶ月の間隠して、ついに隠しき
れなくなって、沈まないようにかごを作り、ナイル側のアシの間においたの
です。奴隷となったイスラエルの叫びを聞いておられた主は、彼女の祈りも
かなえ、乳母として、我が子をパロの娘の子として育てることができるよう
にして下さったのです。何という不思議な業でしょう。
 私はこの箇所を読みつつ自分に子が与えられた時のことを思い出しました。
祈って与えられた子でした。生まれた時の喜びは忘れません。またその時、
命の尊さ、そして、性は男女の愛のためだけではなく、命を生み出すすばら
しわざとして与えられていることを知りました。神様から与えられたものを
いい加減に扱ったり、傷つけたり無駄にしてはなりません。
 またモーセの誕生の陰で多くの(母)親が幼い我が子の死を味わいました。
消えることのない痛みであったでしょう。しかしその中で「出エジプト」と
いう壮大な神様の救いのご計画が進んでいました。私たちを造られた主は、
私たちを「かわいい」存在としていとおしんでおられます。だからその中に
働き救いのご計画をすすめて来られたのです。それがキリストの十字架と復
活による救いです。私たちも癒えぬ痛みを負うことがあります。それは消え
ないかもしれません。しかしそのような中にも主は慰めてくださり、また生
活の中に共にいて下さるのです。そして救いのご計画は今も進んでいるので
す。
 
7月19日
使徒の働き10章「コルネリオの回心」

「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこ
み、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」
(使徒の働き10章34節〜35節)

 今日の聖書箇所は、聖霊を注がれた教会にとっても大きな転換点となった
ところです。それまではキリストの救いをユダヤ教の中で考えていましたが、
神様が導かれたことは、改宗していない異邦人の中にも聖霊を注ぎ、ユダヤ
教を超えて救いの業がなされることでした。ここから「地の果て」までの宣
教へと広がっていったのです。
 ユダヤ人は異邦人の家に行ったり、一緒に食事をしたりしませんでした。
しかしペテロは幻と聖霊の促しによって、異邦人コルネリオの家に行き福音
を語りました。するとそこに集まっていた一同に聖霊が降りました。それは
ペテロや同行者には考えられないことでしたが、神の御業を喜び一同に洗礼
を授けました。聖書は異邦人の救いを伝えていましたがなかなかわかりませ
んでした。それは思い込みや偏見があったからです。
 これは私たちにもあることです。いつの間にか人を差別したり見下したり、
壁を作っていたりします。でも聖霊はこれを取り除きます。憎しみを取り除
きます。韓国のハ・ヨンジュ師らが日本への伝道を始めたことも、戦争体験
からはあり得ないことでした。しかし聖霊に導かれ憎しみを認め悔い改めて
愛しますと宣言したのです。この十勝では、最初の受洗者はアイヌ人と和人
とが一緒に受けました。当時では考えられないことでしたが、何の差別もし
なかったのです。
 神の宣教を妨げているのは私たちかも知れません。私たちの偏見が取り除
かれる時、宣教は拡大するでしょう。そして何よりも、神様は私たちに対し
て「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」(15節)と言っ
ておられるのです。私たち自身けがれがのぞかれきよくされたのです。
 
7月12日
使徒の働き8章26節〜40節「宣教への導き」

「そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれ
にでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」(第一ペテロ3章15節)

 ステパノの殉教の後、教会は大きな転機を迎えました。それまでエルサレ
ムにいた人々が迫害により散らされました。その人々が証をしたことで、宣
教はサマリヤから世界へと拡大していったのです。
 今日はエチオピアの宦官への伝道の箇所ですが、ここでも伝道は神様の導
きによって勧められています。一つは、聖霊による導きです。ピリポはサマ
リヤ伝道で多くの収穫を得ていました。しかし聖霊は荒れたガザへと導かれ
ました。なぜ寂れたところへと思ったでしょう。しかし従いました。そこへ
エチオピアの宦官の馬車が通り、聖霊がさらに馬車と一緒に行きなさいと言
われたのです。第二は聖書による導きです。宦官はユダヤ教への改宗者でし
たが、聖書を読んでいたので的確に救い主について核心を突いた質問ができ
たのです。聖書は私たちを救いに導く真理の書です。第三に、人による導き
です。ピリポという聖書の真理を知る人がいたからこそ、キリストを知るこ
とができました。ピリポはイエスのことを宣べ伝えたのです。だから宦官は
信じることができたのです。
 神様の導きに対して、私たちが備えておくことも大切です。聖霊の声に心
が開かれていつでも聞けるように備えましょう。また聖書のみ言葉をいつも
読み覚え蓄えましょう。み言葉に力があります。またいつでもキリストにつ
いて、救いについて証ができるように備えましょう。求めている人がいない
か祈っていると家族や友人や同僚の必要に気づかされるのです。
 宦官の救いは、彼一人の救いではありませんでした。その後長い間、エチ
オピアはキリスト教国として知られました。私たちを通して多くの人が救わ
れることを主は望んでおられるのです。
 
7月5日
使徒の働き6章8節〜7章60節「ステパノの最後」

「そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わ
せないでください。』こう言って、眠りについた。」(使徒の働き7章60節)

 ステパノの最後は、私たちが同じような状況になったらどするかを問いか
けてくるものです。それはまた今どのように生きているのか、何が最も大切
なのものかを問われるものでもあります。
 ステパノは、教会全体で選ばれた七人の執事の一人で御霊と知恵に満ち、
皆から信頼された人でした。キリストの教えに反対する人を論破もしました。
そこでねたまれ、捕らえられ、偽りの証人を立てられ議会に引き出されたの
です。そのような争いの中でステパノの顔は「御使いの顔のように見えた」
(6章15節)のです。
 彼が弁明したことの中に、福音の真理が語られています。それは、神様は
神殿にもおられるが、それに閉じ込められるのではなく、全地に満ちている
お方であることです。創造主だからです。また預言者モーセや他の預言者を
通して言われたことは、偉大な預言者を送ると約束されたことです。最終的
にそれはイエス・キリストをさしています。またモーセの慣例よりも、それ
が指し示す神のみ心に従うことが大切だと言うことです。ステパノが続いて
神様が遣わされた救い主に彼らが従わずに殺したことを指摘した時、彼らの
怒りは爆発しました。
 しかしその時ステパノが見ていたのは、イエス様が父なる神様の右(権威)
に立っている姿でした。彼らはステパノを石打にして殺しました。この時ス
テパノは大声で「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りま
した。それは十字架の上でのイエス様の祈りと同じでした。赦されないはず
のステパノが赦されるために主が身代わりの十字架を負って下さった、これ
こそステパノの生き方そして最後を貫いているものだったのです。
 ステパノの死。しかしそこからキリスト教に不可欠なパウロが救われてい
きます。私たちの救いのために死をもいとわないキリストの愛。これを受け
入れる時私たちは救われます。父なる神様に立ち返ります。この主イエスの
救いを信じましょう。
 
6月28日
使徒の働き6章1節〜7節「問題と解決」

「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の
良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせる
ことにします。」(使徒の働き6章3節)

私たちはいつも教会は何のために存在しているのか、自分は何のために存在
しているのかを考える必要があります。難しく退屈なことかも知れませんが、
自分を見失って生きる意味や希望を失っている人も多いのです。
 さて危機を乗り越えさらに成長していた教会に新しい問題が起こってきま
した。ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめが、ヘブル語を使うユダヤ人から
日々の配給でおろそかにされているというのです。貧しい人への配給はユダ
ヤの良き伝統でした。そのことで教会が分裂しかねない問題が起こってきた
です。
 問題は何だったのでしょうか。それはミスコミニケーションです。教会の
人数が増えたこと、そして言語が違うことから、十分に意思疎通をできなく
なってしまったことです。そういう意味では、五章のように明確な罪や欺き
があったわけではありません。しかしそれが分裂や憎しみに進みかねないも
のです。
 ではどのように解決したのでしょう。十二使徒は、教会全体で七人の執事
を選び、食事のことをまかせることにしました。なぜそうしたかというと、
使徒はみ言葉と祈りのために召されていたからです。悪魔はこの召しから引
き離す巧妙な罠を仕掛けていたのです。選ばれた執事は、御霊と知恵に満ち
た評判の良い人々でした。それぞれの神様からの召しを認識し、キリストの
一つのからだとして役割を分担したのです。そこに優劣はありません。
 私たちもみ言葉に聞き、心一つにし、役割を担って、み言葉を伝えましょ
う。
 
6月21日 世の光ラリー合同礼拝 説教:福井誠師(文責:尾ア豪)
第一ペテロ 2章22節〜24節 「キリストにいやしがある」

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それ
は、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆ
えに、あなたがたは、いやされたのです。」(第一ペテロ2章24節)

 ペテロの手紙は、ペテロが諸教会に宛てた手紙です。手紙の背景にあるペ
テロの経験は、マルコによる福音書を見るとわかります。ペテロはイエス様
を裏切りました。でもそれでイエス様が十字架にかかったわけではありませ
ん。「自分から」十字架にかかり「私たちの罪をその身に負われました」。
 罪の赦しというと、日本では水で流すという考え方をします。しかしユダ
ヤでは、犠牲の血を流すことによって赦されると考えます(ヘブル9章13節)。
そのようにイエス様は、十字架の上で血を流されたのです(ヘブル10章10節
〜)。私たちはその打ち傷によって赦されたのです。
 そこで進められている第一が「罪を離れ、義のために生きる」ことです。
これは方向転換です。洗礼には三つの意味があります。@葬式(過去との決
別)A入学式B結婚式(イエス様とどんな苦労も一緒に乗り越えていく)これ
がはっきりしていないとぼんやりとしたクリスチャンになってしまいます。
救いにも三つの理解があります。一つは、神様との関係が変わること、無関
係のものから神の子とされたことです。二つ目は、神の命を味わうことです。
神様から新しい命が与えられ、注がれています。三つめは、新しい使命(目
的)に生きることです。罪を離れ義に生きることの内容が、この三〜四章に
書かれています。女性には「心おだやかに」と言われています(3章1節)。
世の中では、外見の美しさを求めますが、方向転換です。私たちにはホッと
してくつろげるところが必要です。男性には女性が弱い者であることを覚え
るように言われています(3章7節三)。女性はいたわられると美しくなります。
 またもう一つのすすめは、(表面より)「いやされた」ということです。信
仰生活は長距離走です。私たちは、何か失敗すると、もうダメだ、信仰を持
っても変われないと考えたりします。裏切ったペテロはそれでダメではあり
ませんでした。神様は「もはや決して、彼らの罪と不法とを思い出すことは
しない。」と言っておられるのです。完全に「いやされた」のです(ヘブル
10章17節)。私たちは「自分のたましいの牧者、監督者である方のもとに帰
ったのです。」(25節)
 
6月14日
使徒の働き3章1〜26節「嘘は嫌われる神」

「私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を
試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。」
(第一コリント10章9節)

 めざましい働きをしていた初代教会に、衝撃的なことが起こった、土地を
売った代金を献金しようと持ってきたアナニヤとサッピラの夫妻が、神様に
裁かれ、その場で息絶えたのだ。いったい何が起こったのだろうか。教会は、
決して問題の起こらないところではない。しかし聖霊の導きの中に、サタン
の働きを打ち破り、問題を解決できるところが教会である。
 まず何が悪かったのであろうか。「聖霊を欺いて」「神を欺いた」とある。
代金を全部持ってこなかったことではない。人を欺いたことも悪い。しかし
何よりも神を欺き、一部を全部と言ったことが裁れたのだ。悪魔は、信仰の
順調な時にも私たちの中にも入り、神様の働きを妨げようとしている。
 なぜこのようなことが起こったのだろう。四章の終わりを見ると、バルナ
バが土地の代金を献げ賞賛されたことが記されている。自分たちも同じよう
に賞賛されたいと思ったのだろう。ここまでの伝道は、人ではなく神の栄光
が崇められるようにと進められてきた。主の栄光から目を離すと私たちは、
祝福を失ってしまうのである。これは教会の根幹を揺るがす危険さえある。
 しかし、多くの場合、私たちはすぐには裁かれない。主は忍耐をもって、
悔い改めの機会を待っておられる。十字架による赦しを信じて悔い改めて赦
しをいただこう。そうすれば裁かれない。
 私たちは、教会と社会で別々の基準で生活していることはないだろうか。
いつも主の栄光に目を向けているだろうか。真実な心で神様に献げているだ
ろうか。私たちが神様から委ねられているものは、神様の栄光が現されるた
めに用いられているだろうか。逆のことはないだろうか。主のために、信仰
の成長のために、隣人のために、財、時間、労力、賜物をもっと献げてはど
うだろうか。
 
6月7日
使徒の働き3章1〜26節「美しの門で」

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・
キリストの名によって歩きなさい。」(使徒の働き3章6節)

 「美しの門」という名の宮の門で、生まれつき足の不自由な男が癒された。
彼はペテロ達と共に宮に入り、躍り上がって神を賛美した。人々はこの出来
事に驚いた。何が彼を癒したのだろうか。
 ペテロの言葉は明瞭である。金銀つまりお金ではない。イエス・キリスト
の御名による。(6章16節)さらにペテロの力や信仰深さでもない。自分を
誇ることでなく神様が賛美されることが重要なのである。
 ではこのイエスの名とは、何なのだろう。このころ名前は、その人格やそ
の人の力をあらわしていると考えられていた。今でもそうだ。ではイエスの
人となりはどうだろうか。正しい方であったが、ユダヤの人々は彼を十字架
につけ殺してしまった。しかし神によってよみがえらされたお方である。サ
ムエルもモーセも彼の出現を待ち望んでいたお方である。そしてその十字架
と復活のゆえに、ひとりひとりの罪をぬぐい去り(19節)、邪悪な生活から
立ち返らせて下さるお方なのである(26節)。そして今でも不思議なわざと
あかしの奇蹟(2章43節)を行わせる方である。
 では、癒されないのは不信仰だからであろうか。そうではない。神が主権
を持って決めておられるのである。かつ人は必ず死ぬことと死んだ後裁きを
受けることが定められている(ヘブル9章27節)。再臨がなければ癒されて
も死は免れない。しかし御名を持つなら永遠の命と平安を持っている。イエ
ス・キリストの名は、人間の唯一の救いの道である(4章12節)。
 どのようにしてキリストの名を持つのであろうか。無知を認め(17節)、
イエス様に起こった事実を認めること。罪を悔い改めて神に立ち返ること
(19節)、御名を信じること(16節)である。この信じる信仰さえも、神様は
イエス様を通して用意して下さっている。今日信じよう。今が救いの時であ
る。
 
5月31日
使徒の働き2章「ペンテコステ」

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けま
す。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、
わたしの証人となります。」(使徒の働き1章8節)

 今日はペンテコステです。それは聖霊が降られたことを記念する日であり、
教会の誕生日でもあります。この聖霊は、私たちの中にどのように働いている
のでしょう。
 ペンテコステとは五十を意味します。過ぎ越の祭りから五十日目であり、そ
れはイエス様の十字架から五十日目です。復活と昇天の後、祈り待ち望んでい
た弟子達に聖霊は与えられたのでした。
 旧約の時代も聖霊は与えられていましたが、それは預言者など特別な人々に
限られていました。このペンテコステ以来、キリストを信じるすべての人に聖
霊が与えられているのです。
 ではこのペンテコステはどのような意味を持っているのでしょうか。それは
旧約の預言の成就です。そしてキリストの証人とします。み言葉の確信を与え
ます。多くの人の心に働いて、罪を認めさせ、悔い改めに導きます。そしてキ
リストの弟子とし、聖徒の交わりへと導くのです。
 聖霊を受けた人は、老いも若きも、神様からのビジョンを与えられ、キリス
トに生きるのです。メビックの第二会堂は子供の祈りから生まれました。落語
家の露の五郎兵衛氏は、生涯を振り返り、生まれたときから、キリストに導か
れていたことを知りました。死後の希望も語ることができます。臆病な弟子達
は、み言葉を大胆に解き明かし、主イエスが救い主であることを証しました。
 ただ気をつけるべきこともあります。聖霊は、傲慢や高ぶりを嫌います。日
毎の交わりの中に主のきよさを保ちましょう。
 今も聖霊は私たちの中に働いて、私たちにみ言葉を解き明かし、大胆なキリ
ストの証人としてくださるのです。信じる者を加え、主を待ち望ませてくださ
るのです。
 
5月24日
ヨハネの黙示録21〜22章「新天新地」

「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、
叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからであ
る。」(ヨハネの黙示録21章4節)

 ペンテコステに向かいつつ、再臨について聖書が開かれてきました。今日の
箇所は、聖書の最後の部分であり、いわば聖書の結論とも言えるところです。
それは歴史の最後であり完成についてです。今の歴史は、新天新地が造られ、
永遠の世界に突入して完成するのです。
 一.なぜ新天新地は必要か
 神様が最初に造られた世界は罪のない世界でした。しかし人間の堕落ととも
に、呪いと死つまり滅びが、人と生き物と地に入ってきました。しかし聖にし
て愛である神様は、御子の身代わりによって、あがないを完成し、信じる者に
永遠の命への回復の道を開かれました。永遠の命には、それにふさわしい、罪
と呪いが取り除かれた永遠の世界、つまり新天新地が必要なのです。
 二.新天新地はどんなところか
 ここに書いてあるとおりです。ここには本来現すことのできない神様の栄光
が、目に見える形で現されています。キリストの花嫁としてのエルサレム、そ
の中心は神様と子羊との栄光で、夜はありません。旧約と新約の民が土台で
す。呪いも死も悲しみ、叫び、苦しみもありません。皆が自分の栄光を投げ出
して、礼拝を献げ、救いの業を賛美します。命の川が流れ、命の木が実のりま
す。
 三.だれが新天新地に入るのか
 そこに住むのは、命の水を飲む人、自分の着物を洗った人です。つまりキリ
ストの十字架の前で悔い改め、罪の赦しを受けたと信じる人です。罪のあるま
までは入ることはできません。しかしこの救いは誰にでも開かれています。信
じましょう。
 そして、私たちは救いの確信と喜びに満たされて、「主よ、来てください」
と待ち望みます。主は、すぐに来ると約束してくださっています。ハレルヤ
 
5月17日
マタイによる福音書25章31節〜46節「羊と山羊」

「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひと
りにしたのは、わたしにしたのです。」

 前週に引き続き再臨についての譬えですが、どのように神の裁きの前に立つ
べきかが記されています。何が裁かれ、分けられるのでしょうか。私たちはど
う歩むべきでしょうか。
 聞く人々には羊も山羊も身近な動物であり、わかりやすいものでした。誰も
が羊と山羊を分けられるように、裁きの時、主は人々を右と左に分けられるの
です。良くも悪くも私たちの行為が結果を生み、神様は公平に裁かれるます。
その裁きには曖昧な中間(煉獄呪縛霊など)はありません。
 両者の違いは何でしょうか。それは隣人への、特に小さい者弱い者への具体
的な愛の行動(助け)です。小さい者は主ご自身であったと語り、主へ助けを
したかどうか、これが裁かれるのです。私たちは小さい者を助けているでしょ
うか。助けましょう。
 ところで右の者も左の者もいつ主が来られたか気づかなかったことが記され
ています。それはどういうことでしょうか。天国の報酬を受けるのは無意識の
愛の働きであって、報酬を受けるための意識的な働きは数えられていないとい
うことです。私たちは無意識のうちに愛の働きをしていくべきなのです。
 しかしそんなことができるでしょうか。タラントの譬えでは、主人に喜ばれ
るために意識して働いています。すると意識・無意識はことの本質ではありま
せん。ではなぜこのように語ったのでしょうか。これは無意識の愛の助けはど
こから出てくるかということを問うているのです。つまりそれは私たちが無条
件の愛、本当の神様の愛を知っているかが問われているのです。十字架による
罪の赦しがなければ生きていけないと本当に知っているか、神様との個人的関
係においてゆるされているか問われているのです。無意識の愛は、この無条件
の愛を知っているからこそ、喜びから自然にわき上がってくるのです。だから
愛せるのです。
 
5月10日
マタイによる福音書25章14節〜30節「タラントのたとえ」

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったか
ら、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでく
れ。」(マタイによる福音書25章21節)

 「十人のおとめ」に続く再臨についての譬えです。ここでは、私たちが、た
だ待つのではなく、与えられている賜物を用いながら、再臨を待つべきことが
教えられています。
 主人あるいは王が僕(しもべ)に財産を預け、旅に出たり、皇帝を訪問し、
数ヶ月から数年留守にすることはこの当時しばしば実際に会ったことでした。
日本の歴史では、参勤交代を思い浮かべてはどうでしょうか。
 主人が帰ったときに、僕と決算をします。この替えでは、財産を増やした僕
は、右記のことばで喜ばれ、財産を隠しておいた僕は、預かった物をそのまま
返したにも関わらず、主人は怒り、追い出してしまいました。イエス様は、何
を言おうとされたのでしょうか。
 この主人は神様で僕達はクリスチャンです。決算のときは再臨のときです。
 何がほめられたかといえば「忠実」ということです。これは機械的にただ言
われたとおりにすることではないようです。主人の意をくみ取り、しっかりと
やることではないでしょうか。主人も、それぞれの賜物、才能、力量を見分け
異なった額を預けています。人と比べるのではなく、自由に、賜物を用いて良
いのです。その反対は、「怠惰」です。
 この忠実と怠惰の違いはどこから出てくるのでしょうか。それは主人との関
係です。怠惰な僕は、主人との関係に壁があり、主人を悪く考えていました。
彼は、十六年分もの給与を任せた、主人の彼に対する信頼と愛に気づきません
でした。良い神様との関係が、忠実を生み出すのです。神様との良い関係は、
そのような関係にある人を通して知ることができます。あなたと神様とは?
 
5月3日
マタイによる福音書25章1節〜13節「十人のおとめ」

「だから、目をさましていなさい。 あなたがたは、自分の主がいつ来られる
か、知らないからです。」(マタイによる福音書24章42節)

 パレスチナでは、数十年前までは、花婿が歩いて、なるべく遠回りをして、
多くの人の祝福を受け、花嫁を迎えに行き、戻ってきました。ですから結婚式
がすぐ始まるのか、一週間後になるのかわからないということはよくあったこ
とのようです。
 イエス様は、天国を花婿の十人の友人つまり娘達として話されました。それ
はみんながよくわかるためであり、みんながどのように再臨を待ち望むべきか
を教えるためでした。
 花婿はイエス様です。娘達はクリスチャンです。イエス様は花婿を待ってい
る娘達を賢い娘と愚かな娘とに分けられました。その違いは何だったでしょう
か。賢い娘達は灯火と共に予備の油を持っていましたが、愚かな娘達は予備の
油は持っていないということでした。この譬え示されていることは、
 @主がいつ来られるかはだれもわからない。
 A主が来られてから準備しても間に合わないから気をつけなさい。
 B再臨の時に信仰、聖霊、品性などは他の人に分けてあげることも分けても
  らうこともできない。
ということです。クリスチャンであるのに天国に入り損なうことがないように
気をつけて目を覚ましていなさいと警告しています。
 ところで予備の油とは、何でしょうか。それは聖霊をさしています。再臨が
来るまでにだれもが油断し、居眠りします。でも聖霊による信仰を持っていれ
ば、不意を打たれてもすぐに信仰を整えることができます。またそれは礼拝を
さしています。聖霊を消してはいけません。礼拝や祈り会で信仰を整えましょ
う。またディポーションで神様と親しく交わることによって予備の油を絶えず
足しておくことができます。主は、祈る者を整え、良い業に間に合わせて下さ
います。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。