メッセージ(文責:尾﨑豪)
 
2014年3月30日
【悩む者の声を】第一サムエル二一章10節~15節
この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦し
みから救われた。詩篇34篇6節

 今日の聖書箇所は、ダビデの苦難、危機の箇所の一つです。ダビデは多くの
危機を通っています。預言者サムエルから油注がれたダビデは、聖霊に満たさ
れました。羊飼いをしていても獅子や熊を倒しました。ほどなく、ペリシテ軍
の大男ゴリアテを倒します。その後も大活躍でした。
 ところがその活躍がサウル王のねたみを買いました。人は神様の愛から離れ
ると、平安を失い、人と自分を比べ、優劣を気にするようになります。サウル
は、ダビデを恐れて、殺そうとするのですが、何回もそこから逃れることがで
きました。しかし国内の逃げ場を失ったダビデは、遂に敵地に逃げ込んだので
した。
 散々、ペリシテ軍を蹴散らしたダビデを放って置くはずがありません。ダビ
デは、彼らを恐れ、気がふれたように、暴れたり、よだれをたらしたりしたの
です。ダビデは、捕らえられ、王の前に連れて来られました。王は、ダビデを
見抜けず、危機一髪で放免されたのです。それは主の助けでした。その時の事
を歌ったのが詩篇35篇56篇です。主の救いを喜び踊っています。
 私たちの信仰は、必ず試されます。もし罪があると、私たちの心は責められ
ます。罪がなくても、なぜこのような苦しみに遭うのかという疑問がわいてき
ます。それでも主が神と認めるのか、最善をして下さると信じるのか、それと
も、主よりも自分にたより、自分を神以上の神とするのかが問われるのです。
 恵まれればやがて試練が来ます。祈るほどに反対の事が起こるように感じる
のです。私たちが苦難の中でも、信仰をもって主を認めていくと、その中で思
いもよらない恵みを見つけることができます。私たちには、独り子の命さえ与
えられているのです。主の十字架以上の苦しみはありません。ダビデは、徹底
的に主への謙遜を教えられました。そこに苦難への勝利の秘訣があります。
 
2014年3月23日
【私たちの味方である神】ローマ八章31節~39節
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
ローマ8章31節

Ⅰ.私たちを囲む困難
 ①人間的な困難人は、人とのつながりの中で生きています。職場であれば上
司や同僚、後輩、学生であれば先生や友だち、また私たちの家族。平和である
ように見えても、敵、味方の争いが多いのではないだろうか。またクリスチャ
ンであるがゆえの困難もある。
 ②超自然的な困難人間の力ではどうすることもできない事がある。「死」や
「生」や私たちを支配しようとするサタンの力である。
Ⅱ.困難に勝つ力
 ①味方となってくださる方によって神が味方であるというのは、神が私たち
の側に立っていて下さるということである。サタンは私たちを訴えるものであ
る。罪について、あるいは不十分であったことについてサタンは私たちを責め
たてる。しかし神は私たちの側に立ち、サタンの訴えを退け「この人は、救わ
れて義とされました」と言って下さっている。
 ②とりなして下さる方によってもし罪を犯したなら、私たちには、御父の御
前で弁護して下さる方がある(Ⅰヨハネ二章1節)。イエス様は、十字架で流
された血潮を携えて、今も天で私たちのために祈っていてくださる。「この血
に免じてこの人の罪を赦して下さい」と。
 ③愛して下さる方によって神様は、御子を惜しまないで死に渡された。すな
わち御子を「見放された」という意味だ。神はどれほどの痛みを持ってそうさ
れたのでしょうか。私が受ける罪の罰を十字架の上でかわりに受けて下さっ
た。「完了した」と言われたのは、これであがないのわざが完全になし遂げら
れたという意味だ。
 神様は私たちの味方です。ですから何も恐れなくてよいのです。敵であるサ
タンの存在を心にとめておく必要はあるでしょう。けれども敵を恐れる必要は
ありません。いつも私たちの側に立ち、とりなし、愛して下さる方によって、
様々な困難或いは責め立てられることがあったとしてもそれに対して圧倒的な
勝利者となることができるのです。
 
2014年3月16日
【サウル王の失敗】Ⅰサムエル一三章
神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かに
すれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得
る。イザヤ35章15節

 先週は、サウルが神様から選ばれて王とされたところをでしたが、今日は、
そのサウル王が神様から退けられてしまうところです。私たちも神様の恵みに
与りつつも、その恵みにとどまり続けることができないことが多々あります。
なぜ恵みを失うのでしょうか。どうすればよいのでしょうか。
一、なにが失敗なのか
 サウルは、ペリシテの大軍を目の前にして、恐れを覚えて、神様に橎祭を献
げました。橎祭を献げることが間違いではなかったようです。しかしみ言葉を
守らなかったことが問われています。サムエルも遅れたようですが、七日目に
サムエルが来るのを待ち、神様の指示を聞くべきであったのです。
(一〇章7節)
また目の前の問題に心を奪われ、神様が見えなくなりました。そして神様によ
ってではなく、自分の力で解決しようとしたのです。私たちにとって、み言葉
に従い、神様の解決を待つことはいつも問われていることです。
一.どのようにみ言葉を守るのか
 私たちには神様の恵みの法則を知ることが必要です。恵みは、み言葉と聖霊
の両方によります。またその二つは、きよさ(聖)と力の両面があり、その両
面が大切です。そして人は、速度を求めますが、速度よりも進む方向が大切だ
ということです。また信仰は、試されることによって鍛えられ成長するので
す。神様の沈黙や荒野は、厳しい面もありますが、神の恵みのあふれるところ
に変えられます。今日のみ言葉の最初の「立ち帰る」とは、悔い改めるとも訳
せます。神様の方に向きを変えて、静まって、神様に信頼するところに、神様
のみわざは現れてくるのです。
 
2014年3月9日
【サウル王の選び】Ⅰサムエル九~一〇章
主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あ
なたは新しい人に変えられます。第一サムエル10章6節

 今日は、サウル王がどのように神様に選ばれたのか、そしてどうなったのか
をみていきます。
一、選びへの道のりは
 神様からの選びは、摂理(不思議な導き)の中で進んでいきました。雌ろば
がいなくなったこともご計画のうちにあったのです。またそれは、民の祈りへ
の答えでもありました。必ずしも神様の御心とは言えませんでしたが、主は、
王を下さいという祈りに答えられたのです。そしてあまり主に対する心の準備
のないサウルを主は、選ばれました。しかし彼は、主の働きを妨げることはせ
ずになされるままに受け取っていきました。
一、サウルに何が起こったか
 彼への油注ぎは、付き人もいないひそかなところで行われました。そしてサ
ムエルの預言の通りに、主の霊が与えられて、新しい人に変えられたのです。
神様は、選び使命を持つ人に、それを遂行することのできるように整え、力と
賜物を与えられるお方です。そして、主を信じる私たちもキリストにあって新
しく造られた人とされています。(Ⅱコリント五章17節)
一、今、新しい霊はだれに注がれるのか
 旧約時代はごく限られた人に主の霊は注がれただけでした。しかしキリスト
が十字架で贖いを成就して復活された今の時は、聖霊が、主の救いを信じる全
ての人に注がれて、新しい人に造りかえます。また主にへりくだって助けを求
めるすべての人に主は、主の霊を注いで、救いの道を示して下さいます。使徒
の働き一、二章をみると聖霊は、キリストを証する力を与えることがわかりま
す。宣教の使命を果たすためです。そのために私たちは新しい人に変えられた
のです。
 
2014年3月2日
【少年サムエル】Ⅰサムエル三章
そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。
サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いてお
ります。」と申し上げた。第一サムエル3章10節

 祈りによって与えられたハンナの子サムエルは、乳離れすると、祭司エリの
元に置かれ、主の宮で仕えるようになりました。そしてある夜、主の宮で寝て
いたサムエルに、主は語りかけられたのです。サムエルは最初はエリ先生に呼
ばれていると思いましたが、エリの指導により、主にお答えしたのでした。
一、なぜ主はサムエルに語られたのか?
 この頃、主の言葉や幻はまれであったと書かれています。そんな中なぜサム
エルに語られたのでしょうか。ひいきや運命でしょうか。そうではありませ
ん。それはサムエルが主の言葉を聞く用意ができていたので、主はサムエルに
語りかけたのです。つまりエリやエリの子たちは聞く用意ができていなかった
のです。私たちは主の言葉を聞く用意ができているでしょうか。
二、なぜサムエルは聞く用意ができていたのか
 それはサムエルは、言われることがどんなことであっても聞こうとしていた
からです。ヘブル語で聞くという言葉は、聞いて従うという意味も含まれてい
ます。自分の意見を優先しないということです。つまり、神様との関係で主導
権をだれが持っているかが問われます。家庭の主導権は、子ではなく親にあり
ます。国では、国民から総理大臣が託されています。神の国では、神の子たち
ではなく神様に主導権があります。エリは、神様の言葉よりも子供の言いなり
でした。その息子たちホフニとピネハスは、神様よりも親よりも自分の考えを
優先し、神様を冒涜していたのです。時に子供は、親の主導権を試します。親
に愛されているとわかる子供は、叱られるとそれを悟ります。
三、なぜ主導権は神様が持っているのか
 それは、創造者と被造物の違いからです。しかし愛の神は、被造物を最善へ
と導いています。その神様に信頼する時、主導権を親に任せます。家庭で主導
権を小さな子供に渡したらどうなるでしょう。知恵に不足し、管理できずに大
切なものを失い、家庭を保つことはできません。神の国でも同じです。私たち
が創造主に聞き従う姿勢をもつ時に主の祝福が注がれ、救いへの道が開かれる
のです。
 
2014年2月23日
【ハンナの祈り】Ⅰサムエル一章
「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。」
第一サムエル1章10節

 エルカナには、二人の妻がいました。一人はペニンナで数人の子供がいまし
た。もう一人はハンナで子供がいませんでした。ペニンナは、神様がハンナの
胎を閉じておられることで、長年ハンナをいらだたせ悲しませました。ハンナ
のいらだちと悲しみはつのるばかりでした。その中での祈りが聞かれました。
ハンナはどのように祈り、主はどのような祈りに答えて下さるのでしょうか。
 先ず大切なことは、祈りは必ず聞かれるという人格的な信頼関係に立って祈
ることです。
 第二は、熱心な切迫した祈りを主は聞かれます。ハンナは激しく泣いて祈り
ました。
 第三は、すぐに答えられるとは限らないということです。16節の「つのる憂
い」は、長年苦しめられ長年祈ってきたことを示しています。それでも解決し
ませんでした。それでも祈りをやめることはできませんでした。祈りや信仰は
試されます。祈り続けることは大切ですが、一方で理性的な行動でなければい
けない時もあります。祈りに固執しすぎてもいけないこともあります。
 第四は、どんな答えでも従う覚悟をすることです。18節はその決意をも表し
ています。答えは自分で決めるのではありません。決めるのは神様です。そし
て別の最善の答えを用意していることもあります。
 第五は、祈りはその問題を自分から手放した時に聞かれることが多いことで
す。18節の言葉もそうですが、2章9節にも自分の手に負えないことを認めたこ
とがわかります。
 最後に、共に祈り支える人がいることです。一人の祈りも聞かれますが、時
として、人に話した時に聞かれる時があります。祭司エリの存在は決して小さ
くはありません。
 私たちはどのように祈っているでしょうか。ハンナの祈りは、イエスの母マ
リヤの賛歌に影響を与えています。私たちの祈りも自分だけでなく多くの人を
生かすものとなるでしょう。
 
2014年2月16日
【ヨハネの説教】マルコ一章1節~11節
「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに
聖霊のバプテスマをお授けになります。」マルコ1章8節

 今日は、バプテスマのヨハネの二つのメッセージが何であったかを見たいと
思います。バプテスマのヨハネは、クリスマスの時に開かれるザカリヤとエリ
サベツの子供です。彼は大きくなり、荒野で暮らし、ラクダの毛衣を着て、野
蜜やいなごを食べていました。そして預言者となり、ヨルダン川に来て、神様
からのメッセージを語り、悔い改めのバプテスマを授けていました。
 第一のメッセージ
 それは五節にあるように「悔い改めなさい。天国は近づいたから。」という
ことでした。神の国が手の届くところまで来ているから、悪い思いや行いを離
れて、創造主に立ち帰りなさい、神様の前にへりくだって、正直に生き、人を
騙したり脅したりしてはいけませんと話しました。すると多くの人が来て、自
分の罪を告白し、悔い改めて、水でバプテスマを受けました。私たちが悔い改
めて神様に立ち帰ると、天では大きな喜びがあります。
 第二のメッセージ
 ヨハネが伝えたのは、悔い改めだけではありません。私の後から来る方は、
私よりもずっと偉大で、聖霊によってバプテスマを授けますとお話ししまし
た。ヨハネの使命は、その方のために備えることです。つまりみんなに、その
方によって聖霊のバプテスマを受けなさいと勧めているのです。そのための水
のバプテスマなのです。そしてある時、ヨハネは、イエス様が洗礼を受けた
時、イエス様に聖霊が降ったのを見て、この方こそ聖霊のバプテスマを授ける
方だと紹介したのです。
 では、聖霊のバプテスマとは何でしょうか。使徒の働き一章5節8節を見ると
わかります。それは、教会の力であり、イエス・キリストを証する力です。私
たちが、聖霊によって、十字架と復活の証人となることです。悔い改めもすば
らしいのですが、ヨハネは初めから、私たちがキリストの証人となることを目
指していたのです。それこそがイエス様のお心なのです。
 
2014年2月9日
【買い戻し=贖(あがな)い】ルツ三、四章
「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦
しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」
エペソ1章7節

 ルツ記の後半です。ルツ記は、嫁姑の麗しい関係の中で進んで行きますが、
今日開かれているところは、当時の風習を知らないとちょっと難しい所です。
ストーリーは、直接読んでいただくとして、ボアズとルツは結婚し、子供オベ
デが与えられます。そしてオベデの孫がダビデ王となるわけです。
 このルツ記、特に後半のキーワードは、「買い戻しの権利」です。旧約のレ
ビ記には、もし兄弟や親戚が身を持たせることができなくて、自分や家族を奴
隷として売るようなことになるなら、近い親戚が彼らを買い戻して、自由にし
てあげなければならないと書いてあります。それが買い戻しの権利です。贖い
とは、代金を代わりに払って買い戻すことです。
 またもし夫婦に子供が無くて、夫が死んだなら、夫の兄弟がその未亡人と結
婚して子供を産み、亡くなった兄弟の名前を継がせ、名前を絶やしてはならな
いとあります。
 ナオミとルツは、生きるために畑を売ろうとしていましたが、それを買い取
り、ルツをも共に買い取り子供が与えられるようにとボアズに願ったのです。
 ボアズは、それらのことを欲に流されるのではなく、けれども整然と、もっ
と近い親戚から、買い戻しの権利を受け取ったのです。
 そして、ルツ記に記された、買い戻し=贖いこそ、神の愛によってキリスト
が私たちのために成し遂げてくださったことです。人は、神から離れ、罪の奴
隷となってしまいましたが、罪の代価である命をキリストが代わりに十字架で
払って下さったのです。そのことを信じる時、私たちは、永遠の命を回復され
るのです。ですから、イエスを救い主と信じる時に救われるのです。贖いの恵
みを受け取りましょう。
 
2014年2月2日
【二つの祝福】ルツ一、二章
「主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下
に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」
ルツ2章12節

 ルツ記は、ナオミとその嫁ルツのうるわしい逸話です。今日はその前半の
一、二章が開かれています。
 ナオミは、ベツレヘムの地域に飢饉があった時、夫エリメレクと共に隣国モ
アブにやってきました。それは困窮してというより、危機における転身でし
た。それはうまくいったようで、二人の男の子が生まれ、成長し、それぞれ結
婚したのです。すべてうまくいったように見えましたが、ナオミは、夫と二人
の子を相次いで亡くし、残されたのは、モアブ人の嫁オルパとルツでした。ナ
オミは、ルツと共にベツレヘムに戻りました。それは折しも大麦刈りの季節で
した。ルツは落ち穂拾いに出かけますが、拾い始めたのは、はからずも、近親
者の一人ボアズの畑でした。彼は若者たちに、ルツに親切にするようにと命じ
たのでした。たくさんの大麦を持って帰ってきたことにナオミは大変驚いたの
です。
 私たちは、毎日の出来事に一喜一憂します。しかし創造主なる神様は、神様
が愛を注いでいることに気づき、先を見ることを願っておられます。ここに二
つの祝福があると言えるでしょう。
 一つは、二章12節翼の下で守って下さる主の祝福です。ルツは、はからず
も、ボアズの畑に入りました。神様は、善には善を報いられます。そして助け
を求めて来た者を、雛を守る親鳥のように、命をかけて守って下さるのです。
未亡人、外国人、貧しさといじめられやすい者を愛の翼の下で覆い守って下さ
るのです。
 もう一つは、二章20節「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みをいしま
れない主」の祝福です。ナオミは、自分たちにも、また死んだ夫や子供たちに
も主の御恵みが注がれていることを信じ、ボアズを祝福しました。主の祝福は
死んだ者にも及んでいます。祝福を妨げるもの、たとえば恨みや罪は悔い改め
て取り除き、祝福に与りましょう。
 「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられ
た聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ五章
5節
 
2014年1月26日
【憐れみ深い大祭司】ヘブル二章14節~18節
「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助け
ることがおできになるのです。」ヘブル2章18節

 ヘブル人への手紙は、祭儀とキリストの関係について書かれています。ちょ
っと難しく思うところもあるかも知れませんが、その分わかると奥深いところ
です。この箇所も大祭司としてのキリストについて書かれています。
一.神と人との間に入る大祭司
 大祭司は、祭司の中の祭司です。祭司は、神と人との間に入って、とりな
し、両者をつなぐのが仕事です。人間の大祭司は、罪を持つ人であり、自分の
ためにもとりなしが必要な存在です。神様の側に立つことができないので、本
当の意味で間に立つことはできないのです。そこで神様は、御子キリストを肉
体に宿らせ人としてお遣わしになりました。まったき神であるお方がまったき
人となられました。だからキリストは両者の間に立つ本当の大祭司となること
ができるのです。しかし、苦しみも死とも関係のなかったお方が、肉体のもつ
苦しみと死をも受けることは、並大抵のことではありません。
一、神に対する大祭司
 イエス様は神に対しては、「忠実な」大祭司です。それは、三章の初めにも
あるように、神の家全体を守ることに忠実だということです。そしてキリスト
を信じる私たちは神の家なのです。もう一つは、ご自分の命を私たちの命の代
わりに、なだめの供え物として、神の前に献げられたことです。このことによ
って、私たちはきよい神様の前に赦され出られるのです。
一、人に対する大祭司
 またイエス様は人に対しては、「憐れみ深い」大祭司です。ご自身が痛みと
苦しみ、死を通られたからこそ、憐れみ深く、試練の中にいる人々を助けるこ
とがおできになるのです。
 私たちにこのようなキリストが与えられていることは何と幸いなことでしょ
うか。
 
2014年1月19日
【見つけた喜び】ルカ十五章8節~10節
「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるな
ら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」ルカ15章10節

 今日の聖書箇所は、見つけた喜びのたとえです。一五章にある三つのうちの
一つです。女性が十枚の銀貨のうち一枚をなくします。必死に捜してようやく
見つけます。そして友人たちと喜ぶたとえです。
 まず、なぜ捜したのかということです。なくしたのだから当然といえば当然
です。銀貨一枚は、金貨一枚と同じ位の価値だったようです。それは、兵士一
日の日当と同じです。女性にとっては男性以上に貴重であったのです。
 さらに、当時は結婚のしるしとして、女性は銀貨十枚を髪飾りとしてつけて
いたのです。今で言えば、結婚指輪です。他に代えられないものなので必死に
捜したのです。
 では、どのように捜したのでしょうか。床を掃いたとあります。日本の家屋
で考えるとすぐ見つかる気がします。しかし当時のこの地域では、土間にわら
を敷き詰めていたようです。その間に入ればなかなか見つかりません。わら一
本一本の間を、もしかしたら何日も捜したのかも知れません。捜す大変さは、
皆さんも良く知っていると思います。
 そして遂に、見つけることができました。その喜びは言い知れません。友人
たちや近所の女たちにも喜んでもらうほどです。
 イエス様は、一人の人が悔い改めるなら、天でも同じように大きな喜びがあ
ると言われました。主は、この失われた銀貨を捜すように、神様の前に失われ
ている私たちを捜し出し、救いだし、天の御国へと招いておられます。主の救
いに応答する時、あふれるばかりの喜びがわき上がるのです。私たちは共に、
主の招きに応じ悔い改めて、天の父に立ち帰りましょう。
 
2014年1月12日
【特別な創造】創世記二章4節~8節
「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹
き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」創世記2章7節
 聖書は、天地宇宙は、神様によって創造されたと言っています。その中でも
人間は、特別な創造物であると言っています。それはどのようなことかみ言葉
を開いていきましょう。
 まず、他の創造と比べて何がということを見てみましょう。それは二つあり
ます。一つめは1章27節「人をご自身のかたちに」創造されたことです。形と
は外見のことではなく、英語の聖書ではイメージという言葉が使われていま
す。ではそのイメージとは何か。様々な意見がありますが、自由意志があると
言われます。何かを自分で自由に決める力、また意志をもって進む力は、他の
被造物にはない特別なものです。二つめは、神様の「いのちの息を吹き込まれ
た」ことです。これは人間が霊的な存在であることを表しています。だから私
たちは神様の特別な存在としてそのままで神の愛を受けています。神様との清
い交わり(意志の疎通)を持つことができます。また永遠を思う思いも与えら
れています。
 この創造は、他の宗教や人の考えでは、及びもしないものです。
ではなぜ神様は、人を特別な存在として作られたのでしょうか。それには理由
があります。一つめは、生き物を支配し治めるためです(一章28節)。二つめ
は、神の作品として、良い行いをするためです(エペソ二章10節)。人は堕落
して神様のすばらしさを受けることができなくなってしまいましたが、キリス
トの身代わりの十字架によって、罪を除かれ、それを信じる人は、そのすばら
しさを表すことができるようになったのです。もう一つは、やがて来たる神の
国をキリストと共に相続するためです(ローマ八章17節)。創造主の前に自分
を飾る必要はありません。私たちは特別に愛された存在であることを覚えて主
を賛美しましょう。
 
2014年1月5日
【成就の喜び】ルカ2章22節~39節
シメオンは、幼子を腕に抱き、神をほめたたえた。ルカ2章28節

 救い主の誕生の時の出来事として、ルカは、きよめの儀式のために宮に登っ
た時のことを記しています。ここには、シメオンとアンナの喜びがあふれてい
ます。
 男の子の場合、誕生して四〇日目に、宮できよめの儀式を行い、捧げ物をし
ます。家畜に比べて小さなはとを献げるのは、その家計の状況を示していま
す。しかし、シメオンとアンナが御子にお会いした中に三つの喜びがありま
す。
 その第一は、救いの約束が成就した喜びです。シメオンは、聖霊によって、
生きている間に救い主にお会いするという示しを受けていましたが、ついにそ
れが成就しました。シメオンも高齢であり、アンナも、人間的に見れば不運
で、苦労の多い生涯でした。しかしみ言葉の通りに、イスラエル、そしてすべ
ての人々に対する救い主が来られたことは大きな喜びでした。私たちの幸せ感
は、状況よりも誰と共にいるかが重要です。神の赦しと栄光の現れである救い
主が共にいて下さることは最高の喜びです。また神様も私たちの存在そのもの
を喜んでいてくださるのです。
 第二の喜びは、信仰による望みです。救い主が来られたことは、罪と死への
勝利の第一歩にすぎません。しかしやがて、それが成就する確証です。彼ら
は、未来の成就を確証して喜びにあふれたのです。
 第三の喜びは、証しする喜びです。シメオンもアンナも喜びのあまり、この
幼子のことを周りの人々に話しました。聖霊により喜びは倍加し、広がったの
です。
 私たちもこの新しい年、このような喜びが注がれていることを覚えて感謝し
ましょう。それと同時に、このような喜びは、信仰生活の中に継続されていき
ます。つまり礼拝(賛美)聖書のみ言葉、祈り(断食)、聖霊の満たし、証し
を通して、与えられるのです。これらのことに励みましょう。
 
2013年12月29日
【祈りの感謝】出エジプト17章8節~16節
モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしている
ときは、アマレクが優勢になった。出エジプト17章11節

 二〇一三年に与えられたみ言葉をこの一年間振り返りつつ味わいたいです。
祈りによって私たちは、祝福をうけます。神様の臨在にふれたり、み言葉を与
えられたり、聖霊に満たされたりすることができます。また私たちが共に祈る
ことによって問題に勝利することができます。ここで覚えるべきことがありま
す。それは祈る時に、私たちに力があるのではなく、ただただ神様の恵みによ
るということです。
 今年の前半は、隣地の駐車場購入の話しがありました。それも祈りの中にみ
言葉によって方針がわかりました。また受洗者が与えられ感謝でした。また後
半は、動き回ることよりも、祈りの中で、悔い改めと信仰とに導かれました。
教会感謝祭やクリスマスの諸集会も大きな恵みをいただきました。本当に感謝
して主を賛美しましょう。また祈る中で気づかされることは、祈りを妨げるも
のも存在し、強く働いていることです。
 第一に、そしてすべての中心にあるのは、傲慢です。祈らなくてもよいこと
は何もありません。へりくだり祈りましょう。第二に罪や欲またこの世への心
遣いが祈りを妨げます。悔い改めと聖別が必要です(ヤコブ四章3節)。第三
は不信仰と不実行。信じて一歩踏み出さなければ恵みの世界は開かれません。
第四は失望。自分の思い通りの答えを期待するのをやめ、主権を持つ主が愛を
もって最善をしておられることに信頼しましょう。第五は、悪い実や心の傷
(ガラテヤ六章7節~8節)、悔い改め、また癒していただきましょう。第六
は、分裂、不一致(ガラテヤ五章20節)肉の働きは御霊の働きを妨げます。悔
い改めてへりくだりましょう。
 今祈りによって天の窓は開かれています。へりくだって祈りましょ
う。
 
2013年12月22日
【喜びの知らせ】ルカ2章8節~20節
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。ルカ2章11節

 クリスマスは、今、全世界でお祝いされています。それは、すべての人に対
する救いの道が開かれたからです。しかし最初のクリスマスは、とても小さな
お祝いでした。けれども大きな喜びにあふれた出来事でした。この知らせを最
初に受け取ったのは、羊飼いたちでした。なぜ最初にこの羊飼いたちに、知ら
されたのでしょうか。
 もともとユダヤ人は、遊牧民であったアブラハムの子孫です。しかしこの当
時は、社会的にとても蔑まれていました。祭司や律法学者たちは、自分たちを
「天の民」と言い、彼らを「地の民」と呼んでいました。それは律法や祭儀を
守れないので、彼らは神から見捨てられている、救われないという意味です。
しかし御使いは、羊飼いのところに来ました。主の救いは、すべての人のため
なのです。神様は、高ぶるものを退け、へりくだる者を高く引き上げるお方で
す。
 また羊飼いは、犠牲の痛みを知っていました。多くの羊が、橎祭として献げ
られました。一匹一匹名を呼んで育てた羊が犠牲となるのは、痛みでした。し
かし人の罪の代償としてそれは必要だったのです。けれども不十分な家畜では
なく、人の罪の身代わりの本当の犠牲として、イエスキリストはこの世に来て
下さったのです。その痛みのわかる羊飼いに、キリストの誕生は知らされたの
です。
 私たちは、この世界を造られた神様の前にへりくだり、自分の罪を認めると
同時に、このキリストが私たちの罪を負って下さったことを信じましょう。そ
の時クリスマスは、二千年前の出来事としてではなく、今の自分への大きな喜
びの知らせとなるのです。
 
2013年12月15日
【救い主の場所】ルカ2章1節~7節
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の
子どもとされる特権をお与えになった。ヨハネ1章12節

 イエスキリストの誕生については、いくつかの逸話が聖書に記されていま
す。今日の箇所でも、神様が、預言の通りに、ベツレヘムにマリヤとヨセフを
導かれたことがわかります。ベツレヘムと言えば、ダビデ王の出身地です。王
としての御子を象徴しています。それにも関わらず、ここには、生まれた救い
主を、「飼葉おけの中に寝かせた」こと、それは「宿屋には彼らのいる場所が
なかったからである」と記されています。これは、どういうことを示している
のでしょうか。
 私たちは生まれた赤ちゃんを、きれいで暖かい部屋のベッドや布団の上に寝
かせます。キリストの誕生は、家畜小屋であったと言われます。それは、キリ
ストが、弱さ貧しさの中に来て下さったことを示しています。私たちは普通、
弱いこと貧しいこと心身の苦しみを悪いことと考えます。それらを避けようと
考えます。どこから苦しみが来るか聖書を見ると、人が罪を犯し、世界に罪が
入った時からであることがわかります。だからと言って個人の苦しみは、その
人の罪が原因とは言っていません。またそれらは、悔い改め信仰を持ったら無
縁になるわけでもありません。
 しかし不思議にも人は自分の弱さ貧しさを自覚する時に、神の前にへりくだ
ることを知り、また神からたくさんの恵みを与えられていることを知ることが
できます。キリストはわたしたちの弱さ貧しさの中に来られ、それを共に負っ
て下さるお方です。いや、それどころか罪と死とをアの十字架で私たちの代わ
りに負って下さいました。私たちは、苦しみの中でも、神の愛と恵みが注がれ
あふれていることに気づき、喜びと感謝にあふれることできるのです。だから
私たちは救い主をほめたたえるのです。その誕生を祝うのです。私たちの心に
救い主をお迎えしましょう。
 
2013年12月8日
【受胎告知】ルカ1章26節~38節
マリヤは言った。
「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの
身になりますように。」ルカ1章38節

 み使いガブリエルがマリヤに、イエスの受胎を告げるところです。マリヤ
は、突然のみ告げにとても戸惑ったことだと思います。しかしお言葉をしっか
りと信仰をもって受け止めたのではないでしょうか。短い中に多くの内容を含
んでいます。
一、ガブリエルの言葉
 御使いガブリエルは、マリヤと何回も対話し、マリヤの疑問に答えながら、
一つ一つわかるように話していきました。その言葉をまとめると、①神様の祝
福があること②身ごもって男の子を産むのでイエスと名付けること③その子は
神の子であり優れたものであること④このことは聖霊によって起こること⑤事
をなす神様に不可能はないことです。
二、マリヤの姿勢
 マリヤはこれらのみ告げを聞きながら、初めは恐れや戸惑いが多かったこと
でしょう。そのことは34節でまだ男の人を知りませんのにという言葉にも表れ
ています。またこのことを受けたときに起こるであろう周囲やユダヤ社会の
目、制裁なども考えることができたのではないでしょうか。マリヤはどうした
のでしょうか。それでもマリヤは、この御言葉、受け取ったのです。そこに
は、主にへりくだった心、しもべはしためとして仕える心、そして何より全能
の神様に信頼し委ねていく決心がありました。
 私たちが主のみ心に生きるということは、必ずしもすべてが楽しいこととは
限りません。しかしその苦しみを超えて、神様の祝福があることに信頼すると
ころに、神様のみわざは起こって来るのです。むしろ自分の思いのままに生き
ようとすることが神様のみわざを妨げてしまいます。今日のお言葉は、キリス
トの十字架直前の祈りの言葉でもあります。私たちも「主のお言葉の通りに」
と祈りましょう。
 
2013年12月1日
【みどりごの預言】イザヤ九章1節~7節
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たち
に与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。イザヤ9章6節

 今日からアドベントです。キリストの到来を待ち望む時です。救い主が来ら
れることは、今読んだイザヤ書にも預言されていました。このみどりごとは、
イエス様のことです。
 イザヤはどんな状況で救い主の預言をしたのでしょう。それは、キリストが
誕生する七百年も前でした。今から二千七百年程前です。イスラエルの国は、
神様から選ばれたはずでしたが、造り主である神様を恐れないで、自分勝手な
ことをしていました。神様から離れてきよさがなくなると、人を騙すことが平
気になります。愛がなくなると人と分け合えなくなります。自分の事ばかり考
えているのに孤独になります。義がなくなると、悪いことを平気でします。ま
た弱い者をいじめたりするようになります。神様は、このままでは滅びるぞと
警告をしていました。けれども人間は、自分たちだけでは、立ち直れません。
 それで神様は、救い主を送られると約束されたのです。それは、みどりご、
つまり赤ちゃんとして来られるのです。そして救い主の名前はその性質を表し
ています。まず不思議な助言者。びっくりする解決の道を教えるお方です。次
に、力ある神。なんでもできるお方です。第三に、永遠の父。この永遠は、一
瞬一瞬のがつながったものです。いつでも愛で包むお方です。最後に、平和の
君。平和を作り出すお方です。神様と人が和解するために、人の罪を代わりに
負ってくださいました。神と和解すると、人とも和解し平和になることができ
ます。
 どんなに文明が進み、生活が豊かになっても人の心は、変わりません。神様
の聖と愛と義が必要です。
 救い主イエス様が、みどりごとして来られたことによって、私たちは、神様
に立ち帰る道が開けたのです。だから救い主を信じ、神様に立ち帰りましょ
う。
 
2013年11月24日
【ザアカイの救い】ルカ19章1節~10節
「イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もア
ブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たの
です。」ルカ19章9節10節

 木に登ったザアカイについては、聞いたことのある人も多いと思います。
一、ザアカイはなぜ木に登ったのでしょう。大人はあまり木に登らないのでは
ないでしょうか。まして、取税人のかしらで町の名士ならなおさらです。しか
しザアカイは木に登りました。なぜでしょうか。一つは、イエス様を見たいと
強く思ったからです。嫌われ者の取税人レビ(=マタイ)も弟子としていたの
で関心を持ったのかも知れません。また彼は、背が小さかったから木に登りま
した。短所とはいいませんが、それは彼のコンプレックスでもあったと思われ
ます。どんな長所をもっていても、埋めることができなかったのかも知れませ
ん。そして彼は愛を受けたかったから登ったに違いありません。だから彼はプ
ライドを捨てて、登ったのです。
二、主イエスはなぜザアカイに声をかけたのか
 それは決して偶然ではありません。イエス様は、ザアカイを失われていた者
として捜していたからです。創世記3章の創造主と同じです。そしてイエス様
は、ザアカイを変わらない愛で愛していたからです。人々は、ザアカイを罪人
と非難しましたが、彼の仕事も優れた能力も、富みも、人を押しのけても上に
上がる醜さ、背の低さ、そのままに受け入れていました。それどころか彼の罪
を、主イエスは十字架で代わりに負おうとしていたのです。
三、ザアカイはどのように変えられたのか。
 彼は、愛を知りました。本当の評価、自分の価値を知りました。そしてアブ
ラハムの子、神の民として、神様との関係を回復しました。またお金は、捨て
たというよりも、聖別されました。自分の欲のためではなく、神の栄光のため
に、貧しい人々を助けるためへと目的が変えられました。
 神様は同じ愛で、私たちを捜し、受け入れてくださっています。神様に応答
することによって私たちも変えられます。
 
2013年11月17日
【父の愛】ルカ15章11節~32節
「『この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった
のだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」ルカ15章24節

 今日の聖書箇所は、放蕩息子として有名なイエス様の譬え話です。無理矢理
父から相続財産を分けてもらった弟息子は、すぐに家を出て、遠い国に行きま
す。しかしそこで遊びほうけて全財産を使い果たしてしまいます。折しも飢饉
が襲い、その息子は、豚の世話をして、飢えをしのいでいました。その時に、
我に返って、父の所に、息子ではなく雇い人として迎えてもらいたいと思い、
家路につきます。父は、遠くから息子を見つけ、走って抱きよせ、きれいな服
を着せ、指輪をはめ、喜んで祝宴を開きます。
 この父と創造主のことで、息子は私たちのことです。
一、父はなぜ迎え入れたのか
 弟息子は、遊んで、父からの財産すべてを失いました。勘当されても当然の
息子でした。でも父は迎え入れます。なぜでしょうか。天の父は、私たちが成
功したり、良い人間だから受け入れ、愛しているのではありません。私たち一
人一人を良いものとして造ったお方だから、私たちを愛しているのです。人は
多くの失敗をしますが、それでも造ったからこそ愛しているのです。
二、父に帰るのに必要なものは
 何もありません。成功や義や財産、家族も必要ありません。多くの失敗があ
っても構いません。しかし、「我に返る」「本心に立ち帰る」ことが必要で
す。どんなに愛されていても、それに気づかなくては受け取ることができませ
ん。天の父はあなたを愛しておられます。
三、父はどのように迎え入れたのか
 赦すと言われても冷遇されることもあります。しかし父は、雇い人としてで
はなく最愛の子、後継ぎとして迎えたのです。立派な服もそうですが、指輪
は、当時の実印でもあります。私たちもそのように迎えられるのです。
 ひとりの人が、本来の姿に気づき、神様に立ち帰ることは、本人にも天にも
本当に大きな喜びです。
 
2013年11月10日
【マリヤの選択】ルカ10章38節~42節
「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤ
はその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
ルカ10章42節

 マリヤは、姉マルタと男兄弟のラザロと三人で暮らしていました。どうも両
親はいなかったようです。まだ若かったようですが、暮らし向きは悪くなかっ
たようです。
 姉のマルタがイエス様を迎え入れ、接待に忙しくしていました。マリヤは何
をしていたのでしょうか。姉とは反対にイエス様の足もとに座って、みことば
に聞き入っていた。イエス様の話すみ言葉をじっくりと聞いていたのです。後
でイエス様はこのことを、どうしても必要なたった一つのことだと言われまし
た。
 イエス様はマリヤにどんなことを話していたのでしょう。なぜかここには書
いてありません。想像しましょう。天の父が養ってくださるよとか。前に章を
見ると、この頃から大切な人には、捕らえられ苦しめられ、殺されるというこ
とも話していました。(それが後の香油注ぎにつながったのかも知れませ
ん。)どちらにしてもとても大切な話しだったに違いありません。
 マルタは、いらいらしてマリヤを注意して欲しいとイエス様に言いました。
でもイエス様は、みことばに聞き入ることは、どうしても必要なたった一つの
こと、取り上げてはならないことだと言われました。なぜでしょう。それはみ
言葉には、人の心を探り見分ける力があるからです(ヘブ四12)。②また主の
み言葉は命だからです。③そしてイエス様を通してしか父のみもとに行くこと
はできないからです(ヨハ一四6)。④主のみ言葉は永遠に残るからです。今
していることが永遠に残るものか気をつけなければいけません。
 私たちが、み言葉に生かされるとき、その生活の一つ一つは、仕事も勉強も
家事も病気や苦しみもすべてが永遠に残るものへと変えられていくのです。
 最後に、私たちは、それを選ぶ必要があります。
 
2013年11月3日
【みこころをなさせたまえ】マタイ6章10節
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。マタイ6章10節

 伝道礼拝では、主の祈りを取り上げています。主の祈りは、イエス様がこう
祈りなさいと教えられた祈りです。そして祈るときに平安が与えられます。
 みこころとは、神様の思い、意志ということをあらわします。他の箇所を見
ると、父のみ心は、御国をくださることや私たちが神の子となり、きよくなる
ことであることがわかります(ルカ十二32、エペソ一5、Ⅰテサ四3)。ある人
は、それは人間を祝福しようとする神様のご計画であると言っています。その
反対は、人間が自分の思い通りに世界を支配したり動かそうとしたりすること
や、自分やその仲間だけの幸福を求めることです。
 天は、神様のみこころが行われているところです。そこは時間や空間にはし
ばられてはいません。それは神様のきよさと愛の両方が行われているところで
す。一方、地は、この世界のことですが、神様のご支配の中にありながら、人
間が自分本位に振る舞っているのが現状ではないでしょうか。そこに神様のみ
こころが行われるように祈るのです。
 私たちがみ心を求めるとき、私を通して、私の中に、みこころが行われるよ
うに祈ることは大切なことです。自分を脇に置いてみ心を求めることは矛盾し
ています。
 またこの祈りは、十字架を前にした、主イエス様ご自身の祈りでもありま
す。十字架の苦しみと死を前にして、「わが父よ。できますならば、この杯を
わたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あ
なたのみこころのように、なさってください。」(マタイ六39)と祈られまし
た。私たちも、自分自身を主に委ねて、同じように祈るとき、主の平安に満た
されるのです。
 
2013年10月27日
【牢からの励まし】コロサイ四章7節~18節
「私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知
り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません。コロサイ4章8節

 コロサイの手紙もいよいよ終わりです。パウロは最後の多くの挨拶を述べて
います。パウロは、この時もローマの獄中で手足を鎖につながれていたので
す。しかし、人々に感謝し、宣教の情熱があふれ、なおコロサイの教会を励ま
そうとしています。この原動力はどこから来るのでしょうか。
 それは、教会のかしらであるキリストから来ています。二章で見たように、
キリストの中に、神の栄光が、また世界に満ちあふれる神様のすばらしさが教
会に注がれているのです。獄中で不自由でも、かしらなるキリストとその栄光
は変わらないのです。
 また、パウロは、キリストと共に自分が死んでいること、またキリストの栄
光によって今生かされていることを信じていました。31日は宗教改革記念日で
す。ルターは「罪人にして義人」「義人にして罪人」と言いました。赦された
喜びの中にいます。しかしそれは恵みによるのであって、罪人のままであるこ
とをいつも覚えていたのです。聖歌隊が、私たちは土の器と歌います。私たち
は欠けだらけで、無価値なのですが、その中に神の栄光があふれているので
す。自分には失うものはないので恐れる必要はありません。主の十字架のゆる
し、復活の希望がパウロを変えたのです。だからパウロは、それを人々にも知
ってほしいと宣教の情熱にあふれていたのです。牢獄の中にいてもこの喜びと
希望と心の自由は変わりませんでした。
 私たちも現実には、思い通りにいかない多くのことがらに囲まれています。
しかし無価値な私たちにあふれる神の栄光は変わりません。だからその中にあ
っても喜び、人を励まし、福音を伝えることもできるのです。主をほめたたえ
ましょう。
 
2013年10月20日
【燃える炉から】ダニエル三章
「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができま
す。」ダニエル3章17節

 ある時バビロンのネブカデネザル王は、広い平野に高さが三〇メートルもあ
る金の像を作りました。そしてそれが完成した時、お祝いの式をしました。バ
ビロン中の総督や大臣や代官などの役人をたくさん集めました。
 そして王様は命令を出しました。「ラッパやたて琴や笛やなどたくさんの楽
器がすばらしい音楽を演奏したとき、すべての人は、ひれ伏して金の像を拝み
なさい。もし拝まない者がいれば、火の燃える炉の中に投げ込まれる。」火の
燃える炉に投げ込まれたらどうなるでしょうか。火に焼かれて死んでしまいま
す。とても厳しい命令でした。
 そしてたくさんの楽器がすばらし音楽を奏でました。みんなひれ伏して金の
像を礼拝しました。
 ところがカルデヤ人たちがきてこう言いました。「王様、ユダヤ人のシャデ
ラク、メシャク、アベデ・ネゴは、金の像を拝みませんでした。」
 王様は、びっくりして三人を呼びました。「おまえたちが金の像を拝まなか
ったというのは本当か。火の燃える炉で焼かれたいのか。だが今からでも遅く
ない。もし今金の像をひれ伏して拝むなら、特別にゆるしてやろう。」
 三人は答えました。「王様、私たちは天地を造られた神様に仕えています。
だからこの金の像を拝むことができません。どうぞご承知ください。また私た
ちの仕える神様は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。助け
出されなくても、金の像を拝むことはできません。」王様は顔を真っ赤にして
言いました。「なにぃ、わしの作った金の像を拝めないと言うのか。赦せん。
炉をいつもの七倍熱くして、三人を投げ込んでしまえ。」
 炉はいつもより七倍熱くされました。三人はその中に投げ込まれました。連
れて行った兵隊は熱くて死んでしまいました。
 ところが王様は驚きました。「投げ入れたのは三人ではなかったか。それな
のに火の害を受けないで、四人が炉の中を歩いている。その四人目は、まるで
神の子のようだ。」「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ、炉から出て来な
さい。」
 三人を調べると、髪の毛も体も服も全然燃えていません。また火のにおいも
しませんでした。
 王様は新しい命令を出しました。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの
信じる神を賛美せよ。侮どってはいけない。他の神々に仕えない彼らを、火の
燃える炉から救い出したのだ。このような神は他にはいない。」
 
2013年10月13日
【機会を生かす】コロサイ四章2節~6節
「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。」
コロサイ4章5節

 教会のかしらであるキリストにつながるということは、生活の中でどのよう
にあらわれるのでしょうか。前回は、妻と夫、子と父、僕と主人との関係でみ
ていきました。この部分もその続きです。
一.信仰生活の中で
 対人関係の言葉に挟まれるようにして書かれ、勧められていることは、祈り
です。目を覚まして、感謝をもってたゆみなく祈り、キリストと交わることで
す。宣教の働きのために祈ることは大切です。また自分も証できるように準備
しておきましょう。
一.外部の人に
 また外部の人に対して、賢明にふるまい、機会を十分に生かすように勧めて
います。自分を良く見せようということではありません。素直な気持ちであり
ながら、相手のことを考えての行動は大切です。特に相手の自由、来る来な
い、信じる信じない等を尊重する必要があります。また祈っていくときに神様
は、不思議と人に対する機会を与えてくださいます。
一.言葉について
 ことばも人を励ましもし、傷つけもするものです。いつも親切な心で、適切
な言葉を話すことができるように祈り備えていきましょう。
 
2013年10月6日
【御国がきますように】マタイ6章10節
「御国が来ますように。」マタイ6章10節

 今伝道礼拝では、主の祈りを少しずつ開いています。
一、御国とは
 御国というと死んだ後に行くところとか、この地上に神の国を作るというこ
とも考えられます。しかし根本的な御国の意味は、場所というより、神の恵み
が支配する領域ということを指します。ルカ十一章20節。
二、御国の危機
 この世界は、神様が造られ、治めていますが、一部を悪魔が制御していま
す。ここに二つの危機があります。
 一つは、御国に入ろうとしない危機です。盛大な晩餐会の譬え(ルカ一四)
のように、神様は、すべての人を無条件で御国に招待しておられます。しかし
入ろうとしない人には強制することができないのです。
 もう一つは、神の国やその住民にも、悪魔の力が及ぶことがあるという危機
です。信者であっても、十戒を破ったり罪を犯すことがあります。人には悪魔
に勝つ力はありません。しかし「みことばは、あなたがたを育成し、すべての
聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」
(使徒二〇章32節)とあるように聖書の言葉によって、この危機を乗り越え、御
国を継ぐことができます。
三、御国の発展
 この神の国は、からし種の譬え(マタイ一三章31節)のように成長し発展し
ます。だれも救いを信じた時と今と同じ考え同じ生活の人はいません。成長し
ています。ジョン・ウェスレーは成長したいなら、恵みの手段として、聖書を
読むこと、二番目は祈ること、幼稚でも何でも祈ること、三番目は洗礼を受け
ること、そして聖餐式にあずかること、さらに集会に出席することですと言っ
ています。
 主の前に、へりくだって、心を合わせて、「御国が来ますように」と祈りま
しょう。
 
2013年9月29日
【人に対して】コロサイ三章18節~四章1節
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさ
い。」コロサイ3章23節

 今日の聖書箇所では、具体的な人間関係に言及されています。神様との正し
い関係は、人の間をも正しい関係へと導きます。ここには妻と夫、子と父、奴
隷と主人に対しての勧告が記されています。ある人は一番難しいところが指摘
されていると言っています。
 まずは妻たちと夫たちですが、妻には従うように、夫には愛するように言っ
ています。そこが難しいからです。お互いの違いを認め合うのは大切なことで
す。
 次に子たちと父たちについてです。子には、両親に従うことが、神に喜ばれ
ることだと言っています。父(両親)には、子供を怒らせてはいけませんと言
われています。私たちは弱い子どもたちに、時に怒りすぎることがあります。
 まだ子供が卑しく扱われている時代、ある校長先生は、校門で毎朝一人一人
名前を呼んで挨拶をしていました。彼らが将来、世界を変えていくと思うと尊
敬せずにはおれなかったのです。そしてその中に、マルチン・ルターがいたの
です。
 そして奴隷と主人への勧告ですが、奴隷への勧告は他のどれよりもかなり長
くなっています。様々な奴隷がいましたが、やはり仕えるのは大変なことで
す。未信者で横暴な主人もいたはずです。でも、キリストに仕えるように、真
心から仕えるようにと命じています。そのように仕えることは、主人に仕える
ことを超えて、キリストに仕えることなるのです。
 そして主人には、天の父のように正義と公平をもって、ひいきをせずに取り
扱うように勧めています。この手紙を読んだ人の中には、ピレモンもいたはず
です。彼には、正義と公平以上の赦す愛も求められていました。
 私たちは、主との関係に立って、人に仕えて歩みましょう。
 
2013年9月22日
【新しい人を着る】コロサイ三章1節~17節
「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着
たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真
の知識に至るのです。」コロサイ3章9節10節

 今日の聖書箇所は、キリストによって救われた後、どのように歩むべきかを
示しています。
一.私たちのありよう
 ここには二つの時制があります。「キリストとともによみがえらされた」
(1節)「あなたがたはすでに死んでおり」(2節)「古い人をその行ないとい
っしょに脱ぎ捨てて」「新しい人を着たのです」とあるのはみな過去のある時
点の出来事を指しています。つまり悔い改めて救われた出来事です。その一方
で「捨ててしまいなさい」(8節)とか「身につけなさい」(12節)というの
は現在における命令です。
 キリストを信じ救われたのですが、それに基づいた信仰の歩みがあります。
 ある人は、それをノルマンディー上陸作戦とドイツ軍への勝利にたとえまし
た。その作戦成功で勝利は確実ですが、相手の降伏まで戦いは続いているので
す。
二.古い人を脱ぎ捨てたので
 イエスを信じた私たちは古い人と決別しています。だから5節にあるような
情欲やむさぼり、8節にあるような怒りや悪い言葉、9節にあるような偽りを脱
ぎ捨てなさいと命じられています。
三.新しい人をきたのだから
 そして、キリストにあって新しい人を着たのだから、キリストに似る者へ
(10節)、聖なる愛された者へ(12節)、互いに忍び合い赦し合い愛し合い
(13節他)、賛美と感謝をする(16節他)ように命じられているのです。
 脱いだり着たりするというのは服にたとえられています。中の個性は変わ
らないのですが、キリストに似た者へと性質が変えられていくのです。
 
2013年9月15日
【かしらなるキリスト】コロサイ二章8節~23節
「また、御子はそのからだである教会のかしらです。」コロサイ一章18節

 今日の聖書箇所は二章の後半部分ですが、中心聖句は、一章18節になりま
す。キリストは教会のかしらであることを鍵として聖書を開いていきましょ
う。
 まずこの一章18節は、キリストと教会の関係を示しています。からだにたと
えて、キリストが頭です。これはすべての上に立ち、判断し、また全体を動か
す部分です。そして教会は、そのからだです。キリストの思った通りに動きま
す。私たちは、キリストを受け入れてキリストに結びつき、洗礼によってキリ
ストの死と命とに連なっています。
 このキリストは、教会のかしらであるだけではありません。二章10節には
「キリストはすべての支配と権威のかしらです。」と書かれています。教会ば
かりではなく、この世界を支配し権威をもって治めておられるのです。この世
界が勝手に動いているように見えても、悪魔に支配されているように見えて
も、最終的な権威はキリストにあるのです。キリストは全宇宙の統治者です。
全宇宙にはキリストの栄光があふれています。
 キリストのからだである教会は、キリストに結びつくと同時に、お互いが養
われ、結び合わされて成長していきます。「このかしらがもとになり、からだ
全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられ
るのです。」(二章19節)とある通りです。
 そしてキリストのからだである教会には、キリストがもっている全宇宙的な
栄光が満ち満ちているのです。なんとすばらしいことでしょうか。
 私たちは、かしらであるキリストに連なり、お互いに結び合わされて成長し
ましょう。また教会には全宇宙的なキリストのご支配と権威があふれているこ
とを覚えて感謝しましょう。
 
2013年9月8日
【受け入れたのだから】コロサイ二章1節~7節
「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼
にあって歩みなさい。」コロサイ2章6節

 キリストを救い主と信じること、またその公の告白である洗礼を受けること
は、信仰生活の始まりです。ゴールではありません。それは結婚が二人のゴー
ルではなくスタートであるのと同じです。信じたならば、キリストにあって歩
くようにと命じられています。それは、ごく自然で当然の生き方です。
では、どのように歩むのでしょうか。次の7節他からみてみましょう。
 「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅
くし、あふれるばかり感謝しなさい。」7節
 「キリストの中に根ざし、また建てられ」とはどういうことでしょうか。生
い茂っている木でも突然倒れることがあります。根が枯れている時です。私た
ちがキリストの中に根ざすことは、心の中の問題や罪が一つ一つ、キリストの
十字架の前へもって行き解決されることです。それによって根が深くはり、行
動もゆるがなくなります。
 「教えられたとおり信仰を堅くし」とはどういうことでしょうか。間違った
教えに惑わされないことです。ここにも律法主義、迷信、神秘主義、禁欲主義
などの誤った教えが記されています。それらの特徴は、十字架によるあがない
に立っていないことです。
 「あふれるばかり感謝しなさい」とはどういうことでしょうか。ゆるされた
喜び、命の恵みを始め様々な恵みに気づき、主に感謝することです。不平や不
満を言っていると、私たちの心はそれらに支配されそこから離れなくなりま
す。すると神様の恵みを見逃してしまいます。
 そしてもう一つは、お互いが「愛によって結び合わされ」(2節)ることで
す。天の父は、人をそのように造っておられます。つまり一人で神の前に出る
だけでなく、信頼できる人と共に、キリストのもとに来る時、不思議に罪や問
題を解決し、キリストにの中に根ざし、信仰を堅くし、感謝にあふれるように
して下さるのです。
 
2013年9月1日
【私たちの天の父】マタイ六章9節
「天にいます私たちの父よ。」マタイ6章9節

 9節から主の祈りです。主の祈りは、イエス様がどのように祈るべきか教え
て下さった祈りです。どのように祈ったらよいのかわからない時に祈ると心が
落ち着きます。簡潔でまた十分な内容です。多くの人が覚えていますが、それ
だけに心の伴わない祈りになりやすい面もあります。この祈りの言葉は、どん
な意味なのでしょうか。今日は、その最初の部分を開きましょう。
 その前に主の祈り全体を見ると構造がわかります。最初に呼びかけがあり、
最後は頌栄(たたえの言葉)で終わっています。その真ん中は、大きく二つに
分かれ、神様に関わる部分と私たちに関わる部分があります。今日はその呼び
かけの部分です。
 呼びかけは、三つの言葉でなされています。一つは、「天にいます」です。
それは、霊的な、異次元的な場所を示しています。天の父はお一人ですが、こ
の宇宙のどこにでも同時におられるお方です。そしてまたこの天は、私たちか
らは届くことのできないような、聖なるお方、いと高きお方であるという畏敬
の念も表しています。天のお方は、創造主として、今もこの宇宙を治めておら
れます。
 次に「父よ」です。神様は恐れ敬うお方ですが、イエス様はお父さんと言わ
れました。私たちは、子として、非常に親しい関係で呼ぶことができます。し
かし神様から離れてしまった人間は、子としての資格を失いましたが、御子キ
リストのあがないによって、養子として迎えられたのです。父は、全知全能な
お方で、私たちを守られます。そして私たちの呼びかけを喜ばれるお方です。
もっと親しく、呼びかけましょう。
 三つめは「私たちの」という言葉です。この短い祈りの中に原語で八回も使
われています。天の父は、私一人だけの父ではなく、父への祈りはみんなでの
祈りです。祈りは自己中心的なものであってはなりません。
 私たちは、恐れと親しみを持って共に、天の父に祈りましょう。
 
2013年8月25日
【天の故郷】ヘブル一一章1節~16節
「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれ
ていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんで
した。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」ヘブル11章16節

 今日は、特に先に天に召された方々を覚えつつ礼拝をお捧げします。この一
年も天に加えられた方がいらっしゃいました。
 世の中には、死んだ後のことについて、いろいろな考え方があります。霊の
世界や輪廻を説く教えもあります。また死んだら何も残らないと考える人もい
ます。
 聖書は、神様が創造された世界には始まりと終わりがあると言っています。
また人の人生は一度きりで、死んだ後に神様の公正な裁きの前に立たなければ
いけないと教えています。人間はだれも神様の裁きの前に耐えうる者はいませ
んが、罪のない御子キリストの身代わりによって、永遠の命が与えられます。
 ですから私たちは、信仰によって、まだ見ていない天への希望をしっかり持
つべきです。ここに記された聖徒たちは、天が本当の帰るべき故郷だと考えて
いました。そしてこの地上での生活は、天の故郷に帰る準備の時です。
 ですから私たちの生き方は、地上の生活を目標にして、家庭や仕事や趣味、
老後の備えに全力を注ぐべきではありません。礼拝と愛と奉仕によって、天へ
備えるべきです。この地上で、信仰の中に豊かに富み長寿を全うする人もいま
すし、また苦難に会ったり、病気に苦しんだり、迫害で命を落とす人もいま
す。主に信頼する人は、どの歩みでも天の故郷へと主と共に歩んでいるので
す。
 天においては、創造主の栄光を仰ぎ、礼拝し、また互いに仕え合います。そ
こではお互いが完全に理解し合い、受け入れ合うことができます。そこには罪
の結果である死や苦しみ、悲しみ、涙はありません。やがて私たちもそこに加
えられ先に召された方々と再会するのです。
 共に天の故郷に向かいましょう。
 
2013年8月18日
【とりなし】創世記一八章16節~33節
「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願
い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」
第一テモテ2章1節

 ある時神様は、二人の御使いと一緒に旅人の姿で、アブラハムを訪問しまし
た。アブラハムは食事でもてなしました。そしてソドムとゴモラの町へ出発し
ようとしました。
 その時、神様はおっしゃいました。「私はこれからしようとする大切なこと
をアブラハムに話さないでいいだろうか。彼は、世界に正義と公平を行うもと
となるのだから。」そしてアブラハムに「ソドムとゴモラでの叫びが天に届い
た。私たちはそれを確かめに行くのだ。そしてその町を滅ぼそうとしているの
だ。」
 アブラハムは、びっくりしました。そこには、甥のロトとその家族が住んで
いたからです。一緒に滅ぼされては大変です。
 「主よ。私は何か申し上げる立場にはありませんが、お聞き下さい。もしそ
の町に五〇人正しい人がいたら、その町も五〇人の正しい人たちも一緒に滅ぼ
してしまうのですか。正しく公平なお方はそんなことはなさらないでしょ
う。」
 主は答えられました。「もしその町に五〇人正しい人がいたら、その人たち
のために、私はその町を滅ぼさない。」
 アブラハムはもしかしてと思いました。
 「もし五人欠けて、四五人なら」「私はその町を滅ばさない」。「もし四〇
人なら」「滅ぼさない」「もし三〇人なら」「滅ぼさない」「もし二〇人な
ら」「滅ぼさない」「主よ、何回もすみません。もう一度だけお聞き下さい。も
し一〇人なら」「私はその十人のために、その町を滅ぼさない。」
 アブラハムの心が痛む中、三人は出発しました。そしてソドムとゴモラの町
は、天からの火によってすべて焼き尽くされました。しかしアブラハムのとり
なしによって、ロトと二人の娘は助かったのです。
 天の神様は、今も私たちに、天の神様の思いを知って、とりなすように願っ
ておられます。
 
2013年8月11日
【内に働くキリスト】コロサイ一章24節~29節
「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労
苦しながら奮闘しています。」コロサイ1章29節

 パウロがコロサイ教会へ書いた手紙を開いています。そこでは間違った教え
を意識しながら書いています。
一.パウロの伝えているもの
 パウロは、イエスキリストの福音を伝えています。神様の救いのご計画は、
キリストの誕生のずっと昔から預言されていました。しかしそれはだれもが理
解できるものではありませんでした。奥義というのは重要な秘密で、隠されて
います。救いのご計画も奥義でしたが、キリストの十字架と復活によって今は
すべての人に明らかにされています。だれでも知ることができるのです。一方
間違った教えでは、救いは特別に選ばれた人だけにしか、開かれていないとす
ることが多いのです。
一.パウロの宣教の目的
 パウロは、キリストによる救い、つまり罪の赦しと復活の命を異邦人にも伝
えることが使命として与えられていました。しかしただ救いに導くのではな
く、キリストにある成人とするために伝えていると言っています(28節)。私
たちは、自分の判断や選択が、主のみ心に一致するように成長するために救わ
れているのです。
一.パウロのエネルギー源
 パウロは、様々な反対や迫害、投獄の中で、どうして福音を伝え続けること
ができたのでしょうか。それはパウロの「うちに力強く働くキリスト」による
と言っています。十字架による赦しの力がパウロに迫り圧倒するのです。それ
が源です。しかしそれに合わせて、パウロは労苦しながら奮闘しています。自
らも力を尽くして働いています。
 私たちのうちにもキリストは力強く働いています。私たちも力を尽くして、
主に仕え、現された福音を伝えましょう。
 
2013年8月4日
【くどくど祈るな】マタイ六章7節~8節
「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけませ
ん。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」
マタイ6章7節

 祈りについて、前回は神様が、隠れた祈りを聞いて下さるということでし
た。今回は、簡潔に言うとくどくど祈るなということです。そして、その後主
の祈りへと続いています。くどくど祈らないとはどういうことでしょうか。誤
解のないように気をつけましょう。
一.多くの言葉は必要ないか
 私はまだ若い頃、この箇所を読み、そして何回も同じことを祈る必要はない
と教えられていると思い、あまり同じことを祈るべきではないと感じました。
しかしイエス様は、他の箇所では、忍耐深く祈ることを教えておられます(ル
カ十八章1節~等)。また心に迫ることは何度でも自然に祈ります。だから一
度祈ったらいいということではありません。お題目のように心伴わないで、同
じ言葉を繰り返すことを戒めています。また祈りは無理強いして神様を動かす
手段ではありません。祈りは人格的なコミュニケーションです。神様は私の祈
りを聞いて答えて下さると信頼することが祈りの土台にあるのです。
一.なぜ祈る必要があるのか
 神様は、祈る前から必要をご存知です。そうならなぜ祈る必要があるのでし
ょうか。太陽や雨の恵みは、祈る前から与えられています。しかし私たちは祈
り求めないと恵みであることがわかりません。また御子であるイエス様は時間
を割いて祈りました。それは、祈りによって神様の愛やみ思いをいつも確かめ
るためでした。また神様は私たちに祈ることを求めておられます。それは、人
は、祈り求めてようやく、自分の思いや求めがはっきりするからです。そうす
るとこれは祈って答えられたということもはっきりとわかるのです。
 ですから私たちは、素直な心で神様に信頼して、祈りましょう。
 
2013年7月28日
【神から生まれた御子】コロサイ一章
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれ
た方です。」コロサイ1章15節

 コロサイ人への手紙は、ピリピ人への手紙と同じ頃、パウロが獄中で書いた
と言われています。コロサイ教会はすばらしい教会でしたが、それでも間違っ
た教えが入ってきました。教会が、間違いによって混乱しないようにと書かれ
た手紙です。しかし現代でも同じような混乱があるのも事実です。
 ここで疑問は、御子イエス様は、何者かということです。ややこしい議論に
も見えますが、結婚相手を知ることが大切なように、自分を救ってくれたお方
を知ることは大切です。
 端的に言えば、御子は、神なのかそうでないのか。創造者か被造物かという
ことです。この15節では、すべてのものより先に生まれたと書かれています。
それは被造物ではないことを意味しています。聖書は、創造者だけが礼拝され
るべきであると言っています。そして繰り返し、御子である神の小羊が礼拝さ
れることを記しています。また御子イエス様は、弟子のトマスが、「私の主。
私の神。」と言われたことを否定していません(ヨハネ二〇章28節)。御使い
が人に現れた時、その人が恐れて御使いを礼拝しようとすると、御使いは、そ
れをとどまらせ、ただ神のみを礼拝するように言っています。御子は、創造主
と一つのお方で、すべての創造に関わったのです。
 けれども御子は、神と人が和解するために、完全な人となられたのです。そ
して十字架の死によってあがないを成し遂げ、神と人が和解することができる
ようになったのです。御子は神として人として完全なお方なのです。そして和
解した人々は、共に万物を相続するのです。だから太陽や星を礼拝しないよう
に言われています(申命記四章15節)。
 現代も間違った教えが宣伝されています。しかし、コロサイ教会の伝道は、
あらゆるところに知れ渡りました。間違った教えには、無条件の受容(愛)や
真の救いの喜びと平安はありません。私たちは、この御子を神、救い主として
礼拝し、十字架による救いを伝えましょう。
 
2013年7月21日
【恐れを越えて】ネヘミヤ四章
「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息
子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」ネヘミヤ4章14節

 ネヘミヤは、エルサレムの城壁を再建した指導者でした。でもそれは生やさ
しいことではありませんでした。彼は、ペルシャ王に仕えていましたが、エル
サレムから帰って来た同胞のユダヤ人に話しを聞くと、神殿は再建されたけれ
ども、町は城壁もなく、荒れたままであることを聞きました。それを聞いて非
常に心を痛め、断食して、民のために祈りました。それから、祈りのうちに、
王の支援を受けて総督としてエルサレムへ来ることができました。
 しかしいくら王の支援があっても城壁の再建は大変なことでした。ネヘミヤ
は、民を励ましました。しかし周りには、見せかけの支援者やあからさまの反
対者もいました。ユダヤ人の福祉に反対しました。工事を手伝うと申し入れた
人たちもいました。しかしそれはユダヤ人がするようにと王も命じていまし
た。自分たちの意見が受け入れられないと反対者脅迫者になりました。彼らは
本当に親切に考えていたのではなく、単に自分たちの利益を求めていたので
す。私たちは、何かをしようとする時、特に神様の御心を行おうとする時に、
自分たちの中にも周囲からも恐れがあります。それをしっかり認めて取り組む
必要があります。
 工事は、みんなで協力し途中までは、順調に進みました。それからは、反対
者の撹乱によって、工事の中断と命の危険を感じていました。
 恐れを克服するためにまずすべきことは、信仰を確認することです。この城
壁の工事は、主への祈りの答えとして進められたことが一章などからわかりま
す。自分ではなく神様に根拠があるのです。次にどのように危険を回避するか
手立てを講じます。これもおろそかにしてはいけません。彼らは、見張りを立
て、武装しながら、工事を進めました。ラッパの音でお互いに助け合うことを
確認しました。それによって工事はついに完成へと至ったのです。
 私たちも恐れを正しく認識し、主にあって乗り越えることができるのです。
 
2013年7月14日
【霊の家に築き上げられる】Ⅰペテロ二章1節~10節
「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖な
る祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささ
げなさい。」第一ペテロ2章5節

 今日は献堂記念礼拝です。主にあって、会堂が建てあげられたことを感謝し
つつ、礼拝をおささげしましょう。
 聖書の中には、教会の概念が、さまざまなところに出てきます。この箇所も
その一つです。主は、どのように教会が建てあげられることを望んでおられる
のでしょうか。
一.主の深い慈しみの中で
 霊の家としての教会の成長は、主のみ心です。そのために主は深い慈しみか
ら始まっています。私たちはすでにそれを味わっていると書かれています
(3節)。死や悲しみ、傷つく心。十字架の苦しみを通られた主は、その痛み
をご存知で、慈しみ憐れんでくださるのです。
二,生ける石として、霊の家に
 私たちが生ける石と言われていますが、それは主イエス様がそうだからで
す。主は、人々からは蔑まれましたが、天の神様によって、家を建てる際に重
要な隅の頭石とされました。教会もこの主を土台とします。霊の石として一人
一人が積み上げれて教会はできるのです。その際も「築き上げられ」と受け身
になっています。それは自分の力ではなく、神様からの恵みによって、築きあ
げられることを意味しているのです。
三.聖なる祭司として
 霊の家において私たちは、皆が、聖なる祭司として建てられています。祭司
は、自分自身を主のものとして聖別します。同時に、人々を神様の前にとりな
します。私たちは、主のみわざを宣べ伝えるために聖別されているのです。私
たちも主と共に、とりなしの働きをさせていただきましょう。
 
2013年7月7日
【隠れた祈り】マタイ六章5節~8節
「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸を
しめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所
で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」マタイ6章6節

 ここしばらく、伝道礼拝では、お祈りについて、聖書を開いていきます。お
祈りは、わかったようでわからないような、だれでもできるけれども、もっと
祈れるようになりたいと思うようなわからないところもあります。
 お祈りは、神様との対話です。私たちは、神様の語りかけを聞き、私たちも
神様に語りかけるのです。
 この箇所で主イエスは、隠れたところで祈りなさいと言われました。それ
は、隠れた祈りを聞いて下さるかたがいるからと言われました。もちろんそれ
は、人前で祈るなという意味ではありません。グループの祈りや礼拝での祈り
もあります。この当時朝九時や夕方の祈りの時間がありました。その時パリサ
イ派の人たちは、わざわざ人が多く集まる辻や会堂に行きました。祈りを人に
見せるためでした。
 しかしイエス様が言われたのは、父なる神様は隠れた祈りを聞いていて下さ
るということです。奥の隠れたところで祈るということは、だれにも話せない
ような大切なことを、神様に話すためです。私たちも自分の内に秘める大切な
ことは、だれにでも話せるわけではありません。本当に信頼できる人、それは
極少数でしょう。
 そして天の神様は、その隠れたことを聞いていて下さるのです。そして私た
ちも、神様が隠れたところで話される言葉を聞くのです。それが祈りです。
 祈りは、すぐに答えが見えるものもなかなか見えないものもあります。しか
し隠れた祈りには、必ず神様が報いてくださるとの約束があります。私たち
は、へりくだり信頼して、主の報いを大いに期待して祈りましょう。
 
2013年6月30日
【人々の行方】Ⅱテモ四章9節~22節
「ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てくださ
い。彼は私の務めのために役に立つからです。」第二テモテ4章11節

 今日はテモテの手紙の最後の部分です。殉教を覚悟しつつ、大切なことをテ
モテに伝えようとしています。この手紙は、多くの人に読まれることを前提に
書かれていますが、最後の部分では、多くの名前が出て来て、神様から見た、
栄誉・不名誉がどこにあるかを問いかけています。
一.賞賛される人々
 たくさんの人が賞賛されて名前があげられています。その中でもルカは特別
です。彼は、途中からパウロの伝道旅行同行しています。身体に弱さのあった
パウロにとって、医者がそばにいることはどんなに助けられたことでしょう
か。囚人は二人の奴隷を同行することが許されていたようです。ルカは、パウ
ロに同行するために、奴隷として登録したのだろうと考えられます。主のため
に、自由を捨てて、パウロを助けたのでした。
二.信仰から離れた人々
 銅細工人アレキサンデルが苦しめた人として、警戒するように言われていま
す。またこの世を愛して、離れたデマスも記されています。残念なことです。
パウロは、彼のためにも祈り続けたことでしょう。
三.立ち帰った人
 彼は、マルコを連れてくるように言っています。死を覚悟していて会いたい
というのは、よっぽどの人です。しかし、使徒の働きを見ると、マルコは、最
初の伝道旅行の途中で抜けてしまいました。そのことが次の伝道旅行の際に、
激しい議論の元となり、ついにパウロとバルナバは別々に行動することになり
ました。この時のマルコは、パウロには役に立つどころではなかったことでし
ょう。しかし今、彼は「役に立つ」と書かれています。彼は、成長し変えられ
たのです。私たちもキリストにあって、人生を何度でもやり直すことができま
す。成長し変えられます。
 
2013年6月23日
【エルサレム会議】使徒十五章1節~21節
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分
自身から出たことではなく、神からの賜物です。」エペソ2章8節

 パウロ達の宣教によって多くの異邦人(ユダヤ人以外の人)も救われまし
た。ところがユダヤから来た人々が、救われた人は割礼を受けて、モーセの律
法を守るべきだと主張し、大きな論争になりました。そこでパウロとバルナバ
は、エルサレムの教会でこのことを話し合うために出かけて行きました。
 この会議には、二つの重要な論点がありました。
一つは、救いは何によってかということです。もう一つは、どのように問題を
解決するかです。
一.どのように救われるか 
 ここに二つの主張がありました。一つは、人は、キリストの十字架によって
救われるので、割礼や律法は必要ない。もう一つは、イエスを信じた人は、割
礼を受けて、律法を守るべきだというものです。これは救いは何かという、聖
書と信仰の根本的で大切な問題です。割礼や律法も神様から与えられた命令で
聖書に書いてあります。ユダヤ人特にパリサイ派の人は厳格に守ってきまし
た。そして激しい論争になりました。論争の後、ペテロは、この律法は私たち
は負いきれなかったものであることを話しました。パウロ達は、割礼を受けて
いなかった異邦人も信じたときに聖霊が降ったことを話しました。そしてヤコ
ブが、聖書のみ言葉も、律法ではなく信仰によって救われることを示している
こと、ただ不品行等を避けるようにと話しました。一同は、それに納得したの
でした。それは行いによるのではなく信仰による救いという、キリストによる
新しい時代の到来を意味しています。
一.問題の解決法
 私たちの問題の解決で大切なのは、主のみ心がどこにあるのかを知ることで
す。だから多数決や強い意見で決まるのではありません。この会議でも、実生
活、聖霊の導き、聖書のみ言葉に照らし合わせて主の導きが確かめられまし
た。
 私たちに問題が起こるときも、主の導きを確かめて進みましょう。
 
2013年6月16日 メッセージ:岩井師(文責:尾﨑豪)
【心を注ぎだして】Ⅰサムエル一章1節~18節
「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。」「私はつのる憂いといら
だちのため、今まで祈っていたのです。」第一サムエル1章15節・16節抜粋

 エルカナは妻のハンナを愛していましたが、ハンナには子供がありませんで
した。そして、当時は普通のことでしたが、エルカナにはもう一人の妻ペニン
ナがいました。ペニンナにはたくさんの子供がいました。ペニンナは、ハンナ
を憎んでハンナに神様を恨ませようとしました。それはハンナにとって大きな
心の痛みでした。
 年に一度、神様を礼拝し犠牲を献げるためにシロへ上りました。しかしそこ
も苦しみの場所でした。ペニンナと子どもたちには、その数の食事が用意され
たのですが、ハンナには特別であっても一人分だけだったのです。私たちはし
ばしば神様を礼拝する場所で、苦しみ、傷が深くなります。それは心の深いと
ころを話すからです。しかしそこでこそ人は神様に取り扱われるのです。ハン
ナは心を注ぎだして主に祈りました。
 ハンナはペニンナを憎んだのでしょうか。違います。ペニンナがハンナを憎
んだのです。なぜペニンナはハンナを憎んだのでしょうか。それはエルカナが
ハンナを愛していたからです。
 ハンナの痛みは、本来最も良き理解者であるはずの夫エルカナにも聖職者エ
リにも、理解できませんでした。慰めもありません。エリは家庭に大きな問題
を抱えていました。しかし神様はそのような人でも用いられます。ハンナはエ
リの言葉を通して大きな慰めが与えられました。
 11節では子供が与えられたら主にお献げしますと言っています。本来の礼拝
は、自分を主に献げることです。でも私たちは大切でないもの献げやすいので
す。ハンナは、心を注ぎだして祈りました。自分のどんなことも、心の闇も汚
れも祈ったのです。そして悲しげでなくなりました。でも状況は変わっていま
せん。祈りは、神様に抱きしめられることです。祈りは、状況よりも祈る私た
ちを変えていくのです。
 このハンナの祈りは、イエスの母マリヤの祈りへと受け継がれ、イエス様の
誕生、そして私たちの救いへとつながっていきます。
 
2013年6月9日
【みことばを宣べつたえなさい】Ⅱテモテ四章1節~8節
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛
容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」
第二テモテ4章2節

 パウロが最後に、しかも殉教の少し前に書いたこの手紙は、パウロの遺言状
と言われますが、そのクライマックスが今日開かれている聖書箇所です。パウ
ロは万感の思いを込めて、「私が世を去るべき時が来ました。私は勇敢に戦
い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠
が私のために用意されているだけです。」と語っているのです。パウロは生涯
を振り返りながら、我が子同然のテモテに、み言葉を宣べ伝えなさいと命じて
いるのです。それでは、なぜみ言葉を伝えるのでしょうか。
 その理由の一つは、それがイエス様の遺言であるからです。復活されて天に
お帰りになる間に、み言葉(福音)を伝えるように弟子たちに命じられたので
す。それが今も続いているのです。もう一つの理由は、それがすべての人にと
って最も大切なものだからです。この世で良い環境や教育、やりがいのある仕
事、幸せな家庭を手に入れたとしてもやがて必ず創造主である神様の前に立た
なければいけないからです。その時必要なのは、キリストによる罪のあがない
を信じる信仰だけだからです。
 では私たちがみ言葉を伝えるとは何を伝えることなのでしょうか。み言葉と
は、聖書の救いの言葉です。つまりキリストによる救い、十字架と復活です。
そしてもう一つ大事なことは、その救いが私にも起こったという証です。私た
ちはキリストの証人なのです。
 そして伝えるためには準備も大切です。大切なみ言葉は暗唱しておきます。
自分の救いの証も例えば三分にまとめておきます。導きを祈ります。そこに聖
霊が働かれます。名前をあげて祈り続けることです。忍耐も必要です。そし
て、伝えた結果は、主に委ねます。人を変えるのは、み言葉を受け入れるその
人自身とその人を変えてくださる神様に属することだからです。
 伝道には大きな喜びがあります。
 
2013年6月2日
【聖書の有益性】Ⅱテモ三章14節~17節
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのた
めに有益です。」第二テモテ3章16節

 今日の聖句は、14節~17節まで全体が、聖書について大切なことを凝縮した
内容です。神様からのラブレターと言われる聖書ですが、それはどんなものな
のでしょうか。それは有益以上のものです。
一.神の霊感によって
 聖書は神の霊感によって書かれたものです。神の霊によるということは、原
著者に対して原典において、一つ一つの言葉に誤りがないということです。し
かし写本や翻訳においては、この限りではありません。また何か恍惚状態にな
って、書いた本人が理解できないことを書いたのではありません。福音書でも
それぞれ著者の個性が出ていますが、各自の性質や性格、感性、賜物が用いら
れて書かれたのが聖書です。聖書を書くのには多くの人がたずさわっています
が、一つのことを示し完結しています。
一.救いに導く
 この聖書は、単なる書物ではなく、人を救いに導く力があります。それはイ
エス・キリストについて書かれています。聖書を哲学や倫理の本として研究す
ることもできますが、それは単なる知識にすぎません。しかし信仰をもって、
心を開いて読んでいくときに、聖霊によって照明が与えられて、キリストと救
いと命について、明らかにされるのです。聖書には人を救いに導く力がありま
す。
一.正典として
 正典のもとの意味は、定規をあてて線を引くことです。そうすると曲がらず
にまっすぐに線を引けます。同じように聖書は、人を教え、戒め、矯正し、訓
練します。そして人を十分に整えます。救いは、永遠の命の誕生の一歩です。
植物は芽を出して終わりではありません。そこで終わったらがっかりです。成
長し、花が咲き、実をつけて、刈り入れて、完全な喜びを味わうのです。聖書
は、私たちをそこまで導くものとして、神様から与えられています。ですから
私たちは、もっと聖書を心開いて読みましょう。
 
2013年5月26日
【主の敬虔に生きる】Ⅱテモ三章1節~14節
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を
受けます。」第二テモテ三章12節

 今日の聖書箇所の中でこの12節と5節「見える ところは敬虔であっても、
その実を否定するものになるからです。こういう人々を避けなさい。」の二箇
所に「敬虔」という言葉が使われています。普段あまり使わない言葉であるか
も知れません。神をおそれ敬うとかうやうやしいといった意味があります。高
貴な人に使われたりもします。口語訳聖書では「信心」とか「信心深い」と訳
されています。敬虔に生きるとはどういうことなのでしょうか。
 逆に敬虔でない生き方とはどうなのでしょうか。それは2節以降に記されて
いますが、その中心は最初に書かれている、「自分を愛する」ということで
す。自分を愛することは、大切なことですが、ここでは他者への愛が欠けた自
己中心の意味が大きいです。それは愛の源である神様から離れた人間にとって
は、自然な生き方であるかもしれません。しかし人間を造られた神様から見る
とそれは本来の姿ではないのです。その生き方においては、その実(英訳では
パワー)を否定するのです。
 敬虔に生きるとは、これらと反対の生き方です。それはキリスト・イエスに
あっての生き方です。(新共同訳では「キリストイエスに結ばれて」)。あが
ないをなされたキリストからの愛と赦しを受けるのが源です。またその実を否
定しない生き方です。つまり自己中心に屈しないで、神様のご計画に信頼し、
愛と忍耐をもって行動することです。さらには迫害や苦難を覚悟することも含
まれます。それらを超えてこの世界に救いのわざが進むことを信じるのです。
 私たちは、少しでも思い通りにいかないと、神様を疑いやすいです。しかし
創造主全能のおかたは、自分や人よりもはるかに信頼できるお方です。
 
2013年5月19日
【キリストの証人となる】使徒の働き2章
「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみなそのことの証人で
す。」使徒の働き2章32節

 今日はペンテコステです。ペンテコステは、初めて弟子たちに聖霊が降った
日です。日本では、他に比べるととても地味ですが、キリスト教のクリスマ
ス、イースターと並んで三大祭りの一つです。
一.その時何が
 何が起こったのでしょうか。その日の朝、恐らくみんなで祈っていたのでし
ょう。その時激しい風の響きが起こり家全体に響きました。後の記事を見ると
近隣の人々も驚いて見に来るほどでした。そして家の中では、一人一人の上に
炎の舌のようなものがとどまりました。一同は聖霊に満たされて、外国語を話
しました。その内容は、イエスキリストが旧約聖書で預言された救い主であ
り、このイエス様が十字架につけられ復活したこと、そして悔い改めて救い主
を信じるようにとの勧めでした。そしてそれを聞いた人々は、聖霊によって心
を刺され、悔い改めてバプテスマ(洗礼)を受けたのです。その数は三千人ほ
どでした。
一.聖霊のバプテスマとは
 ヨハネのバプテスマは水で悔い改めのバプテスマを授けていましたが、やが
て聖霊のバプテスマが来ると話していました。イエス様も予告していました。
それは単に悔い改めで終わるのではなく、イエスキリストの十字架と復活の証
人となるということです。しかも聖霊は、この目で見る以上に、真理を悟らせ
て、十字架と復活の証人として下さいます。
一.今の聖霊の働きは
 今も聖霊は私たちに働いて私たちをキリストの証人としています。使徒の働
きのこの後を見ると繰り返し聖霊が降っています。教会はこの聖霊によって始
められましたが、私たちもへりくだって祈り、繰り返し聖霊に満たされる必要
があります。聖霊の力以上に、その名の通り、聖霊のきよさ「聖」を求め、キ
リストの証人とならせていただきましょう。
 
2013年5月12日
【恵みによって強く】Ⅱテモテ2章
「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさ
い。」第二テモテ2章1節

 パウロは、テモテに恵みによって強くなるように勧めました。私たちが神と
共に歩むと言うとき、神様からの恵みを受けるという面と自ら意志をもって信
じ行動する面との二面があります。そして聖書を見ると必ず神様の恵みから出
発して、恵みを受けて、意志や行動が起こってきます。これを恩寵先行信仰後
続と言います。逆ではありません。
一.恵みによってとは
 神様は、人を造り愛しておられます。だから天からの恵みを注いでいます。
それは一章で見たように心の中からきよめて、本来の祝福の姿に戻ることで
す。私たちが造り主から離れ愛を失っているので、キリストが来られ私たちの
罪を負われました。その十字架で古い私たちも死んだと認めるとき、主の復活
の力によって主と共に生かされます(11節)。それは人の力を超えた一方的な
ものだから恵みなのです。
 ではその恵みをどのように受け取ることができるのでしょうか。キリストは
どこまでも真実で偽らないお方です。だから私たちも自分の真実、ありのまま
の姿をキリストに照らし合わせて認めることです。その時主の恵みが注がれま
す。
二.強くなるとは
 恵みは神様からの一方的なものですが、それで私たちは何もしなくても良い
のではありません。ここでも強くなりなさいと命じられています。また21節で
は、「自分をきよめて」と言われています。神様がきよめて下さったので、私
たちは自分をきよめ、きよく保つのです。さらに無駄話を避けなさい、情欲を
避けなさい、患難を耐え忍び熟練した働き人に等等。恵みが注がれているの
で、信じて自ら行動するのです。救いのみわざは、神様からの恵みに私たちが
信じて応答し行動することによって成就するのです。恵みによって強くなりま
しょう。
 
2013年5月5日
【イエス様につながる】ヨハネ15章1節~11章
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わた
しもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わ
たしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
ヨハネ15章5節

 イエス様は、十字架を目前にして、このぶどうの木の譬えをお話しになりま
した。ぶどうは、イスラエルの人々にとって身近なものでわかりやすいもので
した。天の父は農夫、木つまり幹はイエス様、そして枝は、私たちをさしてい
ます。この箇所は、イエス様に私たちがとどまり、つながっている関係に焦点
があてられています。
一.なぜつながっていなければならないのか
 聖書は、その理由を、それが本来の姿だからだと言っています。神様は、神
様の愛の内にとどまる存在として人間を造られたのです。だからその中にいる
ときに安定するのです。つながっていないと歪みがでてくるのです。では、な
ぜ離れ得るように造られたのでしょうか。それは、人が意志のない人形やロボ
ットのようにではなく、自分の意志で神様につながるようにと願っているから
です。愛することは、本人の意志なくしてはできないからです。そして人は、
神様を離れては、愛も永遠の命も賜物も失われてしまうのです。
一.イエス様につながるためには
 では、どうやったら主につながっていることができるのでしょうか。それ
は、自分でその意志を持つことです。対話は自然発生はしません。また一人の
意志ではできません。お互いの意志が必要です。そしてイエス様は、いつでも
すべての人に心を開いておられるのです。そのために、人としてこの世に来ら
れたのです。心を主に向けましょう。
一.つながっているとどうなるのか
 豊かに実を結ぶことができます。それは永遠に残る実です。神様は、良い実
を結ぶために手入れをなさいます。また私たちの願いを何でもかなえてくださ
ると約束しています。それは、み心にかなった願いです。
 イエス様の愛のうちにとどまりましょう。
 
2013年4月28日
【委ねられたものを守る】Ⅱテモテ1章
「そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によっ
て、守りなさい。」第二テモテ1章14節

 テモテへの第一の手紙に引き続き、第二の手紙を開きましょう。この第二の
手紙は、第一の手紙の五、六年後の西暦六七年頃書かれたと言われています。
その間パウロは裁判も終わり、一度牢獄から出て、自由に伝道したのですが、
ネロの迫害により再び捕らえられました。パウロはこの手紙を書いた少し後に
殉教したと言われていますが、パウロもそのことを感じ、切迫して遺言のよう
に書いた手紙だと言われています。また第一の手紙は、テモテと教会に向けら
れていますが、この手紙はテモテへの個人的な内容になっています。パウロが
テモテにこれだけは伝えておきたいと思って書いたことはどんなことだったの
でしょうか。それが委ねられたものを守るという言葉に現れている感じがしま
す。
一.委ねられた良いもの
 テモテが委ねられた良いものとは、一言で言えば福音です。福音には普遍な
ものと個々の賜物の部分とがあります。それは創造主と和解し隔たりがなくな
り自由が与えられることや、単なる教えではなく、キリストの贖いによって愛
と命が与えられることであり、永遠の価値を持ったものです。人を牢や鎖につ
なぐことができても、福音はつなぐことができないものなのです。
 そしてもう一つは、賜物として個人的に与えられたものがあります(6節)。
私たちも個々に与えられた賜物があります。
二.聖霊によって守る
 それはどうやって守ることができるのでしょうか。聖書の真理から離れない
で聖霊によって守るのです。自分の力で守りきることはできません。その受け
たものは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です(6節)。パウロもテ
モテも恐れと不安の中で神の愛と力を本当に知ることができました。今度はそ
れを主あって実践することです。そして教えることのできる人に委ねていくこ
とです(2章1節)。
 私たちも同じように、何にも支配されない、罪からの自由と喜びをもってい
ます。それを聖霊によってしっかりと守り、人々に分けまた委ねていきましょ
う。
 
2013年4月21日
【叱られたペテロ】マタイ16章21節~28節
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負
い、そしてわたしについて来なさい。」マタイ16章24節

 今日は、ファミリー礼拝です。聖書箇所もチャーチキッズに合わせて叱られ
たペテロのところです。
 イエス様は、ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです。」と言った
ことを大変喜びました。それでもう大切なことを話しても大丈夫だとわかって
話し始められました。それは、イエス様が、祭司長たちに捕まえられ、はずか
しめをうけ、十字架につけられて殺されるということです。そして三日目によ
みがえるということです。それを聞いた弟子たちは、とてもびっくりしまし
た。そしてペテロは、これではいけないと思い、イエス様を脇へ呼びました。
そして「そんなことが起こってはいけません。」といさめたのです。イエス様
は、とても怒りペテロを叱りつけました。それは神様の救いのご計画を邪魔す
るものだったからです。ペテロは「下がれ、サタン!あなたは神のことを思わ
ないで、人のことを思っている。だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分の命
を救おうと思う人はそれを失い、わたしのために命を失う人は、それを見い出
します。」と言われました。
 実は、弟子たちは、イエス様が王様になれば自分もえらくなれると考えてい
たのです。それでは本当の救いはありません。罪のない神の御子がみんなの代
わりに罪とその刑罰を負うので救われるのです。
 イエス様のために命を失うのでなければ、自分の命を失います。イエス様か
らの恵みによって、自分が負うべき責任や苦しみを負うときに永遠の命をいた
だくのです。命を失ってはいけないのです。人はどんなことでも真剣にやろう
とすると必ず反対や苦しみに会います。それなら自分を捨て、自分の十字架を
負ってイエス様に従っていきましょう。そこに救いの命があるのです。あなた
の負うべき十字架は何でしょうか。
 
2013年4月14日
【召された理由】Ⅰテモテ6章
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために
召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。
第一テモテ6章12節
 
 テモテへの第一の手紙の最後になります。パウロは、テモテに召された理由
を忘れることなく主のわざに励むようにと書き送っています。私たちも神様に
召された理由があります。
 「召される」とはどういうことでしょうか。普段あまり使わない言葉です
が、英語ではcallコールの受け身です。つまり呼ばれていることです。神様に
呼び出されたということです。私たちは、造り主から目的を持って呼ばれてい
るということです。また教会はもともと呼び出された者の集まりという意味を
もっています。
 その意味で「召される」というのは、①救われた②特別な使命のために呼ば
れた③死んで天に呼ばれたといった意味で使われます。テモテについては①②
特に②の意味で使われていますが、私たちも同じように神様から召されていま
す。その場合特別な使命とは、個々それぞれに違います。
 ここでパウロは召された理由は、永遠のいのちを獲得するためであると言っ
ています。救われたならすでに得ているはずですが、まだ信仰の戦いの最中な
のです。
 私たちの世界にあるものは、三つの性質に分類できます。一つは、永遠の祝
福にあずかるもの、二つ目は、永遠の滅び(刑罰)にいたるもの、三つ目は、
朽ちてなくなるものです。何を選ぶべきでしょうか。永遠に価値のあるものは
何でしょうか。死ぬと同時に手放さなければならないものでしょうか。富はこ
の世では必要ですが、永遠の前には価値はありません。この世の栄誉や安楽に
心を奪われていないでしょうか。私たちは、永遠に価値のある、信仰、希望、
愛に立って、人々をも永遠のいのちへ招くための主のわざ、証、とりなしなど
に情熱を注ぐために召されているのです。
 
2013年4月7日
【朝イエス様と】ヨハネ21章1節~14節
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」イエスは来
て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
ヨハネ21章12・13節

 よみがえられたイエス様はどうしておられたのでしょうか。昇天するまで度
々弟子たちに現れ、よみがえりの確かなこと、弟子たちを遣わすことについて
話されました。今日は、三度目の顕現です。弟子たちは、ガリラヤ湖に導かれ
ていました。
一.そばにいて下さるイエス様
弟 子たちは、夜舟を出し漁に出かけました。徹夜しても魚は一匹も捕れませ
んでした。しかし、岸に立つ人の言われるままに、右の方に網を降ろすと、た
くさんの魚が捕れました。弟子たちは、その人がイエス様だと気づきました。
 イエス様は、岸辺で炭火をおこし、パンと魚を焼いていました。弟子たちの
ために朝食を準備していたのです。奇跡で五千人を養うことのできるお方です
が、この時は手間ひまかけて準備をされたのではないでしょうか。私たちが共
に食事をすることは、食べること以上に愛を受け取るように感じます。漁の疲
れそしてまだ十字架の時の心傷が癒えない弟子たちに、どんなに大きな慰めに
なったでしょうか。イエス様は、今日も私たちのそばに立って下さっていま
す。
二.原点に立ち帰らせて下さるイエス様
 この出来事は、弟子たちの召命の時を思い出させました。同じような出来事
(ルカ5章)の後、「あなたがたを人間を取る漁師にしてあげよう」と言わ
れ、何もかも捨てて従ったのでした。十字架を前に逃げ出した弟子たちでした
が、主の召しは今も変わらないのです。主は、弟子たちに信頼を示されたので
す。私たちに対する主の愛と召しは、私たちのつまずきや失敗でも変わること
はないのです。これは大きな慰めです。そしてもう一度私たちを原点に立ち返
らせて下さいます。最初と違うところがあります。イエス様は舟の中ではな
く、岸に立っていたのです。しかしそばにいて下さるのです。
 
 
 
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神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。