メッセージ(文責:尾﨑豪)
 
2013年3月31日
【どこに捜すか】ヨハネ20章
そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、
信じた。ヨハネ20章8節

 今日はイースターであり、また洗礼式もあり感謝です。イエス様は十字架に
かかる前に三日目によみがえると弟子たちや他の人々に話されましたが、だれ
も信じることのできないことでした。
 女の人たちは、なぜ墓に行ったのでしょうか。そこにイエス様の亡きがらが
あるからです。死んだ人をお墓に捜す、それは当然のことでした。
 ところがお墓の入り口をふさいでいた石は動かされ、イエス様の亡きがらは
なかったのです。婦人たちはそれを弟子たちに報告しました。ペテロとヨハネ
は、走って墓へ行きました。包帯はそこにあるのですが、体はありませんでし
た。それを見て信じたのです。でもまたみことばを悟ってはいませんでした。
そしてこのマリヤも墓の前で泣いていました。亡きがらがどこにあるかわから
ないからです。後ろにイエス様が立って声をかけても気づきませんでした。し
かし「マリヤよ」と声をかけた時、イエス様だ!と気づいて振り向いたので
す。そこにはよみがえられたイエス様が立っていたのです。
 人は、見ようとすることのみ見えます。聞こうとすることだけが聞こえるの
です。随分前に「ナザレのイエス」という映画を見ました。十字架の死の後、
弟子たちの顔が映り、誰かの声が聞こえます。そして話かけているイエス様が
映りました。その時、私は、そんなバカな、死んだ人が生きていると驚いたの
です。復活を信じているのにです。そして驚いた自分に驚きました。わかって
いるのですが、分かっていないのです。
 よみがえったイエス様は、天に上げられました。肉眼で見ることはできませ
ん。しかし死の中にいるのではありません。祈る時、そばにおられることがわ
かります。人の死に触れる時、動かすことのできない死を、動かされたことが
わかります。私たちは、イエス様を生きているものの中に捜すのです。そして
会うことができるのです。ハレルヤ!
 
2013年3月24日
【贖罪の完成】ヨハネ19章
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するため
に、「わたしは渇く。」と言われた。ヨハネ19章28節

 今週は、受難週です。イエス・キリストがこの地上での最後の時を過ごし、
十字架につけられて亡くなりました。そしてクリスチャンは、その死を自分の
代わりにイエス様が苦しまれ死なれたと受け止めています。イースターの前に
そのことを心にとめて過ごします。
一.死を目指した生涯
 イエス様は、誕生から、また洗礼を受けて神の御国を宣べ伝え始めてからい
つもこの十字架の時を目指していました。先週の17章でも見たように栄光の時
とは、十字架をさしていました。イザヤ53章は受難の僕を預言し、詩篇22篇に
記された苦しみの出来事は、この十字架で起こったことを預言していました。
十字架の死、私たちの身代わりの死は、天の父のみ心であり、このために主イ
エスは来られたのです。
一.十字架上の渇き
 イエス様は十字架上で「わたしは渇く」と言われました。この言葉には、三
つの意味があります。一つは肉体の渇きと苦しみです。多くの血を流し体が渇
き苦しんでいたのです。二つめは、霊の渇きです。多くの人の罪を負い、その
ために永遠の初めからもっていた聖にして父なる神様との交わりが途絶えたの
です。孤独で渇いていました。三つ目は、人々の魂の救いへの渇きです。主イ
エスは、この身代わりの死をすべての人が信じて受けとるようにと欲して渇い
ていたのです。その中には、私たちも含まれているのです。
一.贖罪の完成
 イエス様は、六時間の苦しみの末に「完了した」と言われました。それは、
聖書に書かれている救いの言葉が「成就した」という意味です。父なる神様と
の交わりを絶たれ、まったき孤独の中でしたが、完全に父なる神様を信頼した
ところに救い(贖罪)が完成したのです。
 わたしたちのための十字架の死であることを覚えて過ごしましょう。
 
2013年3月17日
【主のとりなし】ヨハネ章17章
「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保っ
てください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」
ヨハネ17章11節

 ここには、イエス様が最後に弟子たちと祈った祈りが記されています。この
後ゲッセマネの園へ出かけて行くのです。そこで何を祈ったのかというととり
なしの祈りでした。最初は、ご自分のことを祈られましたが、その後、弟子た
ちのために、そしてさらに弟子たちの言葉を信じる者たちのために祈られたの
です。
一.ご自身のために 1節~8節
 イエス様は、まずご自分のために祈られました。ついに時が来たので、栄光
を表して下さるように祈っています。またご自身のわざによって神の栄光が表
され、弟子たちがみ言葉を信じたことを語りました。さらに栄光を表して下さ
るように祈っています。その栄光とは、天地創造のみわざから始まっています
が、この福音書を通してみると、十字架と復活にまで至ります。主はこの時を
目指していたのです。
二.弟子たちのために 9節~19節
 次に弟子たちのために祈りました。彼らは、神様から与えられた者たちで
す。つまりこの世のものではないのです。だから、父と子と彼らが一つである
ように祈っています。彼らはこの世に遣わされているので、この世から取り去
られるのでなく、守られ、きよく保たれるように祈っているのです。
三.弟子の弟子たちのために 20節~26節
 イエス様は、弟子の言葉を聞いて信じる者たちのためにも祈られました。そ
れが私たちです。しかし弟子たちのための祈りと交錯している所もあります。
ここでは私たちが一つであり、神の愛の中にいることによって、世が神様の栄
光を知るようにと祈られています。私たちも遣わされています。救われたらす
ぐに天国ではありません。苦難の中も通ります。それによってこの世が神様の
栄光を見るためなのです。
 
2013年3月10日 順子師
【主はあなたのために】ルカ22章31節~34節、54節~62節
「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈
りました。」ルカ22章32節

今日は、ペテロを通して人間の弱さと主のとりなしについて見ていきます。
一.ペテロの弱さ
①保身とうそ不意をつかれ、自分の身を守ろうととっさにうそをついてしまい
ました。結局自分のことしか考えない弱さ、うそにうそを重ねてしまう弱さが
ありました。
②周囲の人との比較「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決
してつまずきません」自分は、この人々とは違うと比べ虚勢をはってしまいま
した。
③恐れに支配された弟子たちが捕らえられることはなかったであろうと考えら
れますが、ペテロは自分も捕らえられるのではと恐れました。
一.私たちの弱さ
 ペテロは主を「知らない」と言いました。何の関係もないと人格的関係、結
びつきを否定しました。私たちもまた、ペテロと同じ弱さがあるのではないで
しょうか。自分はクリスチャンであると言わなければならない場面で、目をつ
むり、周りとあわせていないでしょうか。イエス様を心の中からしめ出して、
自分のしたいことをしてはいないでしょうか。絶えず自分の弱さを自覚し、主
に助けを祈って行きましょう。
一.主のとりなし
①主はとりなしの祈りをしていて下さいます。私たちの弱さをご存知です(ヘ
ブル四章15節)。
②愛し、ゆるしていて下さるペテロを見つめた主のまなざしは、愛と慈しみの
まなざしであったでしょう。彼が立ち直ることができたのは、イエスのまなざ
しに触れたからです。ペテロの涙は、後悔の涙から悔い改めの涙に、そして主
の愛に対する感謝の涙に変えられていきました。失敗したら終わりではなく、
心から悔い改めるなら何度でもやり直すことができます。それほど主の慈しみ
は深いのです。私たちは主のとりなしに支えられているのです。
 
2013年3月3日
【神様の境界区分】使徒17章16節~34節
「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわ
せ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりまし
た。」使徒の働き17章26節

 今日開かれている聖書箇所は、パウロがアテネでした伝道説教です。ユダヤ
教やキリスト教の理解者が少ないアテネの異教文化は、現代日本に似ていると
ころもあります。それを通して私たちは、キリスト教の神と他の神とどう違う
かを知ることもできます。
一.パウロの説教
 パウロは、アテネに来て多くの偶像に憤りを覚えました。しかしその心を抑
えて、人々が、宗教心に富んでいること、彼らの詩人の言葉から、彼らが神に
つながり神に近い存在であることを示しました。次に、神は天地万物の創造主
であることを示し、すべての人も造られていることを示しています。人を造っ
たお方ですから、神は、金銀や木や石で人に作られる存在ではありません。そ
の神様は、私たちの近くにいて、今の時代には、悔い改めのために一人の人を
遣わし、よみがえらせ、世界を裁く準備をしておられると話したのです。
 この時の人々の反応は、あまりかんばしいものではありませんでしたが、救
われる人も起こされました。
二.神様の定めた境界
 このメッセージで大切なことは、救いはもちろんですが、今も神様は、歴史
や国境、人の住むところを定めて、世界と歴史を治めておられることです。人
はその境界を越えて他を侵害しては、いけないのです。またそれは、すべての
歴史で同じ人や文化は現れないということで、みんな違った賜物をいただいて
いるということです。違うということは、裁きあうと壊れます。しかし協力す
ると互いに生かされ一人ではできない。すばらしものができて、神様のすばら
しさを表すことになるのです。神様は、この日本にも私たち一人一人にも、世
界で他にない、言葉や文化や歴史、才能や感性を与えて下さっているのです。
そして私たちは、ジグソーパズルのように全部そろってはじめて、神様のすば
らしさを表せるのです。だから一人一人の救いが大切です。
 
2013年2月24日
【やもめについて】Ⅰテモテ五章
「ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も、絶
えず神に願いと祈りをささげています。」第一テモテ5章5節

 五章では、様々な教会の秩序に着いて触れられていますが、その中でも多く
を占めているのがやもめについてです。それは当時の社会現象を反映していま
す。当時死別や離婚で多くのやもめがいました。教会は、身寄りのないやもめ
の世話をしました。今日でも、教会の高齢化は社会を反映しています。社会と
私たちの関係を考え、またやもめのあり方から、私たちのあり方について、主
の語りかけに耳を傾けましょう。
一.身寄りの有無
 身寄りのある人は、その人に世話になるように言っています。家族特に父母
との関係は、重要です。それは、他の人々との関係や神様との関係にも影響を
及ぼします。父母と和解して、敬い世話をすることは信仰の当然の現れです。
どうでしょうか。
二.年齢によって
 やもめでも若い人は、名簿に載せず、六〇才以上と言っています。若いやも
めは、生涯主にのみ仕えると誓っても、心変わりすると非難されてしまいま
す。あるいはふしだらな生活を非難されたり、信仰から離れてしまった人もい
たのです。また時代背景もありますが、再婚し子を産むことは祝福であると勧
めています。それは今でも言えることです。
三.主に仕える
 やもめは単に教会の世話になっていたのではありません。困っている人や弱
さを覚えている人を助けるなど、すばらしい働きをしているやもめたちがい
て、その人々は教会の力でした。私たちは、神様の愛を受けたことを動機とし
て、主に、教会の兄弟姉妹に、隣り人に仕えていきましょう。
 
2013年2月17日
【過越の食事】マタイ26章17節~29節
これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるも
のです。マタイ26章28節

 今日は、イエス様が十字架にかかる直前に弟子たちとした最後の食事のこと
です。イエス様は、間もなく十字架にかかることを知っていて、とても大切な
ことをお話しになりました。
一.過越(すぎこし)の祭り
 神様は、イスラエルの人々がエジプトを出る時に、病気や傷のない一才の小
羊を殺して、その血を家の入り口に塗りなさい、そしてその肉を焼いて食べな
さいと言われました。家の入り口に小羊の血が塗られていないエジプト人の家
では、御使いによって、すべての最初に生まれた男の子が死にました。でもイ
スラエルの家では、だれも死にませんでした。それは、羊がその身代わりだと
いう意味です。このことを覚えてイスラエルでは、毎年お祭りをしました。イ
エス様と弟子たちの最後の食事も、その食事でした。
二.裏切る者
 しかし、イエス様は十二弟子の中に裏切って、イエス様を敵に売り渡すもの
がいると言われました。イエス様は、その人も愛していましたが、その人は生
まれて来なかった方がよかったと言われたのです。そしてそれは、イスカリオ
テのユダでした。イエス様と顔があった時、ユダの思いは、悪魔によって決心
へと変わったのです。そして部屋から出て行ったのです。
三.最初の聖餐式
 実は、過越の食事は、人々の本当の身代わりとなる罪のない神の御子イエス
様を表していました。そしてパンを取り、これを祝して、これは私の体である
と言われました。十字架で裂かれる体のことです。そして弟子たちに分け与え
られました。
 食事の後、杯も取り上げ、その中のぶどう酒をさして、これは私の契約の血
です、罪を赦すために多くの人のために流されるものですと言われました。イ
エス様は、十字架の意味を明らかにして、このことを行うように言われまし
た。それが聖餐式です。
 イエス様の十字架は、私の身代わりであったと信じて悔い改めて、永遠の命
をいただきましょう。そして聖餐式の度に信仰を新たにしましょう。
 
2013年2月10日
【敬虔の鍛練】Ⅰテモ四章11節~16節
自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさ
い。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うこと
になります。Ⅰテモテ4章16節

 今日の題は、6節からです。というのは11節以降も、前回開かれた節からの
敬虔の鍛練の内容だからです。「敬虔」というのは、畏(おそ)れ敬うことで
す。敬虔の鍛練とは、聖にして愛なる神様に似たものへとなっていくことで
す。しかし神になるわけではありません。創造主と被造物はやはり違うので
す。パウロはその二つの内容をくり返して、強調しています。
一.その目的と必要性
 今の命と後の命が約束されている敬虔は、すべてに有益です。その鍛練は、
体の鍛練よりもはるかに有益で、自分自身と教えを聞く人々を救うことになる
のです。そして神様の御心と一致した生き方は、この世の様々な出来事の中で
も、天にある平安を保つことができます。
二.自分自身について
 敬虔の鍛練の一つは、自分自身に気をつけることです。悪魔に惑わされない
ことをはじめ、年が若くても軽んじられないで、言葉、態度、愛(アガペー)、
信仰、純潔にも信者の模範であるように勧められています。これは聖霊の賜物
によってなされます。心砕いて取り組む時、その進歩は他の人々にも明らかに
なるのです。
三.教えることについて
 もう一つの敬虔の鍛練は、教えることについてです。13節には、聖書の朗読
と勧めと教えとに専念しなさいとあります。教えの中心は、神の言葉である聖
書です。ユダヤ教の礼拝では、賛美もしますが、聖書をひたすら読み、一生懸
命に聞いたのです。勧めることは、聞くだけではなく実践することを勧めるこ
とです。教えることは、わかりやすく解説することです。
 この両面が共に鍛練されて、主のご性質に近づいていくのです。心を砕い
て、しっかり取り組みましょう。
 
2013年2月3日
【力が出て行く】ルカ8章43節~48節
しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出
て行くのを感じたのだから。」と言われた。ルカ8章45節

 聖書には、しばしばその箇所にしか書かれていない大切なことがあります。
この箇所もそうです。この箇所は、長血の女のいやしと言われ、他の福音書に
も記されているのですが。
 私たちは、生活する中で、様々な法則の中で生きています。例えば、万有引
力の法則もその一つです。それを知らない、信じないと言ったとしても、地面
に吸い付けられるのを免れる人はいません。同じように神の働き、霊の働きに
も法則があるのです。
 私たちは普通、信じて祈るならば、神様の御心にかなうならば、その通りに
なると信じています。その通りです。一つ一つ神様の御心かどうかが問われま
す。しかし、ここでは、イエス様は、ご自分から力が出ていったのはわかった
のですが、だれにどのように力が出ていったのかをご存知なかったのです。イ
エス様のみ思いを超えて力が出ていったのです。なぜでしょうか。それは、こ
の女性が、み衣のふさにさわりさえすれば、いやされると信じて触ったからで
す。これはすごいことです。信じるならば、主の力は出て行くのです。力が出
て行く法則、信仰自動の法則と呼べるのではないでしょうか。私たちも信じる
時、主の力は出て行かざるを得ないのです。難しく考えないで、へりくだっ
て、純粋に単純に信じましょう。
 注意点が二つあります。信じることは行動することです。信じたら行動しな
くて良いのではありません。彼女は、み衣のふさに触りました。それは大胆な
行動です。また主の前に出て、成り行きを話しました、みんなの前で。それが
信仰と確信を深めたのです。
 もう一つは逆も真だということです。つまり不信仰自動の法則です。造り主
を信じないで、偶像を礼拝したり、占いをすれば、霊的存在でもある人間は、
真理を失い、壊れてしまうということです。信仰と不信仰の中間はありませ
ん。
 「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれ
ば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神
はあなたがたに近づいてくださいます。」ヤコブ4章7節~8節
 
2013年1月27日
【惑わしへの警戒】Ⅰテモテ四章1節~10節
神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つ
ありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。
第一テモテ4章45節

 前回は、監督や執事について見ましたが、今日は惑わすものへ警戒すべきこ
とです。教会では、神様の恵みがわかるようと願っていますが、悪魔も必死で
働いています。
 そしてその惑わしは、非常にわかりにくいのです。だから注意深く警戒する
必要があります。わかりにくい理由の一つは、それが教会の外から来るのでは
なく、中から来るからです。いつの間にか間違ったものに心を奪われ、信仰か
ら離れてしまっているからです。本人はそのことに気づいていないのです。も
う一つは、それ自体は良いものであるからです。すぐにわかれば、惑わされま
せん。
 例として、結婚の禁止や断食があげられています。主の働きに専念するため
に独身に導かれている人もいます。すばらしいことです。しかし人を男と女に
造り結婚を定められたのは主です。そこにも祝福があるのです。断食も主に専
念して祈るためにすばらしいことです。しかし食物をはじめ、あらゆるものを
創造し良しとされたのも主です。感謝して食べるのは祝福です。ですから良い
ものが、悪魔の惑わしになりうるのです。
 ではどのように見分けることができるのでしょうか。良いものでもバランス
が必要です。礼拝は、十字架を思い厳粛でありつつ復活の喜びで満ちていま
す。また神のことばと祈りによってきよめられた良いものを受けることです。
私たちが何を中心においているか、それは文化にあらわれます。町の中心は何
でしょうか、家の中心は何でしょうか。敬虔を鍛錬することも必要です。永遠
の命に望みを目指していることを確かめましょう。(人との違いよりも共通点
に注目できるからです。)これらのことによって惑わしを見分けて退けましょ
う。
 創造の祝福に目をとめ、お互いに良いものを心から感謝して受け取りましょ
う。
 
2013年1月20日
【監督・執事は】Ⅰテモテ三章1節~16節
「というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、
キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからで
す。」第一テモテ3章13節

 今日の聖書箇所は、教会の秩序の中で、監督や執事に求められること、特に
生活や行動面を中心に書かれています。監督は今の牧師に、執事は役員や各部
の長などに相当すると考えていいと思います。
 日本でも牧師の倫理をわざわざ言わなければならない時代になっています。
会社等で倫理規定が定められる時代であり、一人一人の行動が問われていま
す。
 まず、監督職を求めることについてです。(それには召命が大切ですが)す
ばらしい仕事を求めることで良いこととしています。本来、仕事も神様が人間
の堕落以前に下さった祝福の一つです。人はそれを自分の欲のためではなく、
主の栄光を現すためにすべきです。
 次に、その生活と行動です。様々なことが書かれていますが、第一に、自制
です。自分で良し悪しを判断しコントロールできることです。次は、家庭を良
く治めることです。妻や子供との関係、その他の関係が愛と威厳の両面で問わ
れます。第三は、教会内での関係です。よくもてなし、教えることです。そし
て最後の第四は、教会外でも評判の良いことです。関係の広がりが問われてい
ます。やはりある程度の経験も大切になってきます。
 これらの働きの結果は、信仰が強められることです。み言葉を生活で実践す
ることで、信仰に間違いのない確信が強まり、地に足のついた信仰生活をおく
ることができます。
 最後に大切なのは、これらの原動力です。社会は、道にはずれた人を避難し
ます。そして映像機器も増えどこでも見られています。人々は間違いをしない
か緊張しながら過ごすのです。すると歪みはさらにたまり、どこかで爆発する
のです。
 私たちの土台は、生ける神の教会、真理の柱また土台であるキリストです。
どんな罪も失敗もそのまま受け止めて、私たちの代わりに負って下さった方で
す。だから心を開くことができ、歪みがなくなります。主への喜びから、この
ように歩もうとするのです。
 
2013年1月13日
【霊的な大人】エペソ四章1節~16節
「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達
し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためで
す。」エペソ4章13節

 今日は、成人祝福式をお祝いできることを心から感謝します。イスラエルで
は、一三才になると、男性はこれから律法を守りますという儀式をして大人と
して認められていたようです。私たちは年齢が来ると成人と認められますが、
大人になったと感じる時期は、それぞれ違います。そして大人になることで
は、親等の保護の元から、精神的に、経済的に、社会的に自立することも大切
です。社会的にも自由ですが、同時に義務と責任も問われます。
 聖書のなかでもしばしば、霊的な面で大人になることが問われています。イ
エス・キリストによる救いを信じることは、霊的に新しく生まれることだと記
されています。そこが始まりです。霊的な命があります。命のあるものは、潜
在的に成長する力が与えられていて、子供から大人になるのです。そして私た
ちが、赤ちゃん、子供、中高生と成長するように、一辺に大人になるのではな
くて、成長には適当な過程と時間が必要です。だからすでに大人の人もいれ
ば、その途上の人もいます。しかしもし、ずっと大人にならないとすれば、内
か外に問題や課題があるかもしれません。また大人になったらもう成長しな
い、成長する必要がないということでもありません。
 では、霊的な大人とは、どういうことでしょうか。霊的な自立です。そして
最終的には、キリストの身丈に達することです。それには、信仰の一致知識の
一致などを前提としていくつかの側面があります。今日は、その一つを見まし
ょう。
 それは、キリストにある一致を保つことです。
「それは、私たちがもはや、子供ではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い
策略により、教えの風に吹き回されたり、波に持て遊ばれたりすることがな
く、」(14節)とあります。悪魔に惑わされず、しっかり主とつながっている
ように、自分で判断できることです。間違った時には修正してもどれることで
す。
 霊的な大人になることを祈り求めましょう。
 
2013年1月6日
【最初のしるし】ヨハネ2章1節~11節
イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄
光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。ヨハネ1章11節

 イエス様が、公生涯に入られて、最初のしるしをカナでの結婚式でなさった
ことが記されています。当時イスラエルでの結婚式は、一週間もつづいたよう
です。その中で大切なぶどう酒がなくなってしまいました。その危機の中で、
主はこのしるしをなさり、結婚式を祝福されました。この中にある三つの祝福
を見ていきましょう。
一.信頼する祝福
 どうもイエス様のお母さんマリヤは、裏方の大切な役割を担っていたようで
す。ぶどう酒がなくなったことに気づいたマリヤは、イエス様にそのことを話
しました。ところがイエス様の答えは、関係ないという冷たい返事のように思
えます。しかしマリヤは、お手伝いの人にこの人の言うことは何でもするよう
にとお願いしました。イエス様に信頼していたからです。神様は、天地を創造
し、私たちも造られました。造ったゆえに私たちを愛しておられます。私たち
に神様がわからないような時があります。それでも信頼する時に、祝福へと導
かれます。
二.従い仕える祝福
 イエス様が、お手伝いの人に言ったことは理不尽なことでした。ぶどう酒が
必要なのに、水をいっぱい汲むのです。当時はちょっと重労働です。でもその
ようにしました。その水を世話役のところへもっていくのです。何を言われる
かわかりません。しかしその通りにしたので、神様のみわざをみることができ
たのです。
三.最初のしるしを見る祝福
 イエス様が水をぶどう酒に変えられたことは、何を意味しているのでしょう
か。ヨハネは、奇跡ではなくあえてしるしと言っています。ルカ五章34節でイ
エス様は、ご自身を花婿と言っています。つまり待ち望んでいた花婿、つまり
救い主が来た!それはすべての人への喜びの知らせです。イエス様は、人々に
主の祝福が届いたことをあらわしておられるのです。私たちにもその祝福は届
いているのです。信頼と従順によって受け取りましょう。
 
2012年12月30日
【ヨハネの紹介】ヨハネ1章19節~42節
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」ヨハネ1章29節

 バプテスマのヨハネは、このようにイエスキリストを紹介しました。それは
どういうことなのでしょうか。
一.旧約の供え物
 当時の人々は、小羊といえば、旧約の律法で献げる供え物とすぐわかりまし
た。レビ四章32節には、罪の赦しの供え物としての小羊が記されています。本
来罪は、命によって贖われるものです。傷のない小羊はきよさを表し、その小
羊の頭に手を置いて、自分の代わりとして、献げました。しかし罪は繰り返さ
れました。神様はそれを、本物の模型として、備えておられたのです。
二.神の小羊イエスキリスト
 イエス様は、完全な罪のあがないの供え物として来られました。イエス様
は、完全な神でありましたが、完全な人として来られました。だから人間の弱
さを知りつつ、罪のないきよいお方です。だからすべての人の罪を代わりに負
うことができたのです。だからたった一度のしかし完全なあがないが、十字架
で成就したのです。イエス様はそのためにこの世界に来られたのです。この贖
罪は、人を義とし、聖霊によって、心の向きを天の神様に変えるのです。
三.私たちと神の小羊
 では私たちは、どのようにこの贖罪を知るのでしょうか。1つは、聖書の預
言、真実の言葉です。二つめは、キリストに会った人の証言です。三つめは、
聖霊による心の内の証(照明)です。ナタナエルは、ピリポにイエス様を紹介
されます。納得のいかない彼にイエス様は、「彼のうちには偽りがない」と言
いました。これは実は、詩篇三二篇の引用です。それはダビデの賛美ですが、
罪のない人の意味ではなく、罪を告白しゆるされたものの喜びと自由の歌で
す。ナタナエルは、この言葉で聖霊に心示され、イエス様を「神の子」と信じ
たのです。私たちも、同じようにして、救い主を信じることができます。
 この一年間の恵みを数え感謝しましょう。
 
2012年12月23日
【大きな喜び】ルカ二章1節~20節
羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神を
あがめ、賛美しながら帰って行った。ルカ2章20節

 最初のキリスト誕生の夜、お祝いに来たのは、羊飼いたちでした。それは大
きな喜びであふれていました。それはどんな喜びだったのでしょうか。
一.喜びの知らせ
 初め御使いが現れた時、羊飼いたちは、恐れ戸惑いました。しかしそれはす
べての民、そして彼らの救い主が生まれたという大きな喜びの知らせでした。
羊飼いたちは、「地の民」と呼ばれていました。それは天に属さない滅びるも
のという意味でした。しかし天地を造られた神様は、彼らを見捨ててはいませ
んでした。神様は、私たちのことも見捨ててはいません。私たちを滅びから救
うために救い主は来られたのです。
二.捜しあてた喜び
 彼らは、み告げの通り、飼い葉おけに寝かせてある幼子を捜しあてました。
捜すのは手間がかかります。なぜ御使いはそこまで連れて行かなかったのでし
ょうか。それは、み言葉を信じて、自分で一歩踏み出し、自分で見つけること
が大切だからです。だからこそ捜しあてた喜びは大きいのです。今私たちに
は、聖書を通してキリストへの救いの道が示されています。自分から求めなけ
れば価値に気づきません。しかし見つけた喜びは大きいのです。
三.伝えられた喜び
 羊飼いたちは、告げられたことが何もかも本当であったと人々に話し、賛美
しながら帰って行きました。喜びはあふれ出て、人々に伝えられたのです。私
たちに与えられた救いの喜び、キリストと出会った喜びもあふれでて、人々に
伝えられるものです。喜びを分かち合うと喜びが増し加わります。羊飼いたち
の喜びを私たちも味わい、クリスマスの喜びを賛美し、人々に伝えましょう。
 
2012年12月16日
【マグニフィカート】ルカ一章45節~55節
マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神
を喜びたたえます。ルカ1章46節47節

 今日は、マリヤの賛歌です。最初の言葉が「あがめる」というマグニフィカ
ートで始まるのでそう呼ばれます。あがめるとは、大きくするという意味で
す。私たちは、どのようにして神様を大きくして、主をあがめるのでしょう
か。
 それは、第一に言葉の通りに、神様を大きくすることです。神様ご自身のす
ばらしさをほめることです。その偉大さ、栄光、力、威厳、栄光などです。ま
た創造のみわざをほめたたえることです。宇宙の大きさ、被造物の美しさ巧み
さ、その秩序などです。そして救いのみわざをほめたたえることです。主の
愛、罪と死とを打ち破られたこと、自分が救われたこと、永遠の命の賜物など
です。
 第二のことは、自分が小ささを認める事によって神様が大きくされることで
す。自分が被造物であり、神の主権のもとにあること、主の僕として仕える者
であること、主から離れ罪人であったこと、自己中心で傲慢なものであったこ
とを認めることです。そしてそのような自分でも、自分自身をまた自分に属す
るすべてを主に献げることによって、主は大きくされるのです。
 第三のことは、私たちの心や霊的な傷がいやされることによってです。救わ
れてもなお、この世にあってこれらが残っている場合が多いです。それが主を
矮小化し見えなくします。傷そのものは包み、いやされるべきものです。しか
し傷から悪い根が生じやすいのです。それらは、父母や他の人をゆるさない思
い、憎しみ、あるいは偽りに耳を貸したり、それに基づく誓いなどです。私た
ちは、これらを気づかされ、認めて、主にいやしと赦しを求め、聖霊によりみ
言葉と信仰に立つ時、解放されます。そして主の本来の愛の姿を見られるよう
になるのです。
 主をあがめましょう。
 
2012年12月9日
【おことばどおりなりますように】ルカ一章26節~38節
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお
ことばどおりこの身になりますように。」ルカ1章38節

 いわゆる受胎告知と言われる箇所です。み使いガブリエルが、マリヤの胎を
通して、聖霊により、神の子イエスが与えられることを告げました。ここには
いろいろな問題があります。一つは、あまりにも大きなことであり、超自然的
なことであり、及びもしない恵みでもあり、すべてを理解できないことです。
ですからそこには当然恐れが生まれて来ます。もう一つは、そのことが起こっ
た時にどうなるかということです。婚約者ヨセフとの関係はどうなるでしょう
か、また不品行なものと見なされ、律法によれば石打による死罪となるかもし
れないのです。
 マリヤは、前者について、恐れつつも自分の思いをそのままにみ使いに、話
しています。後者については、恐れつつも主に信頼します。その答えが今日の
中心聖句です。マリヤは主に信頼して受諾したのです。
 この受諾は、主体的意志を表しています。しかしその内容は、主のお言葉と
おりにという神様の主権を受け入れた受け身なのです。この両者が合わさって
救いのご計画は、進んで行きます。
 私たちは、主の祈りで、天でみ心が行われるように、地でも行われますよう
に、と祈ります。その時、もし自分だけを留保するのは、祈りの内容に反しま
す。またそれでは、み心が行われる天国へ行くとはどういうことになるのでし
ょうか。
 十字架を前にして主イエス様は、苦しみながらも、「しかし、私の願いでは
なく、み心の通りにしてください。」と祈られました。そこに罪と死を打ち破
る救いが完成しました。
 委ねることは簡単ではありません。それは、神のかたちに造られた人間の健
全な姿でもあります。しかし私たちが、ありのままに主に話し、恐れつつも主
に信頼し、「おことばどおりこの身になりますように」と主体的に明け渡す
時、私たちを通しても、主の栄光があらわされ、また天への備えがなされてい
くのです。主に委ねましょう。
 
2012年12月2日 メッセージ:山中師(文責:尾﨑豪)
【イエス様の正体】マタイ十六章13節~19節
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストで
す。」マタイ十六章節16

 (ペテロ登場)おらあ、イエス様のこと話していいか。イエス様とは、ガリ
ラヤ湖で会ったんだ。おらあ漁師していて一晩中取ったけれども一匹もとれな
かった。そしたらイエス様が右の方に網を降ろしてみなさいっていうだ。イエ
ス様は魚のことはしろうとでおらあプロだけど、イエス様が言われたからやっ
てみっかと思って網を降ろしたら、魚がジャンピンコー、ジャンピンコーって
たくさんとれてたまげただー。イエス様は、たくさんの人の病気をいやした
り、パンがたくさん増えたりで、びっくりしただ。
 あるとき、イエス様がわたしは、捕まって十字架にかけられて死ななければ
ならないっていうから、そんなことはねえ、絶対に死ななねえって言ったらす
ごく怒られたよ。
 おらあ一番弟子だから、他の弟子が臆病で逃げても、死んでもイエス様につ
いていくって言っただ。そしたらイエス様が、おまえは鶏が鳴く前に私を知ら
ないって言うって言うんだ。そんなはずはないって言ったけど、気がついた
ら、本当にその通りになってて、つらかった。
 イエス様は、本当に十字架について死んでしまった。でも楽しいことがあっ
たよ。墓の中からよみがえられたんだ。でもおらあがっかりしてて、また舟で
漁したんだあ。そうしたら、そんときも一匹もとれなかった。そしたら岸か
ら、右の方に網を降ろしてみなさいっていうんだ。どっかで聞いたことあるな
あと思いながら網を降ろしたら、魚がいっぱい。ヨハネがあれは主だっていう
からおらあ、あわてて上着着て、湖にとびこんだんだあ。イエス様が朝の食事
を焼いていてくれてうれしかったあ。
 これからローマへ行って、イエス様のことはなすんだあ。何があるかわかん
ねえけどなあ。(山中先生登場)今、ペテロさんに会わなかった?イエス様の
教会は、死の門も勝つことはできないんです。でもそれは、ペテロさんが、イ
エス様のことを生ける神の御子キリストですって言うことから始まっているん
です。どんなつらいところでも、イエス様が生きた神、キリストです、私のた
めに死んでよみがえってくださいましたって言うところに、力や祝福が与えら
れる。それで一緒に乗り越えて行きましょう。
 
2012年11月25日
【教会の秩序1】Ⅰテモ二章8節~15節
「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、ど
こででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」第一テモテ二章8節

 テモテへの手紙で、パウロは牧会について多くのアドバイスをしています。
その一つが教会の秩序についてです。今日の箇所は、その中の男女の秩序につ
いてです。
一.教会の秩序
 神様は、秩序を重んじられるお方です。天地創造の前は、形がなく混沌とし
ていました。神様は、この世界を秩序正しく創造されました。私たちはその自
然の法則の中で生きています。また教会の中についても、コリント人への手紙
では、礼拝の秩序について述べています。また神様は、ある人を使徒、教師と
してお立てになったことが述べられています。聖書には、普遍の真理としての
秩序とその時代における秩序(これは変わりうるもの)とが記されています。
教会は、秩序は、軽んじてはいけませんが、乱用してもいけません。教会は、
それぞれが神の賜物によって自由に仕え、互いに愛し合って主のからだを建て
上げるからです。
二.男女の秩序の序
 聖書は、男女が平等であることを示しています。女は、頭でもなく足でもな
く、男のあばら骨から造られました。二人で一つとなるのです。しかし機能や
役割は明らかに違います。
三.男女の秩序
 ここにはそれぞれの弱点とアドバイスが記されています。しかし別の性に当
てはまることもあります。男には、怒らないで、手を挙げて祈りなさいとあり
ます。どうでしょうか。男の強さも誤ると怒りに変わりやすいのです。女につ
いても多く言われています。かざり、おしゃべり、惑わしに気をつけ、慎み、
静かにすること、愛と信仰ときよさなどが示されています。現代ではすぐれた
女性教師もいます。ここでも良いものが行き過ぎる時に弱点となるのです。
 主にへりくだって、聞き従う時に、その違いはお互いを生かすものになるの
です。
 
2012年11月18日 メッセージ:順子師
【信仰による前進】民数記十三章17節~十四章12節
「しかし、主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
民数記十四章9節

 今日は、カナンの地を探りに行った人々の見たものを通して、私たちが神様
の前にどのようにあゆんでいったらよいのかを見ていきたいと思います。カナ
ンの地を偵察にいった人たちには、違った考えを持つ二通りの人がいました。
 前進を阻むもの
 一〇人の人々は、すばらしい土地と産物ではなく「そこに住んでいる強そう
な人々」を見た。彼らはもうダメだという思いにとらわれ、前進することがで
きなくなってしまった。前進を阻むものは、目の前の困難のみに目をとめてし
まった状態であり、不信仰でした。
 前進へと導くもの
 もう一つの考えをもった人々がいました。それは、ヨシュアとカレブでし
た。この二人が見たものは、「自分たちと共におられる主」でした。彼らは
「信仰の目」を持っていたのです。信仰の目とは困難を認めないことではな
く、困難を認めた上で、「主が私たちと共におられるのだ」と主に期待するこ
とです。
 信仰の目で見るものは何か
 ①神のみ言葉による約束を見て信じる
主はカナンの地を与えると、すでに約束してくださっていた。神様のみ言葉
は、必ず成し遂げられる。(イザヤ五五章10節~11節)
 ②主ご自身を見て信じる
  自分の力で戦うのではなく、戦ってくださるのは、全能の主ご自身です。
困難の中にあっても信仰の目をもって共におられる主を見、み言葉の約束を成
し遂げ、勝って下さる主を信じて、前進いたしましょう。
 
2012年11月11日
【祈りの勧め】Ⅰテモテ二章1節~7節
「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王と
すべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげ
られるようにしなさい。」第一テモテ二章1節

 パウロが愛弟子テモテに送った手紙の中で、今日の箇所で祈りについて見て
行きましょう。
 だれでも祈ることができます。しかしイエス様のそばにいた弟子たちは、さ
らに祈りを知りたいと思いました。祈りには、礼拝や賛美と共通することも多
くあります。
一.なぜ祈りが勧められているのか
 いろいろな理由があると思いますが、まずそれは天の父のみ心だからです。
祈るように求めておられるのです。それは、神様と心が一つになるためでもあ
ります。そして祈るとき、私たちが祝福されるからです。モーセが手を挙げる
とイスラエルが勝ち、手が下がると敵のアマレクが勝ちました。疲れたときア
ロンとホルがモーセの手を支えました。祈りによって私たちは、敬虔に、威厳
をもって、静かに過ごすことができるように変えられます。祈りは、仲保者キ
リストによって聞かれるから祈るのです。
二.どのように祈ったらよいか
 私自身今、変えようとしていることがあります。主の祈りを先に祈ることで
す。イエス様が、弟子に教えられたこの祈りには、祈りのあらゆる大切な要素
が含まれ、祝福があるからです。その最初は御名を崇めることです。とりなし
願う以前に、神様を上に置き、神様に聞くのが祈りです。そして正直に祈るこ
とが大切です。罪には隠す性質があります。しかし神様はすでにご存知です。
正直な思い、姿を祈るとき、受け止めて下さいます。また信頼して祈ることで
す。イエス様のとりなし、私たちと共にうめく聖霊様によって、聞かれると約
束されているからです。そしてすべての人のためまた高い地位にある人のため
に祈るように勧められています。為政者の間違いは多くの人の苦しみにつなが
るからです。
 実際に祈っていきましょう。
 
2012年11月4日
【救いの確かさ】Ⅰテモテ一章12節~17節
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということば
は、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のか
しらです。第一テモテ一章15節

 この中心聖句は、キリストによる救いを簡潔に示していて、私の友人は名刺
に記しています。ところでパウロはなぜカギ括弧の中だけで終わらず、「とい
うことばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」と続け
たのでしょうか。そこには、単純に救われたで終わらない、救いの深みがある
のではないでしょうか。
 パウロは、ユダヤ教にとても熱心でした。キリスト教には大反対で、ステパ
ノを殺す時にも賛成して立ち会ったのです。そしてクリスチャンを迫害するた
めにダマスコへ行く途中で、真昼の太陽よりも明るい光に照らされて、キリス
トと出会い、罪を悔い改め、救われたのでした。罪は許されましたが、ステパ
ノを殺したことは、もはや取り返すことはできません。
 その後のパウロは、なかなか教会の仲間に加えられず、苦しい時を過ごしま
す。そして再び聖書に登場するまで、十数年間の空白があると言われているの
です。恐らくその間、それまでの人生、過去やユダヤ教との整合、救われた意
味など多くの問いがあったのではないでしょうか。私たちにとっても、実は、
祈っても聞かれないように見えるとき、信仰と現実に矛盾を感じる空白のよう
なときが大切なのです。そしてキリストの救いはここも及んでいるのです。
 異邦人伝道に導かれた後も大変でした。テモテがいたルステラでは、石打に
されみんなパウロが死んだと思いました。他にも山賊の難や台風や破船、また
教会内でも批判されたり、間違った教えに翻弄されたり投獄されたりもしまし
た。まさに艱難の連続でした。
 パウロは、自分が罪から救われたことは、これらすべての苦しみを計算に入
れても、キリストによる救いは受け入れる価値があると言っているのです。私
たちにも同じ救いが用意されています。罪から救われることはなんとすばらし
ことでしょうか。
 
2012年10月28日
【教会の目標】Ⅰテモテ一章1節~11節
この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目
標としています。第一テモテ一章5節

 テモテへの手紙第一、第二とテトスへの手紙は、牧会書簡と呼ばれます。教
会の様々な課題への実際的なアドバイスが書かれています。特にテモテへの手
紙は、パウロが私の子とまで呼ぶ、愛弟子に対してのアドバイスが書かれてい
ます。
 手紙が書かれたのは、使徒の働き二八章の後、パウロが第四回目の伝道旅行
をしているときです。この頃、教会には、様々な違った教えが入り、混乱した
ので、パウロがアドバイスをしているのです。
 テモテは、ルステラの信徒です。父はギリシャ人でしたが、祖母、母もユダ
ヤ人でパウロによって、キリスト教を信じたようです。そのルステラでは、パ
ウロは、一部のユダヤ人によって扇動された群衆から石打に会い、みんなが死
んだと思ったほどの迫害を受けたところです。テモテは、そこで生み出され
て、働きを共にするようになりました。そして長い間伝道したエペソで牧会し
ていたと言われています。
 教会を混乱させ、救いに至らせない教えが入ってきました。一つは、果てし
ない空想話です。ギリシャ神話などとグノーシス思想と言われています。後者
は、見えない霊を善とし、物質を悪とします。被造物や肉体は悪です。しかし
神様は、天地を創造し、すべて良かったと言っています。また肉体を持ったキ
リストを神と認められなかったり、肉体の復活を否定したりしました。また果
てしないユダヤ人の系図の議論もありました。それによって、信仰の破船に至
った人もいたのです。
 では、救いに至る生き方はどんなものでしょうか。それが5節です。きよい
心とは、純真で混ぜものがない物です。正しい良心とは、自分を直視し、それ
を恥としない心です。偽りのない信仰とは、偽善のない真実とイエス・キリス
トは神であり、その伝える父なる神様が本当の神だという信仰です。これらに
よって立つ愛こそが人を救いに至らせ、それが教会の目標なのです。この愛
は、犠牲的な愛です。軽蔑、破壊をしません。人情ではなく、義の上に立って
います。この愛は、十字架にかけられたキリストから流れ出ているのです。目
標をしっかり握って歩みましょう。
 
2012年10月21日
【ダビデとゴリアテ】第一サムエル十七章
見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。イザヤ十二章2節

 「僕は、ダビデ。たぶん十五才。七人のお兄さんたちがいるよ。上の三人は
戦争に出かけているんだ。僕の仕事は羊飼い。羊をおいしい草やおいしい水の
あるところに連れていくんだ。羊は弱いから、熊や狼から守ってあげないとい
けないんだ。それに目も鼻も悪いからとても迷いやすいんだ。個性も豊か。な
んか人間みたいだね。僕の得意技は二つ。一つは、竪琴を弾くこと。毎日これ
で賛美をしてお祈りするんだ。神様がそばにいるってすごくよくわかるよ。も
う一つは、石投げ。革のベルトに石をセットしてビューンって振って的に当て
るんだ。えっ、危ないって。でもこれはライオンや熊を追い払うために必要な
んだ。よい子のみんなはマネしないでね。」
 ある日ダビデは、お父さんから、戦争に行ったお兄さんたちの様子を見て、
またお弁当を届けるように言われて出かけて行きました。無事にお兄さんに会
うことができました。とその時、大きな声がしました。二メートル七〇センチ
の大男が大きな鎧と槍を持って叫んでいました。
 「おれはペリシテ軍のゴリアテだ。代表で勝負しよう。もしおまえたちの代
表が勝ったら、ペリシテ軍は奴隷になる。もしおれが勝ったらおまえたちが奴
隷だ。どうだ、勝負しろ。おまえたちの神は弱いのか。本当にエジプトから救
い出したのか。わっはっはっはあ。」
 イスラエルの人々は、こわくて逃げ出しました。しかしダビデは、「天地の
造り主。唯一の神様をバカにするなんて。許せない。いや神様がほっておかな
いよ。」と思いました。王様と相談して、ダビデがゴリアテと戦うことになり
ました。ダビデがゴリアテの前に出て行くと。
 「おまえはだれだ。まだ子どもじゃないか。鎧も槍もなくて、このおれ様に
勝てると思っているのか。杖を持ってくるとはおれは犬なのか。」「僕は、お
まえがバカにした、天地の造り主、万軍の主なる神様の名前で戦うんだ。神様
が、今日おまえを鳥や獣の餌食にするぞ。」
「なまいきなことを言うと子どもでもゆるさんぞ」というと槍を振りあげ投げ
ようとしました。その時ダビデは、石投げで石をビューっと飛ばすと石はゴリ
アテの額に命中しました。「うわあ」バタン。
 みんなびっくりしました。イスラエル軍は勝ちどきをあげ、ペリシテ軍はあ
わてて逃げ出しました。
 ダビデは、「神様、守って下さってありがとうございます。本当に生きてい
るすばらしい神様です。」とお祈りしました。
 
2012年10月14日
【不思議なご計画】創世記四五章他
今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神は
いのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。
創世記四五章5節

 今日は、ヨセフの生涯のクライマックスを見ています。ここで主の約束の成
就を経験しているのですが、そこに至るまでは多くの苦しみも通されたので
す。
 ヨセフの苦難
 ヨセフは、小さいときに母を亡くしましたが、父親に愛されて育ちました。
しかしそれが、他の兄弟のねたみを買いました。またヨセフは夢を見ました
が、それは、ヨセフに父母や兄弟たちがお辞儀をするというもので、それを無
邪気に話したこともねたみの原因でした。ねたまれたヨセフは、危うく殺され
るところでしたが、奴隷として売られ、エジプトの侍従長の家に連れて来られ
たのです。またさらにそこでも主人の奥さんに手を出したという濡れ衣を着せ
られて、牢獄に入れられてしまったのです。苦しみは深まるばかりでした。
 苦難を越えるには
 苦難の中にいるときには、終わりが見えません。苦難を越えるために必要な
ことがいくつかあります。その一つは、希望です。ヨセフにとっての希望は、
あの夢でした。必ずその時が来ると信じていたのです。もう一つ必要なのは、
忍耐です。苦難の中では、何度も希望を失いそうになります。ヨセフが忍耐で
きたのは、主が共におられるといつもわかったからです。それは絶えざる祈り
ではないでしょうか。日々の祈りが忍耐を生み出したのです。それは私たちも
同じです。
 苦難の中で与えられたもの
 献酌官長の夢を解き明かしたヨセフは、人間的な望みが失われようとしたそ
の時、まさに主の備えられた時に牢から出されエジプトを治めることになりま
した。それは普通ではできないことです。しかしその苦難の中であらゆる必要
なものが備えられ身につけられたのです。謙遜も家や国家を管理することも侍
従長の牢だからこそ与えられたと言われています。赦す心や主への信頼もで
す。それは、家族やエジプトや近隣の救いのためでもあったのです。
 苦難の中にも主の御計画があります。
 
2012年10月7日 特別伝道礼拝
【主の慈しみはとこしえに】島隆三師 詩篇136篇1~3節 、23~26節
「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」詩編136編1節(新共同訳)

 今日は、私のルーツから、主の恵みを分かち合いたいと思っています。
 父母は、興部の数百人の村に住んでいました。日曜学校に姉たちが行き、若
い長塚先生とよく熱心に祈っていました。冬、教会にまき、炭を父母が入れて
いました。昭和七年その片田舎に中田重治監督が来て伝道します。その話を聞
き、耶蘇教はえらいもんだと感激し、父母は、入信を決意しました。それに先
立つ九月末に、三才の娘を亡くし、村始まって以来初めての教会での葬式をし
ました。村人は「ヤソを信じて頭がおかしくなった」と言っていたそうです
が、父は入信以来、酒をピタッとやめました。
 世界恐慌のあおりで父の店は倒産し、昭和八年札幌に出て「ハレルヤまき炭
店」を始めました。新生教会の礼拝に熱心に通います。戦争と弾圧で教会は閉
鎖、牧師は投獄となりますが、長沢家と島家と交代で集会を続けました。兄は
結核の中、エペソ六章10節に支えられて亡くなりました。
 キリスト教は苦難を通して、その真価を発揮します。もちろんだれも苦難を
望みません。父母は共に八十四才で天に召されました。戦後農地改革で畑が与
えられました。父が事業に失敗し、その畑を売ることになりましたが、不動産
屋にだまし取られてしまいました。母は不動産屋に乗り込み、「私たちは天地
創造の唯一の神を信じ、人をだましたこともない。これでいいんでしょう
か。」と言って帰って来ました。畑はほとんど戻ってきました。「敵から奪い
返し」(24節)て下さいました。
 また母は、子宮癌になりました。手術はしませんと言います。診断を聞い
て、岡山の祈祷院で十日間断食祈祷しました。祈祷中に癒されるという確信が
与えられたそうです。そのまま八十四まで過ごしました。
 主は、本当に慈しみ豊かに導かれます。
 
2012年9月30日
【兄との和解】創世記三三章
「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれ
ていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたまま
にして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来
て、その供え物をささげなさい。」マタイ五章23節24節

 今日開かれている聖書箇所は、ヤコブと兄エサウとの和解です。先週は、ヤ
コブが神様の前に砕かれたことを見ました。そうであれば、人との関係は適当
でいいのでしょうか。そうではありません。そして実際問題として、兄の怒り
が溶け和解することなくして無事に郷里に戻ることはできない状況です。神様
は、なるべくすべての人と平和に過ごし、また今日の中心聖句のように、何か
あれば人と和解するように命じておられます。
 では、私たちはどのように和解(謝罪)したらよいのでしょうか。①積極的
に自分から近づきます。②なるべく早く、怒りが落ち着いたときに。遅くしな
いことです。怒っているときは聞く耳を持ちません。③率直に、誠意をもっ
て。ヤコブのへりくだった態度がエサウの心を和らげたかもしれません。④き
ちんと償う。ヤコブはたくさんの家畜を贈り物として用意しました。社会的な
責任を負うことも必要です。⑤結果は主に委ねて。簡単に赦されないこともあ
ります。忍耐を持ってくり返し謝ることも必要です。
 もう一つの側面があります。それは、赦せないことです。聖書もこの面を多
く教えています。人は、したことよりされたことを忘れないのです。なぜ赦す
のでしょう。それは私たちが赦されたからです。それは恵みによる生き方で
す。
 赦せないときはどうしたらいいでしょうか。まず主の前にそれを認めること
です。赦せるように祈りましょう。罪人のかしらである自分が赦されたことを
覚えましょう。主が心を変えて下さいます。
 兄弟や友人と和解しましょう。償うべきを償いゆるしをいただきましょう。
 
2012年9月23日
【砕かれたヤコブ】創世記三二章
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなた
は、それをさげすまれません。詩篇五一篇17節

 今日の箇所は、ヤコブの人生のクライマックスといえるところです。
 ヤコブは、二十年寄留した伯父ラバンのもとを去って郷里カナンへ帰ること
になりました。けれどもこのこともままなりません。
一.出発と行き詰まり
 ヤコブへの態度が変わり、ヤコブを不当に扱うラバンにヤコブは疲れまし
た。しかしそれだけで出発したのではありませんでした。神様が、郷里に帰り
なさいと導かれたので(三一章3節)出発したのです。しかし行く手に待って
いるのは、だましたヤコブに対して怒りに燃える兄のエサウです。帰るに帰れ
ない状況だったのです。かといって出て来たところに戻ることもできません。
ヤコブは行き詰まってしまったのです。
二.格闘するヤコブ
 そこでヤコブは兄をなだめようと、たくさんの贈り物を用意しました。また
四つの群れに分け、自分は最後になり、自分は逃げられるようにしていたので
す。
 しかしどんなに人間的な手段を講じても、恐れは消えません。ヤボクの渡し
で、ヤコブは一人残り、一人の人と格闘しました。
三.砕かれるヤコブ
 ヤコブがはなさず彼に勝てないのでその人は、もものつがいに触れました。
ヤコブは、ももがはずれても、祝福を求めてはなしませんでした。その人は、
ヤコブの名前を、イスラエルと変え、祝福しました。それは、ヤコブが押しの
けるものから神の国を継ぐものへと変えられたことを意味します。彼の心も砕
かれたのです。それは自分のやり方を捨て、神様のやり方で生きることを意味
します。ももがはずれたヤコブは、足をひきずっていて、もう逃げられませ
ん。朝、先頭に立って、兄との再会に向かって行ったのです。
 
2012年9月16日
【だまされる】創世記二九章~三〇章
「主は、しいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。」詩篇九篇9節

 旅の初めに、天の梯子の幻をとおして、主が共にいて下さるという約束をい
ただいたヤコブは、遂に伯父ラバンのところに着きました。しかし、そこでだ
まされたり、不当な扱いを受けました。父や兄をだましたヤコブですが、神様
の祝福を受け継ぐにふさわしい者へと導かれていきます。
 ヤコブは、ラケルを花嫁にもらうために七年働くことを申し出て、ラバンも
了承しました。七年経って結婚式が終わると、それは姉のレアでした。当事者
はどれほど傷ついたことでしょうか。ヤコブは、もう一度ラケルのために七年
働くことになりました。しかしヤコブはラケルを愛し一生懸命働きました。
 その七年が過ぎると、新しく契約を結びました。報酬は、ぶちやしまのある
羊ややぎとなりました。ところがラバンは、それらをすべて隠してしまったの
です。ヤコブには何もありませんでした。
 私たちも、だまされたり、同僚や家族から不当な扱いを受けて苦しむことが
あります。信仰があってもなくても起こってくるのです。その中でも神様の愛
は変わらないのです。
 そのようなヤコブを慰め励ましたものは何でしょうか。一つは、家族です。
家族に問題があったとしても妻や子があることは疲れを癒します。また仕事が
成功することです。ヤコブが飼うと家畜はどんどん増えました。当時、家畜は
財産でもありました。他に、趣味や特技で気を紛らせることもできるかも知れ
ません。
 しかしもっと根本的な慰めと励ましは、創造主からの祝福です。守り支える
約束。必ず連れ帰るという約束でした。他のものは、失われることもありま
す。でも神様の愛と約束は変わりません。今も神様は、救い主イエス様によっ
て私たちに祝福を約束しています。主が味方なのです。主の前に出る時大切な
ことは、偽らないでそのままの姿ででることと忍耐をもって約束を握り、手放
さないことです(ルカ一八章1節)。
 
2012年9月9日
【天のはしご】創世記二七章41節~二八章22節
「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守
り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂
げるまで、決してあなたを捨てない。」創世記二八章15節

 ヤコブは、長子の権利と祝福を受け取りました。それでその後の人生は、順
風満帆だったのかと言えばそうではありません。むしろここから、神様と出会
い、祝福を受けるにふさわしく変えられるための試練が始まったのです。
一.孤独な旅立ち
 ヤコブは八〇〇キロ離れたリベカの実家へ旅立つことになりました。表向き
は、祝福にふさわしく、創造主を恐れる花嫁を見つけることでした。しかしも
う一つの理由は、だまされた兄エサウの殺意から逃れてほとぼりを冷ますため
でした。神様の祝福にあずかったとしても、蒔いた種は刈り取るのです。聖な
る神様は、不義をそのまま放っておかれません。
 ヤコブはどんな気持ちだったのでしょう。将来のわからない恐れと不安。だ
れにも助けられない孤独。握ったはずの長子の権利と祝福がどこにいったのか
という喪失感。これらは私たちもしばしば体験させられるものです。
二.夢でのみ告げ
 その夜、ヤコブは夢を見たのです。それは主のみ告げでした。天の御使いは
天からの階段を上り下りし、主が傍らに立っていました。祖父達に約束したよ
うにあなたを祝福する、守る、連れ帰ると言われたのです。すべてを失ったと
思ったそこに主は共におられたのです。
三.信仰に立つ
 朝目が覚めたヤコブは、枕にした石を立て、油を注ぎ、主を礼拝しました。
主にお会いしたのですから、信じるも信じないもありません。主を自分の主、
導き手と認めました。また収入の十分の一を献げることを誓いました。それは
すべての持ち物は、自分の力ではなく、主の恵みと養いによるという信仰と感
謝の証です。
 実は、この御言葉は、私がここ芽室に遣わされたときに示されたみ言葉で
す。主は確かにそのように導いてくださいました。主は今も私たちが不安や孤
独や喪失の中にいるときに、キリストによって祝福する、共にいると約束して
くださっています。
 
2012年9月2日
【祝福はどこに】創世記二七章1節~40節
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」ローマ一〇章13節

 イサクが息子を祝福しようとします。彼は双子の兄エサウを祝福しようとし
ますが、妻のリベカはその弟ヤコブが祝福を受けるように策略を巡らしまし
た。その策略はうまくいきました。イサクは、ヤコブがだまし、祝福を奪った
と言います。祝福とは何でしょうか。それは奪える者なのでしょうか。なぜヤ
コブは祝福を受けたのでしょうか。
 聖書に出てくる祝福は、単なる人の言葉ではありません。天地の創造主から
の豊かな恵みを指しています。特に、イサクが受け継いだ祝福は、特別に父ア
ブラハムに与えられたもので、アブラハムとその子孫の祝福、また子孫を通し
て全世界が祝福を受けるというものでした。これはキリストの救いのご計画に
いたる壮大なものです。
 このように見ると、これはイサクが祝福するのではなく、神様が祝福するの
です。とすれば、人は全知全能の神様をだましたり、神様から祝福を奪ったり
することができるのでしょうか。それは絶対にできません。ではどういうこと
なのでしょうか。あるいは、神様のひいきや運命なのでしょうか。そうでもあ
りません。だれが祝福にふさわしいのでしょうか。
 エサウは、すでに長子の権利を蔑んで手放してしまいました。今日の箇所を
も合わせて、ヤコブへの恨みを言い、悔い改めがありません。また生涯を通し
て神様への礼拝する姿を見ることができないのです。祝福も、自分の繁栄を願
っているばかりのようです。一方、ヤコブは、自分をエサウだと偽っていま
す。聖なる神様には、罪や汚れはふさわしくありません。どちらも祝福を受け
継ぐには価していないことが分かります。
 ではなぜ、ヤコブが祝福を受けたのでしょうか。エサウとの違いは何でしょ
うか。それはひとえに、神様の前にへりくだって礼拝をしていることです。主
は、主の前にへりくだる者を祝福してくださるのです。ふさわしくなくてもで
す。だからそれは恵みです。今、神様は、キリストの十字架の身代わりによっ
て、罪のゆるしと恵みの道を開かれました。へりくだり信じる者にこの救いが
与えられます。主の前にへりくだりましょう。
 
2012年8月26日
【骨への預言】エゼキエル三七章
「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生
き返る。」エゼキエル三七章14節

 この箇所は、エゼキエルが、神様から示された幻です。とてもグロテスクな
描写がありますが、本当の命に至る希望をあらわしていることを覚えてみてい
きましょう。
 エゼキエルは、谷に埋め尽くされたひからびた骨を見ます。バビロン軍に殺
された人々とも、霊的に死んだ人々とも解釈されています。主は、エゼキエル
にこの人々は生き返ることができるかと聞きます。エゼキエルは、主よ、あな
たがご存知です、と答えました。主は、生き返ることができる、そのように預
言しなさいと言われました。エゼキエルが、そのように骨に命じると、骨と骨
がくっつき、すじと肉が生じ、皮で覆われました。形は整ったのですが、息は
ありませんでした。主は、再び、息に預言せよと言われます。息に預言する
と、息が人に入り、人が生き返って、非常に多くの集団になったのです。
 この幻は、命について示しています。
一、命は神様から来る。この箇所は、創世記を思い起こさせます。命は神様か
ら与えられているのです。自然は、放っておくと壊れる方へ進みます。しかし
命は違います。命があること自体が神様の奇跡です。人は自分の命の源を否定
して生きることはできません。
二、命は死んで終わりではない。ヘブル語では「息」と「霊」は同じ言葉で
す。神様は、人を、体と霊とから造られました。霊は、不滅の存在です。死ん
だ後、主の前にでなければなりません。そして主は、人を生き返らせることが
できるお方です。
三.命にはふさわしいあり方がある。ここに先立つ三六章には、主が人の心の
汚れを取り除き、新しい柔らかい心を与えることが記されています。私たちは
造り主にふさわしく生きるように造られています。神様にはふさわしくない罪
を、人から取り除くために罪のない神の独り子キリストが身代わりとなられた
のです。それが十字架です。悔い改めてキリストを信じることは、ふさわしく
生き返る命を与えられることなのです。先に天に帰られた方々を偲びつつ、恵
みによりふさわしく生かされて参りましょう。
 
2012年8月19日
【斥候の報告】民数記一三、一四章
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がお
られることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなけ
ればならないのです。」ヘブル十一章6節

 イスラエルの民は、エジプトを出て荒野にいました。そこから約束の地カナ
ンに入るために斥候を遣わすことになりました。カナンの人々は、創造主を恐
れず、その地に悪が満ちたのです。それで神様はその地をイスラエルに与える
と言われたのです。でもその人々を打ち破らなければ約束の地に入ることはで
きません。斥候は、カナンが、強いのか弱いのか、人が大きいか小さいか、町
は城壁があるかないか、畑や動物は多いか少ないかなど調べるのです。この斥
候には、十二部族から一人ずつ、十二人が選ばれ、そして出発しました。
 四十日後、十二人は帰ってきました。そして一房のぶどうを木の棒につるし
て二人がかりで運んできました。みんなびっくりしました。斥候は、そこの人
々が大きく、食べ物も豊かなすばらしいところであると報告しました。人々は
喜びました。ところが十人の斥候は、「私たちはその地に入ることはできな
い。その人々は強いので滅ぼされてしまう。」と言いました。人々の心は揺れ
ました。残りの二人、カレブとヨシュアは、「神様の御心ならば、その地に入
ることができる。勇気を出しましょう。」と言いました。しかし、人々の心は
くじかれ、モーセ達を殺し、新しいリーダーを立てて、エジプトへ引き返そう
とし始めたのです。
 ついに神様は、ご自身を現されました。苦しかったエジプトから救い出した
私をなぜ信じないのかと怒られたのです。神様は、民を滅ぼそうとされまし
た。でもモーセがとりなしたので、その思いをとどめられました。でも四十日
の一日を一年として四〇年、約束の地に入れないで荒野をさ迷う。そして信じ
なかった人々は、その間にみな死んでしまう。でも彼らが、食い物にされると
言った子どもたちが、カナンの地に入ると言われました。
 人には不可能に見えても、神様は全能のお方です。そして私たちにも、御子
の身代わりによって、罪からの救いの道を開いてくださいました。このお方の
約束を信じて、日々の生活も、主と共に歩みましょう。
 
2012年8月12日
【長子の権利】創世記二五章
「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権
利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」
ヘブル十一章16節

 イサクとリベカには、長い間子どもが与えられませんでした。しかし祈った
結果、双子が与えられました。エサウとヤコブです。ヤコブはエサウのかかと
をつかんで生まれてきました。
 彼らは双子でしたが、いろいろな違いがありました。生まれたときからエサ
ウは毛深く、ヤコブはなめらかで、エサウは、狩りを好みました。ヤコブは、
穏やかで天幕にいるのが好きでした。料理などをしていたようです。何よりの
違いは、エサウは長子の権利を持っていたことです。日本でもそうでしたが、
最初に生まれた男の子は、家を継いで治める権利をもっていました。他の兄弟
の二倍を相続することができたのです。たった数分の生まれた順番の違いで決
まっていたのです。ヤコブは、この長子の権利が欲しくてたまらなかったので
す。
 この状況を複雑にしたのは、両親の偏愛です。イサクは鹿の肉が好きでエサ
ウを、リベカはヤコブを愛しました。この愛は、神様の変わらない愛を示す語
とは違って、情緒的な愛を表す語です。そしてこの日、狩りで何も捕れず、疲
れて帰ってきたエサウは、ヤコブの料理したレンズ豆の煮物欲しさに、長子の
権利を売ってしまいました。ヤコブの巧みな策略でした。
 しかしこの長子の権利は、単なる財産増続とは考えられていません。アブラ
ハムに約束された祝福、救いのご計画の継承と考えられています。聖書は、運
命論ではありません。ヤコブはこれを切望しました。エサウはこれを軽く扱っ
たのです。そして狩りに夢中になり、手放してしまったのです。
 私たちは、キリストによってこの祝福、罪からの救いと永遠のいのちを継承
することができます。一番大切なものを間違えてはいけません。またこの祝福
を親から受け取り、子、孫へと手渡して継承する責任もあるのです。永遠のも
のを他の一時的な満足や楽しみのために手放すことがないように気をつけまし
ょう。
 
2012年8月5日
【花嫁探し】創世記二四章
「天の神、主はわたしを父の家、親族の地から導き出してわたしに語り、わた
しに誓って、おまえの子孫にこの地を与えると言われた。主は、み使をあなた
の前につかわされるであろう。あなたはあそこからわたしの子に妻をめとらね
ばならない。」創世記二四章7節

 アブラハムの僕が、イサクの花嫁を捜しにアブラハムの故郷へ行きます。主
がどのように導いて下さるのか、またどのように導きを求め、導かれていくの
かを見ると、とてもワクワクする箇所です。
 僕に与えられた課題は、イサクの花嫁を見つけることでした。またイサクを
ハランに連れて帰ることはゆるされませんでした。そしてもし花嫁がカナンに
来ないのなら、この労から解かれるのでした。アブラハムは、真の神様を知ら
ない人では、いけないと思っていました。でもどのように導かれるのでしょう
か。僕は、主が御使いを前に遣わして下さることを信じて出発しました。
 僕は、見ず知らずの地で、井戸の傍らで主に祈りました。信頼してとても具
体的に祈りました。自分に水を汲んでくれる女性、らくだにも飲ませる女性
を、主が定められた人として下さいと。なんと祈っているうちに女性が来まし
た。そして、祈った通りになったのです。その人は、アブラハムの親戚でし
た。
 しかし僕は、慎重に、しかし一途に、本当に主が導かれた人かどうかを確か
めました。呼ばれた食事の前に、用件を話します。一晩泊まってすぐに出発し
ようとします。ひとつひとつが、導かれました。リベカも、主の導きに信頼し
て、出発を決断したのです。
 ついに僕は、イサクに花嫁を渡すことができました。
主は、私達それぞれにも、生涯のご計画をもって導いています。私達は、主に
信頼して、導きを具体的に求め、主の導きを確認し、決断をもって進ませてい
ただきましょう。主は祈りに答えて下さいます。
 
2012年7月29日
【イサクを献げる】創世記二二章
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に
何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかっ
た。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげ
た。」創世記二二章12節

 このイサクを献げる出来事(実際には直前に神様がとどめられた)は、アブ
ラハムの生涯のクライマックスです。また同時に、旧約聖書中でも、キリスト
の身代わりの死による救いを予表する重要な出来事でもあります。神様は、試
練をとおして、人に神様の重大なご計画を知らせなさいます。
 神様はアブラハムに、イサクを全焼の供え物として献げなさいと命じられま
した。とても理不尽な命令です。殺してはならないと言われる神様です。また
人をいけにえとすことを嫌われるお方です。何より神様の約束によって与えら
れた子、祝福としての子供献げなさいと言われました。なぜと思わずにいられ
ません。
 この矛盾にアブラハムはどうしたのでしょうか。なにかやりとがあったか分
かりません。アブラハムにとっては、イサクは全財産よりも、また自分のいの
ちよりも大切であったでしょう。しかし翌日に出発しました。示されたモリヤ
の地を目指しました。あるいは三日かかったところに、足取りの重さがあるか
も知れません。しかしアブラハムは、奇跡的にイサクを与えられた主を信じま
した。ヘブル書には、死んだ者を生き返らせて下さると信じたと書かれていま
す。主に全く信頼したのです。
 アブラハムが、祭壇の上でイサクを殺そうとしたそのとき、神様が介入され
ました。御使いによってそれをとどめました。全き信頼が確認されたのです。
そして主は代わりの羊を供えていました。アブラハムはそれを献げました。
 主は、このことを通して、人類の罪の身代わりとしてひとり子の命を与える
思いをアブラハムに示されました。アブラハムは、主の深い思いを知り喜びま
した(ヨハネ八章56節)。そして主の友として、同労者として、全人類への救
いの計画に共に携わったのです。主は、私たちも同じ恵みに与るようにと導い
ておられます。
 
2012年7月22日 献堂記念礼拝
【愛による建設】エペソ四章
「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく
働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合
わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」
エペソ四章16節

 今日は献堂三〇周年の記念礼拝です。この会堂が建てられるにも、多くの、
名前も分からない方々の祈りと献金が献げられたことを改めて知ることができ
ました。目に見える教会の建物も大切ですが、目に見えないけれども教会を形
作るその性質も大切です。エペソ人への手紙は、キリストのからだとしての教
会がどのようなものかを教えています。
 教会の中心は何かと言えば、イエスキリストです。教会のかしらはキリスト
であり、教会はそのキリストのからだです。キリストは、十字架につけられ
て、黄泉に降られましたが、罪のないお方でしたので、死に支配され続けるこ
とはなく、父なる神の永遠の命が与えられました。そして、上にあげられると
きにその賜物を、黄泉にいる聖徒に分け与えられたのです(8節)。そしてあ
る人々を指導者として立て、主の奉仕をするために聖徒を整えていくのです。
この命の賜物によって、キリストのからだである教会は出発し、建て上げられ
ていくのです。
 それでは、どのような教会に建て上げていくのでしょうか。第一に、それぞ
れが完全なおとなへと建て上げられるのです(15節)。大人とは成熟していま
す。信仰が惑わされません。罪の性質である古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着
ること、つまり、キリストと共に歩みその恵みによって整えられていくので
す。第二は、個々は、愛によって結び合わされて、建て上げられるのです。そ
れは人の身体が多くの細胞が有機的につながっているのと似ています。それぞ
れがばらばらではなく、お互いが愛によって結び合わされて、成長し、愛のう
ちに建てられるのです。
 この教会の歩みもそのようでした。これからもそのように、それぞれの賜物
を知って成長し、愛による完成をめざして、教会を建て上げて参りましょう。
 
2012年7月15日
【アブラハムのとりなし】創世記十八章~十九章
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そ
のためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽
くし、また祈りなさい。」エペソ六章18節

 三人の主の使い(そのうちの一人は主ご自身)の目的は、祝福の約束を告げ
ることでしたが、もう一つの目的はソドムとゴモラを見て知るためでした。そ
れは、多くの叫びが主に届いていたからでした。そして主は、滅ぼすために来
られたのでした。
 主は、祝福を受けるアブラハムに、目的を告げました。それは、主からの告
白です。聖なるお方は、罪と悪を滅ぼすお方です。しかし愛のお方です。主
は、アブラハムを僕ではなく、友とされたからです(ヨハネ十五章15節)。
 アブラハムは、主の言葉を聞いてとても驚きました。そこには、かつて一緒
に生活していた甥のロトがいるからです。彼は、へりくだりながら、ロトのた
めにとりなしました。もし五十人正しい人がいるなら、その人々を町もろとも
滅ぼされるのですかと。それは、ロトの僕も含めれば、五十人は正しい人がい
ると思ったからです。主は、もしそうなら、その正しい人々のために滅ぼさな
いと言われました。アブラハムは、もし四十五人なら?四十人なら?三十人な
ら?二十人なら?十人ならと食い下がりました。主の答えは同じでした。いつ
の間にか、ロトの僕たちも、正しさを失っていたのです。
 しかし、そのとりなしは無駄ではありませんでした。御使いは、ロトとその
家族を助け出したのです。主は、裁きの中にも救いの道を備えて下さっていま
す。新約時代の今、私たちは、キリストの身代わりの十字架によって、罪の赦
しと救いの道がすべての人に開かれています。そして主は私たちを友と呼び、
その思いを知らせ、救いのわざに参与することを願っているのです。主の思い
を知り、私たちもとりなして祈りましょう。主の救いを見させていただきまし
ょう。
 
2012年7月8日
【全能の神】創世記十七章1節~21節
アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」
創世記十七章1節

 今日の聖句は、私たちのホーリネス教団に関係の深いみ言葉です。そして
「きよめ」の信仰に多くの教会が注目しています。
 神様は、アブラムが九十九歳の時、再び現れなさいました。「全能の神」
というこれまで出て来たことのない、新しい神様の自己紹介です。だれも知
らなかった名前です。全能、オールマイティー。何でもできないことはない
ということです。アブラムは、自己紹介されてもまだ全能の神とはどういう
ことか分かっていませんでした。これから体験して知ることになったので
す。神様は、私たちにも、これまで知らなかった神様の栄光を、お示しにな
ろうとしておられるのです。
 この祝福のために神様は、二つの命令をしています。一つは、「全き者で
あれ」完全な者となりなさいということです。聖書はしばしばそう命じてい
ます。しかし誤解も招きやすい言葉です。私たちは、この地上では、知識や
道徳、過失などにおいて完全になることはできません。しかし、聖書は、愛
において、動機においては、聖霊によって完全になることができると言って
います。心をつくし、力をつくして、主を愛し、み心に従って歩むことがで
きるのです。
 もう一つは、「わたしの前を歩み」です。主と共に、主と向き合ってとい
うことです。しかし空間的にとらえると、主は後ろからついてくるというこ
とです。知らない道を前に歩くのは、心配です。でも主はすぐ後ろからつい
てきて、道を示し、導き守って下さるのです。それを信じるのが信仰です。
しかしそれを妨げるものもあります。人の考えです。人は自分の限界でもの
を考えます。アブラムもハガルによって子供を得ました。それは、神様のご
計画ではありませんでした。主は、人の限界を越えたところに、全能の神で
あることを示されます。その神様に信頼することが、全き者であるというこ
となのです。
 
2012年7月1日
【ご覧になる方】創世記十六1節~16節
「そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と
呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいると
は。」と彼女が言ったからである。」創世記十六章13節

 先週私たちは、十五章からアブラムが、信仰によって義とされたという、と
ても大切なそしてすばらしいところを見ました。その後もうまくいくと思いた
いのですが、残念ながらそうではありませんでした。一度信じたらいいのでは
なく、信じて歩き続ける必要があります。アブラムはどうしたのでしょうか。
そして神様はどうなさったのでしょう。
 子供ができなかったので、妻サライは、女奴隷ハガルを妻に迎えるように勧
めます。それは当時の風習でした。アブラムは、その提案を聞き入れます。そ
れは神様のみ心だと思ったことでしょう。しかしそうではありませんでした。
そしてみ心から外れたところに問題が起こってきたのです。
 ハガルは妊娠したことにより、傲慢になりサライを見下します。サライは苦
しみ、それが憎しみに変わります。サライはアブラムに訴えます。アブラム
は、無責任にも問題を解決しようとしません。サライは、ハガルをいじめ復讐
するのです。そしてとうとうハガルは、宛てもなく逃げ出したのです。
 私たちがみ心から外れると神様は、どうなさるのでしょうか。私たちへの愛
や義認は変わるのでしょうか。そうではありません。それでも祝福の約束は変
わらないのです。
 ハガルは、荒野ですぐに行き詰まりました。どこへも行けないのです。その
時御使いが見ていて声をかけたのです。ハガルは、素直に女主人から逃げ出し
たことを告げました。
 御使いは、帰るべき所を示し、彼女に身を低くしなさいと語られたのです。
そして祝福しました。ハガルは、傲慢でも、逃げ出しても、主が自分を愛をも
ってご覧になっていたことを知ったのです。
 私たちは時に、神様や人に不真実です。しかし主はいつも真実なのです。こ
の主にありのままで立ち帰りましょう。
 
2012年6月24日
【信仰による義】創世記十五章1節~19節
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」創世記十五章6節

 世界中で信仰の父として尊敬されているアブラハム(アブラム)ですが、最
初から立派な信仰を持っていたわけではありません。今日は、このアブラム
が、信仰によって義とされた箇所です。これは、新約聖書でもとても重要な箇
所です。アブラムは、どのような信仰によって、義とされたのでしょうか。
 主は、アブラムに幻のうちに現れ、恐れるな、私はあなたの盾だと言われま
した。この時アブラムには、二つの恐れがありました。一つは、アムラフェル
の連合軍を倒して、ロトを救出しましたが(十四章)、その連合軍が体制を立
て直して、戦いを挑んでくるのではないかということです。そうなってはひと
たまりもありません。もう一つは、この後のアブラムの答えにあることです
が、子供が与えられないということです。子孫を祝福するという約束にもかか
わらずです。アブラムの答えは、まるで不平をもらすかのようです。しかしこ
こで大切なのは、神様に向き合っていたことです。ともすると私たちは、神様
に向き合わないで、一人こぼしたり、他人に不平をもらします。それでは、神
様の答えはありません。神様に向き合いましょう。
 アブラムの答えに対し、神様は、空の星を数えるように言われました。沙漠
の星は、本当にきれいで無数に見えます。彼の子孫はそのようになると言われ
ました。アブラムは、この神様の言葉を信じたのです。それは、現実を見つつ
も現実以上に、神様に信頼したということです。それで神様は、彼を義と認め
られたのです。それは、法廷で罪がないことを意味する言葉です。私たちは、
生まれながらに、神様に背いたり、悪い考え行いをもっています。それが罪で
す。しかし、義とされるということは、罪があるけれどもされるということで
はなく、初めから罪を犯していなかったと認められることです。キリストが十
字架で代わりに罪を負って下さったからです。私たちは、それを信じるとき義
と認められるのです。ローマ四章参照
 
2012年6月17日 説教:岩井基雄師 文責:尾﨑豪
【主の不思議な臨在】マルコ六章45節~52節
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐
れることはない。」と言われた。マルコ六章50節

 この嵐の前を見るとパンの奇跡、またその前を見ると、バプテスマのヨハネ
の斬首が記されています。イエス様の来られた新約の世界で、この凄惨な事件
は起きています。マタイ十四章には、イエス様はそれを聞いて祈るために、湖
を渡られたことが記されています。イエス様の弟子の中には、このヨハネの弟
子もいたのです。祈るために渡ったのですが、群衆は、岸を先回りしていまし
た。疲れていましたが、イエス様は、群衆に話しをしました。弟子たちは群衆
を解散させようとしましたが、イエス様は五つのパンと魚でみんなを養いまし
た。パンを配ったのは疲れ切った弟子たちでした。残りを集めたのも弟子たち
でした。休もうと思っても休めないことが続いていたのです。
 そのような状態で嵐に会ったのです。船は波で上下し、もうどうにもなりま
せん。
 私たちは、自分でできると思うときには、本当には信仰が働きません。イエ
ス様は、その船を通り過ぎようとされました。なぜ?でも通り過ぎる時、聖書
は神がそこにおられると言っています。弟子たちは、どうすることもできない
ところに招かれたのです。それは神の臨在を知るためです。神様は、あえて絶
望に突き落とすことがあります。しかしそこに神の恵みが注がれるのです。
 私は、遠藤嘉信師はALSという難病の中で、「神様になぜと問うのはやめ
よう、神のご計画があるのだ」と言ったその姿を忘れることができません。
 主イエスは、「しっかりするのだ。私はここにいる。恐れることはない。」
と私たちにも言っておられるます。どんなところでも主は共におられるので
す。
 
2012年6月10日
【四つの種】マタイ十三章1節~23節
心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あな
たがたのたましいを救うことができます。ヤコブ一章21節

 イエス様は、船の上から岸の群衆に向かって話しをされました。それからも
う一つ話されました。農夫が畑に種をまきました。ある種は、道ばたに落ちま
した。その種を烏が食べてしまいました。ある種は、岩地に落ちました。芽は
出たのですが、根が浅いので、日照りが来るとすぐに枯れてしまいました。ま
たある種は、いばらの中に落ちました。根は張りましたが、いばらに邪魔をさ
れ、穂も出ず実もならずに枯れてしまいました。またある種は、良く耕された
畑に落ちました。それは、芽を出し、グングン成長し、穂が出て、百倍、六十
倍、三十倍の実を結びました。良く聞きなさいと。
 弟子たちは、後でイエス様にこの譬えの意味を教えて下さいと言いました。
イエス様は教えて下さいました。この種は、神様のみことばです。地面は私た
ちの心です。おことばに心を止めないと、悪魔に種を奪い取られてしまいま
す。岩地では、根は張りません。最初は喜んでみことばを受け入れます。でも
困難や迫害が起こると、根がないので、枯れてしまうのです。またいばらが指
すのは、この世の心遣いや富みに心を惑わされて、実を結ぶに至らない人のこ
とです。そして良い地に落ちた種は、み言葉を聞いてそれを悟る人のことで
す。その人は、時が来ると、百倍、六十倍、三十倍もの実を結びますと。
 種の落ちるところは、私たちの心です。み言葉の種はどんな人の心にも落ち
ます。そして最初から良い地はありません。でもみ言葉によって耕されると良
い地へと変えられていくのです。私たちも、神様のみ言葉に生かされて、実を
結んでいきましょう。
 
2012年6月3日
【出発】創世記十二章1節~9節
聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知
っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福され
る。」と前もって福音を告げたのです。(ガラテヤ三章8節)

 今日はアブラム(後のアブラハム)の出発です。アブラハムは、信仰の父と
呼ばれ、旧約聖書を教典とするユダヤ教、キリスト教、イスラム教から尊敬さ
れています。つまり世界の人口の半数以上に影響を与えています。アブラハム
は、どのように出発したのでしょうか。そして私たちとどのように関係してい
るのでしょうか。
一.神様の召しによる出発
 アブラムの出発は、「わたしの示す地に行きなさい」という神様に召し出さ
れての出発でした。元々は、カルデヤのウル(現在のイラク)に住んでいまし
たが、父テラや家族と共にハランに来ていました。「召し」は英語では、
callingです。神様に呼び出されたのです。新約時代の私たちは、イエス・キ
リストにあって、すべての人が神様に召されています。信仰は、神様の召し、
語りかけに気づくところから始まります。
二.祝福の約束
 神様は、アブラムに出発するように言われましたが、それには祝福の約束が
ともなっていました。聖書には神様からの多くの命令が書かれています。よく
見るとそれには必ず祝福の約束がともなっています。アブラムは、祝福され、
また子孫も祝福され、多くの人の祝福の基となると約束されました。事実そう
なっています。アブラハムの信仰の子である私たちもキリストをとおして救い
と命の祝福にあずかっているのです。
三.信仰による出発
 すばらしい召しも約束も、それに応答しなければ意味がありません。アブラ
ムは、行き先を知りませんでした。子供がいませんでした。故郷、父の家を離
れなければなりませんでした。でも出発しました。神様の約束を信じたからで
す。私たちも、信仰の出発は、神様の方へ向きを変えることです。永遠に変わ
ることのない神の言葉、キリストの救いを信じる信仰に立って、新しい出発を
させていただきましょう。
 
2012年5月27日
【約束の聖霊】使徒の働き一章1節~14節
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けま
す。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、
わたしの証人となります。」(使徒の働き一章8節)

 今日はペンテコステです。聖霊降臨日です。キリスト教の三大祭りの一つで
す。ペンテコステとは、五〇日目という意味です。それは過ぎ越の祭りの日つ
まり主の復活から数えて五〇日目です。主の約束されていた聖霊が降った日
(二章)で、それはまた教会が始まった日でもあります。私たちはこの日を覚
えて記念します。
一.聖霊の必要性
 聖霊はなぜ必要なのでしょうか。それは、キリストが、召天に際して、待っ
ているように言われたからです。この聖霊が、臆病な使徒たちを、大胆なキリ
ストの証人へと変えたのです。この聖霊は、私たちの目を開き、私たちをもキ
リストの証人として造りかえます。私たちが楽しい信仰生活を送ることができ
るのは、聖霊が、キリストと共にいきることをわからせて下さるからです。
 聖霊は、旧約時代にも働いていましたが、預言者や特別な人に与えられまし
た。しかしペンテコステ以来、だれにでも与えられるのです。キリストを知る
には、聖霊の働きが必要です。今も聖霊は私たちに注がれています。また弟子
たちは繰り返し聖霊に満たされました。
二.聖霊を与えられるには
 どうしたら聖霊に満たされるのでしょうか。神様は聖霊を与えたいと願って
います。得るには求めが必要です。信仰生活を送るのに必要だと感じて求める
ことです。そして祈ることです。祈りは、私たちの内側を変え、聖なる霊にふ
さわしく整えます。また聖霊は、へりくだって求めなければいけません。また
熱心に求めます。弟子たちは、祈りに専心して求めました。私たちが整えられ
た時、主は私たちを聖霊で満たしてくださいます。
 
2012年5月20日
【にじの契約】創世記九12節~17節
わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のし
るしとなる。(創世記九章13節)

 にじを見たことがあるでしょうか。にじを見ると何か希望を感じるのではな
いでしょうか。聖書ではにじについて、何と言っているのでしょうか。何を示
しているのでしょうか。
 今日の聖書箇所は、大洪水が終わった後です。一年もの間箱船の中にいたノ
ア達は、水が引いて、外へ出ることがゆるされました。そして神様に橎祭をさ
さげて礼拝したときに、にじがしるしとなったのです。神様は、ノアとその家
族、その子孫(私たちも含む)とすべての生き物と契約を結ばれました。それ
は、洪水によっては、もう地の生き物を滅ぼさないということです。その契約
のしるしとしてにじが与えられたのです。
 にじはよく架け橋としてたとえられます。私たちのいるこちらと行くことの
できないあちらを結ぶ架け橋です。このにじが天と地をつないでいるのです。
 このにじを新約聖書に照らすとどうなるでしょうか。神様はすべてのものを
とても良いものとして造られましたが、この世に罪が入り、神様と私たちには
越えることのできない大きな深淵ができてしまいました。この淵を越えさせる
お方は、罪のない神の子であり、人となられたイエス・キリストただ一人で
す。一テモテ二章5節、ヨハネ一四章6節。このお方が、すべての人の罪を負っ
てくださったので、信じる人は、罪が赦され神様との淵が取り除かれるので
す。
 つまりこのにじは、天と地をつなぐことのできるイエス・キリストを指して
いるのです。神様は、救いのご計画を大空にだれでも見られるように示して下
さったのです。にじを見る時、架け橋となられたキリストを思い感謝しましょ
う。また主が再び来られることを覚えて、心備え、主の愛を伝えましょう。ル
カ一七章26節、27節。
 
2012年5月13日
【ノアの箱船】創世記六章、七章
「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは
神とともに歩んだ。(創世記六章9節)

 ノアの箱船や大洪水のことを聞いたことある人は多いと思います。そんなこ
とがあるだろうかと言われました。しかし西で広い地域の大洪水の跡が発掘さ
れ、また大津波を経験すると決してあり得ないことではないと感じるのではな
いでしょうか。主は、ノアの箱船の出来事によって、私たちに何を語りかけて
いるのでしょうか。
一.全世界を治める神様
 ここには、創造主の姿が見えてきます。その一つの面は、義と裁きの神であ
られることです。神様は、聖と義を愛し、不正や悪を嫌い見逃すことのできな
いお方です。人間の罪の根源は、愛なる神様から離れることです。そこから奪
ったり、奪われたりという罪が入って来たのです。神様から離れては、罪と死
に支配されてしまうのです。ノアは、神と共に歩んだと書いてあります。神様
のもう一つの面は、忍耐と救いの神様であるということです。神様は、正しい
ノアを救うために、箱船を造るように命じられました。神様と共に歩む人に救
いの道を示しておらます。またこの時代、箱船を造るのはすべて手仕事で、大
変な労力と歳月を費やしました。百二十年とも言われます。その間神様は、忍
耐をもって人が立ち帰るのを待っておられたのです。しかし救いの時は、いつ
までも続くのではありません。時が来て、主は箱船の戸を閉じられました。
二.私たちへの教訓
 主は私たちにも忍耐しておられます。そして御子を遣わし、私たちの罪を身
代わりに負わせ、信じる人への赦しの道を開かれました。悔い改めて、主に立
ち帰り、救いを受けましょう。
 また聖書には、キリストは、もう一度来られ、ノアの時と同じように、世界
を裁かれると預言しています。私たちも、主と共に歩み、福音を宣べ伝えて、
主の来臨を待ち望みましょ
う。
 
2012年5月6日
【罪の侵入】創世記三章
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト
・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ六章23節)

 神様は、天地万物を造られた時、すべては非常に良かったのです。しかし残
念ながら、それはずっと続きませんでした。罪が入って来たからです。罪や悪
魔についてわからないこともありますが、罪はなぜ入って来て、どんな影響を
及ぼし、私たちはどのように対処したらよいのでしょうか。
 その出来事は三章に記されており、聞いたことがあるでしょう。神様は、園
のどの木から取って食べてもよいが、善悪を知る木の実は食べてはいけない、
死んでしまうからと言われました。しかしへびの姿をした悪魔が、エバをそそ
のかし、二人はそれを食べてしまいました。すると目が開け、裸であることが
わかり、木の葉で覆い、神様を避けて隠れました。しかし罪は明らかになり、
呪いと死を宣告されたのです。
 悪魔は、神様の言葉を否定します。食べても死なないと言いました。でも死
ぬ者となりました。また神様は、人に働く喜びを与えました。しかし人は、神
様を離れて「神のように」なりたいと思いました。しかし創造者を離れて、被
造物である人は、本来のように生きることができません。罪のもとの意味は的
はずれであり、神様の言葉に背くことが罪なのです。
 神様は、人を神のかたちに似せて造られました。そこには自由があります。
神様は、人が罪を犯す可能性があっても、自由な存在として造られました。
 そして最初の人アダムとエバが罪を犯した結果、すべての人が罪の支配を受
け、そればかりか、全世界が、罪の呪いの下に置かれています。
 私たちは、罪に対して自分で対処する力はありません。ですから今日のみ言
葉の通り、罪のない御子イエス・キリストの身代わりによって罪と死に勝ち、
永遠の命に生きることができるのです。そして、心の目で主イエスを見ること
によって、罪と死とから自由にされ、主の栄光の姿と同じ姿に変えられていく
のです。(Ⅱコリント三章16節~18節)
 
2012年4月29日
【ニコデモ】ヨハネ三章1節~16節
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、
新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
(ヨハネ三章3節)

 イエス様が、神の国を宣べ伝え始めると、多くの人が話を聞いたり、病気を
癒してもらおうと来ていました。さて、ニコデモは、ユダヤ人の指導者でし
た。長い間聖書を調べ、律法を守ってもう年をとり、聖書のことなら何でも知
っていました。人々からも尊敬されていました。でもどうしたら神の国入るこ
とができるのかわかったようでわからなかったのです。それでイエス様に聞き
たいと思ったのですが、そーっと夜にやってきたのです。
 イエス様は、ニコデモに新しく生まれなければ、神の国を見ることはできな
いと話しました。ニコデモはびっくりしました。「新しく」という言葉には
「もう一度」という意味もありました。どうやってお母さんの胎に入るのかと
思いました。イエス様は、水と霊とから生まれることだと教えられました。風
は目に見えません。でもあります。神の霊も見えませんが、存在し、働いてい
るのです。そして、霊によって生まれることによって神の子になるのです。ニ
コデモは、この時はよくわかりませんでした。
 イエス様は、もう一つ話されました。出エジプトの時、青銅のへびが高くか
かげられたように、人の子もあげられなければならないと。荒野で苦しくなっ
た時、イスラエルの人たちは、神様にもんくを言い始めました。神様は火のへ
びを送られ、かまれた人は死にました。モーセがとりなして祈りました。そし
て青銅のへびをあげたのです。それを見た人は、かまれても生きることができ
ました。人の子とはイエス様のことです。数年後、イエス様は、十字架の上に
あげられました。それを見たニコデモは、このことを話されたのだとわかりま
した。イエス様の十字架を見上げる人、つまりイエス様が、私の罪を代わりに
負ってくださったと信じる人は、救われるのです。ニコデモはそのことを信じ
て喜んだのです。
 
2012年4月22日
【男と女】創世記二章16節~25節
その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わた
しは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記二章18節)

 神様は、人を男と女とに造られました。そこにはたくさんの不思議がありま
す。結婚してうまくいけばこれほどの幸せはありません。一方うまくいかなけ
れば、これほどのさびしいことつらいこともありません。神様は人をどのよう
に造られたのでしょう。
一.神の霊、神のかたちに
 神様が最初に造られたのは、男性でした。そこにすべての人(=男女)共通
の性質が含まれています。神様は、ご自分のかたちに人を造られました
(一章27節)。それは外見ではなく性質を示します。もちろん被造物は創造者
には到底及びません。そのかたちとは、①神の息(=霊)を吹き入れられ、神
の霊を持っていることです。②聖なるものとして③自由意志を持つ存在として
④愛の交わりをもつものとしてということです。人は他の動物と違い、霊的な
存在です。聖を逸脱すると壊れます。神様は、召使いやロボットとしては造ら
れませんでした。そうなら自発的な愛は育まれません。
 しかし違いもあります。それは、土によって造られたので、物質的な制約を
受けることです。
 もう一つ言われることは、神様は、愛であるがゆえに、愛する存在として人
を造られたことです。
二.女の創造
 聖書は、人(=男)の創造のあと、改めて女の創造を語ります。女は、ふさ
わしい助けでとして造られました。それは上下ではなく、役割の違いです。他
の動物では、ふさわしくありませんでした。また神様との十分な交わりがあっ
ても必要なものがあったのです。結婚は、新約では、キリストと教会の関係を
指し示します。夫婦が父母その他を離れ、一体となることによって、主の愛を
知ることができるのです。しかし罪によって愛を失った私たちは、キリストの
十字架の愛によって、愛を回復されるのです。
 
2012年4月15日
【天地創造】創世記一章1節~二章15節
「初めに、神は天地を創造した。」(創世記一章1節)

 天地創造は、現代では、キリスト教信仰の障壁の一つのように捉えられてい
ます。いろいろな疑問も起こってきます。私たちは、天地創造をどのように捉
えれば良いのでしょうか。
一.神様が天地の造り主
 聖書は、創造者としての神様が存在し、天地を造られたと証言しています。
それにかかわる秩序や自然法則も造り、今も天地万物の統治者であることを示
しています。今多くの人は、進化論を信じ、宇宙や地球、自然や動植物人間
は、進化の過程をたどったと考えています。このどちらも科学での証明は難し
いのです。そして進化論も仮説から抜け出ることはできません。進化論では、
長い時間があれば、複雑な組み合わせができると考えます。しかし現実の自然
界は、より簡単単純な方へと進みます。また進化の過程は無数の段階がありま
すがその化石は、見つかっていません。セントヘレンズ山の噴火では、今まで
何万年もかかってできたと思われていたものが十年足らずでできてしまいまし
た。進化論は、絶えず修正を余儀なくされているのです。一方、動植物は、種
によって分けられ、整然としています。生物の類似性は、むしろ同じデザイナ
ーによると考えるとすっきりします。
二.非常に良かった
 神様は、造られたものをご覧になり、すべて良しとされました。31節には非
常に良かったとあります。天地創造に際し、苦しみや死といった悪いものは一
切ありませんでした。それは後に罪から入ってきたのです。
三.今も続いている創造の祝福
 最初の六日間については、「こうして夕があり、朝があった」と記されてい
ます。神様は七日目を祝福されましたが、この日には、夕と朝が記されていま
せん。それは、七日目は、終わったのではなく、今も続いていて、今も神様の
祝福が被造物の中に注がれていることを示しています。進化論からは、生きる
目的を見出すことはできません。しかし、創造主は、今も私たちを祝福し、恵
みによって生きるようにと導いておられます。
 
2012年4月8日
【イースター】マタイ二七章62節~二八章15節
「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたから
です。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」(マタイ二八章6節)

 イースターは、イエス様が死からよみがえられたことをお祝いするお祭りで
す。世界中のクリスチャンがお祝いしています。あり得ないことがことが起こ
ったのがイースターです。
一.悲しみに満ちた朝
 イエス様は、ご自分が十字架にかかることをよく承知していました。しかし
イエス様がいくらそう言っても、他の人から見れば、イエス様は、すばらし
い、力のみなぎり、多くの人に信頼された救い主でした。これから何をするん
だろうという期待していました。そのイエス様が、あっという間に十字架につ
けられ死んでしまいました。思いもかけない死、そしてだれも動かすことので
きない死の現実に弟子たちやこの女の人たちは、打ちのめされ、悲しみでいっ
ぱいでした。
二.不思議な出来事
 イエス様の死から三日目の朝早く、女の人たちは遺体に香油を塗るために墓
に行きました。すると大きな地震があり、墓の入り口をふさいでいた大きな石
が取りのけられていました。そして白く輝く御使いが、イエス様は、よみがえ
られた、もうここにはおられないと告げたのです。不思議な出来事でした。弟
子たちに話しに行こうとしていた時、よみがえったイエス様が現れてください
ました。
三.私たちと復活
 今イエス様は天におられるので目で見ることはできません。私たちには、今
も死別の悲しみがあります。時が癒すと言い切れないものがあります。しかし
キリストの復活によって、罪と死は効力を失いました。神様の前に義と認めら
れ、天国への門が開かれました。キリストの復活が私たちにも復活の希望を与
えるのです。
 
2012年4月1日
【十字架へ】マタイ二七章32節~56節
「イエスは、ご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい
生ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル一〇章20節)

 他の福音書もそうですが、マタイも最初からイエス様が、十字架を目指して
いることを示していました。そしてついにイエス様は十字架にかかり、死なれ
ました。この十字架はどんな意味を持っているのでしょうか。
一.悪魔の力を無力に
 40節以下では、「もし神の子なら、十字架から降りて、自分を救え」と人々
が叫んでいます。誘惑は荒野から続いていますがこれが最後です。十字架が悪
魔に決定的な審判をくだすからです。悪魔は今でも、私たちを創造主から引き
離すために必死で働いていますが、すでに無力にされているのです。
二.私たちのわずらいと病とを身に受けられた
 46節で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と
叫んでいます。本来罪のない御子なるお方です。しかし私たちが、神様から離
れた罪のゆえに負うべき、煩いと苦しみとを負われたのです。私たちは、イエ
ス様の打たれた傷によって、癒されたとイザヤ五三章は記しています。
三.新しい生ける道が開かれる
 51節は、息を引き取った時、神殿の幕が上から下まで裂けたことを記してい
ます。この幕は至聖所と聖所を分けていました。至聖所の中には、年に一回大
祭司が贖罪のためにしか入れませんでした。しかし、主の裂かれた身体と流さ
れた血によって、だれもが、罪の赦しを得ることができ、神の前に出ることが
できるようになったのです。イエス様によって、隔ての幕は取り除かれ、新し
い命の道が開かれたのです。私たちはこの道を通って救われ、永遠の命に入る
のです。
 
 
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神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。