メッセージ(文責:尾﨑豪)
 
2015年3月29日
【赦された強盗】ルカ二三章39節~49節
「イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょ
う、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ23章43節

 総督ピラトは、イエス様は無罪だと言いましたが、群衆の声に負けて、十字
架の死に引き渡しました。人気のあった凶悪犯バラバが赦されました。イエス
様は、他の二人の強盗殺人犯と共に十字架につけられました。罪人の一人と数
えられたのです。
人々は、イエス様に他人を救ったのなら、自分を救ってみろとあざけりまし
た。二人の強盗も最初は自分を救い俺も救えと言っていたようです。しかしそ
の一人は、途中で何かに気付いたのでしょう。そしてイエス様に話すと、イエ
ス様は、あなたは今日私と共にパラダイスにいますと約束されたのです。二人
の強盗、一人はパラダイスへ、もう一人は、黄泉へ。厳然とした分かれ目でし
た。
 なぜこの強盗は、パラダイスへと招かれたのでしょう。ただもう一人の強盗
をたしなめ、イエス様の味方になったからではありません。また何か罪の償い
をしたり良いことをしたわけでもありません。十字架の死のみが償いで、良い
ことをするチャンスは全くありません。しかし天国へと招かれたのです。なぜ
でしょうか。①彼は、イエス様が罪のないお方だと認めています。②また、御
国の位に着くお方だと認めています。それは、イエスは神の子救い主であると
の告白です。③また自分がこうなったのは、当然の報いであると、自分の罪を
認めているのです。④そして、私を思い出して下さいとイエス様の前にへりく
だっているのです。何の良い行いもできない強盗は、信仰によってパラダイス
へと招かれたのです。
 イエス様は、今日と言われました。それは、死んだ後は、もちろんですが、
今、十字架の苦しみの中で、罪を赦された自由と神の国の平安と永遠の命の力
強さとを味わっているということなのです。
 私たちもへりくだって主の救いにあずかりましょう。苦難の中に共にいて、
命を与える主の平安に満たされましょう。
 
2015年3月22日
【十字架上の赦し】ルカ二三章26節~38節
「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼ら
は、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23章34節

 今日は、イエス様が十字架の上でなさったとりなしの言葉を味わいましょ
う。
 ご自分では、何が起こり、何をしているのかご存知でした。しかし、御子で
あるイエス様にとって、罪とその報いとを負う事は、全く未知の恐ろしいこと
であったに違いありません。むしろ御子だからこそ余計であったでしょう。そ
の状況で、イエス様は父なる神様にどのような態度であったのでしょう。父の
み心は、御子に、罪を贖わせ、救いの道を開くことでした。御子イエス様は、
十字架の上での苦しみの中でも、父へのまったき信頼を失うことはなく、父よ
と呼びかけたのです。
 そのとりなしの前半は、「彼らをお赦し下さい」でした。誰を指しているの
でしょうか。自分を十字架につける人々、ののしりあざける人々、そればかり
でなく、罪を犯すすべての人々のためのとりなしの祈りでした。「倍返し」
「リベンジ」と叫び、平和の声を威圧する私たちとは、全く反対の姿に私たち
は驚かされます。それこそ神様の愛なのです。
 この後半では「何をしているのか自分でわからないのです。」と言われまし
た。これが人間の姿です。創造主の神様を無視し、自分の欲を満たそうとしな
がら孤独に生きています。しかし人間は霊的な存在として造られました。神と
交わり生きるべきなのです。赦されることを知って生きるべきなのです。
 神の愛を知り、受け入れた人は、生きる目的を知っています。どんな時にも
神様に信頼できるので、霊的な平安を持っています。赦されることを知り、ま
た赦すことができます。孤独や欲や憎しみから解放されます。そして地の塩、
世の光として、父なる神様のすばらしさを表すのです。
 
2015年3月15日
【イエス様の裁判】ルカ二二章54節~71節
「彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼
らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と言われた。
ルカ22章70節

 私たちは、主の十字架を忍びつつ、イースター(復活祭)を待ち望んでいま
す。今日は、イエス様を十字架で死刑にするための裁判です。
一、裁判の様子
 他の福音書と合わせて見ると、ユダヤ教の元で三回、またローマの総督や王
の元で三回の尋問と裁きが行われています。ルカは、ユダヤ教での裁判は一つ
に、イエス様が何者かに集中しています。①イエス様は、ユダヤの監視人たち
から目隠しをされて「言い当ててみろ、今たたいたのはだれか。」(64節)と
愚弄されます。ここでイエス様が預言者であることが否定されているのです。
②また議会では、「あなたはキリストか」と聞かれます。イエス様は巧みに答
えますが、ここでも彼らは、イエス様がキリストであることを受け入れ真線で
した。③イエス様の誘導により、「あなたは神の子ですか」と聞きます。イエ
ス様は「私はそれです。」と答えました。この言葉は、原語で見ると、モーセ
に主が、私はあってある者(ヤーウェ)(出エジプト記三章14節)と言われた
のと同じ言葉です。祭司長たちは、イエス様を神の子と認めず、かえって、神
を冒涜する者として、怒りに満ちて、イエス様の十字架による死刑を決めたの
です。
一、イエスは誰か
 イエスは誰か、それはいつも私たちに、神様から問われていることです。ユ
ダヤ人、祭司長達は、神の子と認めませんでした。弟子たちは、かつて神の子
と認めたのですが、逃げ出しました。しかし十字架を見ていた百人隊長は神の
子と認めました。他にも天の父、聖霊、聖書、癒された人々、等々が確かに神
の子だと認めています。そして今私たちにも今「イエスを神の子」か、と問わ
れています。神様は、人間の悪意によって、罪の無いお方を罪とし、それを人
間の罪の身代わりとして、信じる者に救いの道を開かれたのです。何と不思議
なことでしょう。主イエスを神の子として受け入れましょう。
 そして信じる者には、神の子としての特権、赦しと永遠の命を下さったので
す。聖霊によって、イエス様こそ神の子ですと告白する時、私たちに、この祝
福が与えられているのです。
 
2015年3月8日
【仲直り】マタイ五章17節~26節
「まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。」マタイ5章24節

 イエス様の教えを聞く人々は、驚いていました。モーセの律法を変えてしま
うように感じたからです。けれどもイエス様は、律法の本当の意味を教えてい
たのです。
 イエス様は、「殺してはいけない。殺したら裁判を受けなければならな
い。」と書かれているけれども、兄弟に「能なし」「ばか者」と言う人も裁か
れます、と言われました。また、神様に供え物をする前に、まず人と仲直りし
なさい、と言われたのです。昔英国にジョージ四世は、怠惰なしもべを怒って
クビにしました。その直後に神様を礼拝しようとしたのですが、大主教は言い
ました、今は礼拝できません、心が落ち着いて神様に向かっていないからです
と。王様は、ハッとして、そのしもべを赦し、それから礼拝することができま
した。私たちは、だれかとけんかしていないでしょうか。無視していないでし
ょうか。仲直りしてるでしょうか。神様の前に、仲直りしましょう。
 仲直りするからといって、決して悪いことの仲間になってはいけません。
 なぜ仲直りしないといけないのでしょうか。いろいろな理由があります。そ
れは神様が喜ばれないからです。神様を礼拝できなくなるから(Ⅰヨハ四章20
節)です。怒っていると自分がもっと罪を犯すことになるからです。赦さない
とその人に心を支配されるからです。そして、御霊の自由がなくなるからで
す。
 では、どうやって仲直りするのでしょう。まず心を静めて祈ることです。こ
こで大切なのは、怒っていることや、ゆるせないことなど自分の弱さを認める
ことです。それから、なぜ相手がそうしたのかを考えてみましょう。それから
なるべく早く仲直りの機会を見つけましょう。時には、相手に自分がいやだっ
たことを冷静に伝えることも必要です。また怒りが続いている時は、冷静にな
るまで時間を空ける必要もあります。そしてお互いに、悪かったことはごめん
ねと言い、またそれを受け入れゆるすよと言うことです。そうすると心の自由
が戻ります。
 また赦すことは、主の御足の跡を歩むことです。イエス様の十字架を共に負
っているのです。そして、主の赦しがどんなに尊いことかを知って喜び、主を
礼拝するのです。
 
2015年3月1日
【ゲッセマネの祈り】ルカ二二章39節~46節
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、
わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
ルカ22章42節

 今年は、イースター(復活祭)が四月5日になります。そしてそれを待ち望
み、十字架を忍んで、悔い改め、祈り、節制、断食、慈善などをする期間がレ
ントです。すでに二月18日から始まっています。
 今日開かれているみ言葉は、イエス様が逮捕されて十字架につけられる直前
の祈りです。イエス様は、どのように祈られたのでしょう。
 イエス様は、いつものようにオリーブ山に来られ、ゲッセマネ(油しぼりの
意)の園へ行かれました。そしていつもの場所に着いて祈られました。この日
は十字架を前にして、特に祈られたのですが、それは、いつもの時間、いつも
の場所で、父なる神様と心を開いて交わる時であったのです。
 それは、とても激しい祈りでした。そして父のみ心ならば、怒りの杯を通ら
ない道を示して下さいと祈りました。しかし、イエス様の思いではなく、父の
み心をして下さるようにと祈られたのです。神である御子にとって、死と、父
との断絶は耐えられない苦しみなのです。しかし、罪の身代わりの十字架の他
に、救いの道がないとご存知のイエス様は、自分の思いを超えて、父なる神に
信頼し、み心に委ねられたのです。御使いが来て、励ましました。イエス様
は、汗が血のしずくの落ちるようにして、なおも激しく、もだえ苦しんで祈ら
れました。
 主イエスの祈りは、聞かれたのでしょうか。そうです。イエス様は、無理矢
理ではなく、「その敬虔のゆえに聞き入れられた」(ヘブル五章7節)ので
す。苦しみの中で、従順を学び、完全な者となり、救いを与える者となられた
(~五章10節)のです。そしてその身代わりの苦しみには、私たちの受けた
傷、病、苦しみ、汚れ、罪の重いと行いなども含まれているのです。だからこ
の十字架を信じることによって救われるのです。
 
2015年2月22日
【イエス様の変貌】ルカ九章28節~36節
祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。
ルカ9章29節

 ペテロの信仰告白の後、弟子たちに十字架の苦難と死、そして復活の話しを
始めました。それは弟子たちには中々受け入れがたいことでした。その八日後
の出来事が今日の聖書箇所です。
 イエス様は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れてある山に祈るために登
られました。三人は、眠ってしまったのですが、その間に、イエス様の着物が
白く輝きだし、モーセとエリヤが現れて、イエス様の最期について話し始めた
のです。弟子たちは、目が覚め驚きあわてます。すると雲がイエス様と二人を
覆い、天から声がしたのです。弟子たちは、その当時はこのことを誰にも話し
ませんでした。
 このみ姿は、イエス様の本来の栄光の姿を表しています。しかし話しの内容
は、それとは正反対の惨めな嘲りと苦しみの十字架の死です。何という落差で
しょうか。その十字架の死は、私たちの罪の身代わりの死です。そしてモーセ
とエリヤは旧約を代表する預言者ですが、その生涯の出来事を通して、主の栄
光と苦難とを体験した人々です。弟子たちに代わって、イエス様を慰め励まし
たことでしょう。そして天からの声は、洗礼の時と同じですが、やはり、王な
るメシヤと苦難のメシヤについての言葉でした。主は十字架に向かって進まれ
たのです。
 この出来事は、復活の後、主にお会いした以上にインパクトがあったかもし
れません。ペテロの手紙にあの栄光のみ姿を見たと記しています。主の十字架
があの栄光につながっている。それは、ペテロや他の弟子たちに大きな希望と
なったのです。
 私たちは、日々の生活で様々な苦難に出会います。しかし、主との日々の交
わり(み言葉と祈り)によって、モーセと同じように、変えられています。私
たちも輝いているのです。
 
2015年2月15日
【ナインの町で】ルカ七章11節~17節
主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。
そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったの
で、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。すると、その死人
が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。
ルカ7章13節~15節

 イエス様の一行が、ナインという町に着いた時でした。あるやもめのひとり
息子が亡くなって、その葬儀の列にイエス様は出くわしたのです。やもめにと
ってひとり息子は唯一の希望だったのです。イエス様は、この母親をかわいそ
うに思い、同じ痛みを感じられたに違いありません。そして「泣かなくてもよ
い。」と言われたのです。自分の悲しみ痛みをわかる人がいることはどんなに
慰めでしょうか。
 イエス様が「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」と言われると、彼は生
き返り、起き上がって話し出したのです。イエス様のわざに人々は驚き、主を
ほめたたえたのです。
 肉親の葬儀等では、私たちは悲しみの中にいながら、悲しむことができない
ことがあります。多くのことに心を奪われたり、気丈にしていて本心を出せな
いのです。私たちは心の奥の本心に向き合う必要があります。そしてイエス様
は、その私たちの気持ちを思いやることのできるお方です。なぜなら、神の位
を捨て、あらゆる苦しみを味わわれたからです。そのお方の前で心を開くこと
ができるのです。
 またイエス様は、その後、すべての人の罪を負い、十字架で死に、その後死
を打ち破り復活されたお方です。それを信じる全ての人に命を与えるお方で
す。だからこそ「泣かなくてもよい」と慰めることのできるお方です。主は今
も、必要であれば人を生き返せることのできるお方です。私たちには、地上の
生き返り以上の、永遠の命を与えて下さるのです。そこに死を超えた希望があ
るのです。主をたたえましょう。
 
2015年2月8日
【力が出て行く】ルカ八章40節~56節
しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出
て行くのを感じたのだから。」と言われた。ルカ8章46節

 イエス様のわざの一つは、病気を癒されたことです。ここでは、ヤイロの娘
の癒やし(生き返り)と長血の女の癒やしが、絡まりながらなされています。
一、イエス様は来る者を拒まれない
 会堂管理人ヤイロは、人々からも信頼される人であったと思われます。娘が
死にそうになって、必
死でイエス様を求めてひれ伏しました。イエス様は、彼の願いを聞き、家へ向
かいます。その途中で、一二年間長血(婦人病と思われる)を患っていた女性
が、イエス様の着物のふさに触れば癒されると信じて、密かにふさに触りまし
た。祭儀的には、汚れていると見られていました。イエス様は、どちらも癒さ
れました。身分や地位で、あるいは汚れているからとか忙しいからと言って拒
まれることはありません。むしろ求めてくるのを待っているのです。
一、信じる者に必ず働く神の力
 この箇所の特徴は、イエス様が無自覚のうちに、イエス様から力が出て行っ
たことです。先週の重い皮膚病の人は、イエス様のみ心、そのお言葉によって
癒されました。今日の箇所では、信じて触った人に神の力が働いたのです。一
二年治らなかったのに治ると信じたのが信仰です。他にもイエス様に触った人
は大勢いたでしょう。でも信じて触った時、力が出て行ったのです。私たちも
信じる時に主の力は、必然的に働くのです。
一、病と死とを打ち破るお方
 イエス様は、ヤイロの娘をも生き返らせました。イエス様は、病と死とを打
ち破るお方です。その力はどこから来るのでしょうか。それは、創造主の全能
の力です。しかし、人に罪が入り、病と死が力を持ったのです。イエス様の十
字架の死によるあがないが、罪とその力、病と死をを打ち破ったのです。
 私たちもへりくだり、信仰を持って神様に祈り求めるなら、主はその祈りを
聞き、必ず答えて下さるのです。
 
2015年2月1日
【主のお心で】ルカ五章12節~16節
「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言
われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。ルカ5章13節

 今日の聖書箇所は、重い皮膚病の人の癒しの所です。らい病と訳されている
言葉は、必ずしもそれと一致しないことや、誤訳がらい病への偏見を招いたこ
とが言われています。その翻訳には、いろいろありますが、その一つは重い皮
膚病と訳されています。日本でも近年まで、伝染を恐れたり(実際は感染力は
弱くほとんど危険はない)、その偏見から人権が無視されて隔離されていまし
た。今ではそれらの政策は、撤廃されています。しかし病の苦しみ以上に心に
も深い苦しみを与えたと言われています。
 当時、重い皮膚病の人は、祭儀的に汚れている者とみなされて、町中に住め
ませんでした。町の中に入る時は、「汚れた者」と声を出しながら歩かなけれ
ばなりませんでした。その人が、突然、人々の中に現れたので、みんなびっく
りしたことでしょう。そしてイエス様に、「主よ、お心一つで私はきよくして
いただけます。」とイエス様に言ったのです。するとイエス様は、手で触れ
て、そのように言われ、病を癒されたのです。
 ここには、様々な信仰の秘訣が現れています。一つは、この病人は、祈願し
たのでなく、イエス様には直せますと宣言したのです。そこに創造主への信頼
と愛への確信があります。もう一つは、神様は、へりくだって求める人を、決
して拒まれないということです。イエス様は、この病人に触れ、人格的に接し
ておられます。(触れたら、その人も汚れると言われていました。)また、イ
エス様は、病を癒し、汚れをきよめ、人を救うことのできるお方だということ
です。
 同じように、主イエスは、私たちをも愛し、人格的に接しておられます。信
頼してへりくだって近づく人を受け入れて下さいます。また私たちをも、癒
し、きよめ、救って下さいます。信じて、祈りましょう。
 
2015年1月25日
【聞いたとおり】ルカ四章16節~30節
「イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことば
が、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」」ルカ4章21節

 これは、イエス様が故郷のナザレで宣教された様子です。23節や他の福音書
と比べると、実は荒野誘惑のすぐ後の出来事ではなく、ガリラヤの町や村で宣
教された後のことだとわかります。ルカは、なぜこの郷里伝道を先に持ってき
たのでしょうか。
 さて、イエス様は、郷里でどのようにみ言葉を話されたのでしょうか。いつ
ものように安息日に、聖書を受け取りました。ところがここで、わざわざイザ
ヤ六一章を捜して開かれたのです。これは、メシヤ(救い主)についての預言
であり、ヨベルの年(五〇年に一度、すべてのユダヤ人奴隷)の解放を告げ知
らせている所です。イエス様は、ここをあえて開かれて、「今日、聖書のこの
み言葉が、あなたがたが聞いたとおりに実現しました。」と宣言されたので
す。それは預言された救いの時が来た、またご自身が救い主であること、(罪
の)奴隷の解放宣言でもありました。この御子による宣言は、今も有効で、私
たちに救いの時が来たと語っています。
 では、郷里の人々は、この救いの実現(成就)の宣言を受け取ったのでしょ
うか。反応は、二つに分かれました。一つは、賞賛でした。もう一つは、イエ
ス様を救い主と認めないものです。「ヨセフの子」。そこに様々な意味が含ま
れますが、皆よく知っているイエス様を御子とは認めなかったのです。イエス
様の言葉に彼らは怒り、イエス様を外の崖から突き落とそうとしますが、イエ
ス様は、その真ん中を通り抜けられました。他の福音書では、その不信仰のた
めに、少ししかみわざをなされなかったと記しています。
 私たちは、どうでしょうか。すでに宣言は有効です。それを信じ受け入れる
時、病、悪霊、貧しさ、奴隷、重荷から解放されるのです。それは、御子があ
の十字架で、それらを代わりに負って下さったからなのです。主の救いを信じ
受け入れましょう。
 
2015年1月18日
【弟子を遣わす】マタイ九章35節~一〇章14節
「行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。」マタイ10章7節

 イエス様は、ヨハネから洗礼を受け、聖霊が降られた後、すべての町や村を
巡って伝道していました。弟子たちに、働き手を送ってくださるように祈りな
さいと言われました。そして、十二弟子を伝道に遣わされました。
 イエス様は、何のために何を命じて弟子たちを遣わしたのでしょうか。(イ
エス様の命令の中には、状況に応じるべき内容もあります。)何よりも「天の
御国が近づいた」ということです。神の救いの時が来たという大切な知らせを
伝えるために弟子たちを遣わされました。また病人を直し、死人を生き返ら
せ、悪霊を追い出すように命じられました。その際、予備の着替えやお金も持
って行かないようにと言われたのです。ただで受けたのだから、ただで与えな
さいと言われました。また平安を祈るように命じられたのです。これだけだっ
たら弟子たちは、心配だったかもしれません。でもイエス様は、権威と約束も
くださいました。
 どんな権威と約束をくださったのでしょうか。それは汚れた霊どもを制する
権威です。それで病気を直したりできるのです。また天の御国は、弟子たちが
すでに受けているものです。そして働く人は、その報酬を受け、必要なものは
与えられると約束して下さいました。それで弟子たちは出発したのです。
 では、なぜイエス様は弟子たちを遣わしたのでしょうか。すべての人に福音
を届けるためです。一つの体では、間に合わないのです。私たちも悔い改めと
信仰によって、天の命を受け取りましょう。またその人を、イエス様は、今
も、み言葉と祈りによって聖霊を注ぎ、隣り人に遣わしておられるのです。あ
なたもそのひとりです。
 
2015年1月11日
【イエス様の洗礼】ルカ三章21節~22節
「イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、
天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
ルカ3章21節22節

 今日は、イエス様の洗礼の箇所を開きます。
一.イエス様は、なぜ洗礼を受けられたのか?
 洗礼は、神様の前に、罪を認めて悔い改めることを示しています。すべての
人は、神様の前に罪人だと聖書は言っています。しかし神の御子であるイエス
様には、罪はありませんでした。洗礼を受ける必要もありませんでした。なぜ
洗礼を受けられたのでしょうか。それは、罪人と同じ立場に立つためです。神
として完全なお方であり、人としても完全なお方でありましたが、私たちと同
じ立場に立ってくださったのです。だから、罪は犯しませんでしたが、私たち
の弱さもわかるお方なのです。また、これはメシア就任式とも言われ、ここか
ら主のメシアとしての働きが始まります。それまでは、人として、ヨセフ亡き
後、家庭を支えて仕えて、人の苦労と痛みを経験されたのです。
二.洗礼の時に何が起こったのか?
 二つのことが起こりました。一つは、聖霊が鳩のように降ったことです。救
い主の働きは、聖霊が注がれて始まる働きです。また天からの声がありまし
た。「これは、私の愛する子」。これは、王としてのメシアを示しています
(詩篇二7)。また「私はこれを喜ぶ」は苦難のしもべとしてのメシアを示し
ています(イザヤ四二章1節)。
三.私たちとの係わりは?
 私たちの洗礼は、キリストにあずかる洗礼です。つまり罪に対しては、十字
架とキリストと共に死に、また永遠の命については、キリストと共によみがえ
らされるのです(ローマ六章)。
 イエス様は、律法を成就するために来られたのです。私たちも聖霊が注がれ
命に生きるのです。
 
2015年1月4日
【ヨハネの宣教】ルカ三章1節~20節
「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに
力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うち
もありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けにな
ります。」ルカ3章16節

 ルカは、イエス・キリスト誕生後、、少年の時の出来事を記し、イエス様が
およそ三〇才の頃へと進んで行きます。その先駆けとなったのが、バプテスマ
のヨハネのことです。彼は何を伝えたのでしょうか。
一、ヨハネの宣教(第一)
 ヨハネが伝えたのは、第一に、「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプ
テスマ」です。悔い改めのしるしとして水のバプテスマを授けていました。ユ
ダヤ人にも、先祖を誇るのではなく、神の前にへりくだること、人への施し、
取税人には、必要以上に集めないこと、兵士には、脅さないこと、自分の給料
で満足することなど、悔い改めの実を結ぶようにと話していました。
二、宣教の目的
 ヨハネの宣教の目的は何だったのでしょうか。一つは、神の前の悔い改めで
す。それは、二つ目に、主の来られるための道備えでもありました。そして、
三つ目に、救い主を紹介することでした。ヨハネは、自分がキリスト(救い
主)ではなく、ヨハネがしもべとなる価値もないほどの、もっと力のある方が
来られ、その方は聖霊と火とでバプテスマをお授けになると紹介しています。
これがヨハネの第二のメッセージで、本当に伝えたいことでした。そして、イ
エス様は、聖霊のバプテスマを授ける方としか紹介されていません。それが最
も重要だからです。
三.聖霊のバプテスマとは
 使徒一~二章にそのことが記されています。一言で言えば、キリストの証人
とする聖霊を受けることです。証人とは、裁判で見たり聞いたという体験を話
す人です。つまりキリストの十字架による罪の赦し、復活の命を証言する力が
聖霊のバプテスマです。もちろん聖霊は、悔い改めの時もその前から働いてい
ます。そして体験を話す人は、話しがぶれません。ヨハネ九章参照。
 主イエスの救いは、私たちに、悔い改めによる罪からの自由を与えるばかり
ではなく、復活と宣教の喜びに生きる力を与えるのです。
 
2014年12月28日
【主の約束を見る】ルカ二章22節~38節
「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなた
は、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目で
あなたの救いを見たからです。」ルカ2章28節~30節

 今年最後の礼拝です。クリスマスの喜びを覚えつつ、一年の恵みを振り返り
つつ、主を礼拝しましょう。
 今日は、救い主を長い間待ち望んだシメオンとアンナの喜びと幸いに目をと
めていきましょう。
 この二人は、メシア(救い主)にお会いすることができた幸いな人たちでし
た。救い主が来られるという何百年も前の預言を聞きながら、それを信じ待ち
望んでいました。ずっと待っていると私たちは、途中で疲れ、希望を失いやす
いのです。しかしシメオンは聖霊に示されて、救い主を見ることができるのを
長年待ち続けていました。アンナも、やもめになってから恐らく五〇年以上、
宮を離れずに待ち望んでいたのです。主の約束を信じて待ち続ける人は幸いで
す。
 そしてついに、幼子である救い主に会うことができました。他にも多くの
人、幼子もいたのですが、聖霊の導きにより、見ることができたのです。神様
が約束されたことを成就して下さったこと、救いの時代が始まったことは、大
きな喜びでした。それはイスラエルにも異邦人にも救いです。しかし救いが成
就するまでには、反対に会い、多くの苦しみ、十字架の苦しみを通されるので
す。
 他の人々は、自分の幸せや欲に目が行き、神様の約束を見てはいませんでし
た。だから救い主が来ても気付かなかったのです。
 シメオンとアンナが見たのは、救いの始まりです。彼らは、十字架と復活を
この地上で見ることはできなかったでしょう。それらの成就は、次の世代へと
託し、天へと帰ったのです。
 私たちも、主の約束にしっかりと目を留める時、約束の成就を見ることがで
きます。そしてまだ見ていない救いの約束も、その成就を待ち望みつつ、次世
代へと託していくのです。
 
2014年12月21日
【飼い葉桶の救い主】ルカ二章1節~7節
「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産ん
だ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所が
なかったからである。」ルカ2章6節7節

 今日はクリスマス礼拝です。キリストの誕生について、聖書は淡々と記して
いますが、とても大きな出来事です。
 救い主の誕生は、何百年も前から、預言者を通して様々なことが預言されて
いました。神様は、時代を超えた救いのご計画を実行されたのです。
 また救い主の誕生の場所もミカにより、ベツレヘムであると預言され、当時
の祭司たちもそれを知っていました。しかし、神のみ告げを受けたヨセフとマ
リヤは、ナザレに住んでいたのです。神様は、当時の支配者、ローマ皇帝の勅
令によって、彼らをベツレヘムへと移動させたのです。時代や世界は人が動か
しているように見えますが、神様がそれらを動かし、私たち一人ひとりの救い
を成就して下さっているのです。
 イエス様は、家畜小屋で生まれたと言われています。宿屋には、いる場所が
なかったからです。それは、ヨセフとマリヤの社会的な立場をも表していま
す。しかしそれと同時に、神であられるお方が、人の中でも最も低く、卑しい
立場に立たれたことをも表しているのです。助けがないと生きられない赤ちゃ
んにまでなられたので、最も弱い人の痛み苦しみを知り、それを思いやり、共
に負い、救うことがおできになるのです。
 救い主は、来られました。しかし、救いが成就するためには、一人一人がこ
のお方を心にお迎えする必要があります。神様の前にへりくだって、あなたの
心を開き、救い主をお迎えしましょう。
 
2014年12月14日
【ザカリヤの喜び】ルカ一章57節~80節
「彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満た
され、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせま
す。」ルカ1章15節16節

 今日はザカリヤの預言を通して、クリスマスに神様から与えられている祝福
は何かを分かち合いましょう。
 聖所で見た幻が実現し、エリサベツには男の子が生まれました。彼らは名前
を決める時、御使いが告げた通り、ヨハネと名付けました。その時ザカリヤの
口が解けて、話せるようになりました。そして預言し、主を賛美したのが今日
開かれている聖書箇所です。
 では、ザカリヤはどんなことを預言し主を賛美しているのでしょうか。一つ
は、老齢で子が与えられたこと、二つ目は、主がイスラエルを顧みて救いの預
言が成就すること、三つ目は、幼子は、救い主の到来の道を備えこと、四つ目
は、異邦人の救いの道も開かれることです。この壮大神様のみ業を賛美してい
るのです。
 イスラエルの歴史を見ると神様の祝福、堕落(神様から離れること)、悔い
改め、救いと回復、神様の祝福という「循環」があります。同じ過ちを繰り返
し、抜けることができないでいるのです。これはすべての人にも当てはまるこ
とです。
 ついに神様は、その不信仰と罪のためにイスラエルに「沈黙」されたので
す。それが旧約と新約の間、四百年も続きました。神様の沈黙を通してイスラ
エルの民は、神様の臨在こそ祝福であることを知ったのです。
 その彼らがすべきことは「主に立ち返る」ことです。そのためにヨハネを遣
わし道を整え、救い主をお送り下さったのです。キリストは十字架のあがない
によって、主に立ち返る道を開かれたのです。そこには、私たちも含まれてい
ます。沈黙を破り救いの道が開かれた。それがクリスマスです。自分の弱さを
認め造り主に立ち返るのがクリスマスです。主に立ち返ってクリスマスをお祝
いしましょう。
 
2014年12月7日
【祝福されたマリヤ】ルカ一章26節~38節
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなこと
でしょう。」ルカ章45節

 今日開かれている聖書箇所は、受胎告知と言われ、クリスマスに必ずと言っ
ていいほど開かれるところです。
 聖書は、すべての人は神の前に罪人であると言っていますから、マリヤも例
外ではありません。しかしそのマリヤに御使いガブリエルが現れ、「おめでと
う、恵まれた方」と呼びかけたのです。イエスの母マリヤは、今でも多くの人
のあこがれであり、マリヤを知らない人はいないほどです。では、このマリヤ
に与えられた祝福とは何なのでしょうか。
一.神様からの祝福とは
 マリヤが賞賛されるのは、なぜでしょうか。やはり何よりも救い主の母とな
ったからです。それは大きな栄誉です。では私たちは、どんな人を祝福された
人と考えるのでしょうか。何かを成し遂げた人、名誉や権力を持っている人か
もしれません。また健康や良い収入、仲の良い家族を持つことかもしれませ
ん。クリスチャンもこれらのものが与えられた人は祝福されていると考えま
す。それでは、この世の成功が神様の祝福なのでしょうか。
 そうではありません。神様の与える祝福は、人の考えを遙かに超えるもので
す。人が考えられることは、人の考えの領域です。またそれは、永遠に残るも
のです。死や他の何かで奪われるものではありません。そして、もう一つは、
神の救いのみ業にたずさわらせていただくことです。人が罪による死から永遠
の命へ変えられていくことに、携わらせていただくのです。マリヤはこのよう
な天の祝福を受けたのです。
二.祝福を受ける秘訣は
 マリヤと同じように私達も祝福を受けることができます。どうすれば良いの
でしょうか。それが今日の聖句です。神の言葉を「信じ切る」ことです。けれ
どもそれが簡単ではありません。疑い、自分の中の別の考え、予想される苦難
などが、神様への完全な信頼を妨げるのです。そこで神様から取り扱われるの
です。見える地上に望みを置くのか、見えない天の望みを見るのか。
 私たちも神様からの祝福を受け取りましょう。
 
2014年11月30日
【光が照った】イザヤ九章1節~7節
「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者た
ちの上に光が照った。」イザヤ9章2節

 今週からアドベントです。キリストが来られたことを待ち望む期間です。今
日は、イザヤの預言から、預言の意味と救い主の性格を見ていきましょう。
 メシヤ(救い主)についての預言は、旧約聖書の様々なところに出てきて、
誕生の時、場所、性格などが記されています。それらは、イエス様と一致して
います。
 イザヤは、救い主の性格について預言しています。
 イザヤの時代は、アッスリヤやバビロンなどが北イスラエルや南ユダ王国に
攻め込んできました。その戦乱で、人々は、多くの痛みと悲しみや死を経験し
ていました。イスラエルの人々は、補囚に連れて行かれ、ガリラヤ地方には、
異邦人が連れてこられました。無気力で希望のもてない時でした。その中でイ
ザヤは、暗黒と暗やみの地に、神様からの光が照ると預言しました。それは救
い主のことを指しています。
 この救い主は(6節)、①不思議な助言者であり、つまりすばらしいカウン
セラーです。また②力ある神であり、つまり天地を創造し、今も全能の力をも
って全地を治めているのです。また③永遠の父であり、つまり良い時も悪い時
も私たちを愛しているお方です。そして④平和の君であり、私たちにこの世の
状況に左右されない平安と充足を与えることのできるお方です。
 これらのことは、ガリラヤで宣教をなさったイエス・キリストの姿をあらわ
しています。
 このキリストは、今も生きていて、私たちのうちに働いておられます。私た
ちの闇を照らし、神の無限の愛で満たして下さいます。また神の愛で満たされ
た私たちは、この世にキリストの光を携えて遣わされていくのです。
 
2014年11月23日
【祈りの家】マタイ二一章12節~17節
「そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いて
ある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
マタイ21章13節

 教会とは何か、聖書の言葉に聞いています。教会は、神様を礼拝する場所で
すが、ここでは特に祈りが取り上げられています。
 イエス様は、十字架に架かられる一週間前にエルサレムに入られました。そ
してしたことは、両替人や鳩を売る人たちを追い出したことです。ここには、
イエス様の怒られた姿が出て来ます。
一.イエス様はなぜ怒られたのか
 なぜ両替人や鳩を売る人々の台を覆し、追い帰されたのでしょう。両替人
は、外貨を神殿のお金に換えるために、また鳩売りも、聖書の規定に従っって
神殿を献げるために必要な働きでした。しかし彼らは、神殿の特権によって守
られ、また礼拝しに来た人人から、余分な手数料を設けていたといわれていま
す。その貪欲と騒々しさが、祈りを妨げていました。(同じ騒がしいのでも子
供は歓迎されています)
一.本来の神殿の姿は?
 両替人達を追いだしたのは、異邦人の庭と言われるところです。ユダヤ人は
さらに奥で礼拝ができましたが、異邦人はそこまででした。ソロモンが神殿を
奉献するとき、異邦人もへりくだって祈るなら、答えて下さいと祈りました。
神様は、必ず答えると約束されたのです。この異邦人の庭は、異邦人が、神様
に心を注ぎだして祈る場所でした。だからそこは聖別されて、世の喧噪を離れ
て、主に祈る場所なのです。それは、現代の教会も同じです。教会は、日常を
離れ、神様の前に、心を注ぎだして祈る場所です。悔い改めたり、問題を出し
たり、とりなしたりして祈るのです。ですから教会は、商売やうわさ話し、ス
キャンダルの場ではありません。
一.祈りの秘訣は
 主は、イエスの御名によるすべての祈りに答えると約束しています。しかし
祈りが答えられる人は、神様に信頼する人です。ゲッセマネや十字架上の主イ
エスと同じように、自分の思いよりも主のみ旨を求める人、また危機的な状況
でも、疑わないで神様に信頼し続ける人を、主は、祝福して下さっています。
 私たちも、そのように祈りましょう。
 
2014年11月16日
【迷子の羊】ルカ十五章1節~10節
「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるな
ら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」マルコ14章22節

 シェパードさんは、百匹の羊を飼っていました。毎日野原でおいしい草を食
べさせます。夕方に帰って来ると、一匹一匹名前を呼んで、ケガがないか病気
でないか確かめて囲いの中に入れます。
 ある日、みんな囲いの中に入れたので
すが、一匹足りません。「あっ、たけしがいない」「大変だ、どこで迷ったの
かなあ、けがをしていないかな、まさかおおかみやライオンに食べられていな
いだろうか」シェパードさんは、九九匹を残して、大急ぎでたけしを探しに行
きました。
 さて、たけしは、いつものように草を食べていたのですが、きれいな花を見
たり、ばったや蝶を追いかけているうちに、みんなからはぐれて知らない場所
に来てしまったのです。「あれ、ここはどこだろう」「みんなはどこ」気付く
とだれもいません。「みんなを探さなくっちゃ」しかし目も悪く鼻も効かない
たけしにはわかりません。あちこちあちこちあるきまわるばかりです。「あ
あ、疲れた、もう歩けない」たけしは座り込んでしまいました。あたりは日も
暮れて暗くなってきました。「だれもいない。ぼくはひとりぼっち?」さびし
く、こわくなってきました。
 シェパードさんはあちらこちら探しますが、見つかりません。「おーい、た
けしー、どこにいるんだあ」「だめだ、見つからない、もっと遠くへ行ってみ
よう」「おーい、たけしー」「暗くなったら探せなくなっちゃうぞ」その時遠
くから小さい声が聞こえました「シェパードさーん」シェパードさんは、とう
とうたけしを見つけました。「よかったあ、けがはないか、さびしかっただろ
う、もう大丈夫だよ」シェパードさんは、たけしを肩にかかえ、喜んで帰って
来て、みんなに「よかったあ、たけしがみつかったあ、喜んでくれ」と話しま
した。
 天の神様は、神様から離れたあなたを探しています。帰って来た時、大きな
喜びがあるのです。また帰ってきた私たちの名前をいつも愛をもって呼んでい
ます。
 
2014年11月9日
【教会の聖餐式】マルコ一四章12節~26節
「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、
これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだで
す。」マルコ14章22節
 聖餐式は、教会の大切な働きの一つです。それは、イエス様がこのように行
いなさいと定められたからです(ルカ二二章19節)。実際には、洗礼を受けて
信仰告白をした人たちが共に、キリストの体であるパンを食べ、キリストの血
であるぶどう液を飲むのです。(洗礼を受けていない人のためには、祝福を祈
ります。)
 聖餐式は、過ぎ越の祭りにあらかじめ表されていました。出エジプトの時、
最後の災いでは、すべての長子が御使いにより殺されました。しかし、神様の
言われた通りに、かもいと二つの門柱に一歳の小羊の血を塗った家では、御使
いは通り過ぎて、だれも死ななかったのです。小羊の身代わりによって助かり
救われたのです。
 最初の聖餐式は、最後の晩餐の時でした。それは過ぎ越の食事の時だったの
です。弟子たちは、これから起ころうとする十字架のことなど全く想像もでき
ずに、だれが一番偉いかと争っていました。その時、イエス様は、十字架で裂
かれるご自身の体、十字架の上で流されるその血に、つまりその命は、私たち
の身代わりであり、それによって私たちが罪を赦され救われることを示された
のです。これによって神様から私たちへの究極の愛が表されたのです。
 だから私たちは、聖餐式を行い、罪が赦された過去を記念し、キリストの体
として生きる現在、そして十字架から復活されたキリストが来られる未来を覚
えるのです。信仰をもって行う時に、聖霊によって救いの事実が、さらに深く
味わわれるのです。
 
2014年11月2日
【教会の洗礼】ローマ六章3節~5節
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに
葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみが
えられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」
ローマ6章4節

 洗礼(バプテスマ)は、教会の使命の一つです。それは、イエス様が命じら
れたからです。ユダヤ教や他の宗教でも洗礼はあります。では教会の洗礼は、
どういう意味なのでしょう。(聖書でも、意味やそのあり方によって、悔い改
めのバプテスマ、聖霊のバプテスマ、イエスの御名によるバプテスマなどいく
つかのバプテスマが記されています。)
一.バプテスマの意味
 洗礼を受けるということは、一般にキリスト教に入信することを意味してい
ます。原語の意味は「浸す」ということです。それは浸されたものにどっぷり
とつかり一体化することを示しています。水によってきよめることを指してい
ます。また洗礼では、洗礼を受ける人の全身を水に浸しますが、それは生まれ
たままの肉的な古い人の死を意味しています。そして水から出て来ることは、
天的な新しい命に生まれ変わったことを意味しています。
 また洗礼は、公での宣言でもあります。主を救い主として受け入れたことを
すべての人の前に言い表す意味があります。別の見方をすれば、洗礼を受けれ
ば救われるのではなく、救われたという信仰表明なのです。ですから、神様に
向きを変えて受け入れることはもっと大切です。
一.受洗者の生活
 洗礼を受けた人は、神を礼拝する生活へと導かれます。日曜毎にまた日々主
を愛し、礼拝します。受洗者は、キリストの体に連なっています。自分の貴い
価値を知っています。そして隣り人を愛し、互いに赦しまた聖霊によってキリ
ストを証します。洗礼の意味をもう一度問い直して、主を礼拝しましょう。
 
2014年10月26日
【教会を建てる】エペソ四章1節~16節
「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げ
るためであり、」エペソ4章12節

今日の聖書箇所には、どのように教会を建て上げるかが示されています。それ
はもちろん、建物のことではなくて、聖徒たちの成長成熟のことを指していま
す。
一.様々な賜物
四章の最初に示されていることは、各々に多種多様な賜物が与えられていると
いうことです。礼拝だけでは、あまりわかりませんが、感謝祭をしてみると、
それぞれが実に違ったたくさんの賜物を与えられているかに目を見張ります。
そしてそれは、ばらばらではありません。キリストの体であって、主にあって
一つなのです。
二.教会の目標
 11節では、預言者や教師などの特に人を導く賜物について書かれています。
その後の12節では、それは、聖徒たちがキリストのからだ、つまり教会を建て
上げるためであると記されています。私たちは、かしらであるキリストの満ち
満ちた栄光にまで成長して、整えられて奉仕ができるようになることが目標な
のです。
三.どのように建てるのか
 このために必要なことは、愛の結びつきです。主と結びつき、また様々な賜
物の聖徒たちが、お互いの違いを認めながら、組み合わされ結びつくことで
す。お互いが生かされる時に、主の栄光があらわされます。
 そのお互いの結びつきは、主との結びつきからきます。イエス様が弟子たち
を選んだ時、その第一は、そばに置くためでした。祈りとみ言葉によって礼拝
によって、主の思いを良く知り、主に結びつくことから来るのです。主の愛が
満ちる時、お互いが結び合わされて、教会は建て上げられていくのです。
 
2014年10月19日
【教会の使命】マタイ二八章16節~20節
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、
子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じ
ておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」
マタイ28章19節20節

 教会に与えられた使命には、礼拝、聖礼典(洗礼と聖餐)を行うこと、宣教
などがあります。その中の宣教について、み言葉に聞いていきましょう。イエ
ス様は、復活された後、天に帰られるまでの間に弟子たちに何度かお会いにな
り、お命じになったことが今日の聖書箇所です。よく大宣教命令と言われま
す。
一.イエス様から託された使命
 イエス様から託されたことは「あらゆる国の人々を弟子としなさい」という
ことです。これは命令です。そしてこの弟子とするということには、二つの内
容があります。一つは、父、子、聖霊の御名によってバプテスマ(洗礼)を授け
ることです。それは自分が自分を制御できないことを認めて、創造主である神
様に向きを変えること、またキリストの身代わりによって自分の罪が赦される
ことを信じて悔い改めることのしるしと証です。二つ目は、イエス様の命令を
守るように教えることです。イエス様の命令とは、互いに愛し合うこと、赦し
合うこと、慰め励まし合うことなどです(ヨハ一三章3節4等)。お互いにへり
くだり仕え合うことです。
 そして私たちがキリストを信じたということは、弟子になったということな
のです。
二.宣教命令への約束
 宣教命令への二つの約束があります。一つは18節。すでにすべての権威はイ
エス様が持っていることです。約束というか事実の宣言です。すでに悪魔の力
は打ち破られ、その権威が教会にも注がれていることです。もう一つは、20節
後半。世の終わりまでいつも私たちと共にいるという約束です。だからどんな
苦難の中でも大丈夫なのです。
 
2014年10月12日
【信条と教会】エペソ五章26節27節
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をき
よめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのような
ものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立
たせるためです。」エペソ5章26節27節

 ここしばらく、教会について、聖書を開いています。今日は、信条に言い表
された教会についてです。信条はいくつかありますが、使徒から伝えられ、私
たちが毎週信仰告白として言い表している使徒信条です。そこでは、「聖なる
公同の教会、聖徒の交わり」と教会のことが告白されています。そしてこれら
は、「我は聖霊を信ず」に続いています。つまり教会は聖霊なる神様の働きの
下にあるということです。
一.聖なる教会
 教会は、神様に聖別された存在です。使徒二〇章28節で見たように、教会
は、御子の血によって買い取られのです。そしてこの世から神のものへと区別
されたというの聖別の意味です。今日の聖句では、全く汚れのないものとして
聖別されたことが、結婚についての教えの中で表されています。
一.公同の教会
 公同とは、カトリックの語源でもあります。教会はキリストをかしらとし
て、地域の教会が、また過去・現在・未来の教会が、また地上と天上の教会が
一つであることを指しているのです。何と壮大なことでしょう。
一.聖徒の交わり
 また教会は、聖徒の交わりにより成り立っています。もちろん個人と神様と
の交わりが先立ちます。しかしそれで十分ではありません。マタイ一八章19節
20節ではあえて主イエスは、二人又は三人と言っています。主の御名によって
集まる、共に祈る所に主は共におられる。人と人の霊的な交わりなくして教会
ではないのです。その時には、お互いに赦し合い、和らぐことも必要です。
 異端との違いの一つは、使徒信条と主の祈りを心から唱え、祈ることができ
るかと言うことができます。今日も主を賛美し、礼拝しましょう。
 
2014年10月5日
【魂の休息】マタイ十一章28節~30節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わ
たしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11章28節

 ある牧師が、二十代まではそれ程思わなかったけど、三十代を過ぎた頃か
ら、生きるって大変だなあって思うようになったと話していました。私はそれ
を聞いてとても共感しました。私たちは、子供の頃もそれなりに、成長、成熟
に連れて、あるいはそれぞれの使命によって、また病気や苦難によって様々な
人生の重荷を負っているのではないでしょうか。
 イエス様は、そんな私たちに、私の所に来なさい、休ませてあげますと言っ
ています。イエス様のもとに来て休んではどうでしょうか。イエス様は、どの
ように、私たちの重荷を負って下さるのでしょうか。
 この後「私のくびきは負いやすく・・」と言っています。くびきとは、馬や
牛が、畑を耕したりするのに首に付ける道具です。一頭でも使いますが二頭で
も使います。くびきがうまくあっていると、楽に力が入ります。私たちの主
は、私たちそれぞれの特色を知って、各自に合うようにくびきを調整して下さ
います。
 また、主イエスは、私たちと共にくびきを負って下さいます。一人で仕事を
するより二人の方が楽に感じます。まして信頼できる仲間がいると辛いことが
楽しくなることもあります。主が、愛をもって私たちの重荷を共に負って下さ
るので、私たちの重荷は軽くなるのです。
 二人三脚では、どちらかというと速い人が遅い人に合わせるとうまくいきま
す。主は、私たちに合わせて下さるのです。また私たちも自分の重荷を主イエ
スに話して、分かち合う必要があります。主は、それを全部受け止めて下さる
ので、荷が軽くなるのです。実は、主は、私たちの重荷を私たちの代わりに十
字架で負って下さったのです。この主に心を向け、共に歩み、重荷を分け合
い、休みましょう。
 
2014年9月28日
【キリストのからだ】エペソ一章15節~二章10節
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって
満たす方の満ちておられるところです。」エペソ1章23節

 キリストと教会の関係について、聖書はいくつか譬えで記しています。この
箇所では、教会はキリストのからだとして描いています。
一.キリストと教会の関係
 教会がキリストのからだということは、キリストはその頭(かしら)という
ことです(コロサイ一章23節)。頭とからだはしっかりとつながっていて、
切り離すことのできない関係です。そして神の御子であるキリストのあらゆる
栄光が、キリストのからだである教会に注がれて満ち満ちてあふれているので
す。
 またからだは、頭が考えたことやしようとすることをそのままに行います。
右に行こうと思えば、神経を伝って、右へと動いていきます。もし、頭の思い
通りに動かなければ、とても不自由ではないでしょうか。キリストと教会も同
じです。教会は、キリストのみ思いをよく知らないといけません。
 またからだには、いろいろな部分があります。
二.からだである教会の原点
 キリストのからだということは、どこから出て来たのでしょうか。パウロの
ダマスコ途上での経験だと言われます。主は彼に「なぜ私を迫害するのか」と
言われました。教会を迫害することは、主ご自身を迫害することだと言われた
のです。
三.からだのつながり(Ⅰコリント十二章)
 からだには、口や耳、手や足、感じる神経や運動する筋肉などあります。そ
れぞれ違います。何かを食べよう頭が考えます。それを目で見て、手で取っ
て、口に運び、よく噛んで、のどから胃腸へと入り吸収します。いろいろな部
分が連携して一つのことができるのです。いらないものは何もありません。そ
して一つが痛めば全体が痛み、一つが喜べば全体が喜びます。私たちの教会で
もみんなで祈り合っています。
 このように教会は、キリストと一つであり、お互いがつながって一つで、満
ち満ちた神の栄光を現しているのです。
 
2014年9月21日
【バベルの塔】創世記十一章1節~9節
「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
ヤコブ4章9節

 今日は、バベルの塔の出来事です。洪水で生き残ったノアの家族に、神様は
「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と命じられました。そしてノアには、孫、ひ
孫とどんどん生まれて人は増え始めました。その頃れんがやアスファルトが発
明されました。当時としては大発明で、今までよりもずっと頑丈な建物が造ら
れるようになりました。人々は、有頂天になりました。そして天まで届くよう
に、それは神様と同じ位に着こうと高い高い塔を建て始めたのです。神様は、
それをご覧になりました。人々は、またも神様から離れて、悪を行い始めたの
です。そして神様は、決断したのです。みんなの言葉(言語)を通じなくしよ
うと。
 その日の朝、みんながいつものように塔を建てようと集まりました。でもお
互いに何と言っているのか通じません。困ったり、けんかしたり、おびえたり
して言葉の通じる人同士で集まりました。そして皆塔を造るのを止めて、世界
中に散っていったのです。その塔は、バベルの塔と呼ばれます。バベルという
のは混乱という意味です。
 ではなぜ神様は言葉を乱されたのでしょうか。いじわるでしょうか。違いま
す。第一の理由は、これ以上悪いことで一致して、また滅ぼすことのないため
です。イエス様の十字架による救いの計画まえに滅ぼすわけにはいかないから
です。第二の理由は、ダイヤモンドダストやさんごのような世界中に溢れてい
る被造物のすばらしさを知り、主を賛美するためです。第三は、言語の違いに
よって、神様のすばらしさを豊かに表現できるためです。日本語はとても情緒
的です。八千近い言語があるそうです。第四は、違いを超えて心が一致する喜
びを知るためです。ペンテコステの時、聖霊は言葉の壁を打ち破り、キリスト
を証しました。その時、言葉を超え心が一致したのです。実は、バベルの塔の
出来事の前に、人々は神様から心が離れ、天の言葉が通じなくなっていたので
す。十字架と復活、そして聖霊によって、人は、神様と、そして隣人と、心を
一つにできるように回復されたのです。主のわざは本当にすばらしいです。
 
2014年9月14日
【聖霊による教会】使徒二〇章17節~38節
「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、
あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」使徒の働き20章28節

 聖書から教会について、開いています。今日は、聖霊との関係から見ていき
ましょう。
一.聖霊による教会の誕生
 教会の誕生は、ペンテコステと言われます。使徒の働き二章の出来事です。
弟子たち一二〇名ばかりが、祈って約束の聖霊を待ち望んでいました。その
日、大きな風のような音がして、炎のような舌が現れ、分かれて一人一人の上
に臨んだのです。それから弟子たちは、キリストの証人として、十字架と復活
を大胆に語りだしたのです。
 主イエスは、よみがえって弟子たちに現れなさった時、主が彼らを「遣わ
す」と言われた後、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われました
(ヨハネ二〇章21節22節)。教会は、聖霊により誕生し、主からこの世界に派
遣されているのです。
二.聖霊による牧会
 今日の聖書箇所は、パウロの告別説教と言われます。28節をみると三位一体
の神様が(とても教会を愛し)教会を導いておられることがわかります。主の
十字架の血汐、つまり主の命で、父なる神に買い取られた教会です。そしてそ
の教会を牧するために、聖霊は、監督や長老、(今の教会のリーダー、牧師や
教師、役員など)をお立てになっているのです。パウロは、教会に間違った教
えによる危機が来ると言いました。聖霊によるリーダーは、「神の恵みのみこ
とば」(32節)つまり聖書を基準として、養い育て、御国へと導くのです。
 私たちの教会も、このように(神の愛が注がれて、)聖霊によって、立てら
れ、導かれ養われているのです。
 
2014年9月7日
【主の前に立て】列王Ⅰ十九章1節~18節
主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」列王記第一19章11節

 エリヤは、アハブ王が信じる偶像バアルとエリヤが仕える主のどちらが本当
の神なのかを示すために、偶像の預言者たち八五〇人に対し一人で立ち向かい
ました。彼は、それに勝ちましたが、イゼベルの言葉を「見て」恐れ、逃げ出
しました。神様は、主の前に立つことができるために、どのようにしてくださ
るのでしょう。
Ⅰ.私たちがどこに立っているかを気付かせる
 「エリヤよ。ここで何をしているのか。」という主の言葉は、「あなたはど
こにいるのか。」と主が、神から隠れていたアダムに語られたのと同じ意味合
いをもっています。エリヤは、私は悪くないと言っていますが、神への信頼を
失い、人を恐れ逃げている自分に気付かせられました。
Ⅱ.私たちが立っている所から、離れるように促し導かれる。エリヤは「外に
出て」と主に言われました。私たちも自分が、どこにいるのかを自覚したなら
ば、そこから離れることができます。神様は「彼らの中から出て行き、彼らと
分離せよ、汚れたものに触れるな」と言われます。神様は、私たちが主の前に
立つことができるために導かれるお方です。
Ⅲ.私たちを愛をもって回復させてくださる
 「もう十分です。私の命を取ってください。」と投げやりになったエリヤに
対し、神は御使いを送られパンと水を与えられました。私たちの弱さをご存知
で私たちと同じようになって下さった主(ヘブル四章15節)は、私たちのすべ
てをご存知であり、必要なものを与えて下さいます。自分ではどうすることも
できない弱さの中でも、神は必ず私たちに細いみ声をもって、神との交わりに
招いて下さいます。主は、「ここで何をしているのか」「わたしの」ところに
来なさい」と招いて下さいます。私たちの弱さもご存知でいて下さる主は、私
たちがもう一度主の前に立って、み声を聞くことができるように導き、愛をも
って包んで下さいます。
 いつも神の言葉が聞こえるその場所に立たせていただきたいと思います。
 
2014年8月31日
【教会の基礎と力】マタイ十六章13節~20節
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上
にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
マタイ16章18節

 今日から何回かに分けて「教会とは」何かと聖書が語っていることに耳を傾
けていきましょう。
 イエス様は、ユダヤの人々を離れ北のピリポ・カイザリヤに来られました。
国外の異教の地です。そこで弟子たちに、人々がイエス様のことをなんと言っ
ているか訪ねられました。人々は、エリヤとかエレミヤとか預言者の名前をあ
げました。その時ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答え
ました。イエス様は、大変喜ばれ、このことは人間が示したのではなく、天の
父が示されたのだと言われました。そして「わたしはこの岩の上にわたしの教
会を建てます」と言われたのです。
 この岩とは何でしょうか。ペテロとも生けるキリストとも言われますが、そ
れはペテロの信仰告白を指しています。ただの大工のせがれを神の御子と言う
のは尋常なことではありません。罪の無い神の御子、そして私の救い主という
のがこの告白です。主は、その上に教会を建てると言われました。教会の本質
とは、建物ではありません。一人一人が、あなたこそキリストです私の主です
と告白する上に建てられるのです。教会は、牧師のものでも役員のものでもな
く、一人一人の信仰によって建つのです。だれが建てるのでしょうか。キリス
トが、ご自分の意志をもってご自分の教会を建てるのです。あってもなくても
いいのではありません。
 礼拝とは、み言葉を聞いて恵みを受けるだけではありません。それも大切で
すが、それによってイエスは主ですと告白してあがめるのが礼拝なのです。こ
の教会には、悪魔も打ち勝つことができません。もの凄い約束です。私たちは
この主の力によって、主の命令(洗礼、聖餐、宣教)を遂行するのです。ハレ
ルヤ!
 
2014年8月24日
【国籍は天に】ピリピ三章13節~21節
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救
い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。ピリピ3章20節

 今日は、召天者記念礼拝です。いつもそうではあるのですが、特に、先に天
に帰った方々を覚えつつ、主に礼拝をおささげしましょう。というのは天での
礼拝も、地上での私たちの礼拝も、一つだからです。
 この聖句には、私たちの国籍が天にあると書かれています。神を信じ、御子
による救いを信じた人は、神の子どもとされています。この地上にいてもすで
に、天国の国籍に変えられているのです。それは、別の言い方をすれば、この
地上の生活は、仮の生活で、寄留しているということです。そしてやがては、
国籍のある天国に帰って行くということです。天国は、創造主の完全な愛が満
ちあふれ、義と公平とが支配する聖なる国です。そうすると本来神様から離れ
ていた人間には、入ることのできないところです。しかしキリストの身代わり
により、義とされて入ることができるのです。そして信仰に応じて褒賞が用意
されているのです。
 しかし天での祝福は、この地上での苦難や悲しみをすべて免れさせるもので
はありません。もちろん祈りにより、癒されたりします。しかしキリストは、
十字架の上で苦難と死とを味わわれました。私たちも苦難を通されることがあ
ります。またこの世での別れは、大きな悲しみです。
 けれども私たちには、苦難や悲しみまた死を超えて、希望があります。それ
はキリストが死を打ち破り、復活されたところから流れ出ています。天上のも
のも地上のものも地下のものも、死もその他何者も、私たちを神の愛から引き
離すことはできないのです。そしてやがて私たちもキリストと共に天に集めら
れ、先の人々と再会し、共に主を賛美する希望をもっているのです。
 
2014年8月17日
【み言葉の力】イザ五五章6節~13節
「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのと
ころに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送っ
た事を成功させる。イザヤ55章11節

 聖書についての最後の回になります。聖書のみ言葉、つまり神様のみ言葉に
は、どのような力があるのでしょうか。
 まず第一に、聖書は、この世界は神様のみ言葉によって創造されました。神
様が「光あれ」と言われると光ができました。神様のみ言葉は、その通りの出
来事になるという裏付けのある言葉だと聖書は告げています。
 第二に、聖書のみ言葉は、歴史を導いているということです。神様は、創造
された後放置しているのではなくて、その後も歴史を導いておられます。旧約
の時代は、特に選ばれた人々、アブラハム等を通して、罪によって祝福を失っ
た人々に、祝福を回復する道を示して来られました。そしてメシヤ(救世主)
をお遣わしになって、救いの道が成就しました。これには単に言葉だけではな
く、愛による痛みがともなっているのです。また聖書は、これから起こること
として、やがてキリストが再臨して全世界を義によって裁かれることを預言し
ています。これらの言葉もやがて事実となるのです。
 第三に、神のみ言葉は、人を救い、作りかえる力を持っています。神様は人
の心を深く探り知るお方です。人が自分でも知らなかったことを明らかにする
ことができます。そして人が、創造の始めにそうであったように、神様に信頼
して立ち帰るならば、罪の赦しと永遠の命を与えられます。また神様は、それ
ぞれに、み言葉によって、救いの使命の共働者として導いておられます。私た
ちも救いのわざにたずさわることができるのは大きな喜びではないでしょう
か。
 み言葉をしっかりと握りましょう。
 
2014年8月10日
【聖書による導き】Ⅱテモ三章15節~17節
「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受
けさせることができるのです。テモテ第二3章15節

 数週間にわたり、聖書とはどんな書物であるかをみています。聖書は、キリ
スト教の正典です。それは、定規のようなものです。定規にあてて線を引くと
まっすぐに線が引けます。同じように、聖書に従っていくと、まっすぐな人生
を歩めるのです。聖書が私たちの人生を正しく導きます。ある牧師は、聖書
は、人生の取り扱い説明書だと言っています。適切な人生を生きるためには、
聖書を良く知ることが大切です。聖書は、どのように私たちを導くのでしょう
か。
一.聖書は、救いに導く
 聖書は、私たちをキリスト・イエスに対する信仰による救いに導きます。聖
書は神の霊感によって書かれました。ですから聖書を人間の知恵で、道徳的な
基準としてみても聖書はわかりません。しかし神様の前にへりくだって聖書を
開いていくと、聖霊の照明によって、イエス・キリストの言葉や行いが見えて
きます。自分の罪が見えてきます。そしてこの二千年前の十字架と復活が、自
分の救いのためだったとつながって来るのです。悔い改めと信仰に導かれ、救
われるのです。
二.有益な信仰生活に導く
 16節に「聖書は」「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」と記
されています。救われた人の信仰生活を導きます。救いは、信じるだけで無条
件で受けられます。しかし成熟には献身と時間とが必要です。私たちの一つ一
つの考え方、行動が聖書の基準で正されて変えられていくのです。忍耐が必要
です。特に、赦し赦されることは大切なことです。
 聖書に導かれ、私たちは、十分に整えられて良い働きをすることができるの
です。
 
2014年8月3日
【聖霊と聖書】詩篇一一九篇130節他
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えま
す。」詩篇一一九篇130節

 今日は、聖霊と聖書の関係に焦点を当てて、聖書を開いていきましょう。
両者には、密接な関係があります。
 一、まず、聖書は、神の霊感によって書かれた(Ⅱテモテ三章16節)と聖
書は自己証言しています。これは、特別な神の霊の働きです。そして二度と
起こりえない働きでもあります。私たちは、聖書は、原著において誤りのな
い神の言葉であると信じています。それは、神様が天において定められたも
のだからです(一一九篇89節)。原著とは、各著者が聖霊に示されて最初に
書き記した時のことを指します。またそれは、著者が無意識に機械的に書い
たものではなく著者の主体性(個性や経験)が生かされて書かれており、ま
た思想ではなく一語一語示されて書かれており(マタイ五章18節)、また部
分的に神の言葉ではなく聖書全体が神の言葉(Ⅱテモ三章16節、ルカ二四章
27節)です。
 二、聖書を理解するためにも聖霊の働きが必要です。文字を追って知的理
解はできても、真の意味は聖霊によって、み言葉自身が開かれて初めてわか
るのです(詩篇一一九篇130節)。これを照明と言います。
 聖書は、聖霊によって書かされ、聖霊によって解き明かされるのです。と
ころで聖霊は、三位一体の神の一つの位格です。ですから聖霊の働きは、聖
書によって制限されることはありません。しかし聖霊は真理なるお方ですか
ら、書かれた聖書も真理です。(真理を明らかにするために、人間の過ちや
弱さもそのままに書かれています。それを真理と誤ってはいけません。)従
って聖霊は聖書と矛盾する働きもなさいません。それどころか聖霊の働き
は、み言葉によって確証されるのです(使徒二章)聖霊の助けによって、こ
の尊いみ言葉に聞いていきましょう
 
2014年7月27日
【聖書の示すもの】ヨハネ5章39節他0
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べてい
ます。その聖書が、わたしについて証言しているのです。ヨハネ5章39節

 ヨハネの福音書には、キリストを証言しているものとして、バプテスマのヨ
ハネ、父なる神、御子ご自身、聖霊、そして聖書があげられています。その中
の聖書が、どのようなものか、もう一度確かめましょう。
 聖書は、紀元前一五〇〇年頃から紀元一〇〇年頃まで、長い年月をかけて書
かれています。当然一人で書いたものではなく、多くの人がそこにたずさわっ
ています。しかし、聖書が指し示しているものは、不思議なことに、一つのこ
とであり、キリスト、すなわち救い主のことです。ですから、人と時代を超え
て聖書を書かせたお方がおり、その真の著者は、父なる神様だと言われるので
す。旧約時代に聖書を書いた預言者達もこの救い主を見たいと思いつつ、記し
たのです(Ⅰペテロ一章10節)。
 旧約聖書には、外典、偽典と呼ばれるものもあります。なぜ聖書に入ってい
ないか、それはキリストを証言していないからです。逆に、旧約聖書を見ると
どの書にも、キリスト証言をみることができるのです。
 またキリストも、この世に来られた使命に立って、聖書が成就するために、
十字架に命をも捧げられました。聖書は、単なる言葉ではなく、預言と成就と
いう事実の裏付けのある言葉となったのです。
 この聖書の言葉は、確かに文字として理解することはできます。しかし本当
に理解するためには、神様の前にへりくだり、神を認めて信頼し、神の言葉を
受け入れることが必要です。すると証言されているキリストが明らかにされる
のです。そこに、神の愛とゆるし、和解と回復への道が開かれるのです。
 
2014年7月20日
【ピリポとエチオピヤの宦官】使徒8章26節~40節
「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
使徒の働き8章4節

 ステパノが殉教した後、エルサレムで大迫害が起こりました。信徒の多く
は、使徒の他はエルサレムから逃げていきました。でも、意気消沈していたの
ではありません。逃げながら、喜んで福音を伝えていたのです。ピリポもサマ
リヤで福音を伝えて多くの人が、イエス様を救い主と信じました。
 そんな時、神様は、ガザへ行くように示されました。ガザは荒れ地で人はい
ません。なぜそんなところに遣わされるのでしょうか。ピリポは、サマリヤで
もまだたくさんやることがあると思いつつも、人の知恵を超えた神様のおっし
ゃることに従って出発しました。
 道の途中で、馬車がピリポを抜かして行きました。その時、声が聞こえまし
た。その声は、聖書のイザヤ書、しかもメシヤ預言の五三章を読んでいたので
す。御霊に促されて、ピリポは馬車に追いつき、「その意味がわかりますか」
と聞きました。すると「教えてくれる人がいなければわからないでしょう。ど
うぞ教えて下さい。」と答えがあり、馬車に乗りました。
 その人は、エチオピヤの宦官で、女王様の財産や財宝を管理する人でした。
ピリポは、「これは救い主のことを預言しています。その救い主とは、ナザレ
のイエスです。この預言の通りに、イエス様は、十字架で私たちの罪を代わり
に負って下さったのです。」と話しました。エチオピアの宦官は、素直に信じ
ました。
 そして水のあるところに来たので、イエス様が勧められているように、洗礼
を受けました。すると御霊によってピリポは隠されて見えなくなりました。し
かし、エチオピアの宦官は、救われて喜びながら、旅を続けました。その後、
アフリカで多くの人が、イエス様を救い主と受け入れました。
 
2014年7月13日
【こここそ神の家】創世記28章10節~
「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられてい
る。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしてい
る。創世記28章12節

 献堂記念礼拝に際して、改めてこのみ言葉を心にとどめています。この御言
葉は、六年前に、拙者が赴任する時に示されたみ言葉でもあります。
 ヤコブは、一人で母の実家へ行くことになりました。それは前途洋々の旅で
はなく、反対に、こんなはずではなかったという感じだったのではないでしょ
うか。祖父アブラハムに約束された神様からの祝福を、なにがなんでも欲しい
と思ったヤコブです。そしてその祝福を受け継いだはずでした。しかしその
時、父イサク、兄エサウをだましたのでした。エサウはかんかんに怒り、殺さ
れないために逃げてきたというのが実情でした。祝福はどこへいったのでしょ
うか。
 一日歩き日が暮れて、寂しく石を枕に眠りにつきました。そして夢を見まし
た。でもそれは神様からのお告げでした。あなたと共にいて、あなたを祝福す
るという約束でした。ヤコブは、起きてびっくりしました。ここに神様がいら
っしゃる、そして天の祝福を注いでいてくださると初めて知ったからです。
「こここそ神の家だ、天の門だ」と言い、主を礼拝しました。
 「ここ」というのは、場所のことでしょうか。それ以上に神様の祝福を受け
継ぐ人を指しています。今、キリストの救いに与る人は、アブラハムの子孫で
あり、神様からの祝福を受け継ぐ人々です。恵みを受け継いで建てられたこの
芽室教会に、今も天の門が開かれ、私たちに恵みと聖霊が注がれています。そ
して私たちも、この天からの祝福を次の世代へと渡していくのです。これまで
の歩みを感謝しつつ、主を賛美しましょう。
 
2014年7月6日
【日ごとの糧を】マタイ6章11節
「私たちの日ごとの糧をきょうも(私たちに)お与えください。」
マタイ6章11節

 今日は、主の祈りから日ごとの糧の祈りを開きます。主の祈りは、呼びか
け、神様の栄光のための祈り、私たちのための祈り、頌栄という順序になって
います。日ごとの糧の祈りは、私たちのための祈り三つのうち、最初の祈りで
す。
 戦後の食糧難の時代を経て、物の豊かな時代を過ぎましたが、今でも、日々
の食事や必要は、変わりません。神様は、私たちにとって日ごとの糧が切実な
ものであるのをご存知です。そして主は私たちを愛して養って下さるので、心
配しないで、祈るようにと促しておられるのです。
 しかし、この祈りは、体の必要ばかりを言っているのではありません。ある
聖書は、4章4節を「人はパン(食べ物)だけでは生きられません。神様からの
一つ一つの言葉が必要です。」と訳しています。人は霊的な存在なので、生き
るには神の言葉が毎日必要なのです。6章33節でも、「だから、神の国とその
義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは、
すべて与えられます。」と言っています。
 この霊的な糧を、造り主から離れた人間が受け取るために、キリストは十字
架上で体を裂かれ、血を流し、あがないを全うされたのです。
 私たちは人間であっても野の花と同じように、明日はどうなるかわからない
ということもあります。だから人の生き方は、必要が満たされる、あるいは、
必要以上の欲望を満たしていくだけで終わるようなものではなく、神の恵みの
支配の下にあって、神の義や救いを求める、霊的な崇高な目的がある生き方だ
とキリストは示しているのです。私たちの生き方は、どうでしょうか。
 そしてこの祈りの中に、原語では二回「私たち」という言葉が使われていま
す。日ごとの霊肉の糧の祈りは、利己的にではなく、お互いに、全人類のすべ
ての必要のために祈る祈りでもあるのです。
 心を新たにしてこの祈りを祈りましょう。
 
2014年6月29日
【十戒の心】出エジプト20章
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、
主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」
出エジプト20章23節

 十戒は、旧約聖書のすべての律法の根幹となる戒めです。日本で言えば、あ
らゆる法律の根幹となっている憲法のようなものです。
 そして旧約聖書は、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の正典とされていま
すから、世界人口の半数以上の憲法にあたるわけです。
 随分昔ですが、上智大の教授(カトリックの司祭)が、聖書の世界はどうし
たらわかるか、それは 日本の憲法を見たらわかると言っていることが新聞記
事に載っていました。
 日本の憲法で一番大切なのは何かというと、前文であると学校の先生から教
えられました。なぜかと言えば、そこには条文の基となる理念が書かれている
からです。
 十戒も同じです。十戒は、前文と前半部分(神についての戒め)と後半部分
(隣人についての戒め)からなります。そしてこの前文に、十戒の心が記され
ているのです。2節です。戒めはほとんどが禁止命令です。でもなぜそう言う
かというと、あなたがたをエジプトで奴隷でいたところから助け出したから
だ。その解放を硬く保ち、もう奴隷にならないためだということです。
 しかもなぜ助けたかというと、アブラハムとの約束だからです。民の功績で
はありません。また民は、聖なる神の前に立てる者ではありませんでしたが、
過ぎ越の小羊が代わりに犠牲となったので、立てるのです。神様は、愛の心
で、神様との正しい関係を維持できるように、この十戒を与えられたのです。
ですから行為以上に心の内面が問われています(マタイ五章)。そして今日、
本当の私たちの罪の身代わりである神の小羊キリストが与えられています。そ
れこそ本当に罪を赦す神の愛のあらわれです。
 十戒は、裁くためというよりも①救い出された神の愛を深く覚えその中にと
どまることと、②私たちもその父なる神と同じように慈悲深い愛に生きること
(マタイ五~ )を目標としています。
 
2014年6月22日
【獅子の穴から】ダニエル6章
「この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主
権はいつまでも続く。この方は人を救って解放し、天においても、地において
もしるしと奇蹟を行ない、獅子の力からダニエルを救い出された。
ダニエル6章26節・27節

 今週の26日は弾圧記念日です。それは私たちの教団に神様から与えられた特
質でもあり、また使命でもあります。それを覚えつつ、ダニエルの信仰に触れ
させていただきましょう。
 すでに高齢になったダニエルでしたが、ダリヨス王からは厚く信頼されて、
王に次ぐ高い地位にいました。それを同僚がねたみ蹴落とそうと策略を巡らし
ます。しかし主を愛し、潔癖なダニエルに死角はありませんでした。ダニエル
の信じる神様について罠にはめることにします。つまり王に、その日から三〇
日間は王以外には、神にも他の何に祈願するものは、獅子の穴に投げ込まれ殺
されるという法律を承認させたのです。
 ダニエルは、それを知りつつ、いつものように日に三度エルサレムに向か
い、ひれ伏して礼拝しました。彼らはそれを見て、王に訴えたのです。王は罠
と知り、後悔しましたが、遅かったのです。ダニエルは、獅子の穴に投げ込ま
れ、入り口は封印されました。
 一晩眠れなかった王は、夜が明けるとすぐ穴に行き、ダニエルを呼びまし
た。何とダニエルは答えたのです。王は大喜びで、ダニエルを出し、敵をその
穴に投げ入れました。
 王は、永遠の神を知り、お触れを出したのが今日のみ言葉です。
 ダニエルは、これまでも助けてくれた神様に信頼しました。その神様を礼拝
することは、命を失うことよりも大切な事だと考えたのです。永遠の命を持
ち、天地万物を治めているお方は、ダニエルを永遠の命に入れてくださると知
っていたからです。私たちに尊い命を下さったキリストのために、損すること
を恐れないで歩みましょう。ローマ8章32節
 
2014年6月15日
【「天からのパン」を召し上がれ】ヨハネ6章35節
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢
えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがあり
ません。ヨハネ6章35節

 私は、一九七〇年夏、世の光のキャンプでイエス様を救い主と受け入れまし
た。その前五月に初めて、キリストの言葉に触れました。後でわかったのは、
それが救世軍世界大会でした。その中で新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れ
るということを聞きました。何のことかよくわかりませんでしたが、何かが残
りました。次の日に礼拝に行きましたが、何もわかりませんでした。当時ベト
ナムの平和に興味がありましたが、いくら反対しても軍事同盟が結ばれていく
ことにむなしさを感じました。その七月にバプテストの世界大会があり、ビリ
ー・グラハム師が講師で、通訳が羽鳥明師でした。その時心に残ったのは、本
当に世界を変えたいなら、あなたが変わりなさいという言葉です。自分でなく
世界を変えようとしていました。
 今日の聖書箇所は、五千人の給食という奇跡の流れの中です。人々は満腹に
なって、主イエスに「そのパンをいつも下さい」と言いました。人には肉体の
空腹でなくて、もう一つの空腹があります。イエス様は「私がいのちのパンで
す。」と言われました。天からのパンであるイエス様を食べるということは、
イエス様を受け入れるということです。その人は、天からのいのちにつながっ
て、霊的空腹が満たされて永遠に生きることができます。その人は、天国人に
なります。イエス様は、その時神の国はあなたがたのうちにあると言われまし
た。私たちは、お互いにキリストという一本の木につながっているのです。
 「幸い薄く見ゆる日に(新聖歌三三二)を福音歌手の安田氏が歌っているの
を聞いてとても心打たれました。実は、安田氏もその数年前にご主人を失って
打ちひしがれていたのですが、十字架の主を見上げるこの賛美で強められたの
でした。私たちは、打ちひしがれることがあります。だからこそ、この天のパ
ンを食べるのです。このパンを食べ続けて、天国人としてこの地上で生きるの
です。(文責・尾崎)
 
2014年6月8日
【ゆるぎない証】使徒2章
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、
今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
使徒の働き2章31節・32節

 ペンテコステは、クリスマス、イースターに続くキリスト教のお祝いの日で
す。そしてこの日は多くの意味を持っています。
 この日は、一節から書いてある通り、大きな音と炎の舌という見えるかたち
で聖霊が降られました。それは、教会の誕生日とも言われます、そして何より
も彼らはキリストの証人となる力が与えられたのです。
 聖霊は旧約の時代も働いていました。しかし聖霊が降り、聖霊に満たされる
出来事は、聖書の時代も、また現代でもくり返し起こっていることです。その
度に、聖徒は変えられて、キリストを力強く証しし、多くの人々が救われてき
ました。
 聖霊は、三位一体の神の一つの位格です。神なるお方です。私たちは、聖霊
に、恐れ従うのです。聖霊はご自身を隠して、父なる神様と御子キリストとを
指し示すお方です。また聖霊は求めて与えられるお方であります。逆に言う
と、聖霊を避けたり疎んじるところには行かれません。私たちは、へりくだり
求める必要があります。
 弟子たちも聖霊が与えられる前に祈っていました。何を祈っていたのでしょ
うか。恐らく、それまでだれが一番偉いかと争っていたことを悔い改め、罪の
赦しの尊さを覚え、そのためのキリストの苦難を覚えて、へりくだってキリス
トに従うことを祈っていたのでしょう。
 聖霊は、力も与えますが、それ以上にキリストご自身のへりくだりを指し示
されます。私たちも赦しの愛の大きさを知り、聖霊に満たされ、へりくだっ
て、ゆるぎなくキリストを証しましょう。
 
2014年6月1日
【キリストは、道・真理・命】ヨハネ14章1節~11節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ヨハネ14章6節

 ペンテコステ(聖霊降臨)を待ち望む期間です。この14~16章は、最後の晩
餐でのメッセージと思われますが、聖霊について多くのことを示しています。
そして、主イエスは、弟子たちを見捨てて行くのではない、心を騒がせないよ
うにと心を配っています。
 私たちにとって、道は当たり前すぎるものです。でも道がなければ、先へは
進めません。キリストは、天の父の御許へ行く唯一の道であると言われまし
た。それは、キリストが天から来られた方であり、すべての人の罪を代わりに
負うからこそ、天への道となることができるからです。キリストを通して、私
たちは天への道を進むことができます。
 真理とは、本当のことですが、それは偽物でないこと、さらに不完全でない
完全で変わらないことを示しています。キリストは、真理であり変わらないお
方です。神を失った人間は、真理を失っています。
 この世界は、命にあふれています。でもこの自然界で、命は不思議な存在で
す。すべてが壊れていく中で、命だけは、命を生み出すことができます。でも
その命も、命の源である神様から離れたところから死につながっています。人
は、自分の罪を知っています。しかしキリストが人の罪を負われたことによ
り、罪の赦しを受け取る人は、死から解放され、永遠の命に生きるものへと変
えられるのです。
 わたしが道であり、真理であり、いのちであると言われる主キリストは、私
たちを見捨てるのではなく、それらを得させるために、十字架で死に、よみが
えり、天に帰られたのです。そして私たちを天に迎えるのです。この主を受け
入れましょう。
 
2014年5月25日
【み心に適う願い事】第一列王記3章
この願い事は、主の御心にかなった。
「見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。」
第一列王記3章10節・12節

 今週の木曜日は主の昇天日であることを覚えましょう。今日は、ソロモンが
御心にかなう願いをしたこと、またその祝福を覚えつつ、その生涯から、私た
ちの祈り願うことは何かを聞いていきましょう。
一.何が喜ばれたのか?
 ソロモンは、夢で神様から何が欲しいかを問われました。しかしそれは単な
る夢ではなく、実際の神様の問いかけでした。ソロモンは知恵を求めて主に喜
ばれ、他の祝福も与えられると約束されました。ここで問われることは、では
富や名声、長寿、権力などを求めることは、御心にかなわないのかということ
です。また知恵ならば御心にかなうのでしょうか。ソロモンは、民を治めるた
めに知恵を求めました。神様は、自分のために富や長寿などを求めなかったと
言っています。その心の奥の動機が問われています。私たちもキリストの奥義
の管理者として祝福が与えられています。
一.ソロモンの失敗は何を意味するのか
 ソロモンは晩年に失敗します。その影響は深刻で国が分裂しました。何が失
敗だったのでしょうか。それは、偶像礼拝です。創造主でないものを神とする
ことは、創造主に対する不敬虔です。その栄誉を他に与えることはできませ
ん。そして被造物である人や、木や石が神になることはできないと言っている
のです。神を神とすることが知恵の初めです。
一.私たちが今御心にかなう求めとは
 今、御心にかなう求めとは何でしょうか。第一に創造主、救い主に対する真
の礼拝、第二に、恵みを誇らないでよく管理すること、第三に、聖霊に満たさ
れること=絶対的信頼、第四に、信仰を次世代に継承することではないでしょ
うか。御心にかなって求めていきましょう。主は、必ず答えて下さいます。
 
2014年5月18日
【みことばに導かれて】使徒17章10節~12節
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
詩篇119篇105節

Ⅰ.聖書とは何か「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正
と義の訓練とのために有益です。」Ⅱテモテ3章16節。聖書はいろいろな時代
のいろいろな仕事の人が、神様からこれを書きなさいと言われて書いたもので
す。
Ⅱ.み言葉に導かれて
 1.新しく生まれるベレヤの人々は、良い人たち(素直な人たち)でした。
  パウロの話を聞いたけれど、本当かなと思い、会堂へ行って聖書を調べま
  した。み言葉に導かれて、ベレヤの人々は神様を信じ新しく生まれまし
  た。み言葉に導かれて、聖霊が働いて、私たちは、新しく生まれるので
  す。
 2.生きる
  a.み言葉は私の足のともしびみ言葉はロウソクの光のように、暗い中
   で、足もとを照らすともしびです。ともしびがないと暗やみの中で、落
   とし穴に落ちたり、つまずいて転んだりするのです。イエス様は「わた
   しは世の光です」と言われました。光の中を歩いていると思っていても
   イエス様がいないと、やみの中を歩いているのと同じです。私たちは罪
   のやみの中にいるのです。イエス様の光によって、私たちは生きていく
   ことができるのです。
  b.み言葉は私の道の光懐中電灯のように、遠くまで照らす光。道の光と
   は、道の方向や方角を示してくれる光です。み言葉は、私たちに進む道
   を示して下さいます。私の人生の道にいつも神様のみ言葉の光があり、
   行くべき道を示して下さいました。
Ⅲ.いつもみ言葉に導かれて歩む
 「聖書は私についてあかしをするものである」聖書はイエス様ご自身のこと
を証しています。聖書を読むと神様のことがわかります。聖書は神様からの愛
の手紙です。神様は愛しているよと言って下さり、イエス様を与えて下さいま
した。普段の生活の中でみ言葉に触れていないと私たちは闇の中を歩いてしま
います。その時だけではなくて生活の中でいつも一足一足イエス様のみ言葉に
導かれて歩いて行く時、神様に教えられ、神様に感謝して歩いて行くことがで
きるのです。
 
2014年5月11日
【ダビデの悔改め】Ⅰサムエル11章~12章
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。詩篇23篇4節

 この詩は、ダビデの生涯をまとめたものだと言われています。その全体を貫
いているのは、主へのまったき信頼ではないでしょうか。
一.主は羊飼い
 イスラエルで羊や羊飼いは身近な存在です。主が羊飼いであれば、私たちは
羊です。羊は、武器を持たず、近眼で、鼻も効きません。とても弱い動物で人
に飼われていなければ、絶滅していたと言われています。私たちは、羊飼い無
しでは生きていけないと自分の弱さを認める必要があります。その時、主は、
荒野の人生の中で、霊や心の糧を豊かに与えて下さいます。そして一人一人の
名を呼んで愛し養ってくださいます。
一.死の陰の谷でも
 私たちは、人生の中で、死と隣り合わせのようなところを通ります。ダビデ
も幾度となく通されました。でも主が共にいるから大丈夫と信頼しています。
半端な信頼はかえって危険です。そしてキリストは、私たちのためには、事実
十字架の死の中を通られました。わたしとあなたの罪のために命を捨てて下さ
ったのです。だから主を信じる私たちは、死の中を通されても主が共にいるか
ら大丈夫だと信頼しています。そして、私たちは、主と共によみがえる希望を
持っています。
一.主の宴会に招かれて
 主は、戦の最中、敵の前でも宴会を開くことができます。私たちも主に信頼
するので恐れはありません。それは本当に信頼できるものでないとできないこ
とです。主は私たちを永遠の住まいに迎えて下さいます。私たちは、これまで
も刻一刻と変わっていく人生の中で、全信頼を主に置くようにと問われて来ま
した。これからも主に全信頼を置いて進みましょう。
 
2014年5月4日
【ダビデの悔改め】Ⅰサムエル11章~12章
ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」
ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。
あなたは死なない。」第二サムエル12章13節

 ダビデは、試練の連続の中、主に信頼し、王となりました。すばらしい信仰
を見せたダビデですが、誘惑に負け、罪から罪へと陥ってしまいます。私たち
は、罪を犯さないことも大切ですが、聖書は、罪から立ち帰ることこそ大切だ
と示しています。
一.誘惑と欲の性質
 誘惑は、私たちの強いところでは高慢に、弱いところでは不信仰や劣等感に
導こうとします。もう一つは、心の隙をつくことです。多くの戦いを経験した
ダビデも、気がゆるんでいました。休みは必要ですが、天国に入るまでは、気
を緩めすぎてもいけないのです。誘惑にあうことは避けられません。誘惑にあ
うことは罪ではありません。しかし誘惑に陥ると罪になります。誘惑への一番
の対処法は、その場から逃げることです。誘惑にあいやすい場所や時間、状況
などを考え避けることです。また人には欲に勝つ力はありません。主の愛によ
って勝つ力が与えられます。
一.罪の性質
 罪は、ほんの一瞬、偽りの安らぎを与えます。そのために、永遠の苦しみと
負い目を負う事になります。罪の本質は、裏切り、欺きです。罪は、人を責
め、こんなひどい人は他にだれもいないと思わせます。また罪は隠そうとする
性質があります。しかし創造主の前に隠せることはなにもありません。隠そう
とすると、さらに罪を重ね、より重い罪の深みへとはまっていきます。
一.悔い改め
 悔い改めは、罪と向き合い、神様と向き合うと
ころに起こります。まず罪から目をそらさずに向き合います。そして自分の罪
を認めます。そしてその責任を負うことです。しかしこれだけでは、死と絶望
しかありません。創造主の愛に信頼しましょう。神様は、罪あるそのままで受
け入れてくださるのです。そして罪の代価を、罪の無い独り子が私たちの代わ
りに、十字架の死によって払ってくださったのです。それを信じ受け入れる人
に、罪の赦しと永遠の命が与えられます。だから信じましょう。
 
2014年4月27日
【手を下すな】Ⅰサムエル26章
しかしダビデはアビシャイに言った。
「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられ
よう。」第一サムエル26章9節

 ダビデの逃亡生活の続きです。ダビデは神様への信頼をとことん試されてい
ました。
 サウルが三千の兵を率いて再び追いかけてきました。彼らは陣を取ったので
すが、彼らは深く眠ってしまいました。神様がそうさせたとあります。そこへ
ダビデとアビシャイが来ました。サウル王を殺すチャンスです。
 ここで問われるのは、何が神様のみ心かということです。アビシャイは、神
様がこのチャンスを下さった。一突きにすれば、すべては終わると言いまし
た。これまでの散々苦しめられました。いつ自分が殺されるのかわかりませ
ん。またこれは24章に続くことです。もう見逃さないと考えたかも知れませ
ん。
 しかしダビデの判断は、サウル王は神様から油を注がれた人である。その人
を殺すことは、神様に逆らうことであり、罪を得るというものでした。もし見
逃せば、危険は増すばかりです。なぜそのように決断できたのでしょうか。
 まず、ダビデは、神様の権威を認めていたからです。天地を創造された主
は、今も世界を正しく治めておられる。諸王の力に勝る方と認めていたので
す。その方が油注がれたのだから、自分ではなく、主が裁かれるということで
す。
 次に、ダビデは、自分を神様に全く明け渡していました。自分の守りでは、
すぐ限界がきます。しかし自分を見出した主が、守り、さらに良いところへ導
いて下さると信頼し、自分を委ねていました。
 もう一つは、油注ぎの重要性を知っていたからです。
 
2014年4月20日
【弟子たちとの再会】ヨハネ二〇章19節~23節
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるため
に、よみがえられたからです。ローマ4章25節

 イースターは、十字架で死なれたイエス・キリストの復活をお祝いする日で
す。今も昔も、人がよみがえるということは、あり得ないことです。そのあり
得ないことが起こったのがイースターです。
 キリストの死によって、弟子たちは、全くの絶望に陥っていました。身の危
険を感じていました。またイスラエルの復興という理想と希望を失いました。
彼らのすべてであったキリストの死は、彼らの存在の意味すらも失わせる出来
事でした。
 彼らが、一つの部屋に戸を閉じて集まっていました。不思議なことにそこに
主が来られたのです。主は、「平安があなたがたにあるように」と言われて、
手の釘の跡、槍で突かれた脇腹をお見せになりました。弟子たちは、喜びまし
た。主の復活は、罪と死への勝利です。人類の究極の希望です。私たちは、生
活のこと、将来のこと、病気や死について恐れます。キリストの復活は、それ
らにまさって希望を与えるものです。
 主は「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わす」と言わ
れました。弟子たちの理想は、主の思いとは違っていました。しかし主は、最
後の晩餐の時の言葉を再確認し、弟子たちが、聖霊によって、神の国と救いと
のために遣わされると言われました。
 さらにキリストは、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。
聖霊は、彼らをキリストの証人とします。キリストは四〇日後に天に帰られま
したが、聖霊によっていつもキリストとの関係を保つことができるのです。私
達も同じです。
 キリストの復活は、私たちをも義とし、罪と死とに勝利を与えます。私たち
はこのキリストにあって失われることのない希望をもっています。
 
2014年4月13日
【十字架上の渇き】ヨハネ19章17節~42節
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するため
に、「わたしは渇く。」と言われた。ヨハネ19章28節

 今週は、受難週です。主の十字架を忍びつつ、しかしその先に復活を覚えつ
つ歩みましょう。今日はこの箇所に記された、イエス様の十字架上の二つの言
葉「私は渇く」と「完了した」を鍵として十字架をみていきましょう。
一.なぜ渇いたのか
 イエス様が十字架の上で渇いたと言われました。十字架の刑は、最も残酷な
死刑だとも言われます。茨の冠をかぶせられ、むち打たれ、手に釘を打たれ、
血を流し、肉体的な苦しみによって主は渇きを覚えられました。しかしそれだ
けではありません。罪の無い方が、すべての人の罪を負う事に対する恐れが心
を渇かせました。また罪を負うということは、父なる神様との断絶に至りま
す。父なる神様との交わりを求めて霊と心とが渇いたのです。そして多くの人
がもう一つの意味をそこに見出します。それは、滅びる魂が罪を赦されて救わ
れる事への飢え渇きです。主は、そのために人々の罪を負い、渇きを覚えられ
たのです。
一.十字架によって何が完了したのか
 完了したことの一つは、病と苦しみとを代わりに負うことです。神様が最初
に世界を造られた時は、病も苦しみもありませんでした。罪が入り、完全が崩
れたところに、病と苦しみが起こってきました。主は私たちの代わりにそれを
すべて負って下さったのです。(イザヤ五三章4節、マタイ八章17節)。
 もう一つは、全ての人の罪を負う事を完了されました。罪の無い方だけが、
罪とその罰とを負う事ができるのです。罪のすべての代価がこの十字架で支払
われたのです(イザヤ五三章56節)。だから私たちはこの救いを受け取るだけ
でよいのです。
 主からの救いを受け取り、私たちのための十字架であったことを覚えて過ご
しましょう。
 
2014年4月6日
【主のとりなし】ヨハネ一七章
またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それ
は、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
ヨハネ17章22節

 先ほど進級式をしましたが、新年度になり、環境が変わった人も多くいるこ
とでしょう。今年は、イースターが遅く今月20日になります。ずっと待ちわび
ている感じがします。今日開かれている聖書箇所は、最後の晩餐の時、ゲッセ
マネの園へ向かう前に、主イエスが、とりなして祈った祈りです。読んでみる
とまず、ご自分のために祈っています。それから弟子たちのために祈ります。
さらに弟子の言葉を信じる人々、そこに私たちも含まれますが、その人々のた
めにとりなして祈られました。
 その祈り内容をよく表しているのが、この22節です。二つの鍵語がありま
す。一つは、「栄光」です。主イエスは、この地上で神の栄光を表されまし
た。しかし天地を造られる前から、神の栄光を持っておられるお方でした。そ
してこの地上での最後に、十字架と復活によって神の栄光を表そうとしておら
れました。そしてその満ち満ちた栄光を私たちに与えたと言っておられます。
キリストを信じる私たちには、もの凄い栄光が与えられています。
 もう一つの鍵語は「一つである」です。主キリストを通して、私たちは、神
様と一つであることができるのです!しかし異なったものが一つであることは
容易ではありません。ある結婚式の説教で、寛容とは、堪忍袋の緒が切れたと
ころから始まると聞きました。なるほど、本当です。私たちが主と一つである
には、いつも主と共にいる必要があります。礼拝、聖書のみ言葉、祈り、主へ
の信頼にって、神のみ思いを知り、深め、一つとされていくのです。そのため
に主は私たちのために祈られたのです。私たちは、どのように主に応答するで
しょうか。
 
 
 
過去のメッセージ
 2013年度分
 2012年度分
 2011年度分
 2010年度分
 2009年度分
 
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。