メッセージ(文責:尾﨑豪)
 
2016年3月27日
【イエス様の復活】マルコ一六1~8
「青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられた
ナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここ
にはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」
マルコ16章6節

 今日は、イースター、つまりキリストの復活祭です。初期のキリスト教会で
は、クリスマスを超えてキリスト教一番のお祭りでした。しかし死んだ人が生
き返るということは、普通は起こりません。そのようなことを信じることは、
普通は、おかしなことです。それでもキリストはよみがえられたと聖書は言っ
ています。なぜでしょうか。
 まず、聖書はその時の出来事をどちらかと言えば、淡々と記しています。安
息日が終わって、マグダラのマリヤを初めとする女性たちが数名、イエス様の
亡きがらに当時の習慣に従い香油を塗ろうと、墓へ行きます。墓の入り口の石
をどうしようかと話し合います。ただでさえ動かせないのですが、総督が封印
し、番兵までついていたのです。ところが行ってみると、その石は転がされ、
墓の中には、青年がいたのです。そして、恐れることはない。あなた方の捜し
ているイエスはよみがえられたと告げたのです。女性たちは、とても驚き恐れ
て弟子たちに伝えたのでした。
 このような出来事ですが、復活は信じるだけの理由があります。第一に、そ
れは、イエス様の預言の通りだからです。神と人の前に真実な生涯を送られた
キリストは、嘘偽りを言わないからです。第二に、天地宇宙を創造された神様
は、自然を超えた方で、無から有を呼び出す神様だからです。第三に、聖書
は、死は罪の結果であると言っていますが、その罪の代価が十字架で払われ、
罪の結果である死の効力が失われたからです。第四に、多くの復活の主に出会
った証人がいるから否定できないのです。(第一コリ一五)。そして、そして
最後に、心を開く人にキリストはご自身の復活を現されるからです。だから私
も証人です。あなたも証人です。
 主は、心を開くなら、あなたにも現れて下さいます。復活の主にお会いでき
ますように祝福を祈ります。
 
2016年3月20日
【イエス様の十字架】マルコ一五章16節~47節
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなの
です。」マルコ10章45節

 今日は、棕櫚の主日と言います。イースターの前の週、イエス様は、エルサ
レムに子ロバに乗って入城なさいました。人々は上着や棕櫚の葉を道に敷いて
歓迎しました。王としての入城です。戦いの勝利の象徴としての馬ではなく、
平和の象徴として、ロバに乗って入城されました。
同時に、この週、十字架の死を遂げられます。そして次週はイースターを迎え
ます。ですから、棕櫚の主日に十字架のみ言葉が開かれることが多いのです。
 さて、人々は、イエス様をどのように扱ったのでしょうか。兵士たちは、紫
の衣を着せ、葦の棒をもたせ、茨の冠をかぶせ、王様万歳と言ってひれ伏して
あざけりました。群衆や祭司たちは、「神殿を壊し、三日で建てる者よ、他人
を救ったように自分を救え、そうしたら信じよう」とののしりました。彼ら
は、自分の言ったことが目の前で成就しているのに気づきません。また多くの
しるしを見ても信じなかったのです。人は信じないことは、見ても信じないで
否定するのです。私たちは、み言葉を聞いて信じる者でありたいです。
 主イエス様は、どのようになさったのでしょうか。あらゆる悪口を聞きなが
ら、言い返すことなくただ黙って十字架に付けられました。十字架は、苦しみ
を味わわせるための残酷な死刑です。天の軍勢を呼ぶ力を持っているのに、む
ちの傷を受け、釘で打たれ、無実の罪を着せられるなら、死を前にして、黙っ
ているならば気が狂うのではないでしょうか。しかし、主イエス様は、黙って
それを忍ばれました。なぜでしょうか。それは、聖書の言葉が成就するためで
した。その打たれた傷によって多くの人の傷を癒し、罪から救うためだったの
です。
 この十字架による罪の赦しを信じましょう。罪を悔い改めて、キリストの命
を受けましょう。十字架を心にとめて、この週を過ごしましょう。
 
2016年3月13日
【イエス様の裁判】マタ二六章57節~二七章26節
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでし
た。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになりました。Ⅰペテロ2章22節23節

 イースターが近づいています。その前に、イエス様の十字架を覚える必要が
あります。今日は、イエス様が受けられた裁判です。裁判は、本当に悪いこと
をしたのかどうか判断して、罰を決めるところです。イエス様は、ユダヤの裁
判とローマの裁判と二つの裁判を受けられました。
 ユダヤ人の裁判は、夜中に始まりました。本当は夜が明けるまで始めてはい
けないのです。違法な裁判でした。多くの人が嘘の証言をしましたが、証拠は
ありませんでした。イエス様はずっと黙っていました。大祭司が、「あなた
は、キリストか」と聞きました。イエス様は「私が、そうだ。」と答えまし
た。大祭司は、自分がキリストとは、天の神を冒涜する罪だ、死刑だと言い、
みんなも賛成したのです。ユダヤ人は救い主つまりキリストを待っていまし
た。でも神様のみ心がわからないで、キリストを殺してしまったのです。欲と
自己中心は、罪です。
 ユダヤ人は、イエス様をローマの総督ピラトに渡しました。死刑の権限はロ
ーマにしかなかったのです。ピラトも尋問しましたが、イエス様は答えられま
せん。これも聖書の成就です。ピラトは総督の権威をかざしましたが、イエス
様は、「あなたは上から権威が与えられなければ何もできない」と言われまし
た。裁いてるつもりの人が裁かれていたのです。ピラトは、イエス様に罪がな
いことがわかっていましたが、群衆の声に負けて、自分の身を守るために、イ
エス様を十字架刑するように命じたのです。ここに正義を貫けない人間の弱
さ、罪が現れています。
 神様は、こんな、弱い、罪深い人間、私たちの身代わりとして、イエス様
に、人の罪を負わせたのです。へりくだって、悔い改めて、赦しを信じる人に
は、救いが与えられます。素直な心で、悔い改めて信じましょう。
 
2016年3月6日
【イエス様の宣教】マルコ一章29節~39節
「こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ
知らせ、悪霊を追い出された。」マルコ1章39節

 先月、前の聖書箇所から、イエス様の教えには、権威があったことを見てき
ました。さらに続けて、イエス様の宣教を見ていきます。
 イエス様の宣教は、教えとわざの二つの面があります。一つは、福音を告げ
知らせたことです。福音をとは何でしょうか。それは15節にあります。「時が
満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」ということで
す。「時が満ち」とは、旧約からの救いの預言が成就する時がきたということ
です。
「神の国は近くなった」とは手の届くところに来ているということです。「悔
い改めて」とは悪い行いをそして神様を無視した生き方を神様にお詫びしてと
いうことです。「福音を信じなさい。」とは、イエス様が旧約聖書の預言通り
の救い主であると信じることです。イエス様の十字架と復活が成就した今、福
音とは、私たちの罪過の身代わりとしてのイエス様の十字架と、義とされるた
めの復活を信じることです(ローマ四章25節)。
 もう一つのイエス様の福音は、イエス様のなさったみわざです。シモンの姑
を癒やし、多くの悪霊を追い出し、みもとに来た人はすべて癒されました。
(これは、メシヤ=救い主預言の一つです。)
 もう一つ大切なことは、時間を割いて、静かなところで、祈られたことで
す。イエス様でさえも天の父との個人的な交わりを必要とし、そこで新たな
命、宣教の力を与えられています。
 では、私たちは、この主イエス様にどのように応答するのでしょうか。ま
ず、悔い改めて福音を信じることです。次に、天のお父様との個人的な交わり
によって、日々新たにされることです。そして、イエス様と同じ思いで、宣教
のわざに加わることです。信仰をもって、応答しましょう。
 
2016年2月28日
【苦情への対応】使徒六章1節~7節
「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良
い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせること
にします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにし
ます。」使徒の働き6章34節

 今日は、教会の七つの本質の最後、「適応可能な構造」の二回目です。この
聖書箇所は、ペンテコステの後、成長した教会に問題が起こってきました。ど
う解決したかに、今日のテーマが見えています。
 この問題が解決した時、「こうして、神のことばは、ますます広まってい
き、エルサレムで、弟子の数が非常に増えていった。」(5節)とあります。
問題を解決すると教会が成長するのです。
 教会にも問題は起こります。ですから問題が問題なのではなく、どう解決す
るかが問題なのです。
 問題が持ち上がった時に、まずどのような問題かを見極める必要がありま
す。単なるミスか、改善点はないか、構造を変える必要があるかなどです。初
代教会の規模が大きくなってきた時に、これまでのあり方では適応できなくな
ってきたのです。組織の問題です。しかし、良い状態の時に、改善へ動く必要
があるとP・ドラッカーは言っています。
 彼らは、どのように改善したのでしょうか。まず、何を変えてはいけないか
を確認する必要があります。本質である、祈りとみ言葉中心を変えることはで
きません。キリストが隅の頭石、み言葉と預言者がその上の土台です。(Ⅰペ
テ二)
 その上に教会の建物を築いていくのです。その建物は、教会の文化、状況、
規模などで適切に変えていく必要があるのです。それは最後の日に、残るよう
に建てなければなりません。
 彼らは、七人の執事を建てることにしました。その手順も大切です。問題を
知ると、まず使徒たちがビジョンを示します。神様のビジョンは、会議や投票
で決まるのではなく、神様がリーダーに示すものです。そしてそのビジョンを
みんなが分かち合っていくのです。教会のみんなが、教会のビジョンを共有し
ていくのです。共有されたビジョンは実行に移されます。
 私たちもそのように問題を解決する時、成長していくのです。
 
2016年2月21日
【新しい皮袋】マタイ九章14節~17節
また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんな
ことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになっ
てしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。
マタイ9章17節

 今日は、教会の七つの本質の七番目、適応可能な構造について、この聖書の
み言葉から聞いていきます。
 このみ言葉は、ヨハネの弟子との断食論争につづいています。また布切れで
のつぎあての譬えでも同じようなことが言われています。
 今私たちは、普通皮袋にぶどう酒を入れません。それは、どんなことを言っ
ているのでしょうか。新しいぶどう酒は、発酵します。気体が出て体積が増え
ます。圧力が増えるのです。その時もし古い皮袋だと、油分が落ち、ひび割
れ、圧力に耐えきれないで破れてしまいます。するとぶどう酒も皮袋もダメに
なってしまうのです。しかし新しい皮袋は、張りがあり、圧力がかかっても破
れないのです。だから新しい皮袋を使うのです。
 では、イエス様が譬えで語られた意味は何でしょうか。それは、イエス様が
おられることによって、この世とは違った、新しい命、力ある命があるという
ことです。そして、その命は、もし今までと同じ方法つまり、生活様式や生き
方であるならば命の力に耐えられないということです。新しい命に古い生活様
式を続けると、新しい命さえ失ってしまうのです。
 ですから、私たちは、新しい命にあった生き方に変えなければなりません。
それが新しい皮袋です。その一つは、命の喜びに生きることです。また主を礼
拝し、日々の静思の時を通して、いつも主のみ心を確認することです。そのた
めに大切なことは、優先順位を変えることです。
また教会では、聖霊様に聞き、状況に合った運営方法を取る必要があるので
す。
 主から与えられた命にふさわしく歩みましょう。
 
2016年2月14日
【協力】使徒一五章36節~40節
私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれ
ていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。
エペソ6章20節

 今日は、教会の七つの本質の六番目、「ネットワーク」つまり協力につい
て、聖書のみ言葉に聞いていきます。協力の協の字は、十字架の十に力が三つ
です。十字架の元に力を合わせるのが強力です。ここでは、特に他教会、他団
体との協力を意味しています。ですから、これだけは一教会だけですることは
できません。
 今日の聖書箇所は、パウロの所属するアンテオケ教会がどのような教会と協
力したかを示しています。それは、宣教に出て行き、そこにできた教会です。
ただ伝道しっぱなしではなく、そこに生まれた教会と信徒の様子を見、交わり
をして、さらなる成長へと導いています。
 またパウロは、ローマ教会に手紙を書きました。その教会には行ったことは
ありませんでした。しかし手紙で大切な教理を伝え、励ましています。これも
協力です。今回のコーチングセミナーでも遠方から先生方が来て下さいまし
た。
 なぜ協力が必要なのでしょうか。教会が孤立したり傲慢にならないためで
す。最後の晩餐の時、弟子たちは誰が一番偉いか争っていました。しかし復活
の後「みな心を合わせ、祈りに専念していた。」(使徒一章12節)のです。そ
こに聖霊が降りました。宣教が始まったのです。彼らは説教するペテロの傍ら
に立ち一致していました。教会は、キリストを頭として一つのからだなので
す。
 協力の方法もいろいろです。互いに祈る、から訪問、派遣や交わり、献金、
手紙、電話、今ではネットでの交流もあります。教団、教派、地域、宣教の分
野も多々あります。祈りは別ですが、一教会や個人ですべてを網羅したり、関
わったりはできません。限界があります。だから、それぞれの召命や賜物、能
力に応じて協力するのです。
 この教会、また私の、あなたのできる協力は、何でしょうか。
 
2016年2月7日
【イエス様の権威】マルコ一章21節~28節
イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。する
と、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行
った。マルコ1章25節26節

 聖書は、神の御子であるイエス様が権威を持っていることを記しています。
教え、自然、悪霊、病気、罪の赦しに対して権威を持っています。ここにも教
えと汚れた霊に対する権威が現されています。
 イエス様は、人からの伝聞でなく、ご自分の教えなので権威をもって教えら
れました。それに人々は驚きました。
 ところで、聖書は、悪霊の存在を認めています。認めさせないのは、悪魔の
策略です。悪魔は初めからうそつきです。悪魔とは、悪霊の頭で、サタンとも
呼ばれます。サタンと悪霊どもには、創造主により、すでに永遠の苦しみが決
定しています。それで人を巻き込もうと働いているのです。
 さて、今日の聖書箇所を見ると、汚れた霊は、神の御子を認め、その権威を
認めています。それから逃れようとしますが、逆らうことはできないのです。
御子イエス様は、悪霊の証言を必要のしません。「黙れ」と言ってそれを許し
ません。またその人の中に留まることを許さず、追い出されました。イエス様
は、悪霊に対しても悪魔に対しても、従わせる権威を持っておられます。
 では、悪霊とクリスチャンの関係はどうでしょうか。基本的に、クリスチャ
ンには、聖霊様が与えられ内に住んでいるので、悪霊に支配されません。しか
しもし悪霊に場所を与えると、入ってくるのです。ともすれば、滅びに至りま
す。決して悪魔に機会を与えてはいけません。エペソ四章27節、使徒五章、Ⅰ
コリント三章16節~18節。また主に立ち返るなら救いを回復されます。クリス
チャンには、そればかりでなく、信じる者には、イエスの御名により、悪霊を
追い出す権威も与えられているのです(マルコ一六章17節)。主を賛美し、悪
魔と悪霊に勝利しましょう。
 
2016年1月31日
【キリストにあって一つ】ガラテヤ三章28節
「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありませ
ん。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからで
す。」ガラテヤ3章28節

 このお言葉は、ケズイックコンベンションの標語聖句でもありますが、すべ
ての教会がキリストにあって一つであること。民族や階級、性別を超えて一つ
であることを示しています。今日は、教会七つの本質の六番目ネットワークで
す。ネットワークとは、教会間の協力のことです。
一、一つとは
 私たちは、礼拝の度に、「聖なる公同の教会を信ず」と告白しています。公
同とはどういうことでしょうか。教会は、主から建てられ、それぞれの地域に
存在しています。それは、見える教会です。教会はキリストの体であって、す
べての教会はキリストにつながっています。教会は本質において一つです。そ
れは見えない教会とも言われます。すべての教会とは、世界中の教会を含みま
す。過去・現在・未来の教会を含みます。地上の教会ばかりでなく天上の教会
も含めて、キリストにあって一つということです。なんと壮大でしょう。
一、「一つ」の基準とは
 しかし世界には、偽キリストや反キリスト、間違った教えもあります。何を
もって「一つ」というのでしょうか。①聖書が唯一の正典です。②使徒信条を
信じ告白します。③三位一体、唯一の神を信じます。④主の祈りを祈ります。
⑤信仰による救いを信じます。他にもありますが、これらは重要です。そし
て、統一協会モルモン教ものみの塔(エホバの証人)等とは一致できないこと
を示しています。
一、母教会とは
 本質の教会に属していれば、地域教会に属さなかったり、転々と渡り歩いて
も良いのでしょうか。私たちには、帰る家庭が必要なように、拠点となる教
会、信仰の友が必要です。そこから祈られ、養われ、使命が与えられ、派遣さ
れ、帰って報告し、癒され、祈られて行くのです。宣教の使命が全うできま
す。また礼拝と祈祷会で心一つに主を崇めることも祝福の源です。苦難を共に
するからこそ復活に預かるのです。拠点があってこそ、教会や教派を超えて一
つ協力できるのです。
 主はすばらしい。
 
2016年1月24日
【弁明の用意】Ⅰペテロ三章15節16節
「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたの
うちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる
用意をしていなさい。」Ⅰペテロ3章15節

 今日の聖書箇所は、前々回につづき、教会の七つの本質の伝道と増殖につい
てです。
 イエス様は、「失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19章10
節)と言われました。イエス様は、救われた人以上に、まだ救われていない人
に感心をもっておられます。私たちも、イエス様と同じ思いで未信者に関心を
持ち、また与えられた喜びを伝えるべきです。しかし私たちは内向きになりや
すい性質があります。
 エゼキエル書の中で、神様に召された人々の伝える責任を語っています。し
かしその結果については、問われていません。それは聞く人の責任だからで
す。
 そして、私たちは、私たちの持っている希望を話すためには、「いつでも弁
明できるように用意して」いることが大切です。大抵、後から、こう話せば良
かったとかもっと準備しておけばと思うからです。前もって、準備しましょ
う。
 準備で大切な一つは、霊と心の準備です。いつも祈って主の愛の中にいるこ
とです。
 話すのに、一つは、自分の経験談をまとめておくことです。信仰にもいろい
ろな面があります。なぜ神の存在を認めるのか、イエス様を救い主と認めるの
か、キリスト中心に歩もうとするのかなどです。例えば、救われる前、その出
来事、救われた後のように整理できます。また、もう一つの事は、神様はどん
なお方なのか、なぜ救いが必要なのか、どうしたら救われるのかなど、教理を
知り、聖書の言葉を説明できるようにすることです。字のない絵本や四つの法
則なども使えます。
 御子を持つ者は命を持っているので、主にあって、命を生み出すことができ
ます。主に信頼して、証しましょう。
 
2016年1月17日
【荒野の誘惑】ルカ四章1節~13節
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から
出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」マタイ4章4節

 イエス様の荒野の誘惑は、イエス様が洗礼を受けたすぐ後の出来事です。あ
る人々は、キリスト教を信じると、いろんなことがうまくいくと考えます。し
かし聖書は、逆のことを示しています。イエス様は、なんと御霊によって、荒
野に導かれ、試練に会われたのです。私たちも同じです。しかし、試みや誘惑
を通して、本当の自分の姿がわかり、試練を乗り越えると信仰がはっきりと
し、ゆるがないものとされるのです。ここには、悪魔の三つの誘惑が記されて
います。
 四〇日の断食の後、イエス様は、空腹を覚えられました。そこへ悪魔が来
て、「もし、神の子なら、石をパンに変えてご覧なさい。」と言うのです。イ
エス様は、四節のみ言葉で悪魔を退けました。人は食物を食べていても、魂が
死んでいることがあるのです。人が生きるにはパン以上のものが必要です。神
様のすべてのみ言葉が必要です、とある人は訳しています。人の霊を生かすの
は、神様のみ言葉です。み言葉を蓄えましょう。またイエス様は、神の力を自
己中心のためには使われませんでした。み心に従って用いるものだからです。
 第二の誘惑は、世界のあらゆる権力を得るために、悪魔を礼拝するというも
のです。悪魔は嘘つきです。一時的には、支配者のように見えますが、神様か
ら一時盗んだだけで、すぐにとり戻されるからです。しかしこの罠にはまる人
もいます。イエス様は「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。」
というみ言葉で退けられました。世の力でなく、創造者、全能の主を救い主と
認めて礼拝する時、永遠の命と平安を得るのです。
 第三の誘惑は、神殿のてっぺんから飛び降りてみなさい、御使いたちが支え
て、皆がイエス様をメシアと認めますよというものです。悪魔は、聖書のみ言
葉によっても誘惑します。正しい意味が大切です。人の救いは安易な奇跡にで
はなく、苦難とあがないによってのみ成就するのです。主を試みてはいけませ
ん。
 私たちもへりくだって、主に信頼し、主のみ言葉に従う時、試練に勝ち、信
仰が強められます。
 
2016年1月10日
【地の塩世界の光】マタイ五章10節~16節
あなたがたは、地の塩です。
あなたがたは、世界の光です。マタイ5章13節14節

 今日は、教会の七つの本質(必要不可欠なもの)に戻ります。四番目の「伝道
と増殖」についてです。この御言葉は、この世界におけるクリスチャンの意味
を現した言葉として有名です。
 ところで、まず見たいことは、なぜクリスチャンは、地の塩世界の光なのか
ということです。それは、第一コリント六章19節20節にあります。救いを信じ
る私たちのからだは、聖霊の宮であって、聖霊様が内に住んでおられるので
す。もう自分自身のものではないのです。代価を払って買い取られたからで
す。私たちに神様の栄光が注がれているので、自分のからだで神の栄光を現す
のです。
 またまだ創造主を知らない人々は、私たちを見て、創造主を知ります。人々
にとって、聖書に何と書いてあるかよりも、私たちのしていることが聖書なの
です。ですから、伝道は特別な何かではなく、私たちの生活そのものなので
す。
 さて、塩にはどんな性質があるでしょうか。なによりもしょっぱい味です。
また殺菌作用、腐敗を防ぐ働きがあります。地の塩とは、この世にあって、腐
敗を防ぐ存在のことではないでしょうか。悪の源は、自己中心です。神様の愛
から離れたからです。様々な形で現れます。そして、神様と愛の関係が回復さ
れた人が、悪の腐敗を防ぐことができるのです。そして塩がその効果を発揮す
るのは、水に溶けて見えなくなった時です。私たちも自分の存在を無にして、
神様の愛を持って人々の中に入る時に、地の塩としての働きをすることができ
るのです。
 また私たちは、世界を照らす光です。この光は、太陽のように自分で光るの
でなく、月のように、神様の光を反射して、世界を照らす光です。
主に生かされて、その行動によって主の栄光を現しましょう。
 
2016年1月3日
【弱さの中の完全】二コリ十二章1節~10節
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたし
の力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。
第二コリント12章9節

 今年最初の主日礼拝になります。新しい年に主の導きを求めて、礼拝しまし
ょう。今日のみ言葉は、今年の標語聖句として、主の前に掲げて参りましょ
う。
 ここでパウロは、弱さの中にいると言っています。肉体にとげが与えられ
て、三度も、主に取り去って下さるように願ったのです。どんなとげかは、推
測の域を出ませんが、肉体的であれ精神的なものであれ、パウロにとって激し
い苦痛であったに違いありません。これさえなければ、もっと宣教できるのに
と思ったかもしれません。しかし、神様の答えは、それで十分だということで
した。パウロは、一度、二度と神様の答えを受けつつ、三度願ったのです。そ
して、神様が、最善のことをなして下さっていると信じて、受け取ったので
す。ここに信仰があります。
 神様はなぜとげを与えられたのでしょうか。パウロが高慢にならないためで
す。なぜ高慢になるのでしょうか。パウロは、この2節に、第三の天、つま
り、天国に上げられた経験を書いています。恐らくパウロ自身の経験と言われ
ます。見ることの許されないものを見、聞くことの許されないものを聞いたの
です。彼が、これから受け取るべき神の栄光が、どんなにすばらしいものかそ
れを知ってしまったのです。とげがなければ、抑えられない恵みと喜びを味わ
い続けているのです。それは私たちもやがて受け取る栄光です。だからとげが
与えられたのです。私たちはそれに気づいているでしょうか。
 そして人の弱さの中に、神様の力は、完全に現されます。パウロも私たち
も、人の及ばない所、宣教のわざ、とげ、弱さ、迫害の中だからこそ、神様の
栄光だとはっきりと言えるのです。
 
2015年12月27日
【御子の謙卑と栄光】ピリピ二章1節~11節
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができな
いとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じよう
になられたのです。ピリピ2章6節7節

 今年最後の礼拝になります。一年に与えられた恵みを感謝しつつ主を賛美し
ましょう。今日開かれている手紙が送られたピリピ教会は、教会に喜びがあふ
れていることで有名な教会でした。その喜びはどこから来るのでしょうか。
 この二章では、キリストの模範に倣って、お互いにへりくだり、他の人を自
分より優れた人とするように言われています。その原動力は何でしょうか。
 それは、イエス・キリストの謙卑(けんぴ)です。天地を創造するお方、無
から有を呼び出す方が、被造物であり、制限の多い人間になられました。また
十字架の死を味わわれ、すべての人の罪を身代わりに負われました。十字架刑
とは、重罪人を辱め、苦しめて殺す、最も残酷な刑です。御子が、人間の中の
一番の苦しみを味わい、死に、黄泉に行かれたのです。何という謙卑、仕える
姿勢でしょうか。一番低くなられたので、すべての人の苦しみ痛みを理解でき
るのです。
 そして、父なる神様は、この御子イエス様を天に引き上げ、すべての名にま
さる名をお与えになりました。それは、すべての者が、ひざをかがめて「イエ
ス・キリストは、主です」と告白して、礼拝するためです。それは罪の無いお
方が、罪とその罰を受けられたからです。神様は、私たちをこの主キリストの
礼拝に招いています。
 実は、ピリピの教会にも対立があったようです(四章2節)。イ先生は「も
しへりくだらないといけないと思うなら間違いです。はじめからあなたは低い
からです」と言いましたが、その通りです。
 しかし、私たちが、神と人の前にへりくだるなら、イエス様と同じように引
き上げられるのです。
 
2015年12月20日
【霊の共鳴】ルカ一章39節~56節
エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツ
は聖霊に満たされた。ルカ1章41節

 御使いガブリエルから、御子の受胎を告知されたマリヤは、大変戸惑いなが
らも、神様に信頼し、それを受け入れました。
 その後すぐに、エリサベツの元へ行きました。エリサベツも御使いの告げた
通りに、ヨハネを身ごもっていました。
 マリヤの声を聞くと、エリサベツのお腹の赤ちゃんは喜び踊り、エリサベツ
も聖霊に満たされて、マリヤを歓迎しました。その祝福の詩に呼応したのが、
マリヤの賛歌です。この時、まだ小さく意識のない、御子も体内で聖霊に満た
され喜んだことでしょう。
 この救い主の誕生は、その前の混沌とした約束の時代から、神様の約束が成
就し、人の救いへの道が開かれるという、人類の歴史を二分する大転換をもた
らす出来事でした。
 旧約の時代は、聖霊に満たされることは、ごく一部の人々に起こることでし
た。しかし、クリスマスの時には、羊飼いたちに、天の軍勢が現れ、賛美をさ
さげました。地だけではなく、天においても大きな喜びだったからです。
 またペンテコステの出来事を通して、すべての人は聖霊を受けることのでき
る時代となったのです。
 しかし、聖霊は、神の霊です。だれでもそのままに受けることはできませ
ん。どうしたらよいのでしょうか。一つは、神様の前にへりくだることです。
神様を自分の創造主と認め、身を低くする者を主は引き上げて下さいます。そ
の人に主は、聖霊を注いで下さいます。
 もう一つは、マリヤのように、信じ切ることです(45節)。これは人の本能
に逆らうことです。自分や周りの状況よりも全能の主に信頼する時、豊かに祝
福して、聖霊に満たして下さいます。
 そして今、全世界の人々が、主にあって一つ、聖霊によって一つにされ、救
い主の誕生をお祝いしているのです。私たちもその一人なのです。主の霊に呼
応する人は、何と幸いなことでしょう。世界中が、主の霊で共鳴しているので
す。
 
2015年12月13日
【あなたのためのプレゼント】ルカ二章1節~20節
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。ルカ2章11節

 この土地に羊飼いたちが、夜、羊の群れの番をしている時に、御使いが現れ
「今日、ダビデの町であなたがたのために、救い主が、お生まれになりまし
た。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに
寝ているみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」と
言われました。
 羊飼いたちは、急いでベツレヘムへ行き、マリヤとヨセフと飼い葉桶に寝て
おられるみどりごを見つけました。
 御使いが羊飼いたちに言った「あなたがた」の中には、私や皆さん一人一人
が含まれています。神様の私たちのためのプレゼント、それが救い主イエス様
です。何からの救いでしょうか。それは罪からの救いです。
 イエス様は譬え話で、迷子の羊の話しをなさいました。羊飼いが百匹の羊を
飼っていました。けれども一匹の羊メー子がいなくなってしまいました。メー
子はいろんなものが気になって遊んでいる内に迷子になってしまったのです。
 罪とはまとはずれです。本来私たちは神様に向かっていないといけないはず
が、違う方向へとそれてしまっているのです。また罪は次第に両親を麻痺させ
ていき、気がついた時には、取り返しのつかないことになってしまうのです。
 けれども身動きがなくなってしまったメー子を羊飼いが捜し出してくれまし
た。
 罪からの救いは、イエス様の十字架です。イエス様は、私やあなたのために
十字架の上で、私たちの身代わりに、神様からの罪の罰を受けて下さいまし
た。
 もし私にも悔い改めるべき罪があることを示されたら、素直にお詫びを死、
そして私の代わりに罰を受けて下さってありがとうございますと、イエス様の
十字架を受け入れましょう。
 あなたのための神様からのプレゼントを皆さんが受け取ることができること
をお祈りしています。
 
2015年12月6日
【まことの羊飼い】エゼキエル34章
わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。
彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。エゼキエル34章23節

 エゼキエルは、捕囚に連れて行かれた預言者ですが、幻でエルサレムや救い
のご計画を見せられた預言者です。
 神様は、イスラエルの民の状況に怒りをもって語っています。
 第一のことは、祭司や預言者など、民の牧者がが、民を養わないで、食い物
にしているということです。指導者が自分の欲を満たすために、民を苦しめて
いるということです。
 第二のことは、羊どうしつまり、民と民の間にも力の差があり、強いものが
弱いものを踏みにじっているということです。
 この世では、当たり前の論理かもしれませんが、神様はその状況に怒ってい
ます。指導者は群れを養い、病気を癒し、守るべきであり、また羊同士も互い
に支え合うべきなのです。
 そのことに神様は、どのように対応すると言われたのでしょうか。
 第一のことには、ご自身が牧者として、失われたものを捜し出すということ
です。(11節)
 第二のことには、彼らを牧する良い牧者をダビデから起こすということで
す。(23節)。彼は、羊と羊の間を裁き、群れを養い、主のしもべダビデが、
彼らの間で牧者となると言われました。
 この良い牧者は、イエス・キリストを指しています。ヨハネ一〇章。神の御
子で罪の無い方ですが、ダビデの子孫から生まれ、民を養い、正しい道に導か
れました。それどころか、羊を救うために命をも捨てる、愛に満ちた羊飼いで
す。
 神様の招きに、私たちはどう答えるでしょうか。主の御手の中にあって、ク
リスマスを待ち望んでいきましょう。
 
2015年11月29日
【私の十字架の死】ガラテヤ二章19節20節
私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるので
す。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨て
になった神の御子を信じる信仰によっているのです。ガラテヤ2章20節

 今日のこの御言葉は、教会の七つの本質の四番目「イエス中心」ということ
から開かれています。これは七つの本質の中心でもあります。そしてきよめ信
仰の中心のみ言葉でもあります。また一対一弟子養育では、最初に覚える暗唱
聖句でもあります。聖書の中で大切なみ言葉の一つです。
一.二つの十字架とは
 聖書で十字架の死という時、二つの場面、意味があります。第一は、神の御
子キリストが、私たちの罪の身代わりとして死んだ十字架です。第二は、今日
のみ言葉です。キリストだけではなく、新生前の古い性質(肉)の私たちも、
その十字架に付けられて死んだということです。(他にロマ六章等)その結果
キリストが私の内に生きておられるのです。
一.なぜ私の死が必要か
 それは、私たちがキリストの命で生まれ変わり、この世のものではなくなっ
たからです。それなのにイエス中心でなく、自分中心に生きるならそれは、偶
像であり罪の源だからです。私たちがキリストにあって死ぬべきことには、お
金、仕事、所有物、遊び、友達、敵、宗教組織、自己、配偶者、家族等あらゆ
るものが含まれます。キリストの命で生まれたのに、自分の命(肉)に生きよ
うとすれば、自己矛盾し苦しむのです。それは信じられない状況でも主に信頼
することでもあります。そこに義の実が結ばれます。(ヘブル一二章11節)
一.私の死はいつ起こるのか
 それは、私たちがキリストを受け入れた時にすでに起こっています。生まれ
変わるとはそういうことです。しかしその自覚とそれを受け入れる決断が必要
です。それが明け渡しです。
 今日主にすべて明け渡し、内なる戦いに終止符を打ち、主の祝福と平安にあ
ずかりましょう。
 
2015年11月22日
【怒ったヨナ】 ヨナ三、四章

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
第一テモテ2章4節
 今日はファミリー礼拝です。チャーチキッズに合わせて、聖書のヨナの後半
を開いていきます。
 「だから、私の言った通りじゃないですか。神様、どうしてくれるんです
か。」ヨナは怒って神様に文句を言っていました。どうしたのでしょうか。
 魚の中で悔い改めたヨナは、三日目に陸地へ吐き出されました。神様は、も
う一度ヨナに、「ニネベに行って、私の言葉を伝えなさい。」と言われまし
た。ヨナは、神様に言われたとおり、「四〇日たったらニネベは、滅びる」と
言って町中を歩き回りました。
 それを聞いた人たちは、その神様の言葉を信じて、悔い改めました。荒布を
着て、灰の中に座り、嘘や暴力や姦淫、殺人などの罪をお詫びしました。ヨナ
の言葉は、王様にも聞こえ、王様もこれは大変なことだとわかり、大臣と相談
して、断食して悔い改めるように国中に命令しました。なんとニネベの町は、
悔い改めて、神様に立ち返ったのです。
 では、なぜヨナは怒っていたのでしょうか。ヨナは、伝えたことが無駄にな
るからではなく、みんなが悔い改めたことによって、神様が、ニネベの町を滅
ぼすことをやめたことを怒っていたのです。なぜでしょう。それは、四〇日た
ったら二ネヘは滅びると言ったヨナの言葉の通りにならないからです。ヨナは
「死んだ方がましだ」と言って怒りました。自分の面子が潰れたと怒っていた
のです。
 ヨナは神様が何をするか見てやろうと町外れに小屋を建てました。ヨナは、
神様がとうごまを生やされた時、涼しくなったと喜びました。でも一夜で枯ら
された時、また「死んだ方がましだ」と怒りました。
 「ニネベの一二万の人たちは、とうごまよりずっと大切なんだよ。」と言っ
た時、ヨナはハッとしました。自分も滅ぼされなかったこと、神様の恵み深さ
がわかったからです。
 ヨナの宣教で何人が、救われたのでしょうか。神様は、あなたにも、あなた
のそばにいる人に、イエス様の救いを伝えて欲しいのです。伝えませんか。
 
2015年11月15日
【ついて行くには】 マタイ一六21~28
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと
思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさ
い。」マタイ16章24節

 今日のみ言葉は、七つの本質の四つ目、イエス中心を示すみ言葉です。イエ
ス様中心ということは、父・御子・聖霊の三位一体の神様が中心ということで
す。その反対は、牧師中心と言われます。牧師に限らず、役員中心でも自分中
心でもイエス様中心の反対の人間中心です。
一.救われるのはどんな人か
 聖書は、どんな人が救われる、あるいは天国に行けると言っているのでしょ
うか。一つは、イエス様を神の御子、救い主と信じる人です(ローマ一〇10、
エペソ二8等)。ペテロは、16節でその告白をしました。そしてもう一つがこ
こで言われていることです。つまり、自分を捨て、自分の十字架を負う人が命
を得る、つまり救われる人だとイエス様はおっしゃっているのです。とすれ
ば、イエス様は、神の御子キリスト(=救い主)と信じることと、自分を捨て
自分の十字架を負うことは、同じことであることが分かります。十字架を負う
とは、神のみ旨のままに生きることです。悔い改めるとは、自分中心をやめ、
キリスト中心に生きることです。これが分離していると信仰生活は、矛盾に満
ち、苦しいのです。
一.この両者は、同じなのでしょうか
 同じなのですが違うのです。強いて言うなら順序があります。神の愛を知っ
てこそ、イエス中心の生き方が始まります。だから21節に「その時から」と記
されています。まだ理解できないのに自分を捨て、イエス中心には生きられま
せん。でも御子を救い主と信じる人には、すでにイエス中心の生き方が始まっ
ています。だから話したのです。
 今回私はオンヌリ訪問で、改めて三六五日24時間主に献げました。それは大
きな祝福と勝利なっています。
 主は、十字架を負えない者を恵みによって負える者へと変えて下さるので
す。
 
2015年11月8日
【整える】 エペソ四1~16
「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げ
るためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の
一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達
するためです。」エペソ4章1213節

 今日は、教会の七つの本質の権威分与(能力付与)についてみ言葉に聞いてい
きます。
一.クリスチャンの目標は何か
 クリスチャンは、何を目標として生きているのでしょうか。最終的な目標
は、キリストの再臨です。それに向かって私たちは、大宣教命令を受けていま
す。これが中間の目標です。それを達成するための身近な目標は、聖徒として
整えられ、大人となる(成熟する)ことです。この聖徒には、教職などの指導者
も信徒も含まれています。信仰は、いつまでも初歩の子供であってはいけませ
ん。信仰の実践と伝道によって成長し、キリストの身丈を目指します。しかし
私たちは、どんなに成長しても、ルターの言うように、キリストの救いによっ
て「罪人にして義人、義人にして罪人」であることを忘れるならば、傲慢にな
り、信仰と目標を見失うでしょう。
一.整えられるためには
 では、整えられるためにはどうしたらいいのでしょうか。①召されている事
実、主の愛が注がれていることこそ最も重要です。それはすでに与えられてい
るのです(1節)②謙遜(2他)③証ができるように準備をしておく(一ペテ
三15)④一致⑤古い人を脱ぎ捨てる(22)⑥新しい人を着る(23)⑦神の言葉
に聞くへりくだった心。神の言葉は、悪魔を攻撃する剣です(六17)⑧聖霊の
導きに聞く。小さな声を逃してはいけません(30)⑨今日の恵み(悔い改めや
決心、感謝等)を誰かに分かち合うこと。聞くだけで自分に留めていては成長
しません。そして話す時に、この世との摩擦が生じます。それが御手の中で成
長させるのです。
 
2015年11月1日
【漁師の召し】マルコ一章16節~20節
「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にし
てあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
マルコ1章17節18節

 今日開かれている聖書箇所は、ペテロを初めとする漁師たちが、弟子として
召し出されるところです。イエス様は、なぜこの漁師たちを弟子に選んだので
しょうか。弟子は、何をするのでしょうか。
 荒野の誘惑に勝利したイエス様は、神の国を宣べ伝えていました。ヨハネの
福音書等を見ると、以前にもペテロ達ここの漁師に会っていたようです。
 そして、イエス様が、網を繕っていたペテロ達に「私について来なさい。人
間をつる漁師にしてあげよう。」と言われました。ペテロとアンデレ、ヤコブ
とヨハネは、イエス様の招きに直ちに商売道具をおいて従いました。
 普通弟子を選ぶとすれば、その道の優れた才能に目を向けます。しかしイエ
ス様は、聖書を良く知っている学者などを選ばれませんでした。聖書は良く知
らなかったようにも見える漁師達を選ばれました。
 イエス様は、どんな人を呼んで、召し出すのでしょう。聖書を見ると、イエ
ス様は、罪人を招くために来たと言っています。神様は、その一人一人を効果
で尊い(イザヤ四三章1節、4節)と言われ、招いておられるのです。それに
は、私たちも含まれます。
 では、神様は何のために私たちを招いているのでしょう。第一には、悔い改
めて神様に立ち返るためです。もう一つは、人間をとる漁師として、つまり、
人々が神様の下に帰り、永遠の命を得る助けをするためです。聖書の召しに
は、信徒と教職という区別はないと言われます。
 私たちは、主の召しにどのように応答するのでしょうか。それは知恵や力を
もってではなく、神様の栄光への信頼です。何もなくても、主が整えて下さる
と信じ、すぐに従うことが大切なのです。
 
2015年10月25日
【キリストの体】第一コリント一二章
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なので
す。」第一コリント12章27節

 今教会の七つの本質から、神の国へ参加するということを学んでいます。本
当に信じた人は、そのように行動します。今週土曜日は、宗教改革記念日です
が、その三つの柱は、聖書のみ、信仰のみ、万民祭司です。最後は、すべての
聖徒は、人をとりなし救いに導くように召されているということです。
 今日開かれている聖句は、私たちは、同じキリスト、同じ信仰、同じ御霊に
よって一つだけれでも、一人一人はの働きは違うということを示しています。
 からだには、手や足、目や耳や口など様々な器官があります。全部が耳なら
見ることはできません。また耳はいらないとも言えません。それぞれの役割が
あり、一つ一つが大切なのです。
 中には、見劣りする器官もありますが、それをかばい覆うのです。
 私たちの体は、それぞれの器官が連携して、一つの動作をしているのです。
 また一箇所が痛めば、全体が調子悪くなります。一箇所が喜べば、それは全
体の喜びとなるのです。
 体の部分に役割があるということは、それぞれの長所が生かされるというこ
とです。短所、できないことに目をとめるのではありません。それは野球のチ
ームワークにも似ています。投げる、打つ、守る、走る等、それぞれの長所を
生かしてよりよいチームを作っていくのです。
 私たちは、キリストをかしらとしています。各器官は、違っても一つです。
その時、自分の役割、長所、短所を知ることが必要です。また他の人の役割、
長所、短所も知り、お互いに生かし、補い合うのです。あなたはどんな器官な
のでしょうか。
 
2015年10月18日
【み心を行う】マタイ一二章46節~50節
「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、
姉妹、また母なのです。」マタイ12章50節

 今日は、父のみこころを行うとは、どういうことかに心をとめましょう。こ
れは、教会の七つの本質の「参加」つまり神の国への参加ということを扱って
います。人は、なぜ教会へ行くのかというと神様の恵みをいただくためかもし
れません。大切な事ですが、それは神の国へ参加しているのではなく、反対に
消費しているのかもしれません。
 聖書は、行いによるのではなく、恵みによって信仰によって救われる(エペ
ソ二章8節9節)と言っています。しかし、「わたしに向かって、『主よ、主
よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父
のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ七章21節)とも書いてありま
す。矛盾しているのでしょうか。主の名によるわざや奇跡をしても天国へ行け
ないのです。み心を行うとはどういうことでしょうか。人は、本当に信じたら
その通りに行うのです。
 綱渡り名人がいました。危険な谷を渡ろうとしていました。「皆さん、私が
無事に渡れると思いますか。」群衆は拍手で答えます。「では、私の肩に乗っ
て一緒に渡る人は手を上げて下さい。」シーンとして誰も答えません。一人の
子供がニコニコして手を上げました。彼の息子でした。二人で見事に渡ったの
です。
 イエス様は、最も小さい者にしたことは、私にしたのだと言われました。イ
エス様の十字架の死は、こんな罪深い、小さな私のためだったと本当に知った
人は、自分の意志で喜んで、自分の十字架を負い、隣り人に与えるのではない
でしょうか。
 では、隣り人とは誰でしょうか。それぞれ違います。聖霊様が、教え、導い
てくださいます。主のみ心を行いましょう。
 
2015年10月11日
【希望】ヨハネ二〇章19節~29節
「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸
が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたに
あるように。」と言われた。ヨハネ20章26節

 私たちは、大切だと思っているものでも、本当に意味があるものなのか考え
てみる必要があります。
 弟子たちが戸を閉じていたのは、イエス様が取り去られて、人を恐れていた
からです。人は、過去の言葉、親、友達、先生などから言われた言葉がずっと
心に残っていて恐れを持っています。
 最大の恐れは、別れです。もう一度会いたいという人がいるかも知れませ
ん。イエス様は、弟子たちの前ではなく、真ん中に立って、「平安(シャロー
ム)」と言われました。恐れてはダメだといったのではありません。「平安」と
言われました。
 ネパールでは、毎日十六時間停電します。突然パッと消えて暗くなります。
その時「ホザナ、主よ。お父さんここにいるから平気だよ」と言うと子供たち
は安心します。
 イエス様は、手と脇腹の傷を弟子たちに見せました。十字架の主の印、罪の
精算の印です。「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。見続けて、消え
てなくならない希望がここにあります。
 二番目の恐れは、未来への恐れです。若者だけではありません。失敗を恐れ
ます。主イエスは「あなたがたを遣わします。」「聖霊を受けなさい。」と言
われました。聖霊は、人を創造の本来の姿に導きます。妻は、宣教師の妻にな
ること、宣教に行くことを恐れていました。でも聖霊を求めたとき、恐れが消
えました。私も同じです。聖霊を受けて最初にすることは、人を許すことで
す。その人が悪くても、許します、祝福しますと言って祈るときに、奇跡が起
こります。
 
2015年10月4日
【福音の初め】マルコ一章14節~15節
「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われ
た。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
マルコ1章14節15節

 今日開かれている聖書箇所は、イエス・キリストが語った福音は、どういう
ことかということを端的に示しています。罪人と同じ立場なるために洗礼を受
けられたイエス様、荒野で誘惑に勝利されたイエス様は、どんなことを話され
たのでしょうか。
 一つ目は、時が満ちた、ということです。人が罪を犯して以来、神様は、預
言者たちを通して、やがてその罪を解決する救いの時が来ることを語っておら
れました。しかし人と神様との関係はますます悪くなるばかりでした。主を信
じる人々の心は痛むばかりでした。しかしついに、「預言が成就」する時が来
て、救いの道が開けるときがきたということなのです。
 二つ目は、神の国は近くなった、ということです。この言葉は、手を伸ばせ
ば届くほどに近いということです。それは、実際に神の御子救い主が人となっ
て、罪の身代わりのために来られたことを示しています。身代わりの十字架が
もうまもなく、成就するのです。そして今イエス様の十字架と復活が成就し
て、救いの門は開かれています。
 しかしこの救いの門は、いつまでも開いているのではありません。もう一度
主が来られ、天と地を裁かれるのです。その後に悔い改めても間に合わないの
です。私たちは救いの時代にいるのです。
 三つ目は、悔い改めて福音を信じなさい、ということです。罪の根本は、神
様から離れ、神を認めずに、神との関係が壊れていることです。信仰とは、そ
れを認めてへりくだるときに、神様との関係が回復することです。赦しが与え
られて、永遠のいのちを得ることができることです。
 私たちも悔い改めと信仰をもって主の前に出ましょう。
 
2015年9月27日
【仕え合う関係】マルコ一〇章35節~45節
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなの
です。」マルコ10章35節

 今日は、七つの本質の「関係」について二回目になりますが、特に人との関
係について、み言葉に聞いていきましょう。
 今日の聖書箇所を見ると、ヤコブとヨハネは、イエス様に、イエス様が王と
なるときに、第二と第三の権力の座に着くことを願っています。イエス様は、
彼らが何を求めているのかわかっていないこと、イエス様の苦しみを共にする
必要があること、また権威を授けることはイエス様にではなく、天の父の権限
であることを話しました。ヤコブとヨハネのことを聞いた他の十人の弟子たち
は、怒りました。権力争いです。その時、イエス様が、言われたことが今日の
中心となります。
 イエス様は、上に立つことを否定してはいません。大抵の人は、小さな群れ
であっても上に立つ必要があります。そして上に立つ人は、世の人と同じよう
に権力を振るうためではなく、人に仕えるために上に立つのだと言われたので
す。自分のための権力ではなく、人に仕えるための権力なのです。
 そんなことができるのでしょうか。イエス様は、神の御子であり、神として
の権威を持ったお方でしたが、人に仕え、自分の命を与えるために、この世に
来られました。それこそキリストの生き方でした。
 イエス様が飲まれた苦しみの杯、つまり十字架は私たちの罪の身代わりでし
た。それを受け入れるとき、私たちは、命を得るのです。それが神の愛です。
命を与える愛です。
 私たちは、イエス様の命を受け取るとき、イエス様と同じように仕えて生き
ることができるのです。決して楽ではないかもしれません。しかし愛に生きる
喜びがあります。夫婦、親子、(前頁より)主人と僕などの関係はどうでしょう
か。
 主にあって、互いに仕え合う関係になりましょう。
 
2015年9月20日
【十人の娘】マタイ二五章1節~13節
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないか
らです。マタイ25章13節

 イエス様は、天の御国について、十人の娘の譬えで話されました。十人の娘
とは、花婿に付き添う娘たちです。その頃花婿は、花嫁を迎えに行き、家に帰
って来て婚礼が夜に始まりました。でも、帰ってくるのが、遅くなることはよ
くあることで、時には何日も遅れることもありました。
 十人の娘達は、ランプに明かりを用意して、花婿の帰りを待っていました。
そのうちの五人は、賢く予備の油を用意していました。愚かな残りの五人は油
は用意していませんでした。
 花婿の到着が遅れて、みな寝てしまいました。真夜中に、「花婿が来た」と
声がかかり皆ランプは消えかかっていました。思慮深い娘達は、油を足して明
かりを整えました。愚かな娘達は、賢い娘達に「油を分けて下さい」と言いま
した。しかし、「それだけの余分はありません。買いに行くのがいいでしょ
う。」と言われました。慌てて油を買いに行きました。その間に花婿が到着し
ました。花婿と一緒に賢い五人の娘達は部屋の中に入り戸は閉じられました。
そして婚礼が始まりました。愚かな娘達は、「ご主人様、入れて下さい」と言
いましたが、花婿は、「はっきり言うが、私はあなたがたを知らない」と言っ
たのです。イエス様は、「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、そ
の日、その時を知らないからです。」と言われました。
 この譬えで大切なことは何でしょうか。まずイエス様の再臨を待つことで
す。再臨は約束です。次に目を覚ましていることです。そして救いの戸が閉じ
られるともう開かないということです。
 では、目を覚ましているとはどういうことでしょうか。この明かりとは、み
言葉とか信仰とか聖霊と言われます。それをしっかりと持っていることです。
それを確かめるのが、礼拝であり日々の静思の時なのです。
 
2015年9月13日
【幹と枝と実】ヨハネ一五章1節~9節
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたし
もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わた
しを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ヨハネ5章5節

 今日から七つの本質(Essence)に基づいて、聖書のみ言葉に聞いていきま
す。初代教会には、本質における一致、行動における自由、すべての面で信頼
が根底にありました。その上に、七つの本質を持っていました。今日は、その
第一の「関係」です。それは、関係が中心ということです。
 この聖書箇所もそのことを表しています。農夫が天の父、幹はイエス様、枝
が私たちです。枝が実を結ぶのです。でも幹が直接実を結ぶのではありませ
ん。幹、枝は、つながっていなければ実を結べません。しかしただつながって
いても実を結びません。内側で、命がつながっているのです。幹から水や栄養
が運ばれて、実を結ぶことができるのです。イエス様との関係が大切です。つ
ながっていると、他の人との関係等で実を結ぶことができるのです。
 関係に相対するのは、「プログラム」です。それも大切ですが、関係を作っ
たり深めたりするための手段です。関係はBeingでプログラムはDoingです。プ
ログラムに忙しくなると、関係がおろそかになるのです。
 もう一つ大切なことは、何の幹につながっているかです。ルカ六章42節。良
い木につながっていれば、良い実を結びます。悪い幹につながっていれば、悪
い実を結ぶのです。悪い部分は、天の父に手入れして取り除いていただく必要
があるのです。そうすれば良い実を結べます。主は、癒やし主です。
 どのようにつながるか。そのためには、時間、場所、心の三つを大切なこと
に合わせることです。毎週の礼拝、日々の静思の時に、主と心を通わせること
なくして、主との関係を保つことは難しいでしょう。主との関係、人との関係
に心を向けましょう。
 
2015年9月6日
【イエス様の洗礼】マルコ一章9節~11節
そして、天から声がした。
「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」マルコ一章11節

 今日の聖書箇所は、イエス様が洗礼を受けられた所です。イエス様が洗礼を
受けるとは、どういう意味なのでしょうか。
 そのためには、まずイエス・キリストがどういうお方であるかということで
す。それを示すのは、11節の天からの声です。「あなたは、わたしの愛する
子」これは詩篇二篇8節の引用と言われます。それは、王の子として生まれた
王の姿です。つまり、天の神の子、王なる救い主という意味です。イエス様
は、神であるにもかからわず、人となられたお方なのです。だから王としての
権威をもったお方です。また「わたしはあなたを喜ぶ」これはイザヤ四二章1
節の引用です。そこには、しもべとして苦難を歩む救い主の姿が記されている
のです。キリストは、王であるにもかかわらず、多くの人の苦しみを担うお方
であることを示しているのです。
 洗礼は、罪の悔い改めのためのものです。神の子であるお方は、罪を犯され
ませんでした。ですから本来は、洗礼を必要としていません。しかし、しもべ
となり、私たち罪人と同じ立場になるために、洗礼を受けられたのです。そし
て、ここからイエス様の公生涯が始まりました。
 またここには、父であり創造主なる神、御子なる神、聖霊なる神が現れてい
ます。神様は唯一であり、三位一体の神様です。ペルソナ(個性、人格)は、
それぞれ別なのですが、愛によって完全に一致しているお方です。被造物であ
る人間を、罪の世界から引き戻し、神の愛の交わりに加えるために、御子は、
人となり、罪人の立場になってくださったのです。そして、私たちの罪の身代
わりとして、十字架による死を味わわれたのです。そこに私たちへの救いの道
が開かれました。
 
2015年8月30日
【目を離さないで】ヘブル一二章1節~13節
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」
ヘブル一二章2節

 今日の聖書箇所は、先週の続きです。先週は、私たちは、天の故郷を目指し
ていることを確認しましたが、では、そのためにどのようにこの地上で歩むの
でしょうか。一二章の最初にある「こういうわけで」とは、そのようなことを
指しています。
 まずは、信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないで歩
むことです。イエス様を「仰ぎ見つつ走」っていれば大丈夫です。イエス様
は、神の御子ですが、そのお方が命を捨てて、私たちの身代わりとなり、罪を
あがなって下さったからです。その愛と赦しの中にいるからです。しかし私た
ちは、湖で沈んだペテロのようにイエス様から目を離しやすいのです。問題に
心を奪われやすいのです。問題の一つは、まとわりつく罪です。もう一つは、
様々な重荷です。それは人の最大限の努力でも破ることはできません。しか
し、私たちのうちに信仰を始めて下さった方は、信仰を完成して下さる方です
から、もう一度、イエス様に目を向けていくのです。
 イエス様から目を離さないためには、主日礼拝、日々の静思の時、信仰の交
わりが不可欠です。
 また、主は、これらの問題に勝つ力を与えるために私たちを懲らしめたり、
訓練したりします。時に悪魔との戦いは、厳しいものになります。そのために
は、必要な訓練を受けなければなりません。父なる神様は、だれでも自分の子
を訓練します。その時には、辛いかもしれませんが、やがて、それが、神のき
よさにあずかり、私たちの益となるのです。さらに、時に至って、平安な義の
実を結ぶことができるようになるのです。
 どんなことがあっても、イエス様から目を離さないで、信じることのできる
ように成長しましょう。
 
2015年8月23日
【故郷はどこに】ヘブル一一章8節~16節
「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれ
ていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんで
した。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」
ヘブル一一章16節

 今日は、召天者記念礼拝です。先に召された方々を偲びつつ、私たちの目指
すところを確認しましょう。
 ヘブル人への手紙は、キリストが真の唯一の大祭司であることを解き明かし
ています。この一一章では、私たちは、信仰により、天の故郷を目指している
ことが記されています。8~16節は、アブラハムの信仰に言及しています。
 アブラハムは、信仰によって、故郷を離れ、家族親族から別れて、行き先を
知らないで神様の示す地への向かって行きました。財産も与えられ、また不可
能と思われていましたが子供も与えられました。この地上で、最終的に、すべ
てがうまくいったように見えます。しかし神様が導き、アブラハムに与えよう
としていたものは、それで終わりではありませんでした。将来主が祝福として
与える御子の犠牲による、罪の赦しと永遠の命です。アブラハムは、信仰によ
って、この望みを見て、天の故郷を目指して進み、ついにそこへ帰って行った
のです。
 この地上での歩みは、天の故郷への準備です。神様から、順調に見える生涯
を送る人もいます。一方一一章後半に書かれているように、信仰のために、さ
まざまな苦しみに会い、命を落とす人も数多くいました。彼らも同じように、
地上の故郷を見ていたのではなく、天の故郷を見ていたので、地上の苦しみを
もいとわなかったのです。
 私たちも同じです。先達の信仰を思いつつ、何が永遠の命を与え、天の故郷
を与えるのか、それをもう一度確認しましょう。
 今年特に感じていることは、彼らが亡くなった後も、なお実が結ばれている
という不思議さです。人のわざでなく、主のわざです。
 
2015年8月16日
【パンを投げよ】伝道者の書一一章1節~6節
「あなたのパンを水の上に投げよ。
ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」伝道者の書一一章1節

 今日も伝道者の書が開かれています。今日の言葉は、とても不思議な言葉で
す。
 水の上にパンを投げる。どうなるでしょうか。多分その水とは、池のような
ところではないかとイメージしますが、当然パンは損なわれます。食べられる
ものが食べられなくなってしまうのです。ましてかの時代、今以上に食糧は貴
重だったはずです。しかし、聖書は、それは決してムダでは終わらない、ずっ
と後の日にそれを見出す、と言うのです。ムダになったパンが巡り巡って帰っ
てくるのでしょうか。普通はそんなことはありません。
 しかし、創造主ご自身、水の上にパンを投げるような大きなムダをなさって
います。というのは、独り子である神を、人としてこの地上に生まれさせ、人
の罪の身代わりとして、十字架の苦しみと死を受けさせ、黄泉にまで降らせら
れたからです。人がそれを受け入れるならば、罪の赦しを得、永遠の命を得る
ことができます。ムダにはなりません。でももし受け入れなければ、御子キリ
ストの死ほどのムダはありません。そうだとしてもキリストは、人への愛のた
めに、その道を行かれたのです。しかし、このムダとも思える愛によって、多
くの人が救いを得ているのです。
 私たちの生活でもムダと思えるものが大切なことがあります。また信仰の実
は、不思議とムダと思えるところで結んでいきます。もし自分の努力の通りの
結果を得るなら、自分を誇りとするかもしれません。しかし主に人に仕えたと
きに、その仕えたところと別なところで実を結ぶなら、それただただ神様の不
思議なみわざというほかないのです。その時、私たちは、主はすばらしいとほ
めたたえるのです。
 
2015年8月9日
【三つ撚りの糸】伝道者の書四章9節~12節
「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの
糸は簡単には切れない。」伝道者の書四章12節

 伝道者の書のキーワードは、「空」ですが、それだけで終わっているわけで
はありません。今日は、「三つ撚りの糸」です。口語訳では「三つよりの綱」
と訳されています。
 日本でも毛利家の家訓で三本の矢がありますが、伝道の書はそれよりもかな
り古くに書かれています。お互いが協力すれば、苦労は半減し喜びは倍増する
こと、互いに暖めあえること、一人が倒れたらもう一人が起こすこと、簡単に
は打ち負かされないということは、万民共通の教訓と言うことができるでしょ
う。これは、協力することのすばらしさをあらわしています。
 しかし、やはり何で協力するかはとても大切です。その目的が間違っていれ
ば、大きな損失を被ったり、他者に損害を与えたりすることもあるからです。
正しいことに協力することが大切です。では、聖書では、どんなことを意味し
ているのでしょうか。
 このふたりとか三つは何に譬えられているのでしょうか。いろいろと言われ
ますが、その一つは、夫婦と神様です。夫婦だけでなく主を中心とする時に揺
らぎません。また私たちの神様は、唯一ですが、父・子・聖霊という三つの位
格も持ち互いに不動の愛の交わりを持つお方です。
 また聖なる父・仲保者キリスト・贖われる罪人のつながりということもでき
ます。キリストの十字架が、私たちに神様との交わりを回復させたからです。
 そして新約聖書では、とりなしの祈りの関係が示されています。マタイ一八
章18節~20節。私たちが二人三人集まり、とりなして祈るとき、そこに主イエ
スも共にいて、必ず祈りに応えて下さるという約束です。どんなに力強い約束
でしょうか。私たちもとりなして祈りましょう。心合わせて祈りましょう。
 
2015年8月2日
【神様の時】伝道者の書三章1節~11節
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠へ
の思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わ
りまで見きわめることができない。」伝道者の書三章11節

 今日開かれているみ言葉は、旧約聖書の中の伝道者の書です。この書の鍵語
は「空」です。すべてはは空しいと言っています。日本人の無常観にも通じる
ところがあります。しかしそれで終わっているのではありません。作り主であ
る主を知ることこそ重要だという結論に至るのです。今日は、このⅢ章から、
時についてみてみます。
 人は、時について考えて知ることのできる不思議な生き物です。私も子供の
ころ、父親が子供の時の話を聞き、大人にも子供の時があったのか、自分もや
がて大人になるのだろうかと不思議に思ったことでした。成長するにつれ、人
の生涯、誕生、成長、就職や結婚、仕事や定年後、そして死といったことを考
えられるようになります。さらには、人類の歴史や未来、宇宙の初めや終わ
り、またそれを超えた永遠について、思いめぐらすことができます。しかし、
人にとっての時には、うれしい楽しい喜びの時もありますが、悲しくてつらい
苦しみの時もあります。聖書は、その苦しみや死は、人間に最初からあったも
のではなく、被造物の立場を忘れ、神のようになろうとし、神様に不従順とな
った結果、つまり罪の結果、入ってきたものだと言っています。
 一方、時間を超越したお方である創造主は、時間を創り、今も時を歴史を支
配しておられるお方です。だから、すべての時を良いものとすることができる
のです。人は、罪を犯し、苦しみが入ってきました。しかし、それを良いもの
に変えるために、御子イエス・キリストを送り、その十字架の苦しみと死を受
けました。神様は、それを人の苦しみと死の代わりとされたのです。もし人が
この神様の愛を受け入れるなら、その人は罪をゆるされ、永遠の命を与えられ
ます。そして、神様の御手の中で、すべての時は、良いものと変えられるので
す。
 この救いを受け入れましょう。
 
2015年7月26日
【目を覚ましていなさい】マタイ二四章
「だから、目をさましていなさい。
あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」
マタイ二四章42節

 今日は、イエス様の大宣教命令(マタイ二八章18節~20節)で、イエス様の
命じられたすべての命令の最後です。イエス様が、最後的に命じられたこと
は、イエス様が、もう一度来られる時に備えて、「目をさましていなさい。」
という命令です。
 今、全国で「レフト・ビハインド」と言う映画が上映されています。ニコラ
ス・ケイジ主演です。後に残され者たちという意味でしょうか。それは、キリ
ストが再臨したとき、すべてのクリスチャンが天に上げられた後の時代を描い
ています。再臨については、未知の部分もあり、諸説ありますが、一つの聖書
観に基づいて書かれています。
 再臨については、聖書は、空中再臨と地上再臨の二回あることを示唆してい
ます。またその前後に、艱難時代や千年王国時代があることを示唆していま
す。それは、裁きの時でもあり、救いの時でもあります。
 しかし、その再臨の時は、イエス様ご自身も知らない、天の父の他、だれも
知らないと記しています。
 その時は、ノアの箱船の時のように、人々が飲み食い、嫁いだり娶ったりと
いった、普通に生活している中で突然に起こってきます。
 しかし、人々がノアが箱船を造るのを見続けていたのと同じように、主の日
が近いことを示す様々なことが起こってきます。世界宣教やイスラエルの再建
もその一つです。だからクリスチャンにとっては、決して突然の出来事ではな
いのです。
 予兆はわかってもその時がいつかはわかりません。だから目をさましていな
さいと命じられているのです。しかし私たちは時に再臨信仰が眠ってしまうの
です。でも大丈夫です。なぜなら二五章の十人のおとめの譬えのように、私た
ちには、聖霊が注がれていて、目ざめたときにすぐに用意が整えることができ
るからです。
 目をさまして主の再臨を待ちましょう。また主の日が近いことを覚えて、尊
い救いの道を伝えましょう。
 
2015年7月19日
【花嫁探し】創世記二四章
私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対
する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがな
く、私の主人の兄弟の家に導かれた。創世記二四章27節

 今日は、イサクの花嫁探しです。ここには、結婚している人もしていない人
もいます。将来だれと結婚するかわかるでしょうか。あるいはわかっていたで
しょうか。お見合い、一目惚れ、長いつきあい等いろいろな出会いで結婚へと
導かれますが、神様は基本的に結婚そのものを祝福しています。また結婚によ
って、聖書の深い真理をあらわしてもいます。
 アブラハムに大きな心配がありました。神様によって、不思議に約束の通り
に後継ぎとなる子供イサクが与えられました。いい年頃ですが、まだ結婚して
いませんでした。アブラハムは、この大切な仕事を、アブラハムと同じ信仰を
持ち、とても信頼しているしもべにお願いすることにしました。アブラハム
は、彼の出身地で親戚がいるアラム・ナハライムへ行って、親族の中から探す
ようにいいました。またカナンの女性ではないこと、イサクを郷里へ連れ帰ら
ないことを約束させました。
 しもべは、十頭のらくだとたくさんの贈り物をもって出発しました。将来に
関わるとても重要なお仕事です。神様の祝福の約束を理解して信じ、引き継い
で引き渡していく人、そのようにイサクと協力する人である必要があるので
す。神様の祝福を受け継ぐ私たちも同じところがあります。そんな人が見つか
るでしょうか。
 何日もかけ郷里の井戸に着いたとき、しもべは祈りました。私がお願いする
と、水を汲んでくれる人、らくだにも水を汲んでくれる人を、その花嫁という
ことにして下さいと。それは大変な労力です。しかし、祈り終わらないうち
に、若い女性が井戸に来ました。しもべが頼んでみると、なんと、祈ったとお
りになっていったのです。その人は名前をリベカといい、アブラハムの親戚で
した。その後もよく確かめて、神様が本当に、祈った通りに、イサクの花嫁を
与えて下さったことがわかりました。
 神様は、私たちの将来もご存知で、備えていて下
さいます。へりくだり、信頼して祈り求めましょう。
 
2015年7月12日
【選びの目的】ヨハネ一五章12節~17節
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであ
り、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があ
なたがたにお与えになるためです。ヨハネ一五章16節(後半)

 今日は、この芽室教会を建てて献げた感謝、また芽室教会が設立(創立)さ
れた感謝をもって礼拝をお献げしています。今日開かれているみ言葉は、児玉
牧師が、開拓伝道を始めるにあたって、神様から与えられたみ言葉であり、み
なさんもよくご存知です。前半には、私たちではなく、イエス様が私たちを選
ばれたことが書かれています。そして今日見るのは、その後です。なぜ選んだ
のかという目的が記されています。それは「一粒の麦、創立二〇周年記念誌」
にもよく記されています。
一、実を結んで、その実がいつまでも残るため
 主にあって私たちが結ぶ実は、悔い改めの実、御霊の実、魂の実です。私た
ちは、偶像や悪い思いや行いといった罪を悔い改めて赦されているでしょう
か。また愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった実を
結んでいるでしょうか。特に自制は、結びにくいものです。まただれかにも福
音を語り、導いているでしょうか。またその人が、弟子を生み出して実を結ぶ
ことが大切です。これらの永遠の実を結ぶために私たちは選ばれているので
す。
一、求めるものはなんでも与えられるため
 これは途方もない約束のようですが、主イエスの御名によって求めるもの
は、何でも父が与えて下さるために私たちは選ばれているのです。すべての祈
りは、答えられ与えられるのです。何とすばらしい約束でしょうか。ただ私た
ちは、本心で(偽りなく)求める必要があります。心と求める言葉とが一致す
るとき、不思議と聖霊様が働いて、祈りが答えられます。それも求めを超えて
最善に。
 私たちは、このような祝福のために選ばれているのです。それを知らない
で、あるいは使わないで無駄にするなら、何ともったいないことでしょうか。
恐れず、しかしへりくだって、主に信頼して永遠の実を結んでいきましょう。
 
2015年7月5日
【主が建て主】詩篇一二七篇
あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それ
はむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えて下さ
る。詩篇一二七篇2節

 今日のこの詩篇には、都上りの歌という表題が付けられています。エルサレ
ムで祭りがあるときに人々が歌いながら上京したと言われます。また保守から
の帰還の時に歌ったとも言われます。そして一二八篇へと続いています。
 最初に「むなしい」という言葉が三回も出て来ます。家を建てる働き、町を
守る者の見張り、辛苦の糧を食べることがむなしいと書かれています。でもよ
く見ると、その前には、主が家を建てるのでなければとか、主が町を守るので
なければと書かれているのです。つまり、家を建てる働きや、待ちを守る見張
り、辛い労働に従事することそのものがむなしいと言っているわけではありま
せん。もしそれらの苦労をしても、そこに主がおられて、守って下さらなけれ
ばむなしいのです。一生懸命労することは大切なことです。主の働きを認めて
労するときに、主は、愛する者に、眠っている間に、必要なすべてを備えて下
さるのです。
 一二八篇では、幸い、祝福、平和といった言葉が連なっています。「幸いな
ことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。」(一節)主を恐れ、主の道を
歩む者が幸いなのです。それはどういうことでしょうか。一つは、主の前に重
荷を下ろすことです。生きる辛さを見ておられる主が、共に重荷を負って下さ
るのです。また私たちの負いきれない罪の重荷は、キリストが代わりに負って
下さるので幸いなのです。もう一つは、日々、自分を捨て、自分の十字架を負
って生きる人です。この世の世界観では、摩擦や対立があるかも知れません。
しかし神様の聖と愛の世界観で生きるとき、憎しみや罪と死から自由になり、
義と永遠の命に生きるのです。ゆるぐことのない神様に信頼するので、ゆるが
ない幸いがあるのです。
 
2015年6月28日
【派遣】マルコ一六章14節~18節
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造ら
れた者に、福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16章15節

 今日開かれている聖書の箇所も、イエス様のすべての命令の一つです。
 イエス様は、復活されてから、天にお帰りになる前に、出て行って、全世界
に福音を伝えなさいと命じられました。父なる神様がイエス様を派遣されたよ
うに、イエス様も私たちを派遣したのです。(ヨハネ二〇章21節)それに伴う約
束もあります。信じる者は、救われること、また悪霊を追い出し、新しい言葉
を語り、毒の害を受けない、病人を癒すなどのしるしが伴うと約束されまし
た。
 旧約時代は、主の幕屋や、エルサレムの神殿が中心でした。主を礼拝する人
は、そこへ行き、そこに向かって祈り、礼拝をささげました。
 しかし今は、場所ではなく、霊とまこととをもって礼拝する時となりまし
た。主を信じる私たち自身が、主の宮なので、どこへでも行くことができ、い
ったところが、福音を伝えて礼拝する場所となるのです。
 ある人は、私が?と心配かもしれません。その時み言葉を信じ、主に信頼す
ることが大切です。私のこれまでの失敗は、もうちょっと信仰が成長したら、
何かしようとしていたことです。その時には成長しません。いつまでも何もで
きません。でも神様に信頼して一歩踏み出したら、成長し始めました。神様へ
の信頼が派遣の鍵です。
 これまでに、福音を伝えて殉教した人が多くいます。弾圧記念日もそのこと
を覚える時です。しかし世界は、クリスチャンに期待し、待っています。だか
ら「それでもクリスチャン?」と言われるのです。他の宗教の人は言われませ
ん。自分でも醜いと思う自分を受け入れ、赦し、変えて下さるキリストの十字
架を掲げて、出て行きましょう
 
2015年6月21日
【イエス様に従う】ルカ九章22節~27節
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うな
ら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさ
い。」ルカ9章23節

 今日の聖書箇所もイエス様の命令の一つです。イエス様のすべての命令を守
るとは、何を示しているのかをみています。
 イエス様について来たいと思うのはだれでしょうか。それは、イエス様を神
の御子、救い主と信じる人です。その人には、御子の命が与えられているの
で、イエス様のようになりたいという欲求があるのです。
 どうしたら、イエス様について行けるのでしょうか。まず、自分を捨てるこ
とです。それは、ガラテヤ二章20節にあるように、自我や欲(金銭欲、情欲、
プライド)などがキリスト共に十字架につけられて死んだことを認めることで
す。自分では捨てられません。主のわざです。
 次に自分の十字架を負うことです。それは、主のために、人のために、しな
くてもいいこともするということです。イエス様は、私たちのため十字架を負
い、死なれたのです。そのイエス様を見て、イエス様ならどうするかと祈り、
行動することです。
 そして、それは日々負うべきものです。一回や二回ではなく。毎日です。
 「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のい
のちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自
分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」24、25節
 不思議なことですが、列王記Ⅱ7章の四人の重い皮膚病の人たちと同じよう
に、主にあって自分は死んだと認める時、生きることができ、多くの人の救い
となるのです。自分を守ろうとすると死んでしまうのです。
 自分を捨て、日々自分の十字架を負ってイエス様について行きましょう。そ
れが命を得る道です。祝福の道です。
 
2015年6月14日
【求めなさい】ヨハネ一五章7節~12節
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わた
しもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わ
たしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
ヨハネ15章5節

 人々は、どうしたら成功するのか。みんなから賞賛を浴びるのかを求めてい
ます。しかし成功する人生ではなく、実を結ぶ人生を求めるのがクリスチャン
です。それは心の内側に結ばれるものです。実を結ぶことを通して、イエス様
の弟子であり続けていくのです。決して簡単な道ではありません。
 あれでもクリスチャン?と言う人がいます。実はみんなそうです。あなたも
人をつまずかせているのです。みんな罪人だから、十字架が必要なのです。ガ
ラテヤ五章に御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自
制)が書かれています。この実をすべて結べるのは、イエス様だけです。この
イエス様につながり、似る者とされて、実を結んでいくのです。
 良い実を結ぶために、神様は刈り込みをなさいます(2節)。刈り込みには
痛みがあります。でも神様の愛で、すでにきよくされ(3節)、神様の愛が注
がれているので刈り込みに耐えられるのです。試練を通して成長し、実を結ぶ
ことができるようになります(ヘブル一二章)。
 私たちは、イエス様の愛とみ言葉の中にとどまっていると、実を結びます。
猫の赤ちゃんは親に首をくわえられて運ばれていきます。信仰も同じです。一
人では自分勝手に進みます。私たちが向きを神様の方へ変えると、神様が私た
ちを変え、まわりを変えて下さるのです。
 マザー・テレサの「それでも人を愛しなさい」というのは、元はケントMキ
ースの言葉です。しかし彼女は最後に「最後に振り返ると、あなたにもわかる
はず。結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人
の間であったことは一度もなかったのです。」と加えています。それは、キリ
ストが私たちにして下さったことなのです。
 主につながって、実を結びましょう。
 
2015年6月7日
【求めなさい】ヨハネ一五章7節~12節
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるな
ら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたの
ためにそれがかなえられます。」ヨハネ15章7節

 私たちは、イエス様が弟子たちに命じたことばを開いていますが、「求めな
さい」というのもイエス様の命令の一つです。人はイエス様に求めるべきで
す。そしてその命令には、それがかなえられる、与えられるという確かな約束
が伴っています。では、何を求めたらよいのでしょうか。
 人には、生きるために必要な欲求があります。命の安全、そのために必要な
食べ物飲み物、睡眠、健康などをまず求めます。
 次に必要なのは、生活するのになくては困るものなどです。生活用品も必要
ですが、仕事や住居なども大切です。
 さらには、よりよい生活のためにいろいろなものが必要となり、また、趣味
や楽しみのための必要はいくらでも出て来ます。それらはどれも私たちにとっ
て大切なものです。だからそれらはイエス様に求めましょう。
 しかし、人にはさらに大切なものがあります。もし一生に一つだけ願いがか
なえられるとしたら何を求めるでしょうか。
 聖書には、人には神様から永遠を思う心が与えられたと書いてあります。つ
まり永遠に残るものを求めるべきなのです。
 それは、永遠の命です。罪の結果、死が入って来ました。十字架による罪の
赦しこそ、永遠への道です。また愛を求めるべきです。これはアガペーと言わ
れるもので、なんの見返りも求めないで相手の最善のために与える愛です。御
子の命を私たちに与えた神の愛です。私たちも持つことができます。また聖霊
も与えると約束されています。
 それらを求める時、注意すべきことがあります。それは、キリストにとどま
り、キリストの言葉にとどまっていることです。キリストの十字架と復活から
流れる命を受けることによって、求めたものは与えられるのです。主イエスに
つながって永遠の実を結びましょう。
 
2015年5月31日
【愛し合いなさい】ヨハネ十三章34節35節

 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさ
い。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛
し合いなさい。ヨハネ13章34節

 イエス様は、新しい戒めとして、互いに愛し合いなさいと教え、命じられま
した。35節では、それによって、あなたがたをイエス様の弟子とすべての人が
認めると言われました。これも、マタイ二八章20節の守るべきすべてのこと一
つです。
 また、イエス様は、自分のように隣人を愛することは、第一の戒め(神様を
全力で愛すること)に次ぐ大切な戒めだと言われました。
 では、愛するとは、どういうことでしょうか。ギリシャ語では愛という意味
の言葉がいろいろあります。フィリア(友愛)、エロス(性愛)、ストルゲー
(親の愛)、アガペー(与える愛)などです。ここで使われているのは、アガ
ペーの動詞形です。それは、相手の最善を考え、自分を与え、見返りを求めな
い愛です。これは、人間の考える愛と違い本能に逆らうことです。だから人の
力でできることではありません。しかし、私たちの造り主は、良い人にも悪人
にも太陽の恵み雨の恵みを与えられます。それどころか、御子キリストの命に
よって、人の罪の身代わりとして、人に命を与えられたのです。それを信じる
ところに、アガペーの原動力があります。
 この愛(アガペー)は、人を赦します。しかしすぐに信頼するとは限りませ
ん。また愛するとは、相手を認め、また違いを認めることです。つまり、すべ
てに同意したり、同じになることではありません。
 イエス様は、さらに敵をも愛するように言われました。到底不可能なことで
す。しかしもし十字架で赦されていることを信じ、実感するなら、できるよう
に変えられていくのです。マタイ一八章参照。
 では、私たちが互いに愛し合うべき隣人はだれでしょうか。主の愛に立つ決
断をして、赦し、愛していきましょう。
 
2015年5月24日
【証人に】使徒二章1節~4節 、14節~24節
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
使徒の働き2章32節

 ペンテコステは、弟子たちに聖霊が注がれて、弟子たちがキリストの証人と
なった日です。厳密に主の命令ではありませんが、弟子たちのあるべき姿、使
命を表しています。ですから、イエス様が命じられたすべての命令の一つと言
うことができます。
 ペンテコステとは、五〇番目という意味です。過ぎ越の祭り、つまりイエス
様が十字架にかかった日から五〇日目で、収穫感謝祭の日でした。この時大き
な風が吹くような音がして、燃える炎のような舌が現れ、分かれて、弟子たち
一人一人の上にとどまりました。弟子たちは、聖霊に満たされて、他国の言葉
を語りだしました。大きな音に何事かと大勢のユダヤ人が集まってきました。
それは祭りのために各国から集まった人々でした。それぞれの国の言葉で福音
を聞き驚きました。ペテロは、この出来事が、預言されたことであり、罪の無
いキリストの十字架と復活も預言されたことでしたが、みんなが十字架に架け
て殺したことを話しました。その時三千人が、心を刺され、悔い改めてバプテ
スマを受けたのです。そして共に礼拝し、聖徒の交わりを始めました。
 聖霊に満たされるということは、どういう意味があるのでしょうか。それ
は、神の国の価値観で生きることです。この世で大切なものは、命、健康、財
産、名誉、仕事、趣味、家族友人などがあります。もちろんそれも大切です
が、神の国では、それ以上に、三位一体の神様を礼拝すること、与える愛、赦
し、永遠の命などが大切なのです。それは、キリストの十字架と復活を中心と
した生き方です。そのように価値観が変えられ生きることは、簡単ではないか
もしれません。しかし神の愛と聖霊の導きにより、変えられていくのです。
 また聖霊は、私たちをキリストの証人とします。言葉によって、またその行
いをもキリストの証人と変えて下さるのです。
 
2015年5月17日
【私はだれ?】マタイ一六章13節~28節
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストで
す。」マタイ16章16節

 来週のペンテコステの前に教会の土台について、イエス様のお言葉を聞
きましょう。
 イエス様とお弟子さんたちは、ユダヤの国を出て、ピリポ・カイザリヤ
に来ました。ユダヤでは、いつも大勢の人が、イエス様のお言葉を聞いた
り、病気を治してもらったり、悪霊を追い出してもらうために来ていまし
た。その人たちも、ここまでは来ません。静かに休むひとときでした。で
もここには、ローマ皇帝の像が立ち、主と崇めていたり、偶像を礼拝して
いる人々も多くいました。
 そんな中でイエス様は、弟子たちに聞きました。「人々は、私のことを
誰と言っているか?」弟子たちは、思い出しながら、「預言者のエリヤで
す」、「エレミヤです」、「バプテスマのヨハネが生き返ったと言ってい
ます」と答えました。
 イエス様は、それを聞いた後、弟子たちに「では、あなたがたは、私を
だれと言いますか?」と聞かれました。弟子たちは、いろいろなことを思
い出しました。力強い神の国の説教、病気を治す力、悪霊を追い出す力、
嵐を静められたこと、罪を赦す権威。それらは、預言者や人の力を超えた
ものでした。
 ペテロが答えました、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」イ
エス様は、この答えを大変喜ばれました。それは、天の父に示されなけれ
ば、言うことができないことだからです。(Ⅰコリント十二章3節)そし
て「私は、この信仰告白の上に私の教会を建てよう」と約束されました。
それは悪魔も勝つことのできないものです。罪を赦す救いの権威を授けら
れているのです。
 この弟子たちに、イエス様は、十字架の苦しみと復活について話し始め
られました。その頃弟子たちは、十字架と復活のことがよくわかりません
でした。また大きな失敗もたくさんしました。でも聖霊に満たされて、イ
エス様の証人となったのです。神様は、キリストの救いを信じる私たち
も、キリストの証人として立てて下さっているのです。そこに教会がある
のです。
 
2015年5月10日
【全力で愛する】マルコ一二章28節~34節
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神であ
る主を愛せよ。」マルコ12章30節

 今は、イースターとペンテコステの中間です。イエス様が、天にお帰りにな
る前に、イエス様が、守るように命じていたこと(マタイ二八章20節)を順に
開いています。そして今日は、唯一の創造主である神様を全力で愛しなさいと
いうことです。第二の隣人愛の命令も大切で対になっています。
 イエス様は、律法学者が「一番大切な命令は何ですか」という問いに答えて
言われたのが、29・30節です。心、思い、知性、力を尽くして、あなたの神で
ある主を愛せよとは、全力で、自分のすべてをもって愛することです。ここで
使われている「愛する」という言葉(アガペー)もいつも相手の最善を考えて
行動し与えることを意味する言葉です。ですから全力を尽くさないことは、こ
の愛という言葉と矛盾するのです。神様は、私たちに全力で神様を愛するよう
にと命じておられます。そして命じられたから無理矢理することは、愛ではな
いのです。心から喜んでするのが愛です。
 この前提には、御子をさえ惜しまない父なる神様の愛が私たちすべての人に
注がれていることがあります。御子の命以上に、人を愛し救いの道を開かれま
した。それは、ご自身の命以上にとも言うことができることです。
 この後の律法学者の応答は、第一サムエル記十五章のサウル王を思い起こさ
せます。神様のみことばに聞くことは、橎祭や礼拝に優るのです。サウル王
は、神様を愛することで失敗しました。神様の命令よりも、肥えた牛や羊とい
った物に心惹かれてしまいました。また神様の命令よりも、民の言葉を恐れま
した。民に嫌われるのを恐れ、神様よりも愛したのです。神様の言葉を捨てた
サウル王は、神様から捨てられました。
 神様を愛することは、他の何にもまして神様を愛し、神様のみ言葉(み旨)
を聞き行うことです。それは、自分の力ではできません。聖霊の助けの中でで
きることです。そして神様に全信頼を置く人を神様は祝福して、救いのみわざ
に参与させて下さるのです。
 
2015年5月3日
【イエス様の宣教】マルコ一章15節
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
マルコ1章15節

 イエス様の弟子たちへの教えを見ていきます。今日は、イエス様がどのよう
に福音を教えられたかということです。それを集約したのが今日のみ言葉で
す。
 最初に、「時が満ちた」と言われました。神様は、アダムとエバが罪を犯
し、神様から離れた時からずっと預言者たちを通して、罪を打ち砕く救い主を
与えると約束していました。その預言が成就し遂にその時が来たとイエス様自
ら言われたのがこの言葉です。
 また「神の国は近くなった。」と言われました。いよいよ救いは手の届くと
ころに来た、と言われたのです。弟子たちは、イエス様の十字架による罪の赦
しと、復活による永遠の命によって、神の国が来たと言いました。イエス様こ
そ救い主で、イエス様によって、救いの道、神の国への道が開かれたのです。
 そして「悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。悔い改めると
は、方向を変えることです。自分中心の生き方から、神様の方へ向かって向き
を変えることです。それから離れていることが罪です。神様の方へ向きを変え
る時に、罪がわかり、悔い改めへと導かれます。罪は、十戒などでさらに明ら
かにされています。世界を造られた唯一のお方だけを神とすること、隣人を愛
することからはずれるなら罪です。バプテスマのヨハネは、パリサイ人には偽
善を悔い改めるように、取税人は多く取り立てないように、兵士は脅さないよ
うに、と具体的に示しました。荒野の誘惑も罪の性質を示しています。人は、
お金、性、名誉で失敗しやすいです。イエス様を信じた人が、その後、聖書に
書いてあるとおりに生きようとしましたが、そうできなくて悩みました。その
時牧師は、「自分の力で、正しく生きようとすることが罪なんだよ」と助言し
ました。自分を神様にささげ、委ねる時に、神の義と平安とが与えられます。
それが神の国の生き方です。
 十字架の愛と赦し、復活の命を信じ、罪を悔い改めましょう。導いて下さる
主に信頼しましょう。
 
2015年4月26日
【弟子としなさい】マタイ二八章16節~20節
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
マタイ28章19節

 復活されたイエス様が、昇天されるまでの間に、弟子たちに命じられたのが
大宣教命令です。弟子たちは出て行って、すべての人を弟子としなさいという
命令です。数週間にかけてこのみ言葉の意味を掘り下げていきましょう。弟子
とは誰でしょうか。イエス・キリストを信じるすべての人です。それは、神様
から召し出された人であり、悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信
じ、受け入れた人みんなです。その人は、御子の命を持っています。御子の命
を持っている人は、必ずイエス様のように生きていきたい、イエス様を伝えた
いという願いを持っています。それが弟子です。
 イエス様は、弟子に弟子を作るように言われました。ここで気をつけること
は、私たちは立派な信仰者になったら役に立つと考えます。でも聖書が示すと
ころは、今のままで弟子なのです。他の誰かより、数歩先に進んでいれば、そ
の人を導くことができるのです。どんなに未熟でもよいということです。
 牧師も含めすべてのクリスチャンは、兄弟子(助言者など様々な言い方もあ
る、階級ではない)を必要としています。適切な助言をし、良い時も悪い時も
一緒にいて、共に祈ってくれるよい導き手を持つことによって、一人でいるよ
り、はるかに早く成長することができます。信頼できる人に導いてもらいまし
ょう。
 またすべてのクリスチャンは、(弟)弟子をつくる必要があります。兄弟子
からしてもらったように自分がすることです。それによって私たちの信仰は成
長します。不思議なことに弟子を持たないために成長できないことがありま
す。自分は失敗だらけだと思っても、弟子を持つことによって、自分も成長し
ていくのです。今、もう一度、主の弟子として歩みましょう。
 
2015年4月19日
【見ないで信じる】ヨハネ二〇章24節~30節
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに
信じる者は幸いです。」ヨハネ20章29節

 今日の箇所は、私たちの教会の今年の標語聖句です。キリストの復活の時、
さまざまな出来事がありました。トマスに現れなさったのもその一つです。こ
の箇所を読んでいると、なぜクレオパには現れなさったのに、トマスには一週
間も現れなさらなかったのか等様々な疑問が湧いてきます。
 今日はまず、トマスの良くなかったところを見ます。信じなかったこともそ
うですが、復活の最初の日に他の弟子たちと共にいなかったことです。理由は
わかりません。仕方ない用事だったかもしれません。私たちの信仰は、交わり
の中で、お互いに成長します。孤立していると成長しても非常に遅いのです。
 次に、トマスの良かった点です。それは、自分の気持ちを偽らずにはっきり
と言い表したことです。イエス様の復活を決して信じられないことをはっきり
と言いました。私たちは、人の言葉に流されて心と違うことを言いやすいので
す。しかし心で思っている本当のことを言い表す時、神様は、働かれ不思議な
ことをないさいます。ついに
 イエス様はトマスにも現れて下さったのです。トマスは「私の主。私の神」
と言うのが精一杯でした。見た時にそれは、信仰ではなく体験となるのです。
イエス様はトマスに「見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。なぜ見
ないで信じられるのでしょうか。それは、証言があるからです。復活した主を
見たと証言する人がいるからです。またイエス様も十字架と復活が起こると証
言していました。そして父なる神様は、聖書の言葉を通して預言していまし
た。最後に聖霊様が、私たちの心に証言し確信を与えるから信じられるので
す。
 私たちは、十字架と復活を信じるにとどまらず、すべての祈りに答えて下さ
るというイエス様の約束も見ないで信じる者でありたいです。そして信じて見
た人は、その証言者となるのです。
 
2015年4月12日
【その名によって】ルカ二四章33節~53節
「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって
あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」ルカ24章47節

 エマオの弟子たちは、エルサレムに駆けつけて、十二弟子と仲間たちに、復
活の主に出会ったことを話しました。その時、そこに主が現れなさいました。
弟子たちは、大変戸惑いましたが、主にお会いしてとても喜びました.。初め
は、復活の確かな事を明らかにしましたが、そのことがわかってくると、これ
からのことについて話し始められました。それは、復活した主の御名によって
始まることです。
 主の復活によって、「罪の赦しを得させる悔い改め」が始まりました。これ
は、以前からのバプテスマのヨハネ、そしてイエス様のメッセージでした。何
が違うのでしょうか。それまでも、罪の赦しは与えられていましたが、約束と
して与えられていました。しかしイエス様の十字架によって罪の代価が支払わ
れ、罪の赦しは、事実、現実として与えられたのです。ですから、罪の結果で
ある死を打ち破る復活も事実として与えられたのです。
 これは、イエスの御名によって与えられました。なぜなら、イエス様こそ神
の御子が人となったお方であり、人間の中で唯一罪のないお方だからこそ、全
ての人の罪をあがなうことができたからです。だれでも自分の心に罪がないか
ということは、自分を見ればわかるのです。
 この悔い改めは、エルサレムから起こります。それは、十字架を前に弟子た
ちが逃げ出した場所でした。主イエスご自身、力によって人を救われたのでは
なく、自ら罪人の死まで低くなられて、救いの道を開かれました。私たちの救
いも、宣教も、力ではなく、神の前にへりくだるところに、聖霊が注がれて起
こるのです。そして全世界へと広がる力があるのです。それは、絶え間ない礼
拝の中で、進みます。礼拝は、主の御名がほめたたえられるところです。自分
の考えや方法ではなく、神様しかおできにならない方法で導き、栄光を現して
下さるのです。
 
2015年4月5日
【エマオ途上での顕現】ルカ二四章13節~35節
「そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明し
てくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
ルカ24章32節

 イースターは、キリストの復活をお祝いする日です。今日は、エマオの途上
でのイエス様の顕現のところが開かれています。教会でその絵を見たことがあ
る人もいるのではないでしょうか。
 死からの復活ということは、普通ではあり得ないことです。だから普通見る
ことはできません。信じられないのが当然のことです。けれども聖書は、キリ
ストが死から復活したと証言しています。ある人は、見たら信じると言いま
す。でも恐らく見ても信じないでしょう。心で認められないことは、見ても信
じられないからです。科学の発達していなかった昔だから信じられたのだとい
う人がいます。しかし昔だって信じられない出来事でした。
 二人の弟子(十二弟子ではない弟子)がエマオに向かっていました。女の人
たちが、復活したと話していたことを不思議に思って戸惑っていました。そこ
へイエス様が、加わりました。しかし目が遮られてイエス様だとわかりません
でした。
 イエス様は、その不信仰を嘆かれました。キリストは、苦しみに会い栄光に
入るはずではなかったかと、聖書の初め、モーセの書から始まって、預言書な
ど聖書全体から、復活の預言を話されました。私たちは、聖書のみ言葉を通し
て、心が開かれ信じることができるようになります。
 そしてイエス様は、食事の席で、パンを祝福して裂き、彼らに渡されまし
た。祝福したとは、祈ったということです。祈る時に聖霊が働き、心を開かせ
て下さいます。私たちは、祈りを通して聖霊の働きによって、神様のみわざを
悟ることができるようになります。
 その時、弟子たちの目は開かれ、イエス様であることがわかりました。する
とイエス様のみ姿は、見えなくなりました。
 しかし復活の主に出会った彼らは、心を燃やし、エルサレムに急いで戻って
仲間の弟子たちに報告したのです。
 この復活の喜びから、私たちは、安息日(土曜日)ではなくて、日曜日に、
復活の主を礼拝しているのです。
 
 
 
過去のメッセージ
 2014年度分
 2013年度分
 2012年度分
 2011年度分
 2010年度分
 2009年度分
 
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。