メッセージ(文責:尾﨑豪)
 
2018年3月25日
【十字架上の死】マタイ二七45~56
「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」
マタイ27章50節

 私たちは来週イースターを迎えますが、その前にあるのが十字架の死です。
今日は、主キリストの十字架の死を共に見ていきましょう。受難の烈しい出来
事とその結果の死という重い事実を、どちらかというと淡々と記しています。
今日開かれているのは、十字架の上でも最後の部分です。
 イエス様は、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのです
か。」(46節)と叫んで言われました。後にクリスチャンとなったある方は、
この言葉に遭遇して、なんとみっともない姿だろうと思ったと話してくれまし
た。救い主としてすばらしい言葉や生き方を示したのに、最期の時に、未練が
ましい泣き言を言うとは。その生涯がだいなしとも言える姿です。
 十字架の周りにいた人々は、天の助けを呼んでいると思って、どうなるかを
見守りました。実はこの46節の言葉は、旧約聖書詩篇二二篇の冒頭です。もし
力が残っていれば、それを最後まで暗唱したのではとも言われています。
 その内容は何を示しているのでしょうか。前半の苦難は文字通りイエス様の
苦難として成就していきました。
 ところが後半は、「主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。」(二二23)「(神
は)むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いて下さった。」(二二24)とい
う賛美と神様への信頼へと変わるのです。主イエスは、人々の罪を負うことに
よる、父なる神様との断絶の中で、父なる神様のの最善を疑うのではなく、信
頼し、信じ続けたのです。そして御手に霊を委ねて死んだ(ルカ二三46)ので
す。ここに信仰が全うされて、罪の贖いが完了した(ヨハ十九30)のです。
 イエス・キリストは私たちの絶望と死のただ中にいて下さいます。だから私
たちに希望があるのです。
 
2018年3月18日
【ゲッセマネの祈り】マタイ二六36~56
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさって
ください。」マタイ26章39節

 今日開かれている聖書箇所は、ゲッセマネの祈りです。十字架を前にして、
主はどのように祈られたのでしょうか。そしてそれは私たちとどのように関係
しているのでしょうか。
 最後の晩餐を終えた弟子たちは、いつものように祈りに行くために、ゲッセ
マネの園へ向かいました。ゲッセマネとは油絞りという意味です。オリーブ畑
の中で油を絞る場所だったのでしょう。最後の晩餐は、過ぎ越の食事でもあり
ました。その習慣に従って詩篇の賛美を歌いながら移動したと言われていま
す。
 イエス様は、中に入ると弟子たちにここで祈っていなさいと言われました。
ご自身はペテロとヤコブとヨハネをだけを連れてさらに奥へと進まれました。
そして「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここで祈っていなさい。」と言わ
れました。
 イエス様もあまり離れないところで苦しみもだえて祈られました。それが39
節です。十字架の死は、御子イエス様にとって一番つらいことでした。罪のな
いイエス様だけが、人の罪とその刑罰を人の代わりに負うことができます。け
れどもそれは、父なる神様との断絶であり、肉体の死と怒りを受けることで
す。愛によって一つである天の父と御子にとって、罪を負う断絶とはあり得な
い苦しみなのです。
 でもイエス様は、最後に自分の思いではなく、父のみ心が行われるようにと
祈られました。死を通る苦しみであっても、父のみ心が最善であることに信頼
したからです。そしてそれは、この場で寝ている弟子たちが滅びないために、
そして私たちが罪で滅びないために、十字架の道を自ら選ばれたのです。天の
軍勢を用いて敵を打ち負かすこともできたにもかかわらずです(53節)。これは
愛から出たのです。
 私たちも、主の愛と十字架を覚えて、主のみ言葉ら開きます。
 
2018年3月11日
【子とする御霊】ローマ八12~17
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、
子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、
父。」と呼びます。ローマ8章15節

 今日はローマ八章が開かれていますが、ここには御霊に満たされた生活の喜
びが溢れています。主を信じて神の子とされた祝福がどんなにすばらしいか共
に見ていきましょう。
 聖書には、しばしば肉と霊が対比的に書かれています。肉とは、肉体のこと
ではなく、生まれながらの人間の性質、欲望を指しています。それに対して、
か御霊とは、神様の霊を指し、神様の聖、愛、義などの性質を現しています。
 そして肉の性質は、私たちを恐怖に陥れる奴隷の霊とここで書かれていま
す。しかし父なる神様を信じ罪赦された人々は、「アバ、父よ」呼ぶことので
きる神の子としての霊を受けたのだと言っているのです。
 イエス様は、創造主なる神様を、私たちに、「わたしの父、またあなたがた
の父」と紹介されました。父とはどんな存在でしょうか。そのイメージは、個
人的な経験に大きな影響を受けている場合が多いです。怖い、優しい、嫌な存
在、うれしい存在などです。私たちが最高の父をイメージしても天の父をわか
るのは難しいでしょう。しかし神様は人間に永遠を思う思いを与えられまし
た。御霊の助けによって、父なる神様を知ることができます。
 そして天の父なる神様は、究極の聖なる方であり、愛なる方なのです。至高
の存在です。罪がない世界では矛盾がありません。しかし聖と愛は、罪によっ
て大きな矛盾を含みます。それを解決するのがキリストによる身代わりの十字
架です。赦しの十字架を信じた人は、御子イエス様と同じように、幼児が信頼
して甘えるように、「アバ(お父ちゃん)」と甘えることができるのです。間
違ったイメージを改めて、いつも私たちを最善に導く主に全く信頼しましょ
う。
 
2018年3月4日
【重荷を負って下さる神】イザヤ四六1~18
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがに
なっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼ
う。わたしは背負って、救い出そう。イザヤ46章4節

 今日はここから「重荷を負って下さる神」と「神様に負われる私たち」とい
うことを見ていきたいと思います。この箇所には、バビロンからの解放という
出来事が背景になっており、バビロンの神々を信じていた人にとって、その神
々は、重荷として運ばれていく偶像でしかなかったのです。
 けれども聖書が言っている神様は、生きた、ただ一人の神様で、私たちをど
んなときでも背負い、運んで下さる方です。「ほむべきかな。日々、私たちの
ために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神」(詩篇68・19)
 人それぞれに様々な重荷を抱えていると思われますが、一番の重荷は罪とい
う重荷を負っている私自身と言えるでしょう。重たい自分自身を私たちはどう
することもできません。けれどもイエス様は私たちの罪を負って十字架で死ん
で下さいました。イエス様の十字架こそが、罪の重荷に苦しみ、どうにもなら
ない私自身を背負って下さっている姿です。
 皆さんは、私たちを背負って下さる神様に背負われていると思いますか?も
し、神様から離れて、私は自分の足で歩けますからと言って歩いていたとして
も、やはり私は一人で歩けない助けて下さいとなってしまうのではないでしょ
うか。そのような時は、どうしたら良いのでしょうか。
①自分には罪の重荷があることと、その重荷を抱えたままでは人生の旅路を進
むのは困難であることを認めること、
②自分の罪を悔い改めること
③自分自身を神様にお委ねすること
 それは重荷を負って下さる神に素直に背負われることです。
 神様の側では、私たちは始めから愛され、赦されています。「私はそうして
きたのだ」と。神様は私たちが胎内にいる時から担ってくださり、今も、これ
から年を重ねても、やがてこの世を去った後も、永遠に私を背負い運び続けて
下さいます。
 重荷を抱え、辛く苦しい中にいるとしたら、それはあなたが一人で頑張ろう
としているからではないでしょうか。一人で頑張らなくてもいいのです。私た
ちは「私が背負い、運ぶ」と言って下さる神様に背負われて、、安心して進ん
でいくことができるのです。(順子師)
 
2018年2月18日
【全能の神と全き歩み】創世十七1~18
アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
創世記17章1節

 今日は、アブラム九十九歳の出来事が開かれています。神様と私たちの関係
がどんなものであるか、特に1節に注目して主に聞いていきましょう。
 前章から十三年の時が経っていました。実はこの時間は大切です。後で述べ
るように、神様はこの時を待っておられたのです。そして神様は「私は全能の
神である」とご自身を紹介されました。全能とご自身を紹介されたのは、聖書
のここに初めて出て来ます。福澤先生はいつもお祈りの最初に「全能の神様」
と呼びかけています。それは先生の神観が出ています。「全能」とはヘブル語
では、「エルシャダイ」です。英語ですと「オールマイティー」です。何でも
できるという意味です。何でもとはどういうことでしょうか。すぐに浮かぶの
は、力です。神の言葉はそのまま事実となり天地創造をなさった力です。また
それは遍在です。空間を超えどこにでもいつでもおられるお方です。時間を超
えた永遠なる方、全知ですべてを治め、無限なるお方です。主は創造者とし
て、被造物を圧倒する全能者としてご自身を現されたのです。
 次に、主がアブラムに言われたことは「私の前に全き者であれ」ということ
でした。全き者とはどういうことでしょうか。しかも全能者の前にです。聖書
は、神様を信じる人に対して、完全になりなさいと命じています。しかし人の
力では、できません。これは間違いをしない行動の完全ではありません。全能
なる神様との正しい関係の完全です。全き信頼です。
 しかし人間は自分の力で、神様のみ心、完全を実現しようとするのです。そ
こに神様のみわざは現されません。だから無力となる九十九歳まで、待ってお
られたのです。私たちは、キリストが示された神との正しい関係を主の恵みに
よって、目指しましょう
 
2018年2月11日
【再臨の望み】Ⅰテサ四13~18
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身
天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみが
えり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一
挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」Ⅰテサ4章16・17節

 今日開かれている聖書箇所は、再臨についてです。再臨は、四重の福音の四
番目になります。四重の福音とは、主の救いには、新生、聖化、神癒、再臨と
いう四重の恵みがあることをさします。
 また聖書には、多くの預言が書かれています。すでに成就した預言もありま
すが、これからのことも書かれてています。終末の出来事を整理すると、空中
再臨、艱難時代、地上再臨と携挙、千年王国、つかの間のサタン解放、最後の
審判、新天新地です。預言をもとにいろいろなことを予想します。しかしそれ
はその時がくればわかることなので、あまりに考えすぎたり、主張しすぎるこ
とには気をつけなければなりません。
 このテサロニケの手紙を見ると、パウロ達は、自分たちが生きている間に、
イエス様が再臨されると信じていました。ところが、その前に、死んだ人達が
いて、その人達は滅びてしまったのかという混乱がこの教会の中に生じたので
す。それで、パウロは、イエス様の再臨について、整理して伝えたのです。
 その時、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きがあります。そ
してイエス様が、天から来られます。そしてまず死者がよみがえり、次に私た
ちも一緒に、雲の中に引き上げられ、空中で主とお会いします。そして主と共
にいるのです。
 ですから、先に主を信じて死んだ人々もよみがえるのです。私たちは、死を
見ないで、天に移されるのです。
 私たちは、このゴールを見失わないで、神様の恵みの道を歩んでいきましょ
う。
 
2018年2月4日
【柔らかい心】マルコ三1~6
イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人
に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が
元どおりになった。マルコ3章5節

 イエス様の宣教の働きを見ています。ここでもパリサイ人との対立が見られ
ます。イエス様は何を見ておられるのでしょうか。
 イエス様は、安息日に会堂で教えておられました。そこに手の不自由な人が
いました。イエス様は前に立たせ、人々に、安息日は、善を行う日か、悪を行
う日か、命を救う日か、殺す日かと問われました。パリサイ人は何も答えませ
んでした。イエス様は、彼らのかたくなな心に怒り、嘆きました。しかし、そ
の人を癒されました。パリサイ人達は、イエス様を葬り去る相談を始めまし
た。
 ここでパリサイ人の関心はどこにあったのでしょうか。それは、安息日、律
法を守るという行い、そして行いによって神様からきよいと認められることで
した。では御子イエス様は何を見ていたのでしょうか。それは手が不自由な人
そのものでした。安息日は、人のためにあるのです。イエス様は安息日だから
こそ癒されたのです。神様は、同じように私たち一人一人を心にとめておられ
ます。神様は私たちを愛しておられるお方です。
 イエス様は、罪を犯した人よりも、かたくなな心を怒られています。私たち
は、自分の考えにとらわれるのでなく、神様の言葉、聖書の言葉に聞き従うこ
とが大切です。そして求める人に柔らかい心を下さいます(エゼキエル三六
26)。
 さてイエス様は、手の不自由な人に権威を持って「手を伸ばしなさい」と言
われました。この時その人はその言葉通り、手を伸ばしました。その人の意志
です。その時癒されました。主のみ思いに私たちが応答して、その時主のみわ
ざは起こるのです。柔らかい心で、主に応答しましょう。
 
2018年1月28日
【ご覧になる神】創世記十六章
「そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と
呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいると
は。」と彼女が言ったからである。創世記16章13節

 今日開かれている聖書箇所は、アブラムが女奴隷ハガルを妻として迎えると
ころです。それは、この家族にとってどんな出来事だったのでしょうか。そし
て神様はどのようにお取り扱いなさったのでしょうか。
 前章では、神様を信じて義と認められたというすばらしいアブラムを見まし
た。しかし人間にとって、神様のご計画は、計り知れないものです。子供ので
きなかったアブラムは、妻サライの提案を受け、女奴隷を妻として迎えまし
た。これは当時の風習では当然のことで悪いことではありませんでした。日本
の大名も跡取りが大切で側室を迎えたのと似ています。
 しかし神様の約束の意味は、妻サライとについての約束でした。神様の御心
に反する行動だったのです。
 その家庭にはどんなことが起こったでしょうか。信頼できたからこそ妻とし
て与えたハガルが、妊娠がわかるとサライを見下げたのです。不和が生まれ、
アブラムは無責任に流されるまま、サライはハガルをいじめるのです。ハガル
はいたたまれず、家を飛び出したのです。
 では神様はどのようになさったのでしょうか。アブラムでもなくサライでも
なく、ハガルを慈しみ深
くご覧になり、問いかけます。それは現実を認識させます。そしてアブラムの
所に帰り、サライに身を低くして仕えるように言われました。
 結婚、妊娠といった逆戻りできない問題。でも主ご自身が介入し、負って下
さったのです。私たちの解決は、神の御子が人となり、十字架の死に至るま
で、身を低くされた所にあります(ピリピ二6)。主は、私たちを天からご覧
になり(詩一〇二18~)、悔い改めに導き、解決へと導いて下さいます。この
主に信頼し、心を開いて祈り、主の御心にお従いしましょう。
 
2018年1月21日
【荒野の誘惑】マタイ四1~11
「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口か
ら出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」マタイ4章4節

 今日は、荒野の誘惑です。誘惑というと悪いものへということになります
が、「試み」とも言います。それは試すということです。試されて初めてわか
る性能、能力もあります。イエス様はどのように、試みに勝たれたのでしょう
か。それにはどんな意味があるのでしょうか。
 さて、イエス様は、どのように荒野の試みに導かれたのでしょうか。それ
は、神の子として洗礼を受け、公生涯に入られた直後です。誰が導いたのでし
ょうか。御霊様が、荒野へと導かれたのです。信仰をもって主と共に歩むこと
は、すばらしいことですが、それは、思い通りに何でもうまくゆくことではあ
りません。むしろ主イエスのみ足の跡を歩むことなのです。
 悪魔は、四十日間断食したイエス様に近づいてきました。空腹でふらふらの
ところです。それでもし神の子なら石をパンに変えてごらんと言ったのです。
 イエス様は、この4節のように答えられました。イエス様は、石をパンに変
えることができないのでしょうか。できます。ではなぜしなかったのでしょう
か。自分の欲のために、力を使うことは、悪魔に仕えることだからです。むし
ろ、パンや食物よりも大切なものを見ていたのです。それが、神の口からで
る、生きた言葉です。人は神の言葉なしには、生きられないのです。それが動
物と違うところです。だから、み言葉によって生きたのです。悪魔への勝利
も、神様のみ言葉にあるのです。人には、日々、神のみ言葉である聖書の言葉
が必要です。これを食べましょう。
 イエス様の勝利は、ご自身だけの勝利でしょうか。なぜ四十日と書いてある
のでしょうか。出エジプトの民は、荒野でつぶやいて滅びました。イエス様の
勝利は、人の失敗を踏み直し、勝利へ変えることを意味します。私たちの罪、
過ちも主の十字架と復活によって、悪魔への勝利と変えられるのです。主は、
すばらしい。
 
2018年1月14日
【主はいやす者】出エジプト十五22~27
「わたしは主、あなたをいやす者である。」出エジプト15章26節

 今日開かれているのは、いやしについてのみ言葉です。四重の福音の三番目
がいやしです。主は、いやし主とご自身を現しています。神様が創造主とわか
れば不思議なことではありません。み言葉に聞いていきましょう。
 しばしば、主はいやし主との一文だけ取り出されますが、どこでどのように
語られたのでしょうか。それは紅海渡渉のすぐ後の出来事です。神様のみ力に
よって救われたイスラエルですが、すぐに荒野に入りました。すると三日間水
がなく神様につぶやき始めたのです。なぜ神様に信頼できなかったかと思うか
も知れませんが、人間は一日2Lの水が必要です。一日でも水を飲めなかった
なら命に関わるのです。脱水で頭痛や、意識朦朧としたり、尿毒症になったり
もします。
 その中で、神様は「わたしは、あなたをいやす者である」と語られたので
す。また主の声に従うならエジプトの病気には一切かからないと言われたので
す。エジプトでは、病気、災いで多くの人が死んだのです。
 ところでなぜ病気はあるのでしょうか。聖書でみると人に罪が入ったところ
から、身体や心が損なわれたのではないでしょうか。主は病を癒して下さいま
すが、しかし人は、必ず死と裁きとを通らなければなりません(ヘブル九27)。
そういった意味で、完全ないやしは、キリストの再臨で永遠の命を受ける時を
待たなければいけません。
 主は、主の声に従う人は病にかからないと言われました。だからそのとおり
です。しかしそれでも病にかかります。病にはどんな意味があるのでしょう
か。一つは罪の結果です。二つ目は、罪への警告です(アモス四10)。三つ目
は、神のみわざが現れるためです(ヨハネ九)。四つ目には同じ苦しみの人を
慰めるためです。
 あなたにとっての病にはどんな意味があるのでしょうか。主のいやしを感謝
しましょう。主のいやしを信じて祈り求めましょう。病の中にある平安を感謝
しましょう
 
2018年1月7日
【安息日の主】マルコ二23~28
また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のた
めに造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」
マルコ2章17・28節

 今日の箇所は、安息日とは何かを示しています。安息日は、天地創造の時か
ら主が定められた、休みの日で土曜日です。今は、主イエス様の復活された日
曜日に変わっています。
 ことの発端は、パリサイ人の指摘です。なぜ弟子たちは安息日に穂を摘んで
食べているのか、それは律法を破っていると言うのです。弟子たちはお腹がす
いたのでそうしたのです。何が問題なのでしょうか。
 私たちは、人の畑に入って穂を摘んで食べたら泥棒になります。しかしそれ
は神様が、貧しい人々のために赦していたことです(申二三25)。ただし刈っ
て持ち帰ってはいけません。彼らが問題にしたのは、そのことではなく、安息
日にそれをしたことでした。穂を摘む、それを仕事と考え、安息日にしてはい
けないと考えたのです。
 それに対してイエス様が言われたことは、旧約のダビデの出来事です。ダビ
デは急な出来事の時祭司しか食べることのできないパンを食べたことです。神
様の律法は大切ですが、規則よりもその心(動機)を見られる憐れみ深いお方
なのです。
 ところで安息にはどう始まったのでしょうか。神様は六日の間に天地を創造
されました。すべてとても良いと言われました。そして、七日目には休まれた
のです。この休むとは、憩うということです。そして七日目を祝福されたので
す。その後、十戒に記し、荒野で安息日の大切さを教えられました。働いて疲
れた霊と心には、神様からの休み、憩い、祝福が必要なのです。人が安息日の
ために造られたのではなく、安息日が人のために設けられたのです。そして、
主が、その日を祝福しているのです。私たちは、その主からの祝福と命とに預
かるために礼拝を捧げて、主との交わりを持つのです。
 人が安息日を守る(ためにいる)のではなく、安息日が人を守るのです。
 主の憩いと祝福に与っているでしょうか。主の平安と祝福に感謝しましょ
う。
 
2017年12月31日
 
2017年12月24日
【かえって前進に】ピリピ一12~26
さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることに
なったのを知ってもらいたいと思います。ピリピ1章12節

 今年最後の主日礼拝です。今日開かれているのは、今年度のこの教会のみ言
葉です。年度の終わりまでまだ続きますが、み言葉によって今年振り返り、さ
らに先へと進んで行きましょう。
 ことの時のパウロの状況は、どうだったのでしょうか。ピリピ人への手紙は
獄中書簡の一つです。つまりパウロは迫害を受け、牢に入れられていたので
す。かせをはめられて自由にならないのです。死も身近に感じたことでしょ
う。普通に考えると、自由に福音を伝えられないと言うばかりではなく、捕ら
えられると惨めな気持ちにならないでしょうか。霊的にも肉体的にも落ち込ん
でしまします。
 パウロも同じだったのでしょうか。そうではありません。パウロは、喜んで
いると言っています。ピリピ人への手紙は、喜びの手紙と言われます。なぜ喜
んでいるのでしょうか。福音の前進に役立っているからです。まず獄中でなけ
れば福音を伝えられなかった人々がいました。牢番をしていた親衛隊等、そし
て同じく捕らえられていた人々です。また教会の人々も信仰が強められ、ます
ます宣教するようになったのです。三番目に、迫害者達が、妬みからでも福音
を言い広めているからです。パウロは苦痛に優って喜んだのです。
 この一年を振り返ると、初めにいろいろな弱さを感じました。しかしさらに
思い巡らすと、主を信じ救われた人々やバリアフリーの工事等々、たくさんの
恵みが与えれていることを思い起こしました。人の考え以上に主が恵みを注い
でくださっていたと感じて喜びました。皆さんはどうだったでしょうか。
 パウロは、さらに「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(21
節)と言っています。
 私たちは、目の前の良し悪しに左右されていないでしょうか。キリストの命
と共に最善に導いて下さっていると主に信頼しているでしょうか。もう一度主
を崇めましょう。
 
2017年12月17日 アドベント3
【祝された胎】ルカ一39~56
エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツ
は聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福さ
れた方。あなたの胎の実も祝福されています。ルカ2章41・42節

 今日の聖書箇所は、マリヤとエリサベツの祝福された交わりですが、そこに
二人の胎児も加わっています。
 始めに胎児について触れていきましょう。一九六〇年頃でしょうかグレン・
ドーマン博士は、人生で最も影響のあるのは0才の時の経験だと言っていま
す。
 また一九八〇年頃トマス・バーニー博士は、「胎児は見ている」(邦題)と
いう本で、受精数週間の胎児がすでに外の音を聞き、母親の感情を察し、その
胎児期の経験が、その後の人生に大きな影響を与えていると書いています。そ
して現代はもっと胎児のことがわかっています。
 み告げを受けたマリヤはユダの山間にエリサベツを訪ねました。マリヤの挨
拶を聞いたとたん、エリサベツの胎児ヨハネが喜び踊りました。エリサベツは
聖霊に満たされマリヤを喜び、その胎の実の祝福を述べました。マリヤも主の
祝福を歌いました。ここに二人の母と二人の胎児の祝福された交わりがありま
す。何と大きな恵みだったことでしょう。マリヤは三ヶ月ここにとどまりまし
た。
 ところで人間はたとえその人が全く罪を犯さなかったとしても、先祖を遡る
とどれ程罪深い存在でしょうか。それを三浦綾子氏は原罪と言いました。また
ヤコブとエサウは胎内にいる時から争って罪を犯していました。
 ところでイエス様は、聖霊様によって受肉し、百%神百%人間なるお方でし
た。その弱い胎児としても全く罪のないお方だったのです。
 神様は、私たちを天地創造の前から知り、愛して選んでおられます。そして
私たちに命を与えました。それでも罪と深い関係の私たち。私たちの罪を、こ
の御子に身代わりに負わせ、私たちをきよい、霊の祝福へと招き入れて下さっ
たのです。この主イエスを心にお迎えして、クリスマスを迎えましょう。
 
2017年12月10日 アドベント2
【系図の女性】マタイ一1~17
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
イザヤ11章1節

 アドベント第2週です。今日開かれているのは、新約聖書の一番最初の部分
です。
 最初に書かれているのは、イエス・キリストの系図です。読みにくい系図で
すが、旧約聖書と新約聖書をつないでいます。そしてイエス様は、アブラハム
の子孫、ダビデの子孫として生まれましたが、それは突然救い主になったので
はなく、神様の預言の通りであることを示しています。
 そしてこの系図を見てみると、その中にすばらしい信仰もありますが、どん
なに不従順であるかがわかります。今回は系図の中に出てくる四人の女性を見
てみます。
 最初は、タマルです。族長の一人ユダとの間に双子が生まれますが、タマル
は、ユダの息子の妻だったのです。次は、ラハブです。ラハブは元エリコの住
民で異邦人でした。また遊女でした。しかし出エジプトの話などを聞き、創造
主を求め信じたのです(ヨシュア二章)。第三は、ルツです。ルツは、モアブ
人でしたが、イスラエル人の姑ナオミによく仕え、イスラエルの神を自分の神
としました。そしてあがないの意味を深くわからせ、ダビデ王の祖母となった
人です。第四は、ウリヤの妻と書いてあるバテ・シェバです。ダビデ王は、バ
テ・シェバと姦通し、それを隠すためにウリヤを戦場の敵の手で殺させまし
た。そして妻として迎えたのです。主は王を激しく怒られましたが、悔い改め
を受け入れ、赦されました。これがキリストの系図です。
 私たちの中に、罪のない人がいたとしても、その先祖をたどれば、どんな罪
汚れが出てくるかわかりません。けれども神様は、その私たちのただ中に、ひ
とり子であるイエス様を送られたのです。罪のない御子が、私たちの罪を負っ
て下さったと信じ、悔い改めるなら、罪赦され、救われて永遠の命が与えられ
るのです。
 この御子を心にお迎えし、クリスマスをお祝いしましょう。
 
2017年12月3日 アドベント1
【王が来られる】ゼカリヤ九9~10
シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王
があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、
ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。ゼカリヤ9章9節

 今日から、アドベントです。アドベントとは「到来」という意味です。救い
主の到来を待ち望む時です。救い主の到来は、旧約三九巻全部に預言されてい
る神様のご計画です。ゼカリヤ書には、イザヤ書に次いで多くのメシア預言が
記されています。
 今日開かれているゼカリヤ書は、ハガイ書、マラキ書と共に、ユダヤ帰還後
の、また旧約最後の預言書であり、この後キリストの誕生まで、約四百年の神
様の沈黙があります。しかし神様は、沈黙しつつもそれまでに語られたとおり
に、救い主を送る準備を進めておられました。
 この九章9,10節は、イエス様のエルサレム入城の預言として有名です。十字
架にかけられる一週間前のことです。王であるメシアが来られる喜びを表して
います。しかしここに記されている王であるメシアの姿はとても不思議です。
二つの王の姿が記されています。
 一つは、柔和で雌ロバの子の子ロバに乗る王の姿です。王が乗るのは、馬で
す。力の象徴です。ロバはどうでしょう、力も早さも劣ります。それがこの王
の姿です。救い主は、力でなく平和のために来られ救うお方です。その後、二
つ目の姿があります。それは軍馬や弓を絶やし、平和を告げ、世界を地の果て
まで治める力強い王の姿です。
 この王は、どのように救いを成し遂げるのでしょうか。それはゼカリヤ書全
体に記されています。それは、打たれ裏切られ(十一12、13)苦しみを受ける
ことによってです。そのために来られたのがクリスマスです。しかし今度は、
全世界を裁き、治める王として来られます。これが再臨です。
 私たちは、主が来られたクリスマスを祝うと同時に、今次の到来を待ち望ん
でいるのです。
 私たちの救い主として、幼子として来られた主、やがて王として来られる主
を褒め讃えましょう。
 
2017年11月26日
【神様の契約】創世記十五7~21
その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫
に、この地を与える。
エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。創世記15章18節

 今日は、アブラムが主を信じて義と認められた続きのところへと戻ります。
神様がアブラムと契約を結ぶところです。「契約」とは聖書の大切なキーワー
ドの一つです。聖書の理解に欠かせない言葉です。
 アブラムは主を信じて義と認められました。それでも、また成就していない
約束に対して、疑問がわいてきます。どうしてそのことがわかるでしょうかと
主に訪ねました。主は、三歳の雌牛、三歳の雌やぎ、三歳の雄羊、山鳩とその
雛を用意するように言います。アブラハムは、それで神様と契約を結ぶことが
わかりました。当時カルデヤ人の契約の方法だからです。獣を真二つに裂いて
向かい合わせにおいて準備をしました。アブラムは、用意して長い時間待って
いると、深い眠りに陥り、暗闇の中で恐怖に襲われました。その時神様は、ア
ブラムの子孫が奴隷としての苦しみを受け、四百年後四代目にこの地が与えら
れると約束されました。今はその地に悪が満ちていないからです。その時、煙
の立つかまどと燃えるたいまつが裂かれた獣の間を通り過ぎました。それが契
約を結んだという印です。
 本来は、契約者二人で裂かれた獣の間を通ります。そしてもし契約を破った
らこの裂かれた獣のようになるという意味を持っています。しかし神様お一人
で通られました。それは、契約は神様とアブラムで結びましたが、アブラムに
は何の負い目もなく、神ご自身だけが、責任を負うという意味です。
 今は、イエス・キリストによる新しい約束(契約)の時代です。人類は、神
様との旧い契約を守ることができず、罪と死とが入ってきました。しかし、キ
リストの十字架による一方的な罪の身代わりという契約によって、信じる者は
すべて永遠の命を得ることができるのです。これは、神様からの一方的な恵み
の契約です。
 この契約を信じて受け取りましょう。また受け取った人は、いつもその恵み
を確認して感謝しましょう。人に伝えましょう。
 
2017年11月19日
【イサクを献げる】創世記二二章
そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日で
も、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。
創世記22章14節

 今日は、アブラハムがイサクを献げるところが開かれています。アブラハム
の信仰の頂点ですが、同時に旧約聖書の中で最も美しいところの一つです。ア
ブラハムは、老齢になってもう自分では子供は生まれないという時に、約束の
子イサクが与えられました。アブラハムは、約束の子であり、祝福の相続者が
与えられたことをとても喜び、大切に育てていました。
 ある時神様は言われました。「モリヤの山へ行って、あなたの愛する子イサ
クを燔祭として私に献げなさい。」アブラハムはびっくりしました。燔祭と
は、自分の代わりに、牛や羊を殺して、火で焼いて、神様におささげすること
です。そんなことしたら、、、と思いましたが、アブラハムは、神様がそうお
っしゃるなら、私にわからない神様のお考えがあるに違いないと思いました。
 次の日の朝早く、アブラハムとイサクは出発しました。その途中でも、イサ
クを殺すなんて、と何度も思いました。三日目にモリヤの山近くに来て、イサ
クは、「たきぎと火はあるのに、燔祭の羊がありませんね。どうするんです
か。」と聞きました。アブラハムは、「神様が備えてくださるよ」と答えまし
た。
 頂上について、祭壇を築いてたきぎを並べたとき、イサクに言いました。
「イサク、よくお聞き。神様は、お前を燔祭としてささげなさいとおっしゃっ
た。なぜかわからない。でもお前は約束の子だ。きっとよみがえらせて下さる
に違いない。」イサクは心を決めてその言葉に従いました。
 アブラハムが、ナイフを振り下ろそうとした時、主のお声がありました。
「アブラハム、その子を殺してはいけない。あなたは、自分のひとり子さえ惜
しまなかったので、私を畏れる者であることがよく分かった。あなたを祝福し
よう。」
 「神様!」
 すると雄羊が藪に角をひっかけていました。神様が用意して下さっていたの
です。それをイサクの代わりに神様におささげしました。
 わかりますね。その二千年後この山で、神様は、ひとり子イエス様を私たち
の罪の身代わりとして、十字架につけられたのです。それを信じる人は救われ
るのです。備えてくださった主を信じ感謝しましょう。
 
2017年11月12日
【聖であれ!】Ⅰペテ一13~21
それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」
と書いてあるからです。ペテロ第一1章16節

 今日開かれているみ言葉は、聖化についてのみ言葉の一つです。私たちのホ
ーリネス教団は、四重の福音(新生、聖化、神癒、再臨)を強調することが特
色の一つです。
 聖化とは、きよく変えられるということです。その諸相から、きよめ、十字
架の磔殺、聖霊の満たし、イエス中心、全き明け渡し、愛の完全など様々な言
い方があります。救われたクリスチャンのあり方生き方ということができま
す。それは教団の特色ではありますが、聖書が示している大切なことですの
で、考え方にはいろいろありますが、多くの教団教派も大切にしていることで
す。
 ウェスレーは、きよめとは、救われてから天国へ行くまでに、与えられる恵
みであり、瞬間的なものであると言っています。同時にその後もだんだんに成
長していくものであると言っています。(「キリスト者の完全」参照 さてど
うして私たちは、聖化されなければならないのでしょうか。それは、神様が聖
なるお方であり、私たちが神様のものとされたからです。そして神様が聖であ
るように聖でありなさいと命じているのからです。またそれは与えられた神の
国を奪われないためでもあります。
 では、私たちはどのように聖化されるのでしょうか。まずこれは恵みです。
与えられるものです。人の行いによるのではありません(ヘブ十二2、ロマ一
16)。しかし私たちにもすべきことがあります。それは、主がそうして下さっ
たのですから、主を自分の心の王座に迎えることです。自分は自分の王座から
降りるのです。そして自分を神のものとして聖別することです。それは、この
世から聖別されることでもあります(ガラ六14)。最後に残るのは、プライド
かも知れません。きよめは、最初の明け渡しがスタートです。私たちは、主の
聖と愛を中心として、この地上でも神の国を生きるのです。
 
2017年11月5日
 
2017年10月29日
【臨在による不動】詩篇四六篇
「万軍の主はわれらとともにおられる。
ヤコブの神はわれらのとりでである。」詩篇46章11節

 今日の聖書箇所は、宗教改革の最中、ルターを支えたみ言葉の一つです。31
日宗教改革五百周年記念日を覚えてみ言葉に聞いていきましょう。
 この詩を見てみましょう。神様が避け所、苦しむときの助けです。だから何
も恐れないのです。それは、山が海の中に入るような、それこそ天地がひっく
り返るような危機の中で神様が助けなのです。
 ません。神様の声で、国々の王と軍隊は、揺れ動き、溶けるようになくなっ
てしまいます。
 すべての軍に勝って、神様が万軍の主なのです。主が私たちのとりでだと告
白しています。
 この詩はヒゼキヤの作だと言われます。イザヤ三六、三七章にあるエルサレ
ム滅亡の危機が背後にあったと言われています。アラムの十八万五千の大軍に
囲まれ、エルサレムは風前の灯火でした。アラムの王は、イスラエルの神をの
のしります。ヒゼキヤ王は、神様の前にひれ伏して祈りました。彼らの言葉を
聞いて下さいと祈ったのです。イザヤにも祈るようにお願いしました。そして
イザヤを通して勝利の預言をいただいたのです。大軍は一夜にして滅んでいた
のです。これは、アラムの記録にも残っています。それで主を褒め讃えたので
す。
 ルターは、一五二一年のヴォルムス帝国議会で、異端とされて、自説の撤回
を求められました。その翌日「聖書に書かれていないことを認めるわけにはい
かない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたま
え」と言いました。そしてザクセン侯に匿われ、聖書をドイツ語に翻訳しまし
た。
 ルターは、人ではなく、魂を殺すことのできる神様のみを畏れ(マタイ一〇
28)、主イエスの命によるあがないのみが、救いの源であることを(マタイ二
〇28)撤回しませんでした。免罪符や苦行では救われないのです。しかし信じ
るだけで救われるとは、何という恵みでしょうか。
 
2017年10月22日
【不満と義認】創世記十五章
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。創世記15章6節

 今日は、創世記が開かれています。特に今日の箇所は、アブラムが義と認め
られたところです。これは、新約聖書でも信仰義認=救いの原点とも言うべき
大切なところです。31日は宗教改革五百年目の記念日ですが、その宗教改革
は、この信仰義人の回復が中心でした。
 アブラムが、アラム連合軍に勝利してから、主は、幻の中で「アブラムよ、
恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。
」と語られました。この行動は、アブラムの信仰の成長を示しました。しかし
復讐への心配もあったのです。
 しかし次のアブラムの主への答えは、それ以上の心配をあらわしています。
それは、子供が与えられないことです。アブラムは、心配して主に答えている
ように見えますが、むしろ、不満と言っていいでしょう。F・B・マイヤー
は、この時カランを出て十年と推測します。敵に勝利して安泰ですが、どんな
に財産が与えられても、それは親戚か(当時の習慣で)筆頭奴隷が相続するの
です。年を取ってきて、子孫の約束が何になるのでしょうかという不満です。
 私たちは、無意識でも意識的にでも自分の心を都合良く偽ることがありま
す。しかし神様は、心配や不満を隠すのでなく、率直に真実を話すことを喜ば
れます。自分の本当の思いを告白する時、神様のみわざが起こります。私たち
も自分の不満や不安、また不信仰などもそのままに祈り告白しましょう。
 主は、アブラムに無数の星を見せ、数えなさいと言われました。「あなたの
子孫はこのようになる」と言われました。この時アブラムは、主を信じたので
す。それで主は、彼を義と認められたのです。理屈を越えた信頼が信仰にはあ
ります。ローマ書を見ると、この信仰義認は、私達のためで、天父は、主の十
字架と復活を信じる私達を義として下さるのです(ローマ四18~25)。
 主を賛美しましょう。
 
2017年10月15日
【ロトの救出】創世記十四章
「願わくは天地の主なるいと高き神が、/アブラムを祝福されるように。/願
わくはあなたの敵をあなたの手に渡された/いと高き神があがめられるように
」。創世記14章19・20節

 今日開かれている聖書箇所は、アブラムがアラム連合軍に捕らわれたロトを
救出するところです。私たちは、起こっている出来事だけでなく、その見えな
い動きや原動力に気づいていくことが必要です。
 アラムの連合軍、恐らく今のイラクの当たりから来て、カナンの連合軍を破
り、ソドムやゴモラの王、またそこにいたロトも捕虜にしました。アブラム
は、いてもたってもいられなかったことでしょう。甥のロトは、今は独立して
いましたが、我が子同然に育てて来たからです。
 しかし、その強大な連合軍からどうやってロトを取り戻したら良いのでしょ
うか。それはとても無理に思えました。けれどもエジプトでの教訓が生きてき
ました。その秘訣は、主との交わりでした。そして普段から備えていた家の奴
隷三九〇人、同盟を結んでいたマムレ兄弟達の助けを借りました。
 勝利に酔っていたアラム連合軍は、暗やみに乗じた奇襲に驚き逃げて行きま
した。歴史上でも、このようなことはしばしば起こっています。しかしこれは
主のみわざです。
 彼らは、勝利の後どうしたのでしょうか。感謝の礼拝と分配をしました。サ
レムの王メルキゼデクが来て、アブラムを祝福しました。アブラムは彼に全所
有の十分の一をささげました。この王は、救い主イエス様を象徴しています。
サレムとは平和。メルキゼデクとは義の王という意味です。彼はただ後から来
たのではありません。彼が執り成して祈っていたのです。それが勝利の原動力
でした。
 私たちの救い主イエス様は、私たちの救いのため、罪の完全な贖いのため
に、ご自身をささげて、至聖所でとりなしておられるのです。その主によって
私たちは、救われるのです。イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永
遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。(ヘブル六20)
 
2017年10月8日
【福音の力】ローマ一16~17
「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始ま
り信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあると
おりです。」ローマ1章17節

 今日は、ローマ書が開かれています。ローマ書は、キリスト教の中心的な救
いについて、書いてある書です。そして、今日取り上げる一章16~17節は、こ
のローマ書の中心とも言われ、大切な語句も多く出て来ます。今日は、その中
から、福音の力と信仰による義について見ていきましょう。
一、福音の力
 16節には「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシ
ヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」とあり
ます。ある英訳では、最初のところを「福音を誇りとします。」と訳していま
す。パウロは、ユダヤ人の中でもユダヤ教に熱心なパリサイ人であり、律法学
者でした。しかし様々な経験を通してキリストの福音を誇りとしました。ユダ
ヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求めます。その結果、犯罪人として
十字架で死刑となったキリストには見向きもしません。しかしこの全人類の身
代わりの十字架こそ福音の力なのです。人は、なかなか自分を変えられませ
ん。パウロもそうでした。しかしダマスコ途上でキリストに会い、全く変えら
れたのです。福音の力が人を変えるのです。
一、信仰による義
 この義とは、神様の絶対的「義」です。人と比べて、迷惑をかけていないと
いう話しではありません。すべての人は神様の前には罪人です。神様の前に罪
を償うには死しかありません。どんな良い行いでも足りません。しかし聖であ
り、愛である神様は、御子の命によって罪を贖われました。だからそれを信じ
るだけで、すべての人は赦されて、神の前に義とされるのです。
 神の前にへりくだって自分の罪を認め、主の贖いを受け入れましょう。それ
が信仰による救いです。
 
2017年10月1日
【呼ばれたレビ】マルコ二13~17
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な
者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くた
めに来たのです。」マルコ2章17節

 今日開かれているのは、イエス様に呼ばれたレビのところです。このレビ
は、マタイ福音書と比較して、十二弟子のマタイのことであろうと言われてい
ます。イエス様に応答したレビは、イエス様の弟子になったのです。
 イエス様は、なぜレビに目を留めて、呼ばれたのでしょうか。普通自分の弟
子を呼ぶ時には、どんな人を呼ぶのでしょうか。その基準の一つは、才能や能
力ではないでしょうか。イエス様はそのようにレビを選ばれたのでしょうか。
収税人であったレビは確かに計算が速かったかもしれません。しかし優秀な人
は他にもいたことでしょう。収税人は、ユダヤを支配しているローマのために
税金を集めていました。ですから、同国のユダヤ人は、収税人を裏切り者とか
罪人と見て、食事をしたり、付き合いをしたりしなかったのです。そのような
中で、彼は、自分の限界や弱さ、孤独といったものを感じていたのではないで
しょうか。神様は、私たちが強く誇るよりも、弱さを覚えるところに目を留め
て下さるお方です。そして、もう一つ。イエス様は、レビの過去や現在ではな
く、未来の姿に目を留めて呼ばれたのではないでしょうか。
 では、レビはなぜ、突然とも思えるイエス様の召しに応答したのでしょう
か。まず言えることは、イエス様が声をかけて呼ばれたからです。目を留め、
心にかけられていることがうれしかったのではないでしょうか。神様は、造ら
れた私たち一人一人に目を留めておられます。そしてもう一つのことは、自分
としっかり向き合う人であったからではないでしょうか。強い人は、自分の弱
さと向き合える人です。医者に来るのは病気を認める人です。イエス様は、罪
人を招くために来られました。そして、ご自身その罪を、罪を取り除かれるの
です。
 主はあなたのことも呼んでおられます。
 
2017年9月24日
【アブラムとロト】創世記十三章
「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」マタイ5章5節

 今日は、創世記十三章が開かれています。エジプトから追い出されてカナン
に戻ってきたアブラムとロトの関係です。私たちの生活もそうであるように、
ここにも神様の御心にかなったことと、神様の喜ばれないこととが、複雑に入
り組んでいます。そんな中で私たちはどのような選択をしていくのでしょう
か。
 カナンに帰ってきて最初にアブラムがしたことは何でしょうか。それは導き
出して下さった神様への礼拝です。どんな気持ちで礼拝したのでしょうか。喜
んでというよりも、約束の地からの逸脱やエジプトでの偽り、その中での神様
の救出など、悔恨と感謝とが入り交じった礼拝だったのではないでしょうか。
しかし主の前にへりくだり、ひれ伏すことによって、神様との親しい交わりが
回復したのではないでしょうか。それが次の考えと行動に表れています。
 甥のロトの僕たちとアブラムの僕たちの間に争いが生じます。富んだ彼らを
カナンの地は養うことができなかったからです。アブラムは、どのような解決
法を選んだのでしょうか。それはロトとの決別です。どのように決別したので
しょう。まずロトにどこに行くかを決めさせ、残るところをアブラムが取ると
いうものでした。
 家長制を考えても、損得を考えても、ロトに譲ることは損で不思議な選択で
した。でもそれが争いを避ける最善の方法であったのです。損をしても、神様
の喜ばれる道を選んだのです。
 ロトとの決別には、もう一つの大切な意味があります。家族親族に頼らない
で、神様の約束に信頼するということです。家族の絆は大切ですが、神様への
信頼を妨げてはなりません。
 ロトとの決別の後、神様は、再びアブラムに現れ、彼を祝福し、まだ見てい
ない子孫を祝福し、この地を与えると、約束を確認して下さったのです。
 いつも主の臨在にとどまりましょう。そのような選択をしましょう。
 
2017年9月17日
【愚かな金持ち】ルカ十二13~21
「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴
をあけて盗むこともありません。」マタイ6章20節

 今日開かれているのは、愚かな金持ちというイエス様のたとえ話しです。
 なぜその話をされたのかというと、ある人が、遺産を分けることについて、
イエス様に仲裁をお願いしたからです。その時「どんな貪欲にも注意して、よ
く警戒しなさい。いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではな
いからです。」と言って、この譬えを話されたのです。
 あるお金持ちがいました。その年は、大豊作でした。金持ちは、考えまし
た。「もう倉にも入りきらない、どうしよう。」そして思いつきました。「そ
うだ、新しい、大きな倉を建てて、財産も一緒にしまっておこう。そして自分
の魂にこう言おう。これから先何年分もの蓄えがある。さあ、安心して、、食
べて、飲んで、楽しめ。」
 ところが、その時、神様は彼に言われました。「愚か者。おまえの魂は、今
夜おまえからとりさられる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだ
れのものになるのか。」
 イエス様は、「自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこのとおりで
す。」と言われました。
 天地宇宙を造り人を造られた神様は、人間は死んで裁かれると定められまし
た。そしてすべての子供が大人になれるわけではありません。今天の命を持つ
ことが必要ですよ。地上での生活も大切です。でも地上でいくらお金があっ
て、豊かな生活をしてもそれで天国に行けなかったらなんとむなしいことでし
ょう。
 ではどうしたら、天に宝を持ち、永遠の命を得ることができるのでしょう
か。まず神様を世界の造り主統治者と認めることです。次に自分の罪を認め悔
い改めることです。そして天の父の御心を行う生活をすることです。私たちの
目標をしっかりと見て、主の恵みによって、信仰をもって進みましょう
 
2017年9月10日
【命を生かす器】マタイ九14~17
「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。新し
いぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」マタイ9章17節

 今日のテーマは、七つの本質の七つ目、適応可能な構造です。福音や教会の
本質は変わりません。しかしどのように実際に適応していくかは、状況に応じ
て変わりますし、変える必要があるのです。
 このみ言葉は、断食についての論争の中で言われたものです。新しいぶどう
酒は、発酵し、ものすごい力で膨らみます。古い皮袋は、脂が落ち、硬くなっ
ているので、膨らむと破れ、中のぶどう酒もだめになります。しかし新しい皮
袋は、柔らかいので伸びて膨らみに耐えることができます。
 私たちが、神様からいただく永遠の命は、新しいぶどう酒と同じです。命が
あるのでどんどん膨らむのです。もし永遠の命を持つ前と同じ、生活や考え
方、価値観、習慣のままであるなら、やがて破綻して、命も失い兼ねません。
命に合わせた器が必要です。またその器によって命も成長することができるの
です。
 出エジプトして水がなくなったとき、神様はモーセに、杖で岩を打つように
言われました。その通りにすると水があふれ出ました。だいぶ後になって、荒
野で同じようなことが起こりました。神様は、モーセに岩に命じて水を出すよ
うに言われました。しかしモーセは岩を打ったのです。水は出ましたが、神様
の栄光を現さなかったので、約束の地カナンへ入ることができなくなりまし
た。
 本質は、目に見えません。そして変わりません。私たちは置かれた状況、文
化に合わせて本質を適応する必要があります。それは目に見えます。そして、
方法は千差万別です。そして、適応は変化します。状況が変わるからです。以
前のベストが今のベストではありません。今のベストが未来のベストではない
のです。
 適応と変化を導くのは、み言葉と聖霊様です。それは神様との親しい交わり
の中でわかることです。聖霊様の導きをしっかりと捉えて、実践にチャレンジ
しましょう。
 
2017年9月3日
【アブラハムの偽り】創世十二10~20
愛には偽りがあってはなりません。
悪を憎み、善に親しみなさい。ローマ12章9節

 今日は、アブラム(後にアブラハムに改名)の二回目になります。神様の呼
びかけに応答したアブラムは、信仰の父として、ユダヤ教、キリスト教、イス
ラム教の人々(世界人口の半分以上)の人々に尊敬されています。しかし聖書
はアブラムが、強い信仰者ではなく、弱さも併せ持つ人であることを示してい
ます。今日はその弱さを見ていきます。
 具体的にはどんなことだったのでしょうか。飢饉の時にエジプトに下りまし
た。その時、妻サライが美人であったので、自分が殺されることを恐れて、サ
ライに妹と言わせたことです。サライは、パロ王の妻となるべく召し出され、
大きな問題となりました。どこが問題であったのでしょうか。どうすれば良か
ったのでしょうか。
 第一の問題点は、神様の声を聞かなかったことです。主は、カナンの地を与
える、行き巡りなさいと言われましたが、そのお言葉に留まり続けなかったこ
とです。私たちは、一度神様の声を聞いただけでなく、み言葉に留まり続けて
いるでしょうか。生活の中心に神様がおられるでしょうか。礼拝、日々のみ言
葉と祈りで主にお会いしているでしょうか。
 第二の問題点は、目の前の問題に心を奪われたことです。飢饉は、財産であ
る家畜、自分の命も失う大きな問題です。しかし、全知全能の神様はそれ以上
のお方です。問題に心を奪われないで神様に信頼することです。
 第三は、大切な真実を隠したことです。なぜ私の妻と言えなかったのでしょ
うか。人を恐れ、神様が祝福するという約束に信頼できなかったからです。約
束のみ言葉に全く信頼しましょう。
 第四は、問題はきちんと解決されないと繰り返されるのです(二〇章)。さ
らに彼の息子イサクも同じ過ちに陥ります。主に信頼し、キリストの十字架に
信頼し、悔い改めと信仰をもって、問題は、速やかに解決していただきましょ
う。
 
2017年8月27日
【どこからどこへ】ローマ一一33~36
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからで
す。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
ローマ11章36節

 今日は、召天者記念礼拝です。今日開かれているのはローマ人への手紙で
す。この手紙は、三部に分かれています。一部は1~8章まで救いの教理につ
いて、二部はユダヤ人の救いについて、三部は実践的信仰生活についてです。
 今日の聖書箇所は、二部の最後の部分です。パウロは、同族ユダヤ人の救い
について、イエス・キリストを拒否して中々救われないことへの嘆きと切望、
またそれが異邦人への救いへとつながっているという、人知をはるかに超えた
神様の知恵に対する感嘆でこの部を閉じています。
 ところで、人がどこから来て、どこへ向かっているのかは、人類の大きなテ
ーマです。それは私たちが、何のために存在しているのかという大切な課題で
す。聖書は、そのことについて、人類の始まった時から、人を造り、天地宇宙
を造られた神様が、示していらっしゃると言っています。
 始まりについては、人を含めたすべてのものは、神から出て来ていると言っ
ています。神様が源なのです。神は霊なる方ですから、科学では理解すること
はできません。しかし人が自分の作ったもの大切にするように大切に思い、心
を注いでおられます。だから人が心を向ける時、神様の語りかけを聞くことが
できるのです。
 そして神様は、造った世界をほったらかしにしてはいません。今も秩序正し
く世界を統治しておられます。人は神に似たものとして自由意志を持っていま
すが、それでも神の許しの外に出ることはできないのです。
 そして、すべてのものは、神様の元に返っていきます。身体は土に帰ります
が、霊は神に帰るのです。人は死と裁きとを通らなければなりません。しかし
イエス様の十字架を信じた人は、裁かれないで永遠の命に至るのです。以前の
方も今年加えられた方もいます。私たちも神様に帰ることを目指して生きてい
るのです。
 
2017年8月20日
【神はどんなお方?】ヨハ一四1~9
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにい
るのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見
たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うので
すか。

 今日開かれているところは、イエス様が、私はやがてあなたがたを離れて行
くと話し始めたところです。それを聞いて弟子たちは動揺し始めます。残され
て、あとは頑張って下さいと言われたようなものです。
 イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのです。」と言われます。
 街頭インタビューで「神はいると思いますか」と聞くと結構「いる」と答え
る人が多いです。続いて「ではどんな存在だと思いますか」と聞くと様々な答
えが帰ってきます。例えば、悪いことをしないか見張っているなどです。
 神様は、祝福の湖です。祝福は、川のように私たちの心に流れ、また周り
(下流)に祝福を流していく目的で与えられています。しかし、流木で流れが
せき止められるように、裁く思い、偽り、赦さない心などで、祝福の流れはせ
き止められてしまいます。
 それはサングラスやフィルターで光が遮られ、本当と違う姿に見えてしまう
のと似ています。父なる神様のイメージをフィルターでゆがんで見えます。例
えばタラントの譬えでは、一タラント与えられた僕は、主人は、まかないとこ
ろから刈り取る恐ろしい方だと言っています。これは例えば両親に対する怒り
や恨み、裁く思いなどでフィルターがかかり、本来の父の姿が見えなくなって
いるのです。
 聖書の示す父なる神様は、権威者ですが、愛情豊かで、信頼できるお方で
す。そして私たち人間を価値ある存在、あなたがたを養ったと言っています。
私たちが受け止めるべき大切なメッセージです。すると神様に立ち帰ることが
できます。私も父のイメージを天の父に反映していましたが、裁く心を認め、
赦し、変えられてきました。神様の祝福を受け取りましょう。
 
2017年8月13日
【からだと器官】Ⅰコリ十二12~31
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
コリント第一章12~27節

 今日の聖書箇所に入る前に、今日は終戦記念日前の主日です。日本基督教団
の統理富田は伊勢神宮に参拝し、教会は宮城遥拝をしてから礼拝を行っていま
した。それは唯一の創造主に対する信仰を失った姿です。そして再臨信仰を明
確にしたきよめ教会の牧師は一斉検挙され教会は解散させられました。終戦記
念日は、日本の教会が信教の自由を取り戻した日でもあるのです。創造主は、
今の歴史をも治めておられるお方です。
 さて、今日は、教会についてです。
 教会はキリストの身体です。頭はキリストです。他のどんなものも、それに
変わることはできません。牧師や役員などの人、組織や儀式、富みも変わるこ
とができません。それが教会です。
 次に見ることは、キリストの身体は一つということです。身体には、様々な
器官がありますが、それが結び合わされて一つの身体となっています。キリス
トという頭に、いくつもの身体があるわけではありません。それをクリストフ
ァー・ライト師は、教団や教派毎に別のキリストの身体があるわけではありま
せん、と表現しました。全世界の教会が一つの教会となって、一つのキリスト
の身体をなしているのです。
 なぜ、そう言っているのでしょうか。人間は、分離、分裂分派を起こしやす
いからです。自分との違いを非難するのではなく、同じ身体の別の働きとし
て、互いに尊びあうべきなのです。
 そして各器官には、違いがあります。目や口、手や足と同じように、教会で
も、子供伝道、聖歌隊、福祉など長所が違います。お互いに、それを認め合う
ことが必要です。イエス様は、互いに愛し合いなさい、互いに愛し合うことに
よって、人々はあなたがたを私の弟子と認めると言われました。弱さを補い合
い、長所を喜び合うのです。
 主にあって、すべての聖徒が一つであることを喜びましょう。
 
2017年8月6日
【レギオンからの解放】マルコ五1~20
しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家
族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、
どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」マルコ5章19節

 今日開かれている聖書箇所は、汚れた霊にとりつかれた人が、イエス様によ
って解放されたところです。イエス様とは、どんなお方であるかみ言葉に聞い
ていきましょう。
 イエス様は、ガリラヤ湖を舟でわたり、デカポリスのガダラ人の地域に来ら
れました。すると、汚れた霊につかれた人が、墓場からやってきました。そし
て、「私を苦しめないで下さい。」と言うのです。それは、イエス様が汚れた
霊に対して「この人から出て行け」と命じられたからです。
 聖書は、汚れた霊や悪霊の存在を明言しています。その長がサタンです。悪
霊たちは、堕落した天使と言われます。神様の被造物です。しかし、創造者に
背いて、自分が神のように振る舞っています。また彼らには、すでに永遠の滅
びが定められています。悔い改めの機会や裁きが終わっているのです。そし
て、神様に似せて造られた人をも道連れにしようと働いているのです。しかし
人間の中には、勝手に悪霊は入ることはできません。やたらに恐れる必要はあ
りません。でももし迎え入れるなら悪霊に支配されてしまします。
 神の御子イエス様の御名には、悪霊に対する権威があります。だから汚れた
霊たち(その名はレギオン)は逆らうことができません。彼から出て行ったの
です。彼がイエス様を迎えに出て来たのは、助けを求めたからではないでしょ
うか。
 汚れた霊が出て行くとその人は「正気に」もどりおとなしく座っていまし
た。本来の自分に戻ったのです。そしてイエス様のお供をしたいと申し出まし
た。しかしイエス様は、家に帰って主のすばらしさ、憐れみを証するように言
われました。主イエス様は、ある人を使徒としてそばに置き、ある人は証人と
して家に帰らせ、それぞれを祝して用いる権威をもっておられます。
 私たちも主の御名によって歩みましょう。
 
2017年7月30日
【祝福の基となる】創世記十二章
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの
名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。創世記12章2節

 十二章からアブラハム(最初の名はアブラム)が登場します。アブラハムか
らユダヤ民族が始まります。旧約聖書は、ユダヤ人を通しての救いの歴史が記
されています。そういう意味で十一章までの世界の始まりは、序章にあたりま
す。アブラハムと神様との関係はどのように始まり、どんな関係なのでしょう
か。
 神様とアブラムの関係は、神様の呼び出しから始まります。創世記では、カ
ランで父親の死後となっていますが、使徒七章を見ると、すでに生まれ故郷ウ
ルで呼び出されています。するとカランで、父に引きずられてそこに留まって
いたのです。神様は、もう一度アブラムを呼び出されたのです。私たちと神様
との関係も神様の呼び出し(召し)から始まるのです。神様はは、すべての造
られた人を愛し呼んでおられます。私たちは、それに応答する必要があるので
す。
 アブラムの選びは、人類の救いのための特別な選びでした。そこで神様が、
アブラムに言われたことは、「あなたを祝福する」ということでした。祝福と
は何でしょうか。普通に考えると、物質や家族や仕事、健康、交友関係などが
豊かになることではないでしょうか。神様の祝福は、物質等のこの世のことに
留まらず、霊的なものに及びます。神様は、その人が何者であるかを教え、人
それぞれに使命を与えられます。それを知り、全うしていくのです。神様の祝
福は、自分の祝福に留まらず、すべての人が祝福を受けるというとてつもない
約束です。それは彼の子孫として生まれた御子イエス・キリストを通して成就
しました。
 アブラムが祝福を受けた秘訣は何でしょうか。それは、家族を離れ、民族を
離れ、神様が示す地へ出発したことです。彼が優れていたというよりも、主の
言葉に従ったところに秘訣があります。私たちも主の言葉、聖書のお言葉に従
い、キリストを信じ、祝福を受けつぐものとされ、神の国を目指しましょう。
 
2017年7月23日
【ノア契約】創世記八、九章
わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約の
しるしとなる。創世記9章13節

 ノアの箱舟、洪水の続きになります。八章では、まだ水が引いていませ
ん。そして箱舟に入ってから、水が引いて、箱舟から出るまで一年以上かか
りました。また箱舟から出る時も、勝手に出たのではなく、神様のみ言葉を
聞いて出たのでした。
 ノアが、箱舟から出て最初のしたことは何だったのでしょうか。それは、
礼拝でした。なぜ、礼拝をしたのでしょうか。神様を礼拝する第一の理由
は、神様天地を創造する全能なる主の偉大さのためです。神様の存在そのも
のが、礼拝の理由です。第二の理由は、救いへの感謝です。ノアと家族は、
すべての人が滅びの中で、神様に聞き従って箱舟を作り、救われました。主
が裁きの中から助けて下さったことへの感謝の礼拝をささげたのです。第三
の理由は、神様が、これから守って下さるようにというお願いです。この洪
水は、環境の劇的変化を引き起こしました。その中で助けて下さるようにと
礼拝したのです。
 神様を礼拝したノアに対して、神様はどのように答えられたのでしょう
か。四つのことを語られました。一つは、再出発ということです。神様は祝
福して「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」と言われました。天地創造の時と
同じ言葉です。再出発するように言われたのです。二つめのことは、動く生
き物つまり動物なども食物として与えるということです。三つめは、契約と
して、もうすべての生き物を洪水によって滅ぼすことはしない、と語られま
した。それは、人の考えることは最初から悪いからということです。洪水で
滅びても良くならない、変わらないのです。しかし、聖書全体で見ると、天
地を裁くこと、この天地は滅びると語られています。四つめは、この契約の
しるしとして、天と地を結ぶ虹を置くということです。虹は、やがて来られ
るキリストを指しています。天と地を結ぶ唯一の仲介者は他にいません。私
たちは、地に来られ、十字架で死に、よみがえられたキリストを救い主とし
て、礼拝しているのです。
 
2017年7月16日
【中風のいやし】ルカ五17~26
彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われ
た。ルカ5章20節

 イエス様は、カペナウムで、神の国を伝えていました。家の中には、大勢の
人がいて、玄関の外も人でいっぱいでした。
 さて、中風という病気の人がいました。この病気は、手や足が動かなくなっ
て、寝たきりになったり、言葉がしゃべれなくなったりします。この病気の人
のお友達たちは、何とか治って欲しいと思っていました。そして多くの人の病
気を治しているイエス様のところへ行ったら治るに違いないと思ったのです。
 病気になったり怪我をしたりすると、どうしてこんなになったんだろう、あ
んな悪いことをしたからかなあと思うことはありませんか。病気は、アダムと
エバが罪を犯したときから人間に入って来たのです。悪いことをしていなくて
も病気になります。でも心に悪いことや後悔があるなら、それは神様に赦して
いただく必要があります。
 友達たちは、中風の人を布団にのせ、四隅をもってイエス様のいる家まで運
んできました。でも人があふれて、イエス様のところへ行くどころか、家の中
にも入れません。とても困りました。そのまま帰るわけにも行きません。
 「そうだ、屋根に穴を開けよう」そう思いつくと早速、屋根に登りました。
瓦をはぎ、どろや木の枝を取りのけて、やっと寝ている人をおろせるようにな
りました。
 中にいた人々はびっくりしました。天井からゴミが落ちてきて大きな穴が開
いたのです。そして、中風の人がおろされてきたのです。
 イエス様は、病気の人、そしてその友人達の信仰を見て、「友よ、あなたの
罪は赦された」とおっしゃいました。その時病気の人は、とても安心した気持
ちになりました。そしてまたイエス様は、「起きなさい。家に帰りなさい。」
と言われました。するとその人は起き上がって、神様を賛美しながら家に帰っ
て行きました。人々も神様を崇めました。神の子、罪を負うために来られたイ
エス様は、罪にも病気にも権威をもっておられます。このイエス様の救いを信
じましょう。
 
2017年7月9日
【主イエスの教会】マタイ十六13~28
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上
にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
マタイ16章18節

 今日の開かれている聖書箇所は、ペテロの信仰告白として、またイエス様の
教会設立宣言として有名なところです。主イエスの教会とはどんなものである
かみ言葉に聞いていきましょう。
 最初、イエス様は人々がイエス様について何と言っているかと弟子たちに聞
きました。弟子たちは、エリヤ、エレミヤ等の預言者と言っていると応えまし
た。イエス様は、ではあなたはどうかと弟子たちに問われました。周りの誰か
ではなく、あなた自身にとってイエスは誰かが、重要なことです。それに対し
てペテロが、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました。イ
エス様はこの答えを本当に喜ばれました。それは人の考えでなく、天の父が示
して下さったことだったからです。
 18節のように、イエス様は、イエス様の教会を建てると宣言されました。岩
とは何でしょう。イエス様を神の子キリストと告白する信仰です。
 「教会」と言うと私たちは建物を連想しますが、原語では「会衆」とか「呼
び出された人々」のことです。教会は、神様の呼びかけに応えて集まった人々
の集まりが本質なのです。そして神様は、すべての人に呼びかけておられま
す。
 この時から、イエス様は、弟子たちに、苦しみを受け、祭司や律法学者達に
捕らえられ、十字架に付けられ、殺されること、三日目によみがえることを話
し始められました。ペテロがこのことを諫めたとき、イエス様は、「黙れ、サ
タン」と言われました。それは、神の意志ではなく人の考えだったからです。
 そしてみんなに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、
自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われたのです。
これはもう一つの「岩」です。主イエスを救い主と信じることは、命を捨てる
ことです。その時永遠のいのちが与えられます。主イエスはこの信仰の上に主
イエスの教会を建てられたので
す。
 
2017年7月2日
【恐れるな】マタイ十四22~33
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。
恐れることはない。」と言われた。マタイ14章27節

 皆さんは、ある困難や問題があって、それがいつになったら解決するのだ
ろか、私はどうしたらいいのだろうかと思ったことがあるでしょうか?今日
はそのような人生の逆風とも言える中で、神様が私たちにどのようにかかわ
ってくださる方であるのかを見ていきたいと思います。
 時として、人は自分の抱えている問題があまりにも困難であるときに、神
様は本当にいるのだろうかと思ってしまいます。激しい向かい風のために弟
子たちが九時間も一〇時間も苦しんでいる所に、イエス様は近づいて来て下
さいました。そのように神様は、私たちにも近づいて下さる方です。
 二つ目は、神様は私たちにみ言葉を与えて、励まして下さる方です。「し
っかりしなさい。わたしだ。おそれることはない。」と声をかけて下さいま
す。なぜ恐れなくてもよいのでしょうか。「神である私がここにいる」とお
っしゃる方が共にいて下さるからです。(イザヤ四一10)
 三つ目は、神様は私たちを助けて下さる方です。神様に叫ぶことも大切な
ことです。ペテロは、「神であるあなたでしたら」と信仰の一歩を踏みだし
ましたが、恐れ疑ったために、沈みかけてしまいました。私たちも神様を信
じて信仰の一歩を踏み出したとしても、全能の神様を信じきることができず
に沈みかけてしまうことがあります。けれどもペテロが「助けて下さい」と
叫んだように、私を救って下さいと神様に叫ぶとき、私たちの手を固くつか
んで引き上げてくださいます。
 私たちにも様々な困難や恐れがあります。しかしこの方がいつも共におら
れます。この方に信頼し、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れるな」とい
うみ言葉を握って歩んで行きたいと思います。
 
2017年6月25日
【裁きの中の救い】創世記七章
「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受け
たとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟に
よって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」
ヘブル11章7節

 今日はノアの箱船の二回目です。ノアはすべての現代人の先祖です。未曾
有の洪水、神様の裁きの中でなぜ、助けられ守られたのでしょう。どんな備
えをしていったのでしょうか。
 一.ノアの備え
 ノア正しい人でした。また天地を造られた神様を畏れかしこんでいまし
た。ですから、神様が、世界を滅ぼすと言われたことも、箱船を作りなさい
と言われたことも謙虚に受け取りました。だからそのお言葉を実行したので
す。
 しかし箱船を作ることは簡単なことではありませんでした。(今米国に箱
船公園ができ、実物大の模型がありますが、思った以上に大きいです。)お
そらく百年か百二十年かけて作ったのです。すべて手作業です。しかしそれ
以上に、人々の奇異な目、中傷が気持ちをそいだのではないでしょうか。ま
たノアは、神様の言葉をそのままに、みんなが箱船に入り救われるようにと
声をかけ、祈ったことでしょう。イエス様の再臨の時もこの時と同じである
とイエス様は警告しておられます(マタイ二四章)。しかしノアにも限界があ
ります。一つは、神様の決断を止められないこと、もう一つは、他の人に変
わって決断できないことです。救われた喜びと同時に多くの悲しみも覚えた
ことでしょう。
 二.神様の決断
 そして神様は、地と人間と動物とを滅ぼす決断をされました。そうでなけ
ればもっとひどいことになったからです。そしてそれまでの長い間神様は救
いの門を開けておいたのです。けれどもその時が来たのです。現代も今救い
の門が開かれています。でも必ず閉じられるときが来るのです。その前に主
の救いを信じ、罪を離れ、神様に立ち帰りましょう。また福音を伝えましょ
う。
 
2017年6月18日
【「永遠の命」への水を飲もう!】ヨハネ四13~14
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありま
せん。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水
がわき出ます。」ヨハネ4章14節

 以前の流行歌に高度経済成長の中で、人の心がすれ違い、渇いていること
を歌ったものがありました。人の心は、いつどこへ行っても同じです。
 イエス様とお弟子達は沙漠の中のスカルという町に来ていました。弟子た
ちが買い物に行っている間に、一人の女性が井戸の所に来ました。キリスト
は、私に水を飲ませて下さい、と言われました。女性がびっくりしている
と、キリストは、「この水を飲む者はまた渇きます。しかし、私が与える水
を飲む者は、決して渇くことがない」と言われました。
 私たちの体もそうですが、心も渇きます。流行歌では、あなたがいれば、
明日も生きていけると歌いますが、それは、そのあなたも変わってしまうと
いうことです。しかし、キリストは、「世の終わりまであなたと共にいる」
と約束しています。
 元々人は、渇くことのない泉を持っていました。しかしそれは、罪という
大きな石によってふさがれてしまったのです。キリストは、その石を取りの
けて、渇くことのない命の水を与えるのです。キリストとは、重荷を負い、
疲れている人を招いておられます。
 昨年八月一人の女性が突然に三七才で亡くなりました。それは大きな悲し
みです。その人の愛唱句は詩篇の二三篇でした。その最後には、「私は、い
つまでも、主の家に住まいましょう」とあります。私たちの肉体が壊れて
も、永遠の命を与え、迎え入れて下さっています。受け止めきれない事実の
なかでそのことを感じています。
 私たちに命があるのは、この永遠のいのちを得るためです。祝福のためで
す。祈りましょう。
 
2017年6月11日
【イエス様の食物】使徒の働き二章
「イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そ
のみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」ヨハネ4章32節

 今日の聖書箇所は、サマリヤの女と言われる場所の後半部分です。教会の
七つの本質の「伝道と増殖」ということを覚えながらみ言葉に聞いていきま
しょう。
 私たちにとって、生きるために適切に食事を取ることはとても大切です。
ずっと取らなければ死んでしまいます。でもあなたにとって、食事を忘れて
何かに熱中するようなことはないでしょうか。また三浦綾子さんは、食費を
削っても本を買う作家のことを書いています。
 イエス様は、食べるのが遅くなり空腹だったと思います。しかし、それ以
上にイエス様は、心満たされて満足していたのです。その心を満たしていた
ものは何でしょうか。それが、父の御心を行い、そのみわざを成し遂げるこ
とです。イエス様は、この女性と話しをし、命の水の話しをして、この女性
に永遠の命を与える水を与えることができて、とても満足していたというこ
となのです。
 イエス様は、伝道の機会を、わざわざご自分から作り、命の水を手渡され
ました。なぜ心が開かれたのでしょう。それは責められることなく、ありの
ままで受け入れられたからです。伝道の機会は、多いのですが、いつでもと
思うと、機会がなかったりします。
 またイエス様から命の水をもらったこの女性は、機会を作るというより
も、自分の内から出る喜びが自然にあふれ出て、イエス様がキリストかもし
れないと伝えていきました。
 どちらの場合もあるでしょう。私たちも主からありのままに受け取って下
さる愛を受け取って、喜びに満たされましょう。そして主を礼拝し、主の愛
を伝えましょう。
 
2017年6月4日
【聖霊に満たされ】使徒の働き二章
「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受け
て、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」
使徒の働き2章33節

 今日はペンテコステです。聖霊降臨日とも言います。クリスマス、イース
ターと並ぶ教会のお祝いの日です。弟子たちに聖霊が降り、教会が始まった
日です。この日どんなことが起きたのか。今の私たちにどのような関わりが
あるのかみ言葉に聞いていきましょう。
 イエス様は、復活から四〇日目に昇天されました。その時約束されていた
のが、聖霊が降るのを待っていなさいということでした。弟子たちは、聖霊
を求めて祈り待ち望んでいました。そして主の復活から五十日めのこの日、
聖霊様が天から下られたのです。
 この時恐らく一二〇名程が一緒に祈っていました。すると天から大きな風
の音が鳴り、炎のような舌のようなものが、一人一人の上に留まり、一同は
聖霊に満たされたのです。
 彼らは様々な国の言葉でイエスキリストを証しました。人々は驚きまし
た。しかしペテロと弟子たちは、この出来事は、預言者ヨエルが預言したこ
とであり、彼らがイエス・キリストの復活の証人であることを力強く語りま
した。この話しを聞いた人々は、無実のキリストを十字架に付けて殺したこ
とに気づき、心動かされ、また弟子たちに勧められて、悔い改めて、バプテ
スマを受け、同じように聖霊に満たされキリスト復活の証人となりました。
そして共に礼拝し、交わりをし、信仰が成長していきました。
 今も、聖霊に満たされることは重要なことです。そのために、①主の前に
へりくだり、②罪の悔い改めを徹底し、③聖霊様を求めて祈ることです。す
ると主イエス様が、私に来て下さったとわかり、キリストの証人となるので
す。聖霊に満たされて歩みましょう。聖霊を求めて祈りましょう。
 
2017年5月28日
【ノアの全き歩み】創世記六章
「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。これはノアの歴史である。ノア
は、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神と
ともに歩んだ。」創世記6章89節

 今日開かれているのは、ノアの歩みです。ノアがどんな時代にどのように
主のみ心にかなって歩んだのかを見ていきましょう。その時代は、どんな時
代だったのでしょうか。エデンの園を追い出された後人々は、急速に増えて
いったと思われます。その中で「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計
ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(5節)と
あります。楽園追放やカインの追放を忘れたかのように、人は悪いことを教
わらなくても覚えていったのです。特に男女の関係で自分の好むままに振る
舞ったようです。それを見て神様は、人を造られたことを後悔し、滅ぼそう
と考えられたのです。
 そんな中でノアは、主の心にかなっていました。正しい人、全き人だった
のです。なぜでしょうか。それは、神と共に歩む人だったからです。
 聖書で言う、正しい人、全き人とはどういうことでしょうか。聖書はくり
返し、私たちが、全き者であるようにと命じています。しかもそれは、聖な
る神様の前で全き者ということです(Ⅰテサロニケ五23、24参照)。人がそ
のように歩めるのでしょうか。神様はできないことを命じたりはしません。
 聖書が示す全き歩みは、決して完全無欠のことではありません。人間は、
どんなに立派だとしても、知識も認識も完全ではありません。それをもとに
する行動も過ちがないとは言えません。でも人が創造主の心を求め、主の心
にかなって生きたいといった心の中を主は、ご覧になるのです。主は愛の動
機を全き者とみて下さるのです。
 もう一つ大切なことは、主との人格的な交わりです。ノアは、「神と共に
歩む人」でした。それは聖や義や愛を言葉や知識で知っていたのではなく、
人格的な交わりによって体験的に知っていたのです。それを支えるのは、礼
拝とディボーションです。
 主は、今も不完全な私たちを恵みのゆえに、全き者とみて下さるのです。
 
2017年5月21日
【バベルの塔】創世記十一章1~9
「神は高ぶるものをしりぞけ、へりくだるものに恵みを賜わる」
ヤコブ4章6節

 今日は、順番が前後しますが、バベルの塔の出来事を共に見ていきましょ
う。
 ノアの洪水の後、百年余りでこの出来事が起こりました。バベルというの
は混乱という意味です。
 神様は、人を創造されたときと同じように、洪水の後も、人に「地に満ち
よ」と命じておられました。洪水の後人々はシヌアル(今のイラク)の平野
に移動し、爆発的に人口が増え始めました。皆一つの言葉でした。そして、
レンガとアスファルトが発明され、大きな建物も造ることができるようにな
りました。すると人々は「天まで届く塔を建てて全地に散らないようにしよ
う」と言い始めました。神様はこのこと見に下って来られ、人々の心が変わ
らないのを見ると、言葉を乱し、分かれさせたのです。お互いの言葉が通じ
なくなった人々は、塔を造るのをやめ、全地に散って行ったのです。
 この出来事には、どんな意味があるのでしょうか。一つは、人はまたも
や、傲慢にも、神様のように高くなろうとし、神様の言葉に逆らっていった
ということです。神様の祝福を押しのける、人の罪深さがあります。技術は
進歩しても人の心は変わりません。
 そして二つ目には、神様は、人の傲慢な心を砕かれるお方ということで
す。人が全地に満ちるように、言葉を乱されたのです。この時寿命も短くな
っています。人は神様にへりくだると祝福されます。
 三つ目に、神様は、人々の悪をも、ご自身の栄光に変えて、人々を祝福す
る方ということです。各言語の特色は、神様の多様性を現しています。人
は、ちりぢりになりましたが、全地に満ち、全地を治めるようになったので
す。
 神様は、さらに、人々がへりくだり祝福されるために、御子を送り、十字
架の死に至るまで従順にならせられたのです。そして乱された言語は、ペン
テコステの聖霊によって、言葉を超えた一致に導かれたのです。
 
2017年5月14日
【十字架での死生】ガラテヤ二章15~20
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているの
ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世
に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を
信じる信仰によっているのです。」ガラテヤ2章20節

 今日は、教会の七つの本質の四番目、つまり中心にある「イエス中心」につ
いてみ言葉を開いていきましょう。
 パウロがガラテヤの教会に手紙を書いた時、大きな憤りと悲しみをもって
書きました。それは、律法と行いによっては、救いが成就しなかったのに、
イエス様を信じた人々がそこへ戻っていったからです。自分の行いでは正し
く歩めなかったから、イエス様の身代わりの死、十字架と復活が必要だった
のです。では救われた後は、どのように歩むのでしょうか。律法と良い行い
によって歩むのでしょうか。それができなかったのにそこに戻るのでしょう
か。そうではないというのが、このみ言葉です。
 イエス様が私の罪の身代わりとして死んでくださったというのが第一の十
字架です。第二の十字架がここにあります。それは、十字架で死んだのは、
イエス・キリストばかりではなく、自分もあの十字架でキリストと共に死ん
だということです。この自分とは、生まれたままの罪深い人間性のことで
す。
 では、私たちが生きているとはどういうことでしょうか。それは、復活の
キリストが、死んだ私の中に生きているので、私は生きているということで
す。これがイエス様中心の生き方です。私が生きていては、キリストは私の
中に生きることはできないのです。
 イエス様中心の生き方は、教会や牧師中心ではなく、ましてやお金や仕
事、趣味、家族や友だち、自己中心でもありません。私たちが聖霊の宮で
す。イエス様の住まい=教会です。キリストの命が注がれているので、命が
与えられ、同じ性質に生かされるのです。何とすばらしいことでしょう。
 
2017年5月7日
【からし種の信仰】マルコ四章30~34
「それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる
種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よ
りも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになり
ます。」マルコ4章31・32節

 今日開かれているのは、イエス様のからし種のたとえです。イエス様は、
神の国をいろいろな譬えで話されました。譬話は、心が閉ざされていると、
ただの話しで、それがどうしたのかと思います。でも心を開いて聞く時に、
より深くわかるようになるのです。
 からし種とは何でしょうか。どうも粒マスタードの粒とは違うようです。
一度見せてもらったことがありますが、黒ゴマより小さく、一見するとゴミ
に思えるほどです。木ではなく草や野菜の一種で、一年で枯れてしまうので
すが、2~3m程に生長するようです。からし種とは、慣用句でとても小さ
いものを表しています。雀の涙とかネコの額と言うのと似ています。
 このからし種は、神の国とどう関わっているのでしょうか。一つは、始ま
りはとても小さいということです。見えるか見えないほど小さいのです。し
かし、二つめは、そこに命があるということです。同じように小さくても砂
粒ならば何の変化もしません。でも命があると変化するのです。命の特徴
は、命を生み出すことと、生み出された命は同じ性質を持っていることで
す。三つめは、他のどんな野菜よりも大きく生長する点です。初めは小さく
ても、神の国も生長して、世界を覆うものになっていることです。四つめ
は、空の鳥が巣を作ると言われていることですが、ここでは空の鳥は、神の
国に属さないこの世に属するものと考えられます。つまり神の国の中にも、
この世が入ってくるということです。それは無理に追い出す必要はありませ
ん。しかし最後の審判の時に裁かれることになるのです。
 私たちが創造主の前にへりくだる時、キリストの十字架により、永遠の命
が与えられます。その命は、人の思いを超えて成長して、神の栄光を表すの
です。
 
2017年4月30日
【罪を治めるか】創世記四1~16
「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが
正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っ
ている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」創世記4章7節

 今日は、創世記四章が開かれています。三章で人間に罪が入って来ました
が、それがエスカレートします。私たちは、どのように罪を治めることがで
きるのでしょうか。
 事の発端は、神様は、アベルのささげ物に目を留められたのに、カインの
ささげ物は目を留められなかったことです。なぜでしょうか。神様に捧げな
かったわけではありません。アベルは、心の現れとして最も良いものを持っ
てきました。神様の喜ばれるささげ物は、砕けた悔いた心です(詩篇五一
17)。その時、レプタ二つのわずかなささげ物でも喜ばれるお方です。カイ
ンのささげ物というより、カインの心が問われていたのではないでしょう
か。私たちの心と礼拝も、神様中心か自分中心かが問われています。
 なぜカインは、罪を治められなかったのでしょうか。神様は、カインに罪
を治めるようにと注意を促しますが、カインのねたみは大きくなり、遂にア
ベルを殺してしまいました。人は罪を犯すなら、自分で負うことのできない
代償を負うことになります。それがわかっていても罪に勝つことができませ
ん。罪は、衝動です。善悪の判断、後先のこと、理性を奪う力があるので
す。罪に勝つ力は、愛です。愛の源は、創造主です。神の愛を離れると、罪
に負けます。神の愛を知ると、罪を治めることができるのです。
 アベルを殺したカインを神様はどのように扱われたのでしょうか。殺人の
贖いは、殺人者の血の他ないと律法は言っています。カインは殺されたでし
ょうか。殺されませんでした。神様は、断絶の代わりに、関係を保ち、殺さ
れないためのしるしを与悔い改めの機会を与えるためであったのではないで
しょうか。私たちは、神様にへりくだって悔い改める機会を逃してはいけま
せん。
 
2017年4月23日
【伝えなさい】マルコ十六14~20
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造
られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救わ
れます。しかし、信じない者は罪に定められます。マルコ16章15・16節

 今日は、イースターの続きです。イースターにつづいてペンテコステ(聖
霊降臨)があり、福音宣教が始まります。弟子たちはどのように、ペンテコ
ステを待ち望んでいったのでしょうか。
 イエス様は、復活の後、何度か弟子たちや女性たちに現れなさいました。
そして十一弟子が食事をしている時に現れなさいました。復活は、到底信じ
られない出来事ですが、イエス様は、他の人の復活の証言を信じなかった弟
子たちを責められました。しかし、弟子たちが復活を確かなこととわかった
後は、これから弟子たちがどうすべきかを話されました。それが一五節から
の所です。
 一つは、宣教の命令です。全世界へ出て行って、すべての造られたものに
福音を伝えなさいということです。福音とは、神の御子キリストの十字架の
死によって罪の代価は払われたと言うことを信じて、罪を悔い改めて、神の
赦しを信じることです。
 もう一つは、命令に伴う約束です。信じてバプテスマを受ける人は救われ
ること、信じない人は罪にさだめられること。また信じる者にはしるしが伴
うことです。そのしるしとは、御名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を
語り、へびをもつかみ、たとい毒を飲んでも害を受けず、病人がいやされる
ということです。これらの約束は今でも起こっています。けれどももちろん
すべての人に、死と裁きとが定められています(ヘブル九27)。しかし永遠
の命を持っているので、恐れません。ある人は取られある人は残されます。
 この命令と約束を受けるために弟子たちはどうしたのでしょうか。祈り、
徹底的に悔い改めたのです。そして最後の晩餐の時もだれが一番偉いか争っ
ていた弟子たちが、心砕かれて、へりくだり、そこに聖霊が降ったのです。
私たちも、祈り悔い改め、聖霊の満たしを求めましょう。
 
2017年4月16日
【復活の知らせ】マルコ十六1~13
青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられた
ナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。こ
こにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
マルコ16章6節

 今日は、待ちに待ったイースターです。十字架で死なれたイエス様が、復
活された日です。それは、私たちの本能に逆らう、誰も信じられないことが
起こった日です。今年はマルコの福音書から見ていきましょう。
一、墓へ行った女性たち
 マグダラのマリヤをはじめ数人の婦人が、安息日が明けた朝にイエス様の
お墓に行きました。それは当時の習慣に従って香油を塗るためでした。でも
墓の入り口は、大きな石で塞いであったので、どうしたらいいか分からない
まま行ったのです。しかし行ってみると、石は取りのけてあり、中には白い
衣を着た青年が座っていて「あの方はよみがえられました。ここにはおられ
ません。」と言われたのです。その時婦人たちは喜んだ以上に恐れを感じて
帰って行ったのです。
二、最初の復活の顕現
 ここには簡単に書かれていますが、復活したイエス様は、一番最初、墓の
前で泣いていたマグダラのマリヤに、ご自身を現しなさいました。それから
他の弟子たちにも現れなさいました。聖書は、どのように復活したかは書い
ていません。隠されています。復活は、人の経験では信じられないことです
が、聖書の預言、また見た人の証言でわかります。それは、蝉の抜け殻を見
たら、蝉が抜け出たと分かるのに似ています。
三、復活の与える希望
 復活の主は、私たちそれぞれにも復活を分からせて下さいます。ウェスレ
ーは、アルダスゲートの経験で、心温かくなりました。その前と後との違い
は、死への恐れがなくなったことです。復活が分かったからです。この復活
の主が信じる私たちを復活させて下さるのです。主を賛美しましょう。
 
2017年4月9日
【イエス様の十字架】マルコ十五16~41
そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタ
ニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見
捨てになったのですか。」という意味である。マルコ15章34節

 イースターの一週間前の日曜日は、棕櫚の主日と言われ、イエス様がエル
サレム入城した日です。この週は、イエス様の受難を覚えて過ごしましょ
う。福音書は、十字架の出来事を淡々と記しています。今日開かれているみ
言葉は、三つの場面に分けることができます。
一.人々の侮辱
 ピラトが無罪と認めつつ死刑のためにイエス様を引き渡しました。ローマ
兵は、全部隊集まり、茨の冠をかぶせ、紫の上着を着せ、王様万歳とひれ伏
しました。これは皮肉です。そして葦の棒でたたいたり、唾をかけたりした
のです。十字架につけられた時、人々も、様々な侮辱の言葉や、自分を救
え、と言った言葉を浴びせました。神様の救いのご計画は人々のあざけりの
中で進んでいたのです。このあざける人々は私たちのことだと旧約聖書は言
っています。
二.十字架上のイエス様
 マルコは、イエス様の十字架上の言葉をたった一つだけ記しています。そ
れが34節です。私たちは、あれこれうまくいかなくても、これがある、と
か、いろんな人に裏切られてもこの人だけは信頼できるといった、最後の頼
みの綱があれば、生きることができます。御子イエス様にとってそれは父な
る神様でした。人々の罪を負ったイエス様は、その父からも捨てられたのが
十字架です。しかしその絶望の中で、詩篇二二篇にあるように、それでもイ
エス様は、父なる神様に信頼したのです。そして息を引き取りました。そこ
に不信=罪は入ることができなかったのです。信頼が全うされたのです。
三.百人隊長の告白
 不思議な事ですが、正面にいた百人隊長は、「この方は、本当に神の子で
あった」と告白しました。私たちも正面から十字架と向き合うとき、神の子
キリストを受け取ることができるのです。
 
2017年4月2日
【イエス様の裁判】マルコ十四53~65
「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」
マルコ14章49節

 イースターに向かいつつ、私たちの罪の身代わりであるキリストの十字架
を偲びつつ過ごしています。教はイエス様の裁判を通して、十字架の苦しみ
と主の愛に心をとめましょう。
 ゲッセマネの園で、血のような汗をしたたらせながら祈ったイエス様です
が、イスカリオテのユダの裏切りによって、捕らえられ、裁判にかけられま
した。神の御子キリストがなぜ裁判にかけられ裁かれたのでしょうか。
 イエス様の裁判は、大きく分けると、ユダヤ教による裁判とローマ帝国の
裁判に分けられます。ユダヤ人には、支配国ローマから死刑の権限が与えら
れていなかったので、そのために二回の裁判が開かれたのです。
 なぜ裁判にかけたのかを明らかにしているのは後から行われた総督ピラト
による裁判です。ユダヤ人はいろいろ訴えますが、ピラトはそれがねたみに
よると分かっていたのです。それでも群衆の声に押され、イエス様を死刑の
ために渡します。人間のねたみや罪の醜さ、恐ろしさ、人の義のいい加減さ
が現れています。
 もう一つの、先に行われた裁判は、教理的な動機を明らかにしています。
ねたみからの証言は一致しませんでした。しかし大祭司が「あなたは神の子
キリストか」と尋ねると。「私がそうだ」と答えました。大祭司は、大いに
怒りました。人間が自分を神とするのは神への冒涜だからです。つまりイエ
ス様は、御子である神、ユダヤ人の王であるので死刑にされたのです。それ
は、罪のないお方が、全ての人の罪を身代わりに負うことを表す罪状となっ
たのです。
 救い主(メシア)を待ち望みつつ、メシアが自分の考え、思い、利益と違
えば殺してしまうところに人の罪があります。神の御子として、自分の思い
よりも御子の言葉を信じ従う心でこそ、救い主を迎え入れることができるの
です。神の言葉にへりくだって聞き従いましょう。
 
 
 
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神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。